2014年01月31日

Reverse508 第十八話

大総統ダリアウェイドからの通達で、将官は現在、軍全体の人間の動向を探っている。裏社会との繋がりを持っている人物がいる可能性がある以上は、自分の担当班員であろうと、それ以外の人員であろうと、全てを疑わなくてはならない。
そして将官は、大総統からの疑いにさらされている。これは大総統本人が言ったことだ。「君たちは私によって常に疑われているのだ」と、彼ははっきりと宣言した。
だが、大総統一人で将官全てをチェックできるかといえば、そのはずもない。一人一人簡易な面談を行なってはいるが、それだけで敵か味方かを判別することは困難だ。敵は巧妙に軍に溶け込んでいる。かつてのソフィア・ライアーのように。
よって将官同士も、互いに疑いの目を向けている。そんな中で現在取り扱っている捜査に協力するというのは、監視も含んでいるということを考慮しても、ありがたいことだった。自分のやっていることが正しいという自信があれば、恐れる必要は何もないのだから。
「先頃の捜査へのご協力、感謝いたしますわ。エスト准将」
メリテェアは素直に彼に礼を述べた。彼がニアの怪我に関する一連の事件と同時に起こった倉庫爆破事件について情報をくれなければ、この件は行き詰っていたかもしれない。
「軍では情報の共有が基本だ。これくらい、礼を言われるようなことではない」
「そうは仰いますが。あなた、ジューンリー大佐のことをいつも気にかけていらっしゃるようですわ。今回情報をくださったのも、そのためではありませんこと?」
セントグールズ・エストはよくニアに意地の悪い言葉をかけにくる。わざわざ彼に近づいて。それをメリテェアは見逃していなかった。
「そ、そんなことはない! ……ただ、あやつがカスケード・インフェリアの友人であり、奴を捜索していると聞いている。インフェリアがいなければ、かつて建国三英雄と呼ばれた家で残るのは、我がエスト家のみになる。それでは困るのだ。だから少しばかり手を貸してやっただけだ!」
「その言葉、ジューンリー大佐が聞いたら、きっと喜びますわ。今度は素直にお話してあげてくださいね」
微笑むメリテェアから、エスト准将は目を逸らし、去って行く。その耳は真っ赤だった。

軍病院では、ニアが新しく出来上がってきた眼鏡に喜んでいた。見た目には前のものとほとんど変わらないが、それがまた嬉しい。これまで使っていたものを随分気に入っていたため、そのほうがいいのだ。
「やっぱり眼鏡があったほうが楽に見えるね。これで安心して仕事に戻れるよ」
実は目はもうほとんど回復している。現場再調査の報告から数日経って、眼鏡なしでも周りが見え、文字が読めるようになっていた。それはつまり、ニアのストレスが順調に解消されているということでもある。
だが、やはり眼鏡があると安心感が違うらしい。手元に置いておくだけでも、「何かあっても大丈夫」というお守りになる。それが今度はニアの状態に合わせて使えるよう、二種類用意してあった。
「でも無理はしないこと。疲れたら目をちゃんと休ませてね。薬もちゃんと飲んで、よく寝て、それから……」
「わかったよ、サクラちゃん。もう大丈夫だから、心配しないで」
ニアがにっこり笑うと、サクラは呆れたように、しかしどこかホッとしたように息を吐いた。それからまとめた荷物を持つと、ニアと、彼を囲んでいたその仲間たちに頭を下げた。
「それでは、私は一旦北に戻ります。ニアさんとうちのお兄ちゃんのこと、どうかよろしくお願いします」
「もちろん、お任せください」
「ニアさんが無茶しないよう、しっかり見張ってるから」
「もう、みんなしてそういうことを……。それはともかく、カスケードのことは任せて。きっと今度はいい報せを届けるようにするから」
「ええ、期待してるわ」
ふっと微笑んで、サクラは病室を後にした。中央の仲間たちのことを、心の底から信頼したからこそ、あとを任せられる。ニアのことも、兄のことも、全部。どんな結果になっても、それが彼らの出したものならば、納得しようと決めていた。
サクラが帰り、ニアの退院が決まり、いよいよ本格的に裏社会の組織の捜査が始まろうとしていた。これまでジューンリー班のメンバーは一丸となってやってきた。危険薬物の取引があればその詳細な情報をもらい、すでに収監されている者からも何度も話を聞いてきた。
そうして中央司令部の事務室に帰ってきたニアのもとには、たくさんの資料が揃えられていた。仲間たちがこれまで頑張ってくれた成果だ。
「他の件での『黒髪黒目の男』の目撃証言もあるんだね。こんなに動くってことは、やっぱり彼は裏でも中枢に近いところにいるんだろうな」
「少なくとも、一組織の中心ではあるでしょう。アクトさんたちの前に姿を現したときは、目的は特になかったということですね?」
「本人はそう言ってた。あのとき捕まえた奴らも知らないって言ってたし、あれは独断での行動だったのかも」
「たとえ組織にいても、カスケードなら勝手に動きそうだ。僕でもたまに驚かされるようなことがあったからね。……ただ、独断で軍を襲うような人物ではないはずなんだ。彼がそうなってしまった理由を、きっとビアンカちゃんが知っている」
ビアンカ・ミラジナの行方さえわかれば、捜査は一気に進むはずだ。だが、その直接的な手掛かりは出てこなかった。しかし、それをあぶりだす方法ならある。
「ビアンカちゃんは僕に対して殺意を持っていた。もしかしたら僕がキメラから受けた傷で死んだものと思っているかもしれない。これまでのことを教えてくれたとき、冥途の土産って言ってたからね。……僕が生きていることを知れば、また現れるかも」
「生きていることをどうやって知らせるんだよ」
「いつも通りに仕事をする。それで彼女が改めて僕を殺しに来たら、彼女は何らかの方法で僕の様子を知ることができているってことになる。軍にまだスパイが潜んでいるかどうかも見極められるかもね」
まだ数日は様子を見ていいだろう。何もなければ、外での任務に参加して、人目に触れるようにしていく。ニアの体調を考えても、それがベストな方法だった。
幸い、資料は山ほどある。他の仕事だって、遅れを取り戻さなければならない。ニアにはやることがたくさんあった。
「さあ、仕事を始めようか。僕らの日常を過ごそう」
入院生活の間、ずっと待ち望んでいた「日常」が、作戦にもなる。ニアに「何もしないで休む」という選択肢はなかった。

ニアが入院する前と変わらず、レジーナ近辺では事件が起きる。それに裏が関わっているにしろいないにしろ、軍には要請が来る。それを以前と同じように、一つずつこなしていく。
少し変わったのは、それらが将官の監視付きで行なわれるようになったということだ。ジューンリー班はメリテェアの管理下にあるが、彼女以外の将官も様子を見に来ている。軍内にスパイがいないかどうか、それを確認するためのものだ。
少しでも怪しい動きをすれば、たちまちに将官がやってきて、説明を求める。机の下に物を落としたのを拾おうとしただけでも、「どうした?」と尋ねながらやってくる。仕事がしにくくて仕方がないが、これも「第二のソフィア」がいないことを確認するための策だ。だが、やりすぎは「第二のハル」を生むことになる。将官たちはそこに気を遣いながら動いているようだったが、一部はやはり神経質になりすぎたり、権力を振りかざしたりして、顰蹙をかっていた。
「ヴィオラセント、いつも暴れている貴様が怪しい。将官にたてつくのは、貴様が裏と関係しているからではないのか?」
ニアがその声を聞いたのは、久しぶりに第三休憩室へ向かう途中だった。廊下で将官がディアをねめつけながら、その台詞を吐いていた。いつだったか、アクトに絡んでディアに掴みかかられていた、あの少将だ。
ニアは奇妙な懐かしさを感じながら、そちらへ向かった。
「ただの私怨で俺を疑ってんじゃねぇのか? 上に立つ奴としてどうかと思うぜ」
「将官に対しその口のきき方はなんだ、佐官風情が! 貴様のようなやつがいるから、軍の風紀が乱れるのだ!」
「いつだか自分で風紀乱そうとしてた奴がよくそんなこと言えるな」
「はい、そこまで! こんなところでつまらない言い争いはやめてください!」
睨み合う二人の間に、ニアが割り込む。そしてディアをかばうように少将の正面に立ち、つとめて冷静に言った。
「少将、疑いを前面に出すと、万が一本当に裏と関係している人がいた場合に、うまく隠れられてしまう恐れがあります。そのような物言いはやめていただきたい。それから、ヴィオラセント中佐は真の軍人ですよ。彼が裏と繋がっていることはあり得ません」
「ジューンリー大佐、君は奴の管理が甘くはないか? もう少し部下の躾をきちんとしたまえ」
少将は鼻で笑いながら去って行った。どうやら本当に、ディアに文句をつけたかっただけらしい。ああいう輩が出ないようにしてくれと大総統には頼んだが、大総統もわざわざ全ての人員に対し注意できるほど暇ではない。ニアは深く溜息をついてから、振り向いてディアの顔を見上げた。
「大丈夫だった?」
「……ほっといてくれても良かったのによ。お前はどこまでも世話焼きだな」
「部下があんなに言われて、見てみぬふりできるわけがないでしょう。あの人、きっとアクトを見かけたら同じように声をかけるだろうから、注意しておかなくちゃ」
腰に手を当てて憤慨するニアに対し、ディアは一瞬ぽかんとしたあと、盛大にふきだした。それからここが廊下であることも忘れて笑い出したので、ニアはあわてた。
「ちょっと、何で笑うの?! 僕、笑われるようなこと言ってないよ!」
「いや、お前って本当に部下思いだなって。……それに、よく憶えてたな。あいつがアクトに手ぇ出そうとしてたこと」
「だって、僕らが初めて話したのってあのときでしょう。忘れられないよ」
「そういうところが面白ぇ」
ディアはまだクックッと声を漏らしている。それを見て、憶えてるのはそっちもじゃないか、とニアは思う。互いに、出会ったときのことはちゃんと憶えていたようだ。
彼との縁も不思議なものだ。ニアにとっての恩人に育てられた彼が、こうして一緒に働くようになるなんて。これもまた、運命というものなのだろうか。
「休憩室入ろうぜ。久しぶりにポーカーでもやるか」
「じゃあ、早くお茶を淹れなくちゃね」
第三休憩室のドアを開けると、すでに一部のメンバーは集まっていた。外でのやり取りを聞いていたようで、「お疲れ」「さすがニアさんですね」などと声をかけてくる。ディアに対しては「日頃からの行いってやつですよ」とヤジが飛んだ。当人は「うるせぇ」とひとこと返して、いすに乱暴に座った。
「さて、お茶を淹れようか。あ、種類が変わってる」
「メリテェアが冬の茶葉を仕入れてくれたの。ニアさんが淹れてくれるのは久しぶりだから、私も手伝うわ」
「ありがとう、クレインちゃん」
和やかな時間を過ごせることが嬉しい。久しぶりの紅茶の香りが、みんなの声が、日常に戻ってきたことを教えてくれる。
だが、やはりここにも監視は入るようだった。
「失礼する。ジューンリー、元気になったか?」
「あ、中将。おかげさまで」
ビアンカが来たときに、彼女のもとへ案内した中将が休憩室に入ってくる。「一応全部屋に将官が入るんだ」と彼は苦笑しながら言った。将官には、休み時間がないらしい。
「このあいだは悪かったな。俺がもっと早くミラジナの様子に気づいていれば……」
「いいえ、中将は僕らの仲が良かったと記憶していたんですから、仕方がないですよ。僕だって、あんなことになるなんて思っていませんでしたし。あ、お茶飲みます?」
「ありがとう、いただくよ」
お茶を淹れながらクレインが説明してくれたことによると、ニアが入院した頃から、こうして将官が交代で休憩室の監視を行なっているようだ。初めのうちこそ気になって、カードゲームもできなかったが、次第に気にならなくなってきたという。悪いことなど何一つしていないのだから、気にしなくてもいいのだ。ただ、カードゲームをすることで、ディアの負け癖はおそらく司令部中に広まったという。
「相変わらずのバカの川流れよ」
「ははは……こんな状況でも、みんな楽しそうでなによりだ」
丁寧に淹れた温かい紅茶を、まずは中将に振る舞う。感動した様子で「美味い!」と言ってくれた。どうやらブランクがあっても腕は落ちていないらしいことを確認して、ニアは次の一杯を淹れた。
休憩室にはだんだんと人が増えていく。戸口に立つ中将に挨拶をしてから、自分の好きな位置につき、紅茶を飲んだりお喋りをしたり、カードゲームで負けたり勝ったり。監視されているというのに、堂々としたものだ。
途中から紅茶はアクトに任せて、ニアもカードゲームに参加した。すると、久しぶりなので女神が微笑んでくれたのか、良い役がまわってきた。
「やった、一発! 僕はこれで変更なし」
「よほど良いのが来たんだな。これは初めてニアに負けるかもなー」
「とか言って、結局ツキが勝ちを攫ってくんだろ。いつものパターンだよ、いつもの」
どうかこの楽しい時が続いてほしい。そう願わずにはいられない。けれども、ここにただ浸っているだけでは何も変わらない。変えられない。それがわかっているから、こうして休息を楽しめるのだ。
ゲームはいつも通りに、ツキが最高役、ディアが役なし。パターン化されたものすら面白い。ニアにとっては、この一秒一秒が愛おしい。一度死にかけたからだろうか、以前よりももっと、「生きている」ということを実感できる。
「ジューンリー、楽しそうだな。インフェリアがいた時みたいな顔してる」
中将にそう言われ、そうかもしれないな、と思う。嬉しい、楽しいという感情が溢れて、他の人にも伝わっているのだろう。
「中将もやりますか?」
「俺は監視役なのでできません。……でも、もうここは監視しなくて良さそうだな。お前たちが怪しいなんて、少しも思えない。というわけで俺は出てくよ。紅茶ごちそうさま」
「今度は監視じゃなくて、遊びに来てください。また紅茶淹れますから」
「ああ、またな」
ばたん、と戸が閉まる。さっきの少将とは全く異なる、あんな将官だっているのだ。まだまだエルニーニャ軍人も捨てたものではない。ニアはそう思いながら、次のゲームに加わった。
久方ぶりの楽しい時間を過ごしたあとは、午後の仕事へ。新しくきた書類の処理の合間に、これまで調べてもらったことを確認する。眼鏡を通したほうが書類を読みやすいので、仕事中はずっと装着していた。
その間にもちくちくと刺さる将官の視線。これに慣れるまで、ニアにはもう少し時間が必要らしかった。

その日の仕事が終わった後、ニアはメリテェアに呼び止められ、事務室に残った。他のメンバーや他班の人間が出ていくのを見送って、二人きりになってから、彼女はやっと切り出した。
「今日一日過ごされて、いかがでした?」
「監視がきついね。自分で内部犯の可能性を提示しておいてなんだけれど、将官たちはかなり厳しく見ている印象だった。たまに勘違いしてるのもいたけれど」
「ええ。閣下が号令をかけてからというもの、みなさん必死になっていますわ。多くの方は本当に真面目にしているのですが、一部は自分の見栄のためだったり、裏社会に知られたくない個人的な悩みを抱えている方もいるようですわね」
弱みを握られれば、相手が誰であろうと従わざるを得なくなる。そんな状況が予想される者ほど、今回の件に敏感になっているらしい。たとえば、長く在籍している者で、我が子を軍に入隊させた者がいる。自分の名誉のために子供を不正に昇進させているという噂がもともとあったが、その彼が誰よりも目を光らせているのを見て、噂は本当だったのだと確信したと誰かが言っていた。そんなに極端な例でなくても、誰だって人に知られたくない秘密を抱えている。つけこまれるとなす術のない弱みがあるのは、しかたのないことだ。
問題はその考えのために冤罪を生まないかどうかということだ。以前のハルのように、不当につらい思いをする人間が出てはいけない。
「閣下も心配されていましたわ。このやり方で冤罪が出てしまわないか、将官が偉ぶってしまわないかと。閣下がお一人で将官全員を管理することは難しいですし、補佐の方だって将官です。度が過ぎれば、軍内は疑心暗鬼に染まってしまいますわ」
ノーザリア危機でのマインドコントロールも、誰が前王派かわからないという疑心暗鬼を利用したものだった。この中央司令部内が、同じ状況になりかけていることは、意識しなければならない。裏社会の者たちはそこを狙ってくるかもしれないのだから。
「メリテェアさんも、今日は誰かを監視してたんですか?」
「ええ、わたくしは最も疑いのかかっている情報処理担当を。一日中情報処理室にいましたので、だんだんクレインたちに申し訳なくなってきましたわ」
「見てるほうもつらいよね。誰かを疑わなくちゃならないっていうのは、本当に心苦しい」
そうしみじみと言ったニアに、メリテェアは俯きながら返した。
「……ニアさんも、同じ気持ちなのでしょう。カスケードさんに対して、疑念を抱いているのですから」
「僕の場合はほとんど確信になっちゃったから、あとは彼を問い質すだけでいい。でも、メリテェアさんたちは何の罪もない一生懸命仕事に取り組んでいる人たちをも疑わなくちゃならない。これはとても苦しいことだと、僕は思う」
こんな状態がいつまで続くのだろうか。たった一日でこんなにも疲れてしまうのに、ニア以外の人々はこれをもう何日も続けているのだ。早く解放してあげたいと思う。そのために、真実を明らかにしなければ。
「将官同士も監視を?」
「ええ。できれば佐官以下の方々の意見もいただきたいところですわ。ニアさんは、今日は怪しい人を見まして?」
「裏と関係がありそうな人は、わからなかったな。あまりに間抜けすぎるのはいたけど」
「そういう方々には、別の意味で注意しなければなりませんわね。……さて、わたくしたちもそろそろ帰りましょうか。引き留めて申し訳ございませんでした」
「いいえ、メリテェアさんと話せてよかったです。またよろしくお願いします」
メリテェアも将官として、この行動は心苦しかったに違いない。彼女の話を聞くことで、それを少しでも和らげることができたなら、ニアにとってこれ以上のことはない。

そうしてニアの復帰一日目が、無事に終わるはずだった。ほんの少しの緊張感の中で、平和に過ぎていくはずだった。
しかし、獣の目は夜に光る。獲物が油断している隙に、その肉を貪ろうと狙いを定めるのだ。

日付が変わる頃、ニアはふと目を覚ました。早く就寝しすぎたのだろうか、妙に目がさえてしまった。体を起こし、カフェインの入っていないハーブティーでも淹れようかと、床に足をつけたときだった。
つま先から、ぴりりとした感覚が走る。一瞬、何か踏んだのかと思ったが、何もない。違う、これは物理的なものではなく、本能的なものだ。
いつか感じたことがある。そのときは目が見えなかったけれど、たしかに感じていた。外に大きな何かが来て、親友がそれと対峙しているという光景を、頭に思い浮かべることができた。そのときと同じ感覚だ。
ニアは胸騒ぎを覚え、眼鏡をかけた。そして急いで髪を結いあげると、大剣を持って部屋を出た。廊下は真っ暗だ。当たり前だろう、寮の消灯時間はとっくに過ぎているのだ。多くの者はすでに就寝しているか、そろそろ寝ておいたほうが良いかと判断している頃だった。窓から射し込んでくる月の光を頼りに進み、エレベーターを使って寮のエントランスまで降りる。
外は息を呑むほど美しい満月に照らされていた。冷たい空気の中、妖しい光が黒々とした影を浮かび上がらせている。
ニアは周囲をぐるりと見回し、それから寮の敷地内を歩いた。寮の敷地、とはいうが、実際はここも軍の管理下にある土地だ。本来ならば、簡単に侵入者を許すはずがない。しかし、ここに明らかに異質なものがあるということを、ニアは肌で感じていた。
はたして、それは「いた」。その重みで草は倒れ、ざくりという音を静けさの中に響かせる。それがいくつもいくつも、寮の周りを取り囲んでいた。闇の中に双眸が光っている。いったい何対あるのだろう。相手は、何体の獣を用意してきたというのだろう。
やむを得ない。ニアはこちらの気配を覚られないよう静かにエントランスに戻ると、そこに備え付けてある緊急招集のボタンを押した。
たちまち、寮内にけたたましい音が響く。ここで生活をしている全ての軍人を眠りから叩き起こす、緊急事態を知らせるアラームだ。その音に反応して、相手も一斉に動き出す。獣だから大きな音に驚いて逃げる、などという一般常識は通用しなかった。むしろそれこそが獲物を狩る好機と見て、寮に向かって飛び込んでくる。何体もの巨大な生物が、こちらへ向かって跳びかかってきた。
ニアだけでは一体しか相手ができない。だが、常に緊急事態に備えている者たちが即座に駆けつけてくれる。その中には、ニアの仲間たちの姿もあった。
「ニアさん?! これはどういうことですか?!」
ざわめくたくさんの声たちの中から、ニアはその声を聞き取る。どうやらクリスがこちらを見つけてくれたらしい。
「さあね、わからない。でも、敵襲ってことはたしかじゃないの?」
叫ぶようにしてその問いに答える。向こうには聞こえただろうか。なにしろ答えながら獣の一体を斬り払ったところだったので、こちらの声は喧騒と獣の倒れるどう、という音にかき消されてしまったかもしれない。
だが、その心配は無用だった。ここに集まったのは軍人なのだ。「敵襲」と聞けば反射的に次の行動を決められる。
「伍長以下、十五歳未満の者は部屋に戻って待機だ! そこのお前、司令部の夜勤担当に連絡し、寮生以外の者へ招集をかけさせろ! 相手はキメラだ!」
上官の中でも現場慣れしている者なのだろう。ニアにはそれが、知り合いの中将の声に聞こえた。
現場からしばらく離れていた将官たちは、寮を囲むほどの数のキメラに恐れ戦いている。彼らも今は、使い物にならなさそうだ。ここは普段から現場に出ていて「怪物退治」経験もある、准将以下の者があたるしかない。
「援護をお願いします! 今一体倒しましたが、個々の力は大したことがありません。銃などの飛び道具を使用している方々は後方を、剣など接近攻撃のできる方は前方を固めてください!」
ニアがありったけの声で叫ぶと、動ける者たちは即、キメラの対処に当たり始めた。キメラといえども、合成動物ではなく、特殊な処理を施して異常に巨大化させた大型獣のようだ。身体能力が体の大きさに見合わず、動きが鈍い。しかしそのパワーは地面をえぐるほどなので、侮っていては怪我をするだろう。
「剣は前衛、銃は後衛ですね。俺たちの得意技じゃないですか」
「センヴィーナでリアの立ててくれた作戦をそのまま使えるな。行くぞ、カイ」
グレンとカイが一体を相手にする。同じくコンビを組もうとしているのは、リアとラディアだ。
「私がキメラの足を払うから、ラディアちゃんが斬りつけて。仕留められそうになかったら、近くの人に頼もうね」
「了解ですっ!」
だが、短剣では確実にキメラを止めるには難しい。人間ならまだしも、皮の厚い巨大な獣相手には、ラディアの踊るように斬りつけるという戦法は通用しにくい。少々苦戦する二人を助けたのは、突如飛んできてキメラの後ろ足を地面に縫い留めた投げナイフと、思わず上体を起こした獣の胸を袈裟懸けに斬り裂いた巨大な鎌だった。
「飛び道具と刃系なら、オレたちもそうですよ」
「ボクたちもなかなかやるでしょ?」
アーレイドとハルのコンビネーションで、こちらも一体を倒した。
クリスは一人で獣と睨み合っていた。彼にとっては、キメラは因縁の相手だ。それがどんなものであっても。
「この棍で、キメラを倒せるとは光栄ですね。ボクはあの人を超えられるでしょうか」
棍での有効な攻撃は、頭部を殴って昏倒させることだろう。相手の大きさを考えると、これで骨を砕くには時間がかかりそうだ。そこは確実に仕留められそうな人に任せればいい。今のクリスには仲間がいる。一人で戦ってしまった、かつての上司とは違う。緻密な計算のもと、クリスはキメラに向かっていった。
銃は後方を固めろとニアは言ったが、それは威力度外視の、攻撃可能距離のみを考えた指示だ。遠距離からでも高威力の弾丸を放てば、その一発でキメラは仕留められる。問題は、ターゲットがおとなしくしてくれているかどうかだけだ。だから足止め役をアクトが、攻撃をディアが担う。アクトがナイフを振いつつキメラをその場に留め、視線で合図を送る。それに合わせてディアが引き金を引けば、改造されたライフルから獣の厚い体をも貫く弾が放たれる。それは真っ直ぐに獣の心臓に突き刺さり、息の根を止めた。気持ちの良いものではないが、仕方がない。なにしろ数が多すぎる。気絶させるだけではきりがないのだ。
「アクト、次だ!」
「わかってる! シェリアちゃん、そいつはおれたちで片付ける!」
「はい、お願いします! 本当はヴィオラセントに任せるのは嫌なんですけどね」
シェリアが弾丸を撃ち込んでいたキメラは、最後のあがきなのか、無茶苦茶に暴れまわっていた。その腱を切って動きを止められれば、仕留めることができる。
「ブラック、その刀でキメラを斬れる?」
「動物の急所がどこなのかわかんねー。首のあたりでもいっとくか」
アルベルトとブラックも、コンビを組んでいた。アルベルトが銃で獣の動きを封じ、ブラックが斬るという、ニアの指示通りの動きだ。刀では重さが足りないように思われるが、切れ味は一般的な剣よりも鋭い。確実に狙いをつけることができれば、巨大な獣にも対応できる。頸動脈にあたりをつけて、一太刀で勝負を決めた。
その頃、遅れて駆けつけた寮生ではない人員が到着し始めた。キメラに囲まれた寮を見るや否や、クライスは槍を手に獣の背中を狙いに行った。
メリテェアはそばにいた将官に状況を確認し、少し考えてから右手にレイピアを、左手に鉄扇を持って、周囲を見回した。そして、先ほど跳びあがっていったクライスへ声をかける。
「クライスさん、聞こえます?! キメラの背に乗れば、周囲が見渡せますわね? このキメラの集団を送り込んだ人物が、そう遠くない場所にいると思われますわ!」
「そいつを捜しながら戦えってことだな。了解!」
返事を確認した後、メリテェアは隣にいたクレインに目配せした。情報処理担当で実戦向きではない彼女には、それ相応の仕事がある。
「クレイン、あなたは……」
「わかってる。軍施設内の監視カメラのコントロールね。夜勤に頼んで、監視室を貸してもらえばいいんでしょう?」
「話が早くて助かりますわ。よろしくお願いします」
クレインが司令部に向かったあと、ツキが現場に到着した。メリテェアの姿を見つけ、状況を尋ねる。
「今、どんな具合になってる?」
「ほとんどのキメラは、寮生のみなさんで倒していただけたようですわ。それでもまだ残っているようなので、援護をよろしくお願いいたします」
「任せろ」
ツキはナイフを手に、キメラと軍の戦いの輪の中へ飛び込んでいった。メリテェアもその後を追う。
待機組になったシィレーネは、他の伍長や戦い慣れていない将官たちとともに、救護の準備をしていた。願わくば、誰も世話することのないようにと思いながら。
「どうか……どうかみんなが無事で、この事態を収められますように」
そう祈り、年下の子たちを励ましながら、彼女もまた奮闘していた。
誰もがこの事態に立ち向かっている。誰もがこの「たくさんのキメラ」に目を奪われている。その中でただ一人、ニアはその姿を見つけた。いや、導かれた。キメラたちの後ろを通り過ぎていく、赤毛の女性に。
「ビアンカちゃん……?」
ある程度は予測できていた。彼女がニアの生存を知れば、必ずキメラを再び仕掛けてくると。予想外だったのはここまで大きな事件を起こしたことくらいだ。狙うなら、ニアだけを狙ってくるものとばかり思っていた。
だが、実際そうなのだろう。わざわざこうして誘いをかけているということは、彼女はニアと戦いたがっているのだ。おそらくは、こんな見かけだけの獣ではなく、あのキメラで再戦したいのだろう。彼女を追いかければ、それがいるはずだ。
ニアは目の前のキメラを斬り払うと、急いでその場を離れた。

軍の敷地内で、特に広く設定されているのが練兵場だ。何人が、いつどんな状況でも戦うための準備ができるように、他のどの司令部よりも大きなつくりになっている。この練兵場を使うためだけに、地方からやってくる者もいるほどだ。
彼女は、そこにいた。施設内に入り込むのは容易だっただろう。夜勤も含めて全て、あの多数のキメラにかかっているのだから。
あれだけ大きなキメラを多数用意しておけば、一匹くらい司令部内に紛れ込んでも、気づくものはいない。結局は少数よりも多数が、印象のより強いほうが、その場の目を奪うのだ。
ただ、ニアにとって印象が強かったのが彼女だというだけ。彼女もそれをわかっていて、ニアの前に姿を現した。ニアを呼ぶためだけに、この大騒ぎを引き起こした。
「死んだかと思ってたわ。死んだと確信してた。なのに、どうして生きているの?」
グリフィン型のキメラを伴って、彼女はニアに語りかける。その眼には変わらぬ憎しみが込められていた。
「死ぬわけにはいかないからだよ。僕は、カスケードに会うまで死なない。ビアンカちゃんは、彼の居場所を知っているんでしょう?」
ビアンカの表情が歪む。憎悪がニアの胸に突き刺さる。大剣の柄を握るその手に、思わず力が入った。心が、体が、この恐怖に耐えようとしていた。
「知っていたとしても、教えないわよ。あんたと会わせるわけにはいかないの。絶対にね」
ビアンカはそう言うと、キメラの胴を軽く叩いた。それが出撃の合図だった。彼女の命じたとおりに、キメラはニアに跳びかかってきた。見上げると、ニアがつけた傷がまだ残っているのが見える。塞がってはいるが、あの場所は弱点になっているはずだ。
ただ、心臓を一突きしたところで、やはりあれは死なないのだろう。もっと確実に倒さなければならない。前回の二の舞は避けなければ。
ニアはキメラの着地点を見極め、そこから素早く離れると、大剣を構えた。そしてキメラが地面に着くと同時に、横薙ぎに振り切った。刃はキメラの左前脚に、がっつり食い込んだ。骨を断ちたかったが、それはどうやら難しいらしい。ニアの力も足りないのだろう。
だが、キメラは動かせる足を一本失った。膝を狙ったのだ、足を持ち上げることも苦しいだろう。無理やり大剣を引き抜くと、キメラは痛みに悲鳴をあげた。
「ごめん……ごめんね」
相手が生きている以上、心は痛む。謝罪を呟きながら、しかし全力で、ニアはキメラに再び斬りかかる。今度は右前脚だ。キメラが痛みに喘いでいるうちに、そちらにも厚い刃を叩き込んだ。叫び声が練兵場に響く。壁にぶつかって反響し、頭に音を残していく。動物の命を奪おうとするニアを責めるように。
しかし、これで前脚は封じた。キメラはその場に蹲るようにして、動かない。前回ニアを貫いた爪は、前足が体の内側に折りたたまれているので使えない。そのはずだった。
だが、キメラはなお戦いをやめようとしなかった。前足で立てなければ、後ろ足のみで体を起こせばいいとでもいうように、上体を持ち上げた。前脚はだらりとぶら下がり、後ろ足でバランスをとるように立つその姿は、巨大な人間のようにも見えた。
「ある程度の知能はつけてあるわ。痛みも感じる。苦しい、つらいといった感情もある。でもね、優先される行動はあたしの命令に従うことなの。どんなに傷ついても、この子は戦い続けるわよ」
ビアンカが無表情で告げる。どうしてそんなことを言えるのだろう。自分で作りだしたものに、どうしてそんなに残酷な目を向けられるのだろう。
「君は、この子を何だと思ってるんだ?」
ニアが震える声で問うと、彼女ははっきりと言い放った。
「あんたを殺すための兵器よ。五年前から、ずっとね!」
巨大な影は、そのぼろぼろになってしまった前脚を、肩の力で振り上げる。長い爪が届けば、ニアをまた傷つけることができるだろう。それが済んだら、他の人々を傷つけるか、使い物にならなくなったと判断されれば処分されてしまうのだろう。
ニアを殺すためだけに、ビアンカはこの生き物を作った。そんなことのためだけに、このキメラは生きている。それではあまりにも、悲しすぎやしないだろうか。
「……そんな役目、終わらせてあげるよ。もう戦わなくていいようにしてあげる。僕の傲慢な行動だ。君を救えるわけじゃない」
ニアは大剣の柄を両手でしっかりと握った。そして、振り下ろされたキメラの前足に向かって、思い切り振った。
刃が当たった前脚は、すでに断たれかけていた骨が折れ、肉がちぎれた。大きな爪のついた左前脚が、練兵場の地面にぼとりと落ちた。血がぼたぼたと流れ、ニアの身体も染めた。
左が駄目なら今度は右だと、キメラはビアンカの命令通りに動く。この悲しい生き物には、それしかできないのだ。自らの身を守ることはできず、ただひたすらに戦うことしかできない。そんなことが、あってたまるか。殺すために、死ぬために、命は生み出されるのではないはずだ。
ニアは襲いくる右前脚を大剣の面で弾き、キメラの懐に飛び込んだ。そして大剣の柄を短く持ち替え、頭の上に振り上げると、キメラの胸から腹にかけて思いきり刃を走らせた。キメラが悲鳴を上げる。だが、これくらいでは死ねないはずだ。この生き物は、そういうふうに作られてしまった。
だから確実に命を絶つには、きっとこの方法しかない。仰向けに倒れたキメラがもがこうとするのを、ニアは大剣の刃で止めた。右前脚に刃が食い込み、それを外せば血が噴き出る。それを浴びながら、もう一度同じ場所に刃を叩きつけた。二度目で骨が折れ、肉が落ちる。これでキメラには、戦う方法がなくなった。暴れるたびに背中の翼は羽を落とし、傷ついていく。叫ぶくちばしが痛々しい。早く終わらせてやろうと、ニアは再び大剣を振り上げ、キメラの首に向かって刃を落とした。悲鳴にならない悲鳴を聞きながら、何度も、何度も。
ビアンカから見れば、いや、他の人から見ても、ニアが狂ったように見えるだろう。ただひたすらに、泣きながら、キメラの首を切り離そうとしているのだから。
やがて、キメラは動かなくなった。もう悲鳴もあがらない。ニアを殺すために作られた命は、ニアによって絶たれてしまった。
その顔も体も赤黒く染めて、ニアは大きく肩で息をしていた。流れる涙にも、浴びた赤が混じる。
「……あんた、なんで泣くの」
ぽつりとビアンカが言った。
「悲しいから、泣くんだよ。君は泣かないの?」
ニアは血に染まった眼鏡を通して、ビアンカを見つめる。
「泣く必要、ないでしょ。あんたがこんなに残酷だったことには、驚いているけれど」
「君が生み出したものなのに、この子が死んでも泣かないの? こんなに酷い殺され方をしたのに、何とも思わないの? ……ねえ、この子はどうしたら報われたの?」
ビアンカはニアから目を逸らし、戸惑った様子で答えた。
「あんたを殺したら、軍を潰すはずだった。軍を潰したら、もう用はなくなる。データを残して、処分するつもりだった。そしてまた新しいキメラを作って」
「作ってどうするんだよ! 僕を殺したら軍を潰す? そんなことばっかりさせるの? この子は、キメラたちは、いったい何のために生まれてくるんだ?!」
ただ人の思うままに生きるだけなら、彼らの生とは何なのだろう。このキメラと戦っていて、ニアにはそんな疑問が生まれていた。殺さずに済む方法があるなら、そうしたいと一瞬思った。けれども、「ニアを殺せ」とだけ命じられてきたこのキメラには、それ以外の道がなかったのだ。ビアンカが、そう言ってしまった。
「君は何のために、キメラを作ろうと思ったの?」
「あたし……は、」
ビアンカはたじろぎ、俯いた。ニアのほうを見たら、その眼光に負けてしまう。そう直感していた。
「あたしは、神話生物に憧れていた。自分で作る方法があると知って、軍の科学部に入って研究をしていた。……そうしたら、あんたが、あんたとカスケードが現れたのよ。ええ、そうだわ。あんたが現れなかったら、あたしは……っ」
声が震えた。彼女の頬から、しずくが落ちた。ぽたり、ぽたりと、いくつも。
「あたしは、ただキメラが、神話生物が好きな、女の子でいられたのに……」
どうしてこうなっちゃったんだろう。きっと誰もが、人生のどこかでそう思う。それは些細なことかもしれないし、大きな転機かもしれない。けれども、誰にでもありうることなのだ。ビアンカは、それがきっと、今だった。ニアが両親を喪ったときや、親友と離れたときに感じたことを、今ビアンカは思っている。
ニアは眼鏡を外し、血を拭き取って、胸ポケットに入れた。ビアンカの、かつてキメラを作ることに夢を見ていた女性の、その顔を自分の目でしっかりと見るために。
「ビアンカちゃん、その頃に戻れないかな。君が純粋に神話生物を好きだった頃に。僕は、できると思うんだ」
近づいて、彼女に手を伸ばす。手の甲は血まみれだったけれど、手のひらはずっと大剣を握っていたせいで、汚れていなかった。
「もう、やめよう? 人を殺したり、軍を潰すなんてことを考えるのは」
涙を流す彼女に、笑いかける。血まみれの顔で笑顔を向けても、怖いかもしれないけれど。それでもそうしたかった。たとえ苦手な相手でも、人生があり、夢があるのは、他のどんな人とも同じだ。ニアにはそれを受け入れたいと思う気持ちがあった。
「……無理よ」
しかし、ビアンカはぽつりと呟いた。
「だって、あたし、またあんたを殺せなかったもの」
その瞬間、パン、と軽い音がした。ニアの目の前で、ビアンカの頭が弾けた。

クレインは司令部外の監視カメラで、キメラを操っている人物がいないか確認していた。だが、それらしき人物は見当たらない。彼女がカメラをチェックし始めたときには、もう内部に侵入していたからだ。
その可能性に気づいて、司令部内の監視カメラに画面を切り替えたときには、もう遅かった。練兵場を映し出すその画面には、地面に転がっている大きな獣と一人の女と、立ち竦んでいるニアがいた。それから、練兵場入口のところに、数人の人影が見えた。
クレインは即座に敷地内全体へ聞こえるようにマイクのスイッチを入れ、叫んだ。
「お願い、誰か練兵場に行って! 急いで! ニアさんが危ない!」
その声はキメラを片付け終えた軍人たちの耳に届く。最後の言葉を聞いたとき、真っ先に走り出したのは、ジューンリー班のメンバーたちだった。

無残な姿で倒れているビアンカを、ニアは茫然と見ていた。どうして、なぜ、こんなことになった。人間が突然こんなふうに死ぬなんて、ありえない。
第三者がそうしようとしなければ、こんな事態にはならないはずだ。
「全く、後始末をする側の身になってほしいものだ。こんな面倒な女、組織に入れなければ良かったんだ」
忌々しげな男の声がした。ニアはそちら、練兵場の入口のほうへ目を向けた。そこには、拳銃を持った男が立っていた。深くフードをかぶっていて、その顔は見えない。
だが、その後ろに立っている背の低い青年の姿は、見覚えのあるものだった。金髪と、一見女性と見紛うほどの美しい顔。
「……アクト?」
その名を呟くと、彼は反応した。しかしこちらを見て、首をかしげていた。
「……? まあいいか。ボトマージュさん、とりあえずあれ片付けないと、カスケードに見つかったらうるさくない?」
金髪の青年は覚えのある名前を二つ口にする。一つはかの大犯罪者の名前。もう一つは、求めてやまなかった親友の名前。
「名前を言うな。これだから貴様は……」
「あ、まずいこと言っちゃった? でも出てきた時点でばれるでしょ、どうせ」
あの二人は何を言っているんだろう。フードの男と、仲間によく似た青年は、いったい何者なんだろう。
考えているところへ、誰かが走ってくるような音が聞こえた。それはどうやら練兵場入口の向こうから近づいてくるようで、それに振り返ったフードの男と金髪の青年は、嫌そうな反応を示した。
「ほら、もたもたしてるから来ちゃったじゃん」
「うるさい、貴様にとやかく言われる必要はない。それにいずれわかることだ」
彼らが何やら言い争っている間に、全館放送が鳴り響いた。クレインの声だ。
『お願い、誰か練兵場に行って! 急いで! ニアさんが危ない!』
ニアはそれでハッとする。そうだ、ぼうっとしている場合ではない。今入口にいる彼らがビアンカを撃ったのは間違いないのだ。金髪の彼はともかく、フードの男は明らかに軍人ではない。この騒ぎに乗じて侵入したのだろう。
「君たち、いったい何者?!」
大剣を構え、彼らを見やる。彼らもこちらを見たが、それが確認できたのは一瞬だった。すぐに視界に、もう一人の人間が飛び込んできた。
背中へ伸びた黒髪に黒い瞳、大尉のバッジのついた軍服を着た、大柄な男が。
間違いなく、これまでに目撃されてきた、あの男だった。そしてニアには、それが誰だか一目でわかってしまった。髪や眼の色が違っても、彼は間違いなく、あの「彼」だ。
「おい、あれ、ビアンカ? 殺したのか?」
ビアンカの死体を見て、彼は言った。その声も、知っている。五年前のあの日まで毎日聞いていて、つい先日無線を通して話をした、あの声だ。
「だって、彼女にはもうこれ以上何もできないよ。“あの方”からも、作戦が失敗したら速やかに処分するようにって言われてたんだ」
「……そうか、そうだったんだな。“あの方”が言うなら、しかたないか……」
消沈した声も、聞いたことがある。ふらふらとビアンカの死体に近づいてくるその歩き方も、記憶の中の「彼」と変わっていない。
そのとき、突然天井から大量の水が降ってきた。消火用のスプリンクラーを、誰かが作動させたらしい。シャワーのように撒かれた水に、ニアは、そして歩いてきた彼は、思わず手をかざした。けれどもそれで水が避けられるはずもない。びしょ濡れになりながら、ニアは「彼」を見た。水のせいで髪を染めていた塗料が流れ、その本当の髪色をあらわにした彼を。彼は目に水が入ったのか、手で目をこすり、「あ、コンタクト」と呟いた。
体に付着した血を洗い流されながら、ニアはその名を呼んだ。
「……カスケード?」
「彼」はその名前に反応し、こちらを向いた。コンタクトレンズは両目とも外れてしまったらしい。本当の彼の瞳の色が、はっきりと見えた。眼鏡をかけていなくても、その姿は鮮明にニアの目に映った。
ずっと捜していた、ダークブルーの髪、海色の瞳。背丈は少し伸びて、大人っぽくなったかもしれない。五年も経つのだから、それくらいの変化はあるだろう。軍服はよく見ると、継ぎの跡がある。体に合わせて仕立て直したらしい。
「……その声」
「彼」はニアを見て、目を丸くした。それから、近くにビアンカの死体があることも忘れたかのように笑顔になって、言った。
「この前の声の奴だよな。どうして俺の名前、知ってるんだ? お前、名前は?」
まるで、ニアに初めて会ったかのように、カスケード・インフェリアはそう言ったのだ。
「名前は、って」
ニアもあれから風貌が変わった。背も髪も伸び、しかも今は洗い流されているとはいえ血まみれだ。一目ではわからないかもしれない。
「僕、ニアだよ。ニア・ジューンリー。君は、カスケードだよね?」
恐る恐る、ニアは自分の名を告げる。だが、返ってきたのは。
「ああ、俺はカスケードだけど。でも、どうしてそれをお前が知ってるんだ、ええと、ニア?」
どうにも不思議な答えだった。カスケードは自分の名前を認識しているのに、ニアのことはわからないらしい。名前を告げても。
「僕がわからないの? どうして?」
「どうしてって……あ、でも声はわかるぞ。俺、お前の声をいつも夢の中で聞いてたんだ。だからたぶん、五年前に会ってるんだろうなって思ってた。そうなのか?」
聞きたいのはこっちだ。ニアは他の存在などまるで忘れて、カスケードに向かって叫んだ。
「そうだよ! 君は五年前の春に行方不明になった! 僕の前から消えたんだ!」
「へえ、そうなんだ。ごめん、俺、その前の記憶ないんだ」
その言葉の意味をニアが理解する前に、大勢の足音が聞こえた。入口にいたフードの男と、金髪の青年が舌打ちした。
「ほら、来ちゃった。カスケード、帰るよ」
「その女を始末したら引き揚げろと“あの方”が言っていた。行くぞ」
「え、でも……」
カスケードがニアを見る。ニアもカスケードを見ていた。見つめあう二人の間に、声が割り込んできた。
「ニア、無事か?!」
ツキの声だ。だが、こちらを心配するその声は、練兵場に入ってきた途端に驚愕に変わった。
「え、なんでアクトがここに?!」
「はあ?! だって、アクトは俺と一緒にいるぜ?」
「え、おれ?」
ディアと、なぜかアクトの声もする。いや、こっちがニアの知っているアクトの声だ。だとすると、このアクトにそっくりな金髪の青年は、何者なのか。
「ほら、見つかった」
ビアンカの死体のそばにはカスケード。入口には二人のアクト。もうどこに目をやっていいのかわからなくなって、ニアは混乱していた。
「うわ、そっくりだな。アクトは軍にもう一人いるって“あの方”が言ってたけど、本当だったんだ」
カスケードは感心したように言う。彼は事情がわかっているようだ。“あの方”とやらのおかげで。
「カスケード、“あの方”って誰? どうしてアクトが二人いるの? 君はこの状況が理解できているの?」
ニアが問うと、カスケードは頭を掻きながら言った。
「“あの方”は“あの方”。それしかわからないんだ。アクトのことは“あの方”に聞いただけで、二人並んだのは初めて見た。状況は、まあ、しかたないんだなっていう理解をしている」
ニアにはとても理解できない説明をすると、カスケードはにっこり笑った。
「そんなことより、俺はお前に会えて良かった。声の主の顔が確認できて、満足だ。これでもう、軍に思い残すことはないな」
「どういうこと?」
尋ねたニアに、カスケードはその表情を全く崩さずに答えた。
「潰してもいいな、ってこと」
五年前までの彼なら、絶対に言わないであろうことを、いとも簡単に口にしてみせた。
言葉を返せないままのニアの前で、カスケードは踵を返し、フードと金髪の二人組のもとへ向かった。そして練兵場入口に集まっていた者たちを見、「お前らとの喧嘩の続きはまた今度な」と言って、ポケットから何かを落とした。
途端に目が灼けるような光が走って、おそらくはニアも含めた、その場にいた全員が目を閉じた。次に目を開けたとき、カスケードと、もう一人のアクトと、フードの男はもういなかった。
あとには、練兵場に転がるキメラとビアンカの死体だけが残っていた。

真夜中のキメラ騒動は、全てを倒したことで幕を下ろした。キメラたちの死骸はビアンカたちとともに練兵場に並べられ、検分は翌朝行なわれることとなった。
全員が一旦解散し、翌朝に備えることとなったが、ニアはそこから動けなかった。ツキに連れられ、ようやく寮の部屋に戻ることができた。
しかし、眠れるはずもなく、ただぼんやりと見た光景を頭の中で繰り返していた。

ニア・ジューンリー殺害未遂及び軍施設襲撃の犯人の一人とされたビアンカ・ミラジナは、あとから現れた何者かによって殺された。そのうちの一人はアクトと似通ってはいたが、本人ではないことが周囲の証言からわかっている。
また、一人は「黒髪黒目の男」、ではなく「ダークブルーの髪に海色の瞳の男」――行方不明だったカスケード・インフェリアであることが、証言と監視カメラの映像から判明した。
フードの男は身元不明だが、ニアが「ボトマージュ」という名を聞いている。そのことから、彼は南方殲滅事件首謀者ヤークワイア・ボトマージュである可能性が高く、現在刑務所に収監されているのは偽物ではないかという容疑が浮上している。
夜に寮を襲撃しようとしていたキメラは全て同型であり、巨大化されたライオンであることが判明した。また、ビアンカが連れていたキメラは先頃採取したサンプルと比較したところ、前回ニアを襲ったキメラと同じものであることが明らかになった。
軍では引き続き、行方をくらませた三人組を追うことにする。
以上が今回の顛末だ。事実だけを見れば、たったそれだけのことだ。
しかしたったそれだけが、軍にとっては大問題だった。施設がキメラを操る集団に襲われたことも、その集団の中に行方不明だった軍人カスケード・インフェリアがいたことも、軍全体に波紋を呼んだ。
緘口令が布かれているものの、いつどんな形でメディアに露出するかわからない。そうすると、南方の件以来徐々に回復させてきた軍のイメージは再び地に落ちる。インフェリア家の人間も、レジーナでは暮らしていけなくなるかもしれない。
「彼を呼び戻す気でいたが、難しいかもしれんな。何とかして再び軍人として迎えたかったが……」
大総統は、今の今まで、どんなことがあってもカスケードを再び迎え入れるつもりだったらしい。しかし今回の件で彼が裏に加担していることが露見してしまったので、それは難しくなってしまった。軍に戻そうとすれば、軍内の反対が必ず出る。
彼はすでに、それだけことをしてしまった。
「ジューンリー大佐、すまなかったな。これまでずっと彼を戻そうと頑張ってくれたのに」
「……いいえ」
ニアは俯いたまま答えた。しかし、その真意は「かまいません」でも「仕方ないことです」でもない。
まだだ。まだ、彼を引き戻すことのできる可能性がある。
「閣下、彼は五年前に行方不明になった際、記憶を失っています。本人がそう言っていました」
「記憶を? ……だから戻ってこられなかったのか」
「はい。彼が記憶を失ったのをいいことに、利用している者が裏にいます。この件が解決し、彼が軍人としての記憶を取り戻せば、きっと戻ってくるはずです。……彼の居場所はここです。どんなに反対されても、彼を迎える人がいる限り、彼の居場所はここなんです」
たとえ、軍人として迎え入れることが難しくなったとしても、裏からは必ず取り戻す。軍人でなくてもいい。親友としてのカスケード・インフェリアが帰ってきてくれれば、ニアはそれでいいのだ。彼を受け入れてくれる味方もたくさんつくったのだから、諦める必要なんかない。
「彼を弁護する材料はあります。あとは彼に思い出させるだけなんです。僕は彼の親友だ。絶対に彼を、カスケードを裏組織から取り返します」
声だけは憶えてくれていた。きっと他にも、思い出してくれる要素があるはずだ。大切な人だから、何が何でも取り戻してみせる。
カスケード・インフェリア奪還作戦の、始まりだ。


首都の地下では、とある裏組織が生活と研究をしている。司令は会議室のスピーカーから流れてくる。各人には部屋が与えられ、無駄な馴れ合いは不要だとされている。
ビアンカ・ミラジナが用済みとして処分された今、ここにいるのは五人だ。
元南方司令部長であり、南方殲滅事件首謀者ヤークワイア・ボトマージュ。
アーシャルコーポレーションの裏側の研究員であった、オレガノ・カッサスとその息子アクト・カッサス。
軍に恨みを持つ男、イリー・クライムド。
そして、記憶をなくした元軍人カスケード。
他にも軍内に協力者がいると、“あの方”と呼ばれているスピーカーの声は言う。
『ビアンカ・ミラジナは失敗した。彼女のようなことにならないよう、気をつけて行動することだ』
スピーカーの声は言う。この組織はこの声が全てだ。
『さて、軍に正体が知れたそうだな、カスケード。こうなれば、即軍に攻め込むしかないが……向こうも警戒している。少し時間をおこう』
「すみません。なんか水が降ってきたもので」
「貴様がビアンカ・ミラジナの死体になんか近づくからだ。あんなもの、放っておけばよかったものを」
「でも、ビアンカは一応今まで俺の世話をしてくれたから……放っておくのも、忍びなくて」
吐き捨てるボトマージュに、カスケードは本気で困っている。自分を牢から出した男ではあるが情けない奴だというのが、ボトマージュのカスケードに対する感想だ。ただ、軍人をも一瞬にして倒すことのできる彼の実力はかっていた。逆らいたくないと思うくらいには。
「僕も見られちゃったんだけど。これ、アクト・ロストートとの入れ替わり、成功するかな」
スピーカーに向かって発言したのは、アクト・カッサスだ。彼の見た目は軍に在籍しているアクト・ロストートに非常によく似ている。
『実際に軍施設に入り込むことができたのだから、成功するだろう。安心してアクト・ロストートを演じ、軍の人員を潰していけ』
「はーい。父さん、それでいいよね」
「……気をつけて仕事をしなさい、アクト」
オレガノはそれだけを息子に告げた。するとスピーカーの声は、今度は彼に問う。
『オレガノ・カッサス。クローンとキメラの開発状況はどうだ』
「キメラはもう使用できないかと。ミラジナの行動によって、軍が警戒しているでしょうから。ヘルゲイン型の大量生産は続けております。同時に、ボトマージュより提供を受けた死肉からの人体復活実験が進んでおります。あなたから提供のあった01型、02型は起動実験に入ります」
『01及び02は旧型の記憶保持クローンだが、おそらくは使えるだろう。これはボトマージュが使うといい。ヴィオラセントに会わせてやりたいだろう』
「はっ、ありがとうございます。必ずや軍を殲滅させて見せましょう」
オレガノはクローン研究を担当し、それを実際に使用するのがボトマージュとイリー・クライムドだ。イリーは兄を軍人に殺された経験があり、軍を激しく憎んでいた。
「私にはどのクローンを?」
『イリー・クライムド、君にはしばらくヘルゲイン型を使用してもらう。そして、軍から一人協力者を連れてくるんだ。……君が憎むブラック・ダスクタイトの兄、アルベルト・リーガルを』
「リーガル? ……かまいませんが、なぜ」
『命令は絶対だ。速やかにかかるように』
そして最後にスピーカーの声は、再びカスケードに語りかけた。
『カスケード。君は私たちの計画の最重要部分にいる。私の指示に従って行動するように』
「……指示に、って言いますが。俺にはビアンカを殺す必要があったのかどうかわかりません」
「貴様、まだそれを言うか! 不要なものは排除する方針なんだ!」
ボトマージュが怒鳴るが、カスケードはそれを無視してスピーカーの声を待つ。声はほんの少しの沈黙のあと、告げた。
『彼女の仕事は終わった。五年前にはもう終わっていたのを、ここまで引き延ばしていたに過ぎない』
そしてスピーカーは、ぶつりと切れた。
カスケードは納得のいかないまま、部屋に戻るしかなかった。
軍の必要ない、平和な世界を創るのだと、そのために自分たちは動いているのだと、カスケードは“あの方”から聞かされてきた。スピーカーを通して。時には歴史書を読まされて。
そこで軍を排除する行動に出るのはわかる。だが、そこにビアンカの犠牲は必要だったのだろうか。彼女の仕事が五年前に終わっているとは、どういう意味なのだろうか。
「ずっと研究してきたのに……あれ、そういえば、ビアンカはどうしてキメラの研究をしてたんだ?」
彼は知らない。自分の記憶を奪ったのが、ビアンカの作ったキメラの最期のあがきだったことを。瀕死のキメラが力を振り絞って彼の頭を殴ったことによって、五年前までの記憶が消されてしまったことを。
ビアンカが死んでしまった今、その事実を知る者は、もういない。




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posted by 外都ユウマ at 22:13| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年01月30日

Reverse508 第十七話

首都の地下には、かつてアーシャルコーポレーションが作り上げた巨大な研究施設がある。当然のことながらここも社長逮捕の際に調査が入ったが、すでに調べつくしたあとで、今は空っぽの状態だった。
だからもう、ここに軍が来ることはない。いや、“あの方”が軍を入れないようにしているのかもしれない。とにかくここは、今や秘密の研究にはちょうどいい場所となっていた。
そこに巨大なキメラの入った培養カプセルが運び込まれたあと、他にも様々なものが持ち込まれた。機械やその他の道具だけでなく、製造途中のクローンたちまで。ありとあらゆるものが揃った、裏組織による新たな研究施設が、ここに用意されようとしていた。
それとは別に、何部屋かの居住スペースも作られている。ビアンカとカスケードは、そのうちの一つを割り当てられた。他の部屋にも住人が入るらしい。
「なるほど、組織の人員をひとまとめにするってわけ。いよいよ本格的に、軍を潰す作戦が始まったってことね」
ビアンカが呟くのを聞いて、カスケードは頷いた。
「俺もそう聞いた。“あの方”に呼び出されたとき、俺が重要なメンバーだからって、他の人も紹介されたぞ」
「叱られに行ったんじゃなかったの?」
「もちろん叱られたけど、そのあとで。今後は勝手に行動せずに、そのメンバーと折り合いをつけながら動けって」
ビアンカはその話に納得がいかなかった。そんな話までされて、人員まで紹介されたというのなら、なぜ自分は呼ばれなかったのだろうか。おかげでニアを始末することはできたが、自分がその「重要なメンバー」とやらに数えられなかったということには不満を覚える。
「……じゃあ、ここに来る人のことは、カスケードはもう知っているのね」
「ああ。そのうち一人は、前に俺が刑務所に迎えに行った人。あとはなんとかって会社で研究員してたとか、軍に恨みを持ってる人とか。でも“あの方”には会えなかったな、相変わらずスピーカーから声だけ出てた」
カスケードのその言葉で、ビアンカは少しだけ安心した。自分は“あの方”に直接会っている。真っ黒なフードマントをかぶり、声は変声機か何かで変えていたので、性別も顔もわからない。だが、本人に会ったというだけで、自分にはアドバンテージがあるはずだ。
自分は使い捨てられるようなことにはならない。イストラのオファーニ・ルークや、自死を免れなかったソフィア・ライアーのようにはなりたくない。
自分は優秀なキメラ研究者であり、カスケードの恋人なのだ。他の奴らとは違う。ビアンカはそう心の中で呟いた。


軍病院の一室で、ニアはクリスからの報告を聞いていた。彼にはニアが倒れていた村の周辺を捜査してもらっていたのだ。当然、あの森の中も対象になっている。
「結論から言いますと、依頼者ビアンカ・ミラジナは発見できませんでした。森の中に家だったものの残骸はありましたが」
「残骸? 僕はたしかに家そのものを見たはずなんだけど」
「では、そのあとで破壊されたのでしょうね。現場に残っていた瓦礫の状態や硝煙反応から、ごく最近に爆破されたことがわかっています。近くの村の方も地鳴りのような音と揺れを感じたと言っていますし」
「じゃあ間違いないね。……ごめんね、読み上げさせちゃって」
「いいえ、見えないのだから仕方がないでしょう。全てが片付いたら、別の職に就くことをおすすめしたいくらいです」
クリスは手元に報告書を持っていたが、ニアが「ぼやけて読めない」というので、内容をかいつまんで教えてくれたのだった。どうせ証拠が破壊されていて、ほぼ成果の得られなかった捜査だ。報告書は見せなくともいいだろうとまで考えていた。
「ボクからの報告は以上です。これにニアさん、あなた自身の証言を加えなければならないのですが」
「どこから話せばいいのか、自分でまとまってないんだ。ビアンカちゃんのことはできれば自分で調べたいし……」
「その目で何を言っているんですか。断片的でも話が飛んでもいいので、とにかく話してください。こっちで整理してまとめます」
完全に呆れているクリスに、ニアは苦笑を返した。これが彼の心配のしかたであり、上司を傷つけられたことへの怒りの表れであることはわかっている。気持ちはありがたいのだが、ニアは自分のことなので自分で何とかしたいと考えていた。
しかしながら、現状では何ともできないことも事実だ。だからこそクリスは、ニアの代わりにこうして頑張ってくれているのだ。
「ええと、とりあえず今回の件に関係あることを話せばいいかな」
「関係ないことがあるんですか? できれば全てお聞かせ願いたいんですけれど」
ぐいぐいと追及してくるクリスに、ニアがたじろいでいたときだった。部屋の戸が開いて、サクラとメリテェアが入ってきた。もっとも、ニアには姿がぼやけて見えている。しかし誰かが来てくれたことであからさまに「助かった」という表情をしてしまい、クリスに深い溜息を吐かれた。
「ニアさん、具合はいかがです?」
「メリテェアさんだね。うん、目は相変わらずだけど元気だよ」
「目が相変わらずってことは元気じゃないってことよ、ニアさん」
「サクラちゃん、ごめん……」
サクラはすでにジューンリー班全員への挨拶を済ませていた。しっかり北方名物の菓子折り付きで。特にクリスとは見解も気も医学知識の面も合ったようで、こうして顔を合わせると二言目から事件の話を始めた。
「ニアさんを本気で殺そうとしたのなら、建物と一緒に破壊しちゃえば良かったのにね。それをしなかった理由はなんだったのかしら」
「それを知りたいので、当人の話を聞こうとしていたところです。もったいぶってなかなかお話してくれないんですけれどね」
二人は何やら恐ろしいことを言いながら、ニアから証言を引き出すために結託しようとしている。ニアは視線でメリテェアに助けを求めるが、笑顔で首を横に振られた。観念しろということらしい。
「さあ、ニアさん」
「話しなさい、ニアさん」
「……わかりました。わかったからちょっと待ってよ」
有能な仲間を持つと、大変だ。ニアはそれをひしひしと感じていた。
しぶしぶ話した内容は、次の通りだ。まず、ビアンカから「研究の成果を見てほしい」という依頼を受けた。これはクリスたちも知っている。ニアが出かける前に、仕事の引継ぎをしながら言い残していったことだ。
それから時間をかけて例の村へ行き、さらに森へと向かった。村がかつてカスケードが行方不明になった場所であることは、クリスたちも把握している。その頃、周囲はすでに深い闇に包まれていた。
森の中には一軒の家があり、ビアンカはその場所に車を停めた。この時点で、家はまだその形で存在していた。彼女はその家に入ると、一体のキメラを伴って再び出てきた。
「なるほど、キメラですか。あの場所にあった動物の毛らしきものは、そのキメラのものである可能性がありますね。採取したサンプルをもう少し詳しく調べてもらいましょう」
クリスは報告書にさらさらとニアの証言を書き加えていく。これを改めてまとめなければならないのだから、彼の仕事は大変なものになるだろう。
そんなことを考えながら黙っていたら、続きを促されたので、ニアは再び話し始めた。
ニアはキメラと戦い、確実にその心臓を突いたと思った。しかしビアンカの「改良」によって、キメラはその程度では死なないようにできていた。油断したニアの背から腹にかけて、キメラの大きな爪が貫通し、重傷に至った。
「改良? 彼女はその前にもキメラを作っているんですか?」
「うん。サクラちゃんにはつらい話になるけれど、そのキメラは五年前にカスケードが倒したとされるものと同型だったんだ。どちらもビアンカちゃんが、僕を殺すために作ったものらしい」
――本当はあのとき、あんたを殺すはずだったのに!
ビアンカの叫びが、頭の中にぐわんと響く。五年前の事件も、今回のことも、全ては彼女の思惑だった。カスケードを自分のものにするために、ニアをこの世から消してしまう手筈だった。しかし皮肉にも、五年前はそれが、カスケードを行方不明にするという事態に繋がった。殺されるはずだったニアは、今もこうして生き延びている。
「……それはおかしいですよ、ニアさん」
クリスが眉を顰めた。何か矛盾点でもあっただろうか。
「おかしいって、何が?」
「五年前のキメラも彼女の作だというのなら、どうしてカスケードさんは行方不明になったのでしょう? 五年前のキメラはカスケードさんによって倒されたと、ビアンカ・ミラジナが言ったのであれば、それは真実かもしれません。では、そのあとカスケードさんはいったいどこに? なぜニアさんのところに帰ってこなかったのでしょうか?」
それは五年前からの謎だった。キメラの死体だけがそこにあり、カスケードの姿だけが忽然と消えた。その理由を、ニアはずっと追い求めてきた。だが、どうしてもわからなかった。
「今回のことで、五年前の件にもビアンカ・ミラジナが関わっていることが判明しました。そこから導き出される仮説として、彼女がカスケードさんを連れ去ったということがあげられます」
「そうか……! ビアンカちゃんがカスケードのその後を知っているかもしれないんだ!」
「彼女にとって、あなたが生き延びたのは想定外だった。それならそれで、何も知らないふりをして、またキメラでも作ってあなたを殺しにかかればいい。しかしそれをせずにカスケードさんを連れ去ったとすれば、そうせざるを得ない事態が起こっていたのかもしれませんね。彼女にとっての、もう一つの想定外が」
それこそが、カスケードが行方不明となった理由。そして今、彼が裏と関わりを持っている可能性へとつながる道。
「ビアンカ・ミラジナは裏社会に属する人間である可能性が非常に高い。彼女を捕まえることができれば、様々なことが明らかになりそうですね」
しかし、今やビアンカの行方すらもわからなくなっている。彼女がいったいどこに消えたのか、それを再び捜査する必要がある。物的な手掛かりは破壊されたが、ヒントはある。
「さて、ここでボクがさっきおかしいと思ったことをもう一つ。今回のキメラはいったいどこへ消えたのか、という問題です」
「家と一緒に爆破されたんじゃないの?」
「いいえ、家の残骸からはキメラの血液らしき成分は見つかっていません。外にはニアさんと、そうでないものの血液が見つかっていますけれど。その血液を流したものがキメラだとして、ニアさんに一度倒されてからは、自分で動いた形跡はありません。その場から家以外の場所に運ばれたと思われます。おそらくそこが、ビアンカ・ミラジナの新しい拠点でしょう」
ニアはキメラの大きさを思い出す。あれだけ巨大なものを運ぶとしたら、相応の機械や輸送車が必要だ。だとすれば、現場にそのタイヤ痕などが残ってはいないだろうか。
「クリス、タイヤの」
「ちなみにタイヤ痕などは消されたと思われます。さすがに周到ですね」
「……そうか」
「しかし、だからこそ得られるヒントもあります。それだけのことをするのには、人手がいります。速さも必要ですから、動員された人間はすぐに駆けつけてこられる者でしょう。村の人は調べた結果、どうやらシロのようですね。それ以外の近隣住民で、最近様子がおかしい者、姿を消した者などを調べてみましょう」
手掛かりはけっしてゼロになったわけではない。わずかな可能性にも賭けてみる。それは捜査の基本だ。無駄なことなど何一つないのだ。クリスは自らそれを証明する気でいるようだった。
ここまでくれば、もはや執念だ。上司がキメラに襲われたというそれだけのことが、クリスを突き動かしていた。過去の後悔をもう二度と繰り返さないという強い思いが、彼にはあった。
「ニアさんがわざわざ村まで運ばれた理由も考えなくてはなりませんね。森の中に放置しておくことで生じる不都合が、ビアンカ・ミラジナにはあったはずです」
「さっきの話ね。彼女のせめてもの情けだったとか?」
「そのために村人に自分も見つかるかもしれないリスクを、彼女が背負うとは思えません。あれだけ周到に証拠を消しておいて、自分が捕まっては意味がないでしょう。ご丁寧に大剣まで添えてくれたんですよ。……おや、眼鏡はどこに消えたんでしょうね?」
まだ疑問は残るが、それを解消するための捜査がこれから始まる。ニアの証言によって、推理は大きく進展したはずだ。それを裏付ける証拠を、これから捜すのだ。ビアンカの行方とともに。
「クリス、ありがとう。こんなに考えてくれるなんて……」
「ボクのプライドもかかってますから。キメラで人を殺すなんてことが、そう何度もあってたまるものですか」
ニアはここでやっと、自分は生きていて良かったと思った。もしも今回のことで命を落としていたら、クリスは再び上司を喪うという経験をすることになっていた。その後の捜査でニアの死がキメラによるものだと知ったら、よりつらい思いをすることになるだろう。
一瞬でも、自分が死ぬべきだったと思ったことを恥じる。五年前だって、ニアが死んでいれば、きっとカスケードは苦しんだだろう。彼はそういう人間だ。
「僕も早く復帰したいな。クリスたちばっかりに任せてられないよ」
「そうそう、そのための話をしに来たんだったわ」
ニアの言葉で、サクラはここに来た本来の目的を思い出す。今の彼女は、ニア専属の医者だった。北方には他にも軍医がいるので、しばらくは彼らに現場を任せ、自分は中央に留まるつもりだという。実家がレジーナにあるので、滞在は全く問題ない。そうしてニアの目の検査や、新しい眼鏡の用意をしてくれることになっていた。
「目のことだけど、検査の結果があまりにも酷かったから、一から新しい眼鏡と薬を用意させてもらうことになったからね。もう少し時間をちょうだい」
「うん、ほとんど見えてないからね。そうだろうなとは思ってた」
復帰まではまだ時間がかかりそうだ。これまでは休めば回復していたのに、今回はそれがない。そのためにニアは焦っていた。下手をしたら、冗談ではなく軍人生活がここで終了してしまう。
そんなニアの気持ちを完全に見抜いて、サクラは言った。
「焦るのも良くないのよ。他の人がやってくれてるから大丈夫、くらいにかまえてないと。実際、ニアさんの部下の方々は非常に優秀で、捜査も随分進んでるからね」
「その通りだ。そうだね、もう少し楽に考えるよ」
とはいうものの、そう簡単に気を楽にできたら苦労はしない。ニアがそういう性格だったなら、そもそもこんなに症状は酷くなっていないはずだった。
サクラは挨拶がてら、ニアの目について、ジューンリー班の全員に説明していた。彼の目の異常は、もちろん五年前の事件に原因がある。たった今、それもビアンカの仕業であったことが判明した。
だが、それが今まで続いているのは、精神的な原因が大きかった。視力もたしかに弱くなったが、五年前の事件以前との差は実はそれほどない。目を近づけても遠ざけても書類を読むことができないなどといった症状は、ニアの心の疲弊に関係している。
眼鏡も、わずかに度は入っているが、主に目の疲れを軽減させる役割を担っている。レンズに少し見ただけではわからないような色が入っていて、それが目の負担を和らげているのだ。点眼薬も疲れ目対策にすぎない。
頓服薬は、精神安定剤だ。実のところ、ニアの持つ症状に最も効果を示しているのは、この薬だった。そういう意味でいうと、眼鏡や点眼薬も、これさえあれば大丈夫というおまじないのようなものなのだ。
今のニアには、様々な不安がのしかかっている。ビアンカのこと、カスケードのこと、そして自分自身のこと。強い憎しみをぶつけられ、捜し求めていた者は追うほどに知っている者とは遠ざかり、自分自身はこの目のせいで、軍人としての立場が危うい。かつての願いも、親友との希望も、何もかもが砕けて壊れてしまうかもしれないという恐れの中にいる。そんな状態で、精神力が回復するはずはなかった。
もともとニアはそう強くはない。両親を火事で喪ってからは、炎を恐れるようになった。親友が行方不明になってからは、またものを見ることができなくなるかもしれないという恐怖を常に抱えるようになった。守れないことが、助けられないことが、失ってしまうことが、とても怖いのだ。
「……さて、クリスさんは報告終わり?」
「ええ。証言も取れましたから、また報告書を作成して、捜査に繋げます。サクラさんの用はお済みですか?」
「だいたいは。そうだ、ニアさん。今日からはこの薬を必ず飲んでね。そしてぐっすり眠ること」
「わたくしもせめてお休みの役に立てればと思いまして、リラックス効果のあるアロマオイルを持ってきましたの。こちら、セットして置いておきますわね」
「みんな、ありがとう。薬はちゃんと飲むし、睡眠もとるよ。それしか今はできないからね。せめて目が回復すれば、本が読めるんだけどな」
「どうせ本より報告書になるでしょうから、もう少し見えないままでいいですよ。それではボクは失礼します」
「私も。まだまだ眼鏡や薬の打ち合わせがあるからね」
クリスとサクラが部屋を出ていき、病室は急に静かになった。メリテェアがアロマオイルを小さくきれいな細工の皿に垂らして、焚いてくれた。ほのかな香りが、心なしか気持ちを落ち着かせてくれるような気がする。
ニアはふっと微笑んで、メリテェアに尋ねた。
「メリテェアさん、いつまでいられるの?」
「わたくしもお仕事があるので、もう少しで行かなくてはなりませんわ。でも、すぐに他のどなたかがここに来るでしょう。みなさん、ニアさんに会いたがっていますから」
「そうか。嬉しいな、仲間がいるって。誰かがそばにいてくれるって、本当に幸せだ」
中央に戻ってきたばかりの頃の、心細さが嘘のようだ。今はとても賑やかで、温かな日々を送っている。大切なものが、随分と増えた。増やしてしまった。
どれも手放したくなくて、取り返したいものまである。ニアは我儘で、欲張りだ。けれどもそんな自分が、今はそれほど嫌いではない。みんなが好いていてくれるからだ。
だからこそ、ビアンカからぶつけられた嫌悪は痛かった。キメラから受けた傷よりも、深くて重かった。その彼女がカスケードを連れ去ったかもしれないという可能性は、酷くつらいものだった。カスケードが帰ってこないのは、彼女のように、ニアのことを嫌いになったからではないのか。そんな考えが、先ほどから頭にこびりついて離れないのだ。
「……ごめん、メリテェアさん。他のみんなには内緒にして。……年下の君の前で泣くなんて、情けないから」
「何を言っているんですの。わたくしはあなたの上司でしてよ。いくらでも泣いてくださって結構ですわ」
我儘で、欲張りで、意地っ張りで。そんな自分に向けられる好意がどれだけ幸せなものか、それを失ってしまうことがどんなに容易く恐ろしいことであるか、ニアは知っている。嬉しくて、怖い。幸福とは、そういうものだ。そのバランスをうまく保っていくことが、今のニアには難しい。あちらこちらに傾いて、たくさんのものをこぼしてしまいそうになる。
本当はこんな涙だって、こぼしたくはなかった。もっと強がっていたかった。だのに、もうそれすらもできない。一度決壊すると、もう止められない。
昔、とても怖い思いをしたときに手を握ってくれた親友は、そばにいない。でも、彼を捜すために集まってくれたたくさんの仲間たちが、見えない手でしっかりと支えてくれる。何が正しい道だったのか、あまりに幸福でわからなくなる。わからないから、怖くて、泣く。
「僕は、……これで、良かったのかな」
「良かったと思うことができれば、良いことなんじゃありませんの?」
「生きてて良かったなとは、思ったんです。ついさっき」
「そうですわね。わたくしたちも、同じ気持ちですわ。ずっと前から、これからも」
優しい香りが、病室に広がっていく。それを思い切り吸い込むように、ニアは深呼吸をした。落ちるしずくは、そのままにして。

翌日、アルベルトとブラックが病室を訪れた。アルベルトは、手に小さな保冷箱を持っていた。どうやらサクラから情報を仕入れたらしい。
「アイスクリームがお好きだと聞きまして。ブラックと並びました」
「と、じゃねーだろ。オレが並んだんだろうが」
「わあ! ここのアイス、久しぶりだなあ! 今年の夏は仕事仕事で食べられなかったし、ずっと恋しかったんだよ」
八年程前だっただろうか。街に新しいアイスクリーム店ができて、親友と一緒にそこのアイスクリームを食べたことがあった。以来、ニアの好物はその店のアイスクリームになった。アルベルトたちの持ってきたそれは、まさしくそのアイスクリームだった。
「そうそう、この味! 五年前の春に食べたきりだったから、すごく懐かしい。中央に帰ったら絶対食べようって思ってたのに、今の今まで忘れてた」
「本当に美味しそうに食べますね。大佐のそんな顔、初めて見ましたよ」
そう言って微笑むアルベルトの表情も、ニアにとってはレアものだ。なにしろ似た者同士なものだから、お互い真面目な顔ばかり見ていて、こんなに和やかな雰囲気になることすら珍しい。二人が衝突しないことで、ブラックも心なしか安心しているように見える。
「でも、冬が近いのに並ぶんだね。まだ人気あるんだ、あの店」
「レジーナのグルメガイドにはいつも掲載されている店だって、マクラミーさんが言っていました。僕もブラックも今年来たばかりなので、知りませんでしたけれど」
そういえばそうだった。彼らもニアと同じく、今年地方からやってきたのだ。それなのに、今や完全に中央の空気に溶け込んでいる。東方諸国連続殺人事件の後は、特にそうだ。憑き物が落ちた二人は、どこにでもいるごく普通の軍人になった。
「……そうだ、ずっと二人には謝らなきゃいけないなって思ってたんだ。ラインザーを殺させないようにするって言ったのに、結局それができなかった。ごめんね」
アイスクリームを食べ終わって、ふと思い出した。彼らをあの事件に関わらせると決めたとき、そう誓ったのに、できなかった。それをずっと謝りたかったのに、ずっとその機会を逃していたのだった。
突然の謝罪に、アルベルトとブラックはきょとんとしていた。けれども二人ともみるみるうちに眉を寄せると、ニアに詰め寄った。
「違うでしょう、大佐。人に物をもらったときは何て言うんですか? ものを食べ終わったときの挨拶は? 子供でもそれくらいわかりますよ」
「そんなこと言われるために見舞いに来てんじゃねーんだよ。もう二度と買って来ねーぞ」
「わ、ごめん! そうだね、違うよね! ……ありがとう。それと、ごちそうさま」
ニアがやっとその言葉を口にすると、二人は満足そうに頷いた。そのタイミングがぴったりで、やはりこの二人は兄弟なんだな、とニアは思った。
「……ところで大佐、目の調子はいかがですか? アイスクリームの箱はわかったようですが」
「あ、うん。どうしてかな、これはすぐにそうだってわかったんだ」
「好物だからじゃねーの?」
「だったら、みんなの顔だってもっとはっきり見えてもいいと思うんだ。現に二人の顔も、あんまり見えてない」
「面倒な症状ですね」
アイスクリームの箱は比較的すぐに判別がついた。ずっと箱のデザインが変わっていなかったことも幸いしてか、記憶で補正がかかったのかもしれない。このアイスクリーム店は、親友との最も楽しい思い出の一つだ。だからはっきりと憶えている。
五年前にサクラが初めて自分を診断したときの通り、目の異常は精神的なものに起因するのだろう。だからものによって、見え方が違うのかもしれない。
「症状といえば、バカイから伝言預かってきてる。新しい薬作るから、苦いのが平気かどうか確認したいってよ。自分で聞きに来いっての」
「君たちなんだかんだ言って仲良さそうだよね。苦いのは平気だよ。徹夜必至のときはどろどろの苦いコーヒーで乗り切ってるし」
どうやら新しい薬は、サクラの協力のもとで、カイが作っているらしい。サクラに毎日飲むようにと言われた薬も、おそらくはカイが調合してくれたものだろう。彼のような技能持ちがいると、本当に助かる。
「では、思いっきり苦いのでも平気そうだって伝えますね」
「アルベルト、僕は平気だっていうだけで好きだとは言ってないからね。薬は飲みやすいに越したことはないんだから」
その新薬がよく効いてくれるものであることを切に願う。早く復帰したいという気持ちは変わっていない。焦りもあるが、もとの輪の中に戻りたいという思いも強いのだ。また事務室で大騒ぎしながらデスクワークをこなして、第三休憩室で楽しい昼休みを過ごしたい。練兵場で大剣の訓練をして、体力を取り戻したい。ベッドの中は退屈で、動き回りたくて仕方なかった。
「あーあ、働きたいなあ」
「働きすぎのつけがまわってこうなってるんですよ」
「何もしてないと逆に荒むよ。メリテェアさんがアロマオイル焚いてくれなかったら、つらかっただろうな」
「そういえばなんか匂うと思った。これ、アロマオイルの匂いか」
美味しいものを食べて、何気ない会話をして、愚痴を吐いて。こんなやりとりがこの二人とできるようになるなんて、少し前は思っていなかった。彼らとのやりとりが、もしかするとどんな薬よりもよく効く気がして、けれどもそれではサクラやカイに申し訳ない気もして、どうしたらいいのかわからない。この場合は、わからなくても怖くない。ニアもうまく説明はできないが、安心できるわからなさだ。

薬の注文を即受け付けたのか、その日の夕方にはカイとサクラが新薬とやらを持って訪れた。見た目は(ぼやけてはいるが)どこにでもありそうな丸薬だ。だが。
「水で一気に流し込んだ方がいいと思います」
「……カイ、一応聞いていいかな。これ、原料は?」
「先に聞いたら飲みにくくなりませんか? ええとですね、枝タバコって知ってます? すごくまずい木の枝を乾燥させたもので、それに直接火をつけて煙草のように吸う場合もあれば、粉にして鎮静剤などの材料として使うこともあります。今回は後者のパターンですね」
「つまりまずいんだね。アルベルトめ、あれ本当に言ったんじゃないだろうな……」
説明を受けて、少しだけ覚悟をする。それから一気に丸薬を口に放り込み、水を飲んだ。それでもこの薬は、十分にまずいものだった。
「……きつい。これ、枝を直接吸う人って本当にいるの?」
「いますよ。ディアさんなんかは経験者で、でもよほどのことがない限りはそんなまずいものごめんだって言ってました」
「それを使ったんだね。ありがとう、まずかった」
だが効果のほどはたしかなようで、そう経たないうちに気分が落ち着いてきた。ほんの少しだが、視界のぼやけも和らいだようだ。カイとサクラの顔が並んでいるのが判別できる。
「効くことは効くみたい」
「良かった。じゃあ、これでいきましょうか」
「そうですね」
「うう、これからまずいのに耐え続けなくちゃならないのか……」
「少しは飲みやすくなるようにします。今こそ、俺が師匠から受け継いだ技が役に立つときですからね」
こうして薬を作るのも、素材の組み合わせやバランスなどをよく考えなければならないはずだ。それだけのことを、カイはこの数日でやろうというのだ。サクラと相談しながら、ニアにとって一番いい薬を作ってくれようとしている。
「これ作るのにどれくらいかかるの? 仕事のほうは大丈夫?」
「グレンさんが、しばらくはこっちに専念していいって。作るのもそんなにかからないんですよ。効率のいい作り方も覚えましたし、乾燥方法とかも工夫してます」
「カイさんの技術には恐れ入ったわ。師匠も本人の腕も良いのね」
カイは自分よりも、師匠を褒められたときのほうが嬉しそうだった。そんなふうに誇れる人を、彼も喪ってしまった。けれどもそれがなければ、今ここにいることもないかもしれないという。たとえ軍に入っていたとしても、現在のように過ごしてはいないかもしれないと。
痛みを乗り越えた先にあったのが、彼の現在なのだ。ニアがここにいることと同じように。
「それから眼鏡だけど、明後日には第一便が届く予定になってるわ」
「思ったより早いね」
「誰かさんが動きたくてうずうずしてるようだから」
こんなふうに自分を思ってくれる味方ができたのも、それまでに積み重ねてきた過去があるからだ。それが、どんなにつらく、苦しくても。

次の日の午前中は、リアとラディア、クレインの女の子三人組が来てくれた。私服であるところを見ると、今日は休みなのだろう。外は寒いのか、少し厚着をしているようだった。
「せっかくのお休みなのに、来てくれてありがとう」
「お休みだから来たんですよ。時間がたっぷりあるので、思う存分遊べます」
そう言ってリアが鞄から取り出したのは、櫛にヘアゴム。そしてたくさんの種類の髪飾りだった。道理で鞄が大きいと思った、などと暢気なことを考えながら、ニアは問う。
「……それ、どうするの?」
「もちろん、ニアさんの髪をいじらせてもらおうと思いまして」
リアの顔はわくわくしている。彼女は人の髪をいじるのが好きなのだ。女の子はもちろんのこと、男性陣の髪も扱いたがる。腕は確かなので、散髪を彼女に任せる者も多い。
スパイ捜査の際にアーレイドが長かった髪を切ってしまうことになったので、以来、リアは十分な長さのあるニアの髪をいじりたくてたまらないらしかった。髪を下ろしているニアを見て、さらにその思いが強くなったようだ。
「私もそれを見に来たんです。リアさんがどんなふうにニアさんをいじってくれるのか、楽しみで!」
「私もです。リアさんとラディアさんに誘われて、これは見なくてはと思って」
「……お好きにどうぞ」
ニアがそう言ってしまったら、あとはもう彼女らのなすがままだ。髪を梳かして、結って、何やら飾りをつけられている。鏡で確認してもぼやけて見えないので、いったい何がどうなっているのかわからない。
ただ、リアたちはとても楽しそうだった。軍人などしているとは思えない、普通の女の子たちがそこにいた。
「リアさん……っ、それは、ちょっと……!」
「ツインテール可愛いですー! でもすっごく面白いです!」
「もうちょっと凝ってみてもいいですか? おだんごとかもしてみたいな」
必死で笑いを堪えるクレインと、素直に感想を口にするラディア。そして、優しい手つきでどうやらとんでもない作品を創り出しているらしいリア。司令部ではなかなかない光景だ。そうしょっちゅうあっても困るが。
「今は病院の人が洗ってくれてるんですよね? シャンプーが合ってないのかな、ちょっと傷んでるかも」
「そう? 自分ではわからないからな。結構やられてる?」
「うーん……それほどでもないんですけれど、私的にはちょっと残念かな? こんなにきれいなんだから、良い状態を保ってあげたいです」
「きれいって。リアちゃんたちほどじゃないよ」
こうしていると、第三休憩室での時間を思い出す。騒がしくて、温かい、あの時間。あの中に親友がいたらもっと楽しいだろうと、何度も思った。みんなの好みに合わせて、丁寧に茶を淹れるのが好きだった。親友にも飲んでもらいたいと思った。
「今、休憩中ってどうしてるの?」
「いつもとあんまり変わらないです。お茶を淹れるのがアクトさんになったくらいで。……でも、みんなニアさんの話ばっかり。あとどれくらいで戻ってこられるかな、とか、お見舞いに何を持って行こうか、とか」
「昨日、リーガル少佐たちがアイスクリーム持ってきませんでした? あれも、そんな話の中で決まったんです」
ニアがいつも考えていたことと同じようなことを、彼女らも思ってくれているのかもしれない。ニアがいたら、ということを、よく話しあってくれているようだ。そこにいなくても、存在を認められているというのは、とても嬉しいことだった。
「あとは、捜査の話ね。またニアさんが倒れていた村の周辺や、屋敷跡らしい残骸を詳しく調べているの。メリテェアとクリスさんが主導になって、交代で見に行っているわ。近いうちに結果が報告できそう」
「みんな頑張ってくれてるんだね」
「そんな中でお休み貰うのはどうかなって思ったんですけど、私たちが倒れちゃったら捜査を進められないので。今日は思いっきり遊んじゃうことにしたんです」
「僕で、ね」
ニアの髪型はツインテールやおだんご、サイドテールに三つ編みなどの過程を経て、最終的にはいつもの結い方に落ち着いた。頭の上のほうで一つにまとめた、簡単なものだ。
「うん、いつものが一番ね」
「ちゃんと結ったの何日ぶりかな。この頭にすると、さあ頑張ろうって気になるんだ。親友がよくこうやってまとめてたのを真似てるんだよ」
「そうだったんですかー。それがニアさんの気合いだったんですね」
そう、毎朝の儀式のようなものだった。今日も一日頑張って、親友に近づこうという気持ちになるための髪型だった。そこに今、やっと戻ってきた。
「リアちゃん、このままにしておいてくれるかな。今日はこれで過ごすよ」
「はい。じゃあ櫛とヘアゴムも置いていきますね。見えなくても、感覚でできるでしょうから」
また今日から、それを始めてみよう。一日一日を、彼に近づくための日にする。それがどんな結果になるとしても。
そういうわけで午後に来たクライスとフォークには、「いつものニア」を見せることとなった。フォークが持ってきてくれたブルーベリージャムのパイを食べながら、現在の捜査の進展状況を聞いた。
「オレも裏関係のほうから探ってるけど、まだビアンカって人に辿り着けない。裏社会のルールってやつのせいで、誰と誰が繋がりを持っていたかはわからないようになってるんだ。アーシャルコーポレーションの社員だった人や、これまでに捕まえた奴らからも話を聞いてるけれど、有用な情報はないかな」
「フォークの前で堂々と話せるんだから、特別なことは今のところないんだろうね。……裏といえば、『黒髪黒目の男』は? 何かわかった?」
「身元ははっきりしないけど、裏社会のなんでも屋みたいなもんなんじゃないかって。ただ、それができるくらいだから相当高い能力を持っているのは間違いないって、みんな言う。カスケードさんって器用だった?」
「そうだね、わりと器用だったかな。考えるのは苦手だっていってたけど、それは計算とか活字を読むとかそういうのが苦手だって意味で、彼はよく面白い考えを聞かせてくれた」
思えば、哲学的なことも話していた気がする。軍は必要か、とか、人を助けることの限界はどこにあるか、とか。ちょっとしたことから、一晩中議論をしていたこともある。「考えること」は、彼はけっして不得手ではなかった。
「裏社会の中にも思想による派閥みたいなものがあってさ。もしかしたら、考え方が近いところに所属してるかもしれない」
クライスのいうことが合っていれば、彼がどのように裏に関わっているのかを知ることができるかもしれない。ニアは過去の話をできるかぎり思い出して、書きつけてみることにした。手元に常にペンとメモを置くようにし、親友とのやりとりを憶えているだけ書き込んだ。まともな字が書けているかはわからない。あのまずい薬の力も借りながら、ほぼ感覚だけでそれを行なった。

新しい眼鏡は予定通りに届いた。ただ、これは調子を確認するためのサンプルであり、これから実際に使えるようにするには、まだ調整と検査が必要だった。
「……うん、薬と眼鏡で、だいぶ見えるようになった。これ、このまま使えない?」
「まだよ。これから検査して、どの程度矯正できたか確認するから。昨夜はよく眠ったわね?」
「ばっちり」
髪を結いあげ、ずっと書き物をしていたら、自然と良い睡眠がとれた。目が見えなくても仕事と決めたことをするだけで、ニアの調子は良くなっていた。
検査中の状態も、前回よりかなり良くなっていた。いや、前回が酷すぎたのだ。ようやく調子を取り戻せてきたという感じがする。
検査結果が出るまで、訪ねてきていたアクト、アーレイド、ハルと話をする。かけているのはサンプルの眼鏡ではあるが、声を聴かずともすぐに病室に入ってきた人物が誰だかわかるようになっていた。
「調子戻ってきたんだ! ニアさん、もうすぐ戻ってこられる?」
ハルが喜んでニアに飛びつこうとすると、それをアーレイドが小突いて言う。
「こら、あんまり焦らせるな。休んでていいですからね。オレたちでなんとかやってますから」
「うん、聞いてるよ。みんながいろいろと頑張ってくれていること。……だけどね、僕はやっぱり、働いているほうが性に合ってるんだ。何かしてないと落ち着かないんだよ。昔のことをいろいろ書いてたら、改めてそう思った」
メモを見直すと、罫線を無視してひたすらに書き連ねられた文字が並んでいた。憶えていることを思いつく端から書いていったので、内容もめちゃくちゃだ。だが、これはたしかにニアの記憶の中にある親友のことだった。彼の言葉、彼の仕草、好きなもの、苦手なもの。彼と過ごした時間が、このメモに詰め込まれていた。
「書いてて、やっぱり会いたいと思った。彼の話を聞かなくちゃ、戻ってこない理由がわからないよ。……彼が人を傷つけるわけが、僕には思い当たらないんだ」
そのためには、やはり戻らなくてはならない。それも、最高のコンディションで。自分の目でものを見られるように、眼鏡を通さず彼と目を合わせられるように。
「ニアさん。おれたちが会ったあの人がカスケードさんだったとして、ニアさんの声を聞いて『誰だ』って言ったのはどうしてだろうね。あの人は、ニアさんの声を知っているようだった。声を聞いて喜んでいた。それなのに相手が誰なのかわからないって、どういう状況なんだろう?」
アクトはずっと疑問に思っていたことを口にする。それは、ニアが「黒髪黒目の男」がカスケードであるかどうかを疑う最後の鍵だった。彼がなぜニアの声を知っているのにわからなかったのか。その理由として、考えられるものがあるとすれば。
「彼にビアンカちゃんが関わっているのなら、何か……そう、たとえばノーザリア危機で利用されたようなマインドコントロールが施されているとかは考えられないかな。彼がそうして、裏に操られているんじゃないか?」
「操られている……か。その線だと、黒幕はビアンカって人?」
「いや、もっと大きな組織があるんじゃないかな。クライスは『黒髪黒目の男』は裏社会の何でも屋みたいな組織にいるんじゃないかって言っていた。彼を縛っているものがあるなら、それはビアンカちゃん一人じゃないと思う。……そもそも、『黒髪黒目の男』の活動がビアンカちゃんにどう有利に働いていたのかわからないからね」
ビアンカとカスケード。「黒髪黒目の男」と裏社会の組織。「黒髪黒目の男」はカスケードである可能性。これらは自動的に、ビアンカが裏社会に属していることを導き出す。それはクリスが提示した可能性が正しいことを示す。
方向は合っている。目指す場所にいったい何があるのか、それが少しでもわかれば、しるべになるのに。
「ビアンカちゃんは絶対にカスケードと関わっているはずなんだ。彼女は僕に、もう二度と僕とカスケードを一緒になんかしないって言った。カスケードの現状を、必ず彼女は知っている」
書き出して思い出したことだ。朦朧とするニアに、彼女ははっきりそう告げた。
「二人の行方を調べるなら、やっぱり裏社会の組織からのほうが近いかもしれない」
「わかった。おれもクライスのほうを手伝ってみるよ。ビアンカからの調査はクリスとディア、グレンが主にやってる。明日には報告があがってくるはず」
「ボクもニアさんを助けるよ! みんながボクを助けてくれたみたいに!」
「オレとハルは裏社会のほうを調べていました。ソフィア・ライアーの件もあったので、そこからのほうが当たりやすいかと思って」
「そうだね。例のアクセス記録の履歴が残ってるはずだから、詳しいことはクレインちゃんに訊いてみるといいよ」
みんな自分にできることをしている。だからニアは、自分にできることを、思い出すということをしている。それが親友に辿り着く手掛かりになると信じて。
そうして話しているうちに、サクラが検査の簡易的な結果を出してくれた。
「詳細はもう少しかかるけど、やっぱり回復はしてるわね。眼鏡はもう少し調整が必要かも。第二便でもう一つのサンプルが来るはずだから、そっちも試してみましょう。薬は効いているようだから、同じものをカイさんに作ってもらうわ」
「このまま順調に行くと、どの程度回復するかな」
「どうでしょうね。目指すは裸眼での活動だけど、しばらくは無理しないほうがいいでしょうし。医者としてこの言葉は使うべきじゃないのかもしれないけれど、ニアさん次第ってところ」
「それで十分。……やっぱり僕のすべきことは、これで正しいみたいだ」
動くことこそ、自分の回復方法だ。ニアはそう確信していた。
明日には詳細な検査結果を出し、再び眼鏡を調整に出すという。ニアはそれを待ち、病室を出ていくアクトたちを見送った。
彼女たちが来たのは、それとほぼ入れ違いだった。
「ニア大佐。今、大丈夫?」
「シェリアちゃん。……と、シィレーネちゃんも」
シェリアと、その後ろに隠れるように立つシィレーネ。眼鏡は返してしまったので、視界ははっきりしないが、そのシルエットと声で判別できる。何かあったのか、真剣な声色だ。
「どうしたの? 緊急事態?」
「シィが、話したいって。……この子、伍長だからできる仕事がみんなより少ないって、落ち込んでて」
「……」
表情は見えないが、たぶん、シェリアが言った通りの顔をしているのだろう。班で一番階級の低いシィレーネは、見ることのできる資料も、知ることのできる情報も少ない。そのことが彼女を自己嫌悪に陥らせているのだろう。
ニアはふわりと微笑みかけて、「おいで」と言った。
「話そう、シィレーネちゃん」
「……はい」
シィレーネはそっとシェリアから離れ、ニアのベッドのそばにあったスツールに座った。そのとき、彼女の俯いた表情が見えた。やけに、はっきりと。
「……あ、見える」
呟いたとき、シィレーネはぱっと顔をあげた。驚いたような、嬉しそうな、そんな表情がニアの目に見える。
「見える? 本当に? ニア大佐、治ったんですか?!」
「あ、ええと……どうしてだろう。シィレーネちゃんだけ、ちゃんと見えるんだ」
不思議な現象に、ニアは首をかしげる。だが、今はそれよりも目の前の彼女だ。せっかく見えるのだから、ちゃんと目を合わせて話したい。顔も上げてくれたことだし、このまま話そうと思った。
「ねえ、シィレーネちゃん。仕事が少ないのが嫌なの?」
尋ねると、シィレーネはまた俯いてしまった。初めて会ったときの人見知りだった彼女よりも、もう少しだけ暗い表情をしている。
「……仕事が少ないのが、嫌なんじゃないんです。みんなニア大佐のために、たくさんのことができるのに、私は全然だめで……。一つしか階級が違わないのに、ハル軍曹だってあんなに頑張ってる。シェリーさんはもちろん准尉だから、毎日いろいろな資料を見て、アクト中佐やクリス中佐に報告してます。それに比べて私は……」
シィレーネがきゅっと膝に置いた手を握る。ニアは少し体を前に倒し、その手に自分の手を重ねた。シィレーネが目を丸くして、その手を見る。
「シィレーネちゃんは、とても大事な仕事をしてくれたよ」
「大事? ……そんなこと、してないです」
「したよ。僕に、カスケードがちゃんと生きて、近くにいるってことを教えてくれた」
全く手掛かりのなかったところへ、シィレーネが情報をくれた。だからこそ、ニアはここまで進んでこられたのだ。親友が生きているという確証が持てたから、現在持っているたくさんの手掛かりに辿り着くことができた。
ニアはそのことを、シィレーネにとても感謝していた。それを伝えたい。見えるうちに、彼女の目を見て。
「今みんながこうして動けているのはね、君がカスケードのことを教えてくれたからだよ。カスケードは君のことを助けてくれたんでしょう。僕はそれを聞いて、彼は変わらずいてくれたんだって思えた。たくさんの情報が集まっている今でも、君のくれた彼の姿が支えになっているんだ。彼がどんなに恐ろしいことに関わっていても、きっとその本質は変わっていないはずだって、信じさせてくれている。君の果たした役割はとても大きいんだ」
「でも、あれは偶然で」
「僕にそのことを話してくれたのは、君の意思でしょう」
顔をあげた彼女の目は、初めて見たときと同じ、不思議な赤色をしていた。それが涙に揺れて、しずくをこぼす。
「私、……役に立ててましたか?」
「今だって大役をつとめてるんだよ。僕はとても寂しがり屋だから、誰かがここにいてくれるだけでとても嬉しいんだ」
「……私と、同じですね」
泣きながら、彼女は笑った。ニアと笑顔で向き合ってくれた。
「同じだよ。……僕と一緒に、いてくれる? カスケードがここに帰ってくるまで。そして彼がここに帰ってきてからは、彼と一緒にいてほしい」
「はい。……そうします。一緒にいます。私でよければ、いつまでも」
その様子を見ていたシェリアも、きっと笑って、こう言った。
「いるに決まってるよね。だって、ここはシィの居場所なんだから」
「シェリーさんもでしょう?」
「当然」
ニアはこれまで、カスケードの居場所を作るために仲間を集めてきた。けれどもそれが同時に、他の誰かにとっても大切な居場所になってくれていた。これまでやってきたことは、やはり間違っていなかった。彼らに出会って、班になって、本当に良かった。シィレーネのおかげで、それを実感できた。
彼女もニアに救われたかもしれない。けれども、やっぱりニアが、彼女らに救われていた。

翌日のニアの目は、眼鏡がなくても薬だけで、誰が来たか判別できるほどに回復していた。
髪を結いあげ、体を起こし、彼らを迎えた。再調査の結果を報告してくれる、彼らを。
「それでは、現地再調査結果をご報告いたします」
クリスが書類を手にし、その開始を告げた。
「うん、お願い」
今度はニアも同じものを持っている。自分で読むことは難しいが、できなくはない。見えるようになったらすぐに読めるよう、コピーをしてきてもらった。
「まず、現地で採取した動物の毛の分析結果から。グレン君」
「はい。これはどうやらネコ科の大型動物、おそらくはライオンのものという結果が出ました。ニアさんの証言から、キメラは神話動物のグリフィン型であることが判っているので、その胴及び足の体毛かと思われます。付着していた血液は地面から採取した動物の血液と同じものだったので、キメラ本体のもので間違いありません」
体毛も血液も、サンプルをとってある。念のため、科学部に一組、こちらで一組とってある。万が一外部から手を加えられても、すぐに判るようにだ。キメラが持ち去られたのなら、今後再び現れることも考えられる。サンプルはそのときの照合材料になるだろう。
「次に周辺の聞き込みですが、こちらは成果が得られませんでした。近隣の住民は全てシロ、目撃証言や姿を消した住民もいませんでした。……ただし」
クリスがディアへ視線を送る。これはどうやら、ディアの担当だったらしい。いや、偶然その担当になったのだという。
「ニア、お前が見つかった夜に、もう一件倉庫の爆破事件が起きてたんだよ。保管していたものに引火したんだろうっていうことだったんだが、その保管していたブツが何だったのかはっきりしてねぇ。しかもその倉庫ってのが、あの森からそんなに離れていない場所にある。何かあるなって思って、そっちも調べた」
「……それに気づいたの、他班まとめてた将官ですけどね」
グレンがぼそりと呟く。どうやら他班や将官たちも、この件には協力してくれているらしい。軍の者が大怪我をして引き取られてきたという事態そのものが大問題なのだ、ジューンリー班だけで片付けられるものではない。
「あー、まあ、そういうわけだ。他のとこやフリーの奴らにも手伝わせて、その倉庫跡と、例の屋敷跡を調べなおした。そうしたら、人体の一部らしきものが両方から見つかった」
「人体?! ……まさか、屋敷跡のってビアンカちゃんじゃ」
「違う。これもサンプル採って科学部で調べた。性別は男だ。軍にすでに同じサンプルがあったから、すぐにわかった」
「過去に犯罪歴があったの?」
「ああ、直近の事件だ。東方諸国連続殺人事件の犯人、ラインザー・ヘルゲインのデータとほぼ一致した」
ニアは言葉が出なかった。そんなはずはない。ラインザー・ヘルゲインはすでに死んでいる。アルベルトとブラックによって、彼は倒されたはずだ。
「この結果が出たのが昨日の晩。アルベルトたちにも確認してもらった。たしかにあの事件で奴は死んだ。首を落とされて生きている奴なんかいねぇ。しかもこの人体の一部ってのが、屋敷跡と倉庫跡の両方から見つかっている。全く同じものだった」
「……そんなのって、」
「あり得るんですよ、ニアさん。アーシャルコーポレーション事件で判明し、スパイ事件でも利用された、あの技術を使えばね」
その二つの事件に共通するもの。それは、クローンだ。九年前にレスター・マクラミーが自らの身代わりとして利用し、スパイ事件ではアーサー・ロジットとハルのクローンが使われた。ラインザーのクローンも、すでに裏の者によって作られていたとしたら。
「建物とともに爆破されたということは、捨て駒として大量生産されている可能性がありますね。それを言ったら、アルベルトさんとブラック君は相当怒ってらっしゃるようでした」
「当たり前だよ。……つまり、ラインザーのクローンが倉庫に保管されていて、ビアンカちゃんの逃走に利用されたかもしれないんだね」
「ええ、これで彼女が裏と関わりがあることが明確になりました。ラインザーのクローンがいつから製造され始めたものなのかはわかりません。裏の技術は未知数ですから」
死者が都合のいい駒として利用されている可能性。どこまでも裏は残酷だ。ラインザーのクローンは全ての痕跡を消して、屋敷及び倉庫と共に消される運命にあった。敵対していた人物だったとはいえ、悲しすぎる。ニアは布団をぎゅっと握りしめた。
「……調査、お疲れ様。これからは裏に焦点を絞って調査をしていけば、ビアンカちゃんに、そしてカスケードに近づくはずだ」
「この報告の間に、アルベルトとブラックがイストラと連絡を取ってるはずだぜ。オファーニから証言を取り直して、ラインザーのクローンを作る手伝いをしたかどうか確認するらしい」
ディアはそれから、一呼吸おいて、言葉を継いだ。
「俺も、ボトマージュに会いに行った。メリテェアから許可をもらってな」
「会ったの?」
「一応『黒髪黒目の男』と接触してるからな。だが、奴はもう奴じゃなかった。刑務所の職員によると、『黒髪黒目の男』と会って以来、廃人状態らしいな」
「……うん、僕はそれを知ってた。黙っててごめん」
「その職員に聞いたぜ。あの人、ハルのときも世話んなったらしいな。でもってシィレーネの叔父だとか。いつの間にあんなにでっかい後ろ盾作ったんだ、お前? ……で、そのときにボトマージュが脱獄に成功した可能性ってのも教えてもらった。クローンの存在も明らかになったしな、かなり信憑性があると俺は思う」
ボトマージュとそのクローンが入れ替わったかもしれないという仮定と、「黒髪黒目の男」がカスケードであるというほぼ間違いのない推理。
カスケードはやはり、裏社会の中枢組織の一員であり、これまでかなり大胆な行動をとってきたことになる。その彼を、軍に戻すことはほぼ不可能だ。これだけのことをした人間が、その罪を償わずに生きられるはずがない。
ニアはその事実を受け止めなければならない。仲間たちとともに彼を迎えるという当初の目的は、もう果たせなくなってしまう。
しかし、それでも彼を迎えに行こうという決心が揺らぐことはない。迎えに行かなければならない。この手で、ニア自身と彼の全てに決着をつけなければならないのだ。
「……この目で軍人を続けていくのも、難しいし。本当にこれを最後の仕事にするのもいいかもね」
「ニア、お前」
「そのつもりで行くってことだよ。全力を尽くす。そして、再び彼に会い、話をするんだ。このメモに書き留めたこと以上のことを、たくさん……」
手元に置いておいたメモを、そっと撫でる。どんなことになったって、きっと結んだ絆は解けない。だから安心して、前へ進める。たとえ、この先で道を分かつことになったとしても。別れた親友とはもう一度巡り会えそうなのだから、きっと大丈夫だ。
「目も回復してきたし。大丈夫、僕にはみんながいてくれる。だから、きっと良い結末を迎えられると思うんだ」
ニアはいつもの笑顔で、確信を告げた。
仲間たちはそれに、たしかに頷いてくれた。


『ニア・ジューンリーは生きているよ。現在、軍病院で治療中だ』
ビアンカの「ニアを倒した」という報告に、スピーカーの声はそう返した。
そんなはずはない。あの傷で、あの出血量で、放置してきた。生きているはずがない。ビアンカは混乱する頭で、言葉を継ごうとした。しかし。
『君がとどめをさすのを怠ったから、こうなった。けじめはきちんとつけなくては』
「……すみません。あたしがもう一度殺してきます。キメラもじき回復します。だから」
『いや、もう君には無理だ。一人に狙いを絞るより、軍全体を一気に潰してしまったほうが手っ取り早い。……たしかに、ニア・ジューンリーは厄介な人物ではあるが、彼にはさすがに敵わないだろう』
この話の流れで「彼」といえば、一人しかいない。その力で、軍の精鋭たちを倒したという「彼」。しかし、それではビアンカには都合が悪いのだ。
「待ってください。彼を……カスケードをニアに会わせるのは危険です。彼が軍人時代を思い出してしまって、こちらの敵になる可能性も」
『そうならないための“教育”だったんだよ。あれだけ軍の醜さ、危険さを叩き込んだんだ。それで軍側につくとは思えないがね』
スピーカーの声がせせら笑う。だが、ビアンカには、認めたくないがわかっていた。もしもカスケードがニアのことを思い出せば、彼は必ずニアの味方をする。軍がどうこうではない。彼はいつだって、ニアのそばにいた。
だから、会わせたくない。だから、殺したはずだった。それなのに失敗した。完全にビアンカのミスだ。
「……もう一度だけ、あたしにチャンスを。軍を壊滅させたいというなら、あたしがやってきます。あたしのキメラで!」
スピーカーはしばらく無音だった。ビアンカの心臓の音だけが、うるさく響いているようだった。やがて、大きな溜息が聞こえた。
『君に与えるチャンスはあと一度きりだ。もう二度と失敗は許されない。使えない道具は処分しなければ、維持するための労力がもったいない』
ビアンカの元拠点の処理をしたクローンたちのことが頭をよぎる。彼らはその役目を終えた後、速やかに処分された。家と共に爆破させたものもあれば、こちらに機材などを運んだ後に、アリでも潰すかのようにあっけなく殺されていったものたちもある。
ビアンカは息を呑み、しかし、与えられた時間に感謝した。そうせざるを得なかった。
「……ありがとうございます。必ず、軍を潰します」
歪んだ笑みで、彼女は答えた。




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posted by 外都ユウマ at 22:57| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年01月29日

Reverse508 第十六話

危険薬物取引組織の大量検挙から、数日後。ニアのもとに一件の報告が届いた。イストラ国軍の大尉、ナナツ・ココノエからのものだった。彼女は東方諸国連続殺人事件の関係者であるオファーニ・ルークから証言を得て、それをまとめてくれたのだった。
それによると、オファーニはたしかにエルニーニャ軍に存在していたスパイと連絡を取っていたという。ただ、やり取りをする相手が誰であるのかは、互いにわからないようにしていたらしい。それが裏社会のルールなのだという。
つまり、先日のハルへの冤罪を仕掛けた首謀者であり、すでに死亡したソフィア・ライアーが、オファーニと繋がっていたかどうかは不明瞭のままだった。軍の中に、まだスパイが潜んでいるという可能性も否めないというわけだ。
それをメリテェアへ報告すると、彼女は頷きながら言った。
「引き続き、軍内の人間の行動には注意したほうが良さそうですわね。この件、閣下には報告済みですの?」
「これからです。……でも、あんまり閣下に会いたくないんですよね」
ニアが弱々しく笑って言うと、メリテェアは深く溜息をついた。彼女もよくわかっているのだ。ニアが大総統に会えば、必ず「彼」の話になるということは。そもそも「彼」の捜索に携わるために、メリテェアはニアの上に立つことになったのだから。
先日の危険薬物取引組織の大量検挙の際に、アクトの率いる班をたった一人で全滅に追い込もうとした人物がいた。彼が先頃よりいくつかの犯罪に関わっている疑いのある「黒髪黒目の男」であり、その正体がニアのずっと捜し求めていた「彼」である可能性は、すでにジューンリー班の全員に知らされていた。
そのとき、シィレーネが一度「彼」に会っていることも、やっと班員に明かされた。「彼」が軍人を助けたことをまるで良くないことのように言っていた理由も、推測できるようになったからだ。
シィレーネはショックを受けていた。自分を助けてくれた人が上司の親友であり、それなのに敵かもしれないだなんて、と。当然の反応だろう。だがニアの内心はそれ以上の衝撃と混乱に襲われていた。そしてそれを、誰もが感じていた。
「……でも、そうですね。軍の内部にまだ脅威が潜んでいる可能性があるのなら、閣下に報告しないと。いってきますね」
「ニアさん、待ってください。わたくしが報告して参りますので、あなたは……」
メリテェアはいすから立ち上がろうとするニアを止めようと、手を伸ばした。しかし。
「ココノエ大尉は僕に宛てて報告してくれたんです。だから、僕が行かなきゃ」
ニアは眼鏡の奥で微笑んで、その手を避けた。

大総統ダリアウェイドは、東方諸国連続殺人事件と冤罪事件の関係性についての説明に納得したようだった。ソフィア・ライアーが両方に関わっていたのだとすれば、脅威は去ったことになる。だが、彼女以外にもスパイが潜んでいるのだとすれば、軍内は疑心暗鬼に包まれることとなる。
誰が敵で誰が味方か、今のところは全く区別がつかないのだ。ソフィアやクローンであったアーサー・ロジットが、この軍という集団の中にうまくとけこんでいたように。
「裏社会に軍の情報を流すことのできる人物か。まずは情報処理担当や諜報担当から調べてみたほうがいいかもしれんな」
「やはりそこから疑いますか。……そうですね、各班でそれぞれ調査をしてみたほうが」
「いや、班単位で動くと厄介なことになる。君のように自分の班員を無条件で信じる者もいれば、班員を疑うことで人間関係をうまく保てなくなるものもいる。ここは将官にまかせてはくれまいか。将官が怪しいというなら、私が自ら調べよう」
大総統の言うことはもっともだった。たしかに班員同士の関係が悪い方向に変わってしまったり、逆に班員を守ろうとすることで容疑者を隠すことになったりすることは、避けたいところだ。
憎まれ役は上の人間がかおう。大総統は、そこに自分を含めて、そう言っているのだ。
「……わかりました。この件はよろしくお願いいたします。ただ、このことを利用して部下に圧力をかけるようなことだけはやめていただきたいです」
「それはもちろん、私から厳しく言いおくつもりだ。あまり酷い行動をして、こちらが信頼を失ってしまうのも困る」
あくまで軍人を含めた国民の損得を第一に。それが大総統の信条だ。彼ならそれを通してくれるだろうと、ニアは信じている。九カ月の間、話をしていて、そのことは十分に伝わってきていた。
だからこそ、「彼」の話はしたくなかった。大総統が下す判断を恐れていた。しかし、手掛かりがあったのなら言わねばなるまい。いずれは耳に入ることだ。
「……閣下、もう一つお話があります。黒髪黒目の男についてです」
「先の任務に現れたそうだな。精鋭たちを簡単に倒すとは、侮れん男だ」
「その男の正体について、詳細な情報を持っています。……これまで隠していてすみませんでした。しかし、今こそお話したいと思います」
ニアは眼鏡を通して、大総統を見た。驚きと訝しみの入り混じった表情が、よく見える。それを見たくないわけではない。ただ、何も通さないそのままの情報を明かしたくて、ニアは眼鏡を外した。
「彼がマルスダリカの捜査や、アーシャルコーポレーション事件の関係者にも接触していることはご存知の通りです。数回人々の前に姿を現した結果、実は彼の姿が仮のものであることが判明していました。黒い髪は染められたもの、黒い瞳はコンタクトレンズで色を変えたものであることを、僕たちは知ったのです」
大総統は無言で相槌を打った。そして、目で「続けなさい」と言った。心臓が握りつぶされそうな思いで、ニアはその先を口にした。
「……彼は、黒髪黒目なんかではありません。暗青色の髪に、海色の瞳をしています。顔は化粧などで変えているのでしょうし、五年も経てば変わっているのかもしれません。……彼は、僕らが捜し求めていた、カスケード・インフェリアである可能性が高いです」
沈黙が訪れる。ニアは、本当は目を逸らして、すぐにでもここから立ち去りたかった。だが、それはしないと決めたのだ。大総統の判断を聞くまでは、この場所から離れないと。
「……では、わが軍の精鋭たちを襲ったのは、カスケード・インフェリアであると?」
しばしの静寂の後、大総統は無表情で尋ねた。
ニアは肯定したくなかった。今でも信じたくないし、信じなくてもいい要素は残っている。できることなら、それに縋りたい。
「あくまで可能性です。僕にも、彼が軍人を攻撃するとは考えにくいので」
「いや、私はその話で、君が確実に真実に近づいたと思った」
だが、大総統はその「可能性」を受け止めた。思わず目を見開いたニアに、彼は表情を少しも変えることなく続けた。
「彼はインフェリアの人間らしく、素晴らしい体力とたしかな技術を持っていた。彼の仕業だというならば、刑務所職員や軍人たちが倒れるのも仕方のないことだ。この五年で力をさらに伸ばしたとなれば、なおさらだ」
「でも、それが彼だというなら、なぜ人を襲うような真似を?! なぜこれまで軍に戻って来なかったんですか?! 彼は軍人です! エルニーニャ王国軍大尉カスケード・インフェリアなんですよ?!」
「落ち着きなさい、ジューンリー大佐」
思わず大総統に詰め寄ったニアを、大総統は至って静かに制した。勢いで立ち上がったままのニアに、大総統はそのまま言葉を継いだ。
「彼が姿を消した原因が明らかになれば、行動の理由がわかるかもしれん。あるいはその逆もありうる。軍に入隊するにあたって、彼は軍人であった父に反発していた経緯があるからな。突然軍が嫌になることもあるだろう」
突然軍が嫌になるだなんて、そんなことはあり得ない。だって、ニアと彼は約束したのだ。二人で、人を助ける軍人になろうと。そのために二人で歩んでいこうと。だから、彼が、カスケードがニアを置いて消えてしまうということ自体が、本来ならあり得ないことだった。そのはずだったのだ。
「……僕には、そうは思えません」
小さな声で、絞り出すように口にしたニアの言葉に、大総統は先より強い語気で返した。
「ならば捜しなさい。彼に会いなさい。そして、真実を聞きなさい」
それしか方法はないのだと、大総統は言う。ニアにもそれはわかっていた。近くにいるのなら何としてでも会って、彼と話をしなければ。
……もし、あの無線に自分が名乗っていたら、彼と話ができたのだろうか。いや、彼ならこちらの声を聞いて、すぐにニアだとわかったはずだ。あんなやり取りをしなくても、話ができたはずだ。
『お前の名前は?』
あの台詞が引っかかって、彼をカスケードだと思えない。同じ声なのに、違う誰かのような気がする。
真実を掴まなければ。あの日何があって、今に至ることになったのか。

その思いがまるで神にでも届いたかのように、全てが動き出す。

翌日、第三休憩室で茶を淹れていたニアのもとに、一人の将官がやってきた。
「ジューンリー大佐、客人だ」
「僕にですか?」
「ああ、君も知っている人物だよ」
呼びに来た将官は、ニアのことを入隊当時から知っている人物だった。当然、ニアがカスケードと仲が良かったことや、そのほかの交友関係なども知っている。その彼がいう「知っている人物」なら、限られてくる。
――まさか、彼が。
そんな思いが頭をよぎったが、それならもっと騒ぎになっているはずだと思い、打ち消す。ニアは茶器を置き、あとを他の者に任せると、将官の後についていった。
「誰なんです? その、客人って」
ニアが尋ねると、彼はにこやかに言った。
「お前がインフェリアとよく一緒にいたとき、あとをついてまわってた女の子がいただろ。科学部の、赤毛の」
その特徴で、ニアは思い出す。彼女だ。親友に思いを寄せていて、いつも彼のそばにいたがっていた少女がいたのだ。
「お前たち三人で、よく遊んでいただろ?」
「……ええ、まあ」
将官の彼にはそう見えていたのかもしれないが、実際のところは違う。彼女は非常に嫉妬深く、いつもニアを邪険にしていた。親友のいないところで、彼女はニアによくこう言っていた。
「あんたさえいなければ、カスケードはあたしのものになるのに」
嫉妬の言葉を直に受けていたニアは、できることなら彼女にはもう会いたくなかった。彼女は五年前に親友が姿を消した直後に、その後を追うように軍を辞めた。それで関係は終わりになるはずだった。
しかし、彼女は五年前よりもさらに美しくなって、応接室にいた。
「……お待たせしました」
「待っていたわ、ニア。眼鏡なんてかけるようになったのね」
赤い唇が、三日月のように細く笑みを作る。その眼は全く笑っていないのに。ニアは彼女――ビアンカ・ミラジナが、そういうところも含めて苦手だった。
将官が去った後、二人きりになった応接室で改めて向かい合う。ニアは彼女の顔をまともに見られなかったが、彼女がこちらを品定めでもするような視線で見つめていることはよくわかった。
「久しぶりよね。北方にいたんですって?」
「……君こそ、軍を辞めたって聞いたけど」
「趣味の研究に打ち込みたくてね。彼もいなくなっちゃったし。……あんたのせいで」
彼女は相変わらずのようだった。ニアが憎くて仕方がないのだ。好きな人の隣に常に居座り、ついには彼を行方知れずにした、ニアのことが。
「まあ、いいわ。彼のことは許してあげる。今日はあんたに任務の依頼に来たの」
「任務?」
ニアは怪訝な顔をして、ビアンカを見やった。彼女はこちらを蔑むような目で眺めながら、依頼を告げた。
「趣味の研究が、軍に通用するものかどうかを確認してほしいの。ほら、アーシャルコーポレーションの事件があったでしょう? あれで、軍で利用できそうな研究結果が大量に見つかったってきいたから。あたしの研究はどうなのかしらって思って」
たしかに報道によって、アーシャルコーポレーションで行なわれていた研究の一部は公になっていた。それが軍の管理下におかれることになったことも。
だが、それを見て自分の研究を売り込んでくるような人間は初めてだった。
「趣味の研究って、何をしているの?」
「それは見るまで内緒。ねえ、引き受けるわよね? あたしの頼みを断るなんてこと、あんたにはできないはずよね? だってあんたは、あたしのカスケードを」
彼女が全て言い終わる前に、ニアはテーブルを叩いた。彼女は以前から少しも変わっていない。ニアを邪険にするか、利用するかしかしないのだ。
「……行けばいいんだろう。僕が君の言う通りにすれば、それで満足?」
「もちろん。それなりに報酬もあげるつもりよ」
ビアンカはにっこりと笑った。ニアの心臓を握り潰すような笑顔だった。
すぐにでかけるというビアンカに従わなければならず、ニアは急いでこの後の仕事の引継ぎを行なった。大方はクリスとアクトが引き受けてくれたので、本日中に片付けなければならないものはなんとかなりそうだった。
「でも、ニアさん。目の調子悪いんでしょう? 大丈夫なの?」
「ボクも心配ですね。薬はちゃんと持ちましたか?」
「大丈夫。眼鏡もかけてるし、薬も持った。任務地までは依頼人の車で行くから、運転は彼女がしてくれる」
何度「大丈夫」を繰り返しても、部下たちはしつこく尋ねてくる。そんなに心配しなくてもいいのに、と思いながら、ふと手洗い場の鏡を見ると、そこには酷い顔をしたニアが映っていた。
顔面は蒼白で、笑顔を作っていたつもりだったのに、ひきつっていて不自然だ。これでは心配されるのも当然だ。
「……ああ、そっか。僕、思った以上にあの人が苦手なんだ」
親友のことが好きだったビアンカ。そのためにニアを邪魔だといい、親友から引き離そうとしてきたビアンカ。そんな彼女に対して、ニアもまた思っていたのだ。親友をとらないでほしい、と。
結局親友は、いつもニアを優先してくれた。先にニアとの約束があればそちらを必ず守ってくれたし、ビアンカよりもニアの近くにいてくれることが多かった。だから彼女は余計に、ニアのことを嫌っていったのだろう。
その彼女と二人で過ごさなければならない。その不安が、そのまま顔に出ていたのだ。
「……だめだ。これは任務。僕は軍人。公のために働かなくちゃ」
ぱん、と両手で自分の頬を打つ。そして自分が軍人の顔になったことを確かめると、ニアは彼女のもとへ向かった。
「遅いわよ。それじゃ、乗って。助手席は駄目よ、後部座席にお願い。……ていうか、なんで武器持ってるわけ? あたしは研究を見ろって言ったのよ」
横柄な態度をとる彼女に、ニアは軍人の笑顔で答える。
「自分の得物は常に手元に置いておくのが、実働担当の基本ですから。もしものときのためにということで、お許しください」
彼女はただの依頼人だ。そう扱えばいい。そう割り切ったニアを、ビアンカは面白くなさそうに睨むと、車に乗り込んだ。

車が進んでいくにつれて、ニアは目がだんだんとぼやけていくような気がしていた。その道に既視感がある。いや、確実にこの道を知っている。胸を締め付けられるような思いで辿り着いたその場所には、いつか見た光景が広がっていた。
広い畑と、ぽつぽつと並ぶ小さな家。どこにでもありそうな、ごく普通の村だ。
しかしここは五年前に、怪物の脅威にあっていた。夜な夜な現れる巨大な怪物に、畑を荒らされ、人もいつ襲われてしまうかわからない。村の人々はそんな恐怖に怯えて暮らしていたのだ。
いつまでもそのままにしておくわけにはいかず、人々は軍に助けを求めた。その依頼に応えてやってきたのが、当時大尉だった二人の軍人だった。
そう、ニアと、親友カスケードだ。
「……ここは」
「憶えてる? 憶えてなきゃおかしいわよね。ここは五年前、カスケードが消えた村。彼は一人で巨大な獣と戦い、倒した。……それなのに、姿を消してしまった」
ビアンカの言葉がニアに刺さる。そう、親友はここで、たった一人で戦ったのだ。目に異常をきたして戦えなくなったニアを安全な場所に残し、村を襲っていた脅威に立ち向かった。そしてそのあと、忽然と消えてしまったのだ。
「あんたが戦っていれば、カスケードは消えなかったかもしれないのに。……あんたがいなくなれば良かったのにって、あたしは何度も思った」
それはあの日以来、ニアが自分を呪った言葉と同じもの。自分が無理にでも戦いに出ていたら、カスケードはいなくならずに済んだかもしれないという激しい後悔。それを改めてビアンカに突きつけられる。
「そう……だね。僕が戦っていれば、カスケードの楯くらいにはなれたかもしれない」
「自覚あるのね。本当に、その通りだわ」
ビアンカはそう言って、再び車を走らせた。真の目的地は、どうやらこの先にある森の中らしい。そこに、ビアンカの研究所があるのだという。
森は思った以上に深く、日が沈んだことも相まって真っ暗だった。ヘッドライトが一軒の家を照らしだしたところで、車は停まった。
「ここがあたしの家兼研究所。ここであんたには、あたしの研究の成果を見てもらう」
「……いったい何の研究なのか、もう教えてくれてもいいんじゃないですか?」
「直接見た方が早いわ。待ってなさい、すぐに連れてくるから」
そう言ってビアンカは車を降りると、家の裏手へと行ってしまった。ニアも大剣を持って車を降り、あたりを見回した。
暗く、静かな森だった。普通、こういう場所には生き物の気配があるものだが、それすらも感じられない。ここはどういうわけか、何もかもが死んでいるような場所だった。
そこへ、人の気配がした。一緒に、何かの息遣いが聞こえた。この草木以外の命のない場所に、たった二つだけ、ニア以外の生命があった。
一つはビアンカ。赤い髪をした、昔なじみの女性。
もう一つはビアンカの隣にあった。鳥の頭部と翼を持った、四足歩行の巨大な獣。生きているそれを見るのは初めてだった。
死体なら見たことがある。そう、五年前に。
「……どうして、キメラが?」
ニアが尋ねると、ビアンカはあの三日月のような口で言った。
「だから言ったでしょう、あたしの研究成果よ」
そうか、「連れてくる」とはこういうことだったのか。ニアはようやく理解した。彼女の研究は、キメラの生成だったのだ。そして。
「この子が軍に通用するか、試させてもらうわ。……さあ、行きなさい」
軍に通用するものかどうか。その言葉の意図は、軍で利用できるかどうかということではない。それが軍人を倒せるかということ。
ニアは手にしていた大剣を振ろうとした。だが、そのまえにキメラは高く跳びあがり、こちらへ急降下してきた。とっさに転がって避けたが、キメラの着地点を見てぞっとする。その生き物は地に足をつけるだけで、着地部分を大きくえぐることができるらしい。踏みつぶされていたら大怪我をするところだった。最悪の場合、あの一撃で死んでいた。
キメラはニアの姿を見止めると、前足を持ちあげた。鋭い爪が視界に入る。
「こん……のっ!」
ニアは大剣を振り、その宙に浮いた足を斬りつけた。ギャアアッとキメラが声をあげる。その響きが森を震わせた。
片方の前足だけとはいえ、大剣で斬りつけたのだから、相当な深手になっているはずだ。だがキメラは悲鳴こそあげたものの、その前足を地面に再び下ろし、もう片方の前足でニアを襲った。ニアは大剣でそれを受け止め、払う。そしてキメラの腹の下に入ると、その左胸を狙って思い切り大剣を突きあげた。剣は深くキメラの身体におさまり、キメラはさらに大きな声をあげた。そして、ずしんという重い音を立てて横に倒れた。
「……どう? 軍には通用しないみたいだけど」
ニアは大剣の柄を握り直し、キメラの身体から引き抜きながら、ビアンカに言った。獣の肉から刃物を抜き取る感触は、気持ちの良いものではなかった。
「そうね、思ったよりあっさりだったわ。……ここまでは」
ビアンカはキメラが倒れても平気な顔をしていた。むしろ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
「仮にも神話生物を作ってるのよ。心臓を一突きしたくらいで、死ぬわけないわ」
大剣を完全に抜き取った瞬間だった。ニアの背中に、ずん、と重い衝撃があった。振り返ると、獣の前足。その爪は、ニアの背に深く突き刺さっていた。ふと自分の腹に目をやると、そこからとがったものが突き出ている。この爪はこんなにも大きかったのか、と思った。そんなことが考えられるくらい、何が起こったのかわからなかった。
「……あ」
声を出そうとすると、口から血があふれた。内臓から上がってきたらしい。ごぼ、と音をたてている。
「五年前、その子と同型の子が一回殺されちゃったのよ、カスケードに。だからそれじゃ駄目だと思って改良したの。心臓が動かなくなっても、少しなら生き延びられるようにしてあげたのよ。そうじゃないと、当初の目的が果たせないでしょう?」
ずるり、と爪が背中から抜けていく。それと同時に、腹からも血があふれ出した。ニアの紺色の軍服は、血の色が重なって真っ黒になっていた。足を崩してうずくまると、眼鏡が外れて地面に落ちた。そこにビアンカの声が降ってくる。
「カスケードは心臓を狙って何発も銃を撃っていた。だからそれでも死なないように、あんたの大剣にも耐えられるように、作り直したの。どう? このできばえ。ちゃんとあんたに通用したじゃない!」
気が遠くなっていく。だが、まだ意識を手放すわけにはいかない。ビアンカから、その言葉の真意を聞かなければ。
「……なんで」
「あら、まだ喋れるの。すごいわね」
「なんで、五年、前の、こと……」
液体に空気が入る音がする。だが、なんとか声は出せた。けれども限界は近いようだ。
「なんでって、わからない? あんた、頭良くなかったっけ? ……だから、五年前も今も、そのキメラはあたしが作ったのよ。五年前は焦ってたから、中途半端なものができちゃったけれど。それでも視力を奪ったあんたを殺すには十分だと思ってた。キメラに村を歩かせて、あんたたちに仕事をまわして、あんたの食事に薬を盛って。準備は万端だった。なのに、あのときは失敗した。カスケードが一人で戦うなんて、予想してなかったのよ!」
ビアンカが拳を握るのが見えた。その悔しそうな表情が目に入った。
「本当はあのとき、あんたを殺すはずだったのに!」
その言葉が、耳に入った。
「僕……?」
「そうよ、あんたが死ぬはずだったの。目が見えないまま任務に出て、キメラに引き裂かれて死ぬはずだった! それなのにどうしてかカスケードが一人で戦って、怪我をした! こんなの計算外だった。あたしのせいであんなことになるなんて、思ってなかった。……だからね、やり直すの。もう二度と、あんたとカスケードを一緒になんかしない。……以上、報酬の、冥途の土産よ」

ああ、やっぱり。本当は、僕がいなくなるのが正しかったんだ。

目が覚めると、辺りの景色はすっかりぼやけてしまっていた。けれどもそこが、どうやらベッドの上らしいことはわかった。やわらかな布団が、痛む腹に優しかった。
でも、どうしてこんなところにいるのかはわからなかった。自分はたしか、森の中でキメラに殺されたのではなかったか。
「……生きてる?」
そっと腕を持ち上げて、手を握っては開く。首を動かして横を見ると、壁に大剣が立てかけてあるらしいことがわかった。
「あ、ニアさん起きた! 良かった、心配したんだよ!」
アクトの声だ。ここはいったい、どこなのだろう。
「……ごめん、アクト。僕は今、どこにいるの?」
ぼやけてはっきりと見えない姿に問う。すると、優しい声の返事があった。
「軍病院。ある村の人から、軍人が大怪我をして倒れてるって、電話番に連絡があったんだ。嫌な予感がしたからグレンとラディアに行ってもらったら、案の定ニアさんだったってわけ。傷は塞ぎきれなかったみたいだから、こっちに戻って急いで手術して、それから半日経ったところかな」
こちらが順を追って訊かなければならなかったこと全てを、アクトは説明してくれた。森の中にいたはずなのに、村の人間に助けられたということは、ビアンカがそこまで運んだのだろうか。いったい、何のために。
「ニアさんと知り合いだっていう中将の人から、ニアさんに任務を依頼した人の身元は教えてもらった。その人の行方を、クリスたちが追ってる」
「そう……」
ビアンカの声が、頭の中によみがえってくる。五年前のあの日、いなくなるべきだったのはニアだった。だが、親友がニアを留め置いてくれたおかげで、今もこうして生きている。
「そうか、あの子はまた、僕を殺しそこなったのか」
「殺し……ってことは、やっぱりその傷、依頼人が?!」
アクトが即座に反応するが、ニアは首を横に振った。この傷をつけたのは彼女ではない。彼女の意図ではあったが、実行したのはキメラだ。だがそのキメラを作ったのは……。
「アクト、ちょっと調べたいことがあるんだ。僕の眼鏡をとってくれる?」
「調べたいことって……その体じゃ無理だよ。それから眼鏡だけど、どこにもなかった。ニアさんが発見されたときにはもうかけていなかったらしいし、近くにも落ちていなかったみたいだよ」
「……そう。参ったなあ……」
この調子では、体も目も当分回復しそうにない。せめて眼鏡があれば、資料を読んだり、人の顔を確認したりすることができるのに。
「目薬と、いつも飲んでる薬ならあるよ。これだけじゃ駄目?」
「あ、ありがとう。試してみる」
アクトからなんとか目薬を受け取り、目に点してみる。それから頓服薬を一錠、口に放り込み、飲み込んだ。……だが、やはり視界はぼやけたままだった。
「眼鏡、たぶんやられたときに落としたんだと思う。見つかる可能性は低いな。……仕方ない、彼女に頼もう」
こんなときに連絡するのは、彼女にとても申し訳ないのだけれど。それしかもう方法はなさそうだった。
ついでに、彼女の兄について報せよう。全く良いニュースはなく、むしろ悪いことだらけだけれど、彼女ならそれを受け入れて次の策を考えてくれるはずだ。


キメラを入れた巨大なカプセルは、組織の人員を借りて運んでもらった。必要な道具なども簡単にまとめ、すぐにこの家を出る準備はできている。
あとは組織に呼ばれて出ていったカスケードが帰ってくるのを待つだけだ。
先日、カスケードは首都に行って暴れたそうだ。「良いことがあった」と言って帰ってきたときのことだ。その勝手な行動がビアンカと組織の人間に知られ、きついお叱りを受けることになったのだった。
一晩は帰ってこないというので、ビアンカはその間にニア・ジューンリーの殺害を決行することにした。キメラを使ってニアに重傷を負わせ、カスケードの目にその遺体が触れぬよう、動かなくなった彼を森の外の村に捨てた。大剣も、持っているとカスケードに見つかる恐れがあるので、一緒に置いてきた。
あれだけの傷を負ったのだ、放っておけば死ぬだろう。
そう考えながら、すぐに森に戻り、この場所を出る支度を始めた。ニアが死んだことが軍の知るところとなれば、原因として真っ先に疑われるのはビアンカだ。軍に見つかる前に、別の場所へ移動する必要があった。
“あの方”に拠点の移動を願い出ると、すぐに次の場所を用意してくれた。そこにカスケードと一緒に移り住むのだ。ちょっとした引っ越しだと思えばいい。彼にもそう説明すればいい。
「ただいまー。……あれ? なんかさっぱりしたな」
「あ、おかえり。今から引っ越そうと思って。“あの方”が新しい家を用意してくれたの」
「へえ、そうなのか。今度はもっと首都に近いといいな。仕事がしやすいから」
カスケードはあっさりとそれを受け入れてくれた。だが、首都の近くはビアンカにとっては都合が悪い。軍に見つかれば、捕まる恐れがある。
「……あ、ちょうど“あの方”から地図が届いたわよ。……。良かったわね、カスケード。今度の拠点は首都の地下だそうよ」
ビアンカには都合が悪いが、仕方がない。全ては“あの方”の意思なのだから。
五年前、キメラに大怪我を負わされたカスケードを保護したとき、助けてくれたのは“あの方”だった。その正体はわからないが、ビアンカがキメラの研究をしているということをどこかから聞きつけていて、五年前のあの日に現れ、その援助を約束してくれた。
カスケードがビアンカのもとにいて、しかも怪我のせいで記憶を失っていると知ったとき、“あの方”はなぜだかひどく喜んでいた。そしてこれまで、さらに今回も、力を貸してくれることとなった。
その人には逆らえない。恩義もあるし、この先の協力だってまだまだ必要だ。ビアンカがカスケードと一緒にいるために。キメラ研究を続けるために。
「首都か。じゃあ、会えるかな。あの声の主に」
「きっと無理よ。軍人なんて、いつ死ぬかわからないもの」
わくわくするカスケードに、ビアンカはそう返した。そう、無理なはずだ。その人物は死んだのだから。
「それじゃ、行きましょう。急がないと邪魔者が……」
そう言って振り向いたビアンカの目に飛び込んできたのは、カスケードの手だった。正確には、その手にあったものだ。
それは、眼鏡だった。リムのないレンズに、銀色のブリッジとつるがついた、細いフォルムの眼鏡だ。たしかそれは、ニアがかけていたものだ。五年前にはそんなものは使っていなかったから気づかずに、処分し忘れたらしい。
「それ、どうしたの?」
「そこで拾った。なんかきれいだから、持ってようと思って」
五年前には関係のない品だ。持っていても、彼の記憶をよみがえらせることはないだろう。ビアンカは躊躇いながらも、それを許した。


北方から首都レジーナの駅に、列車が到着した。電話を受けてすぐに行動しても、やはり来るまでに丸一日はかかってしまった。
首都に降り立った彼女は、ダークブルーの髪を冬の近い冷えた空気にさらりと流し、海色の瞳によく似合う眼鏡をかけている。見る人が見れば、すぐにわかる。彼女はあのインフェリア家の娘なのだと。
彼女はその足で軍病院に向かい、ニア・ジューンリーの病室を訪ねた。戸を開けると、そこには茶髪の男と、ベッドに体を横たえるニアの姿があった。
「ニアさん……」
「あ、サクラちゃん? 来てくれたんだ。ありがとう」
こんな状態でも、ニアはふわりと笑う。なんでもないよとでも言うような笑顔で、こちらに手を振る。
彼女――サクラ・インフェリアは、ここが病院であることも忘れ、叫んだ。
「ばかっ! こんなときに何笑ってるのよ!」
ニアは一瞬面食らったが、すぐに困ったような笑みで「ごめん」と言った。
「そうだよね、カスケードのことがわかったのに、ずっとまともな連絡をしてなくて……」
「そうじゃないでしょう?! 大怪我したのにへらへらしてるなんて信じられないって言ってるの! もう、こっちは電話を受けてどれだけ心配したか……!」
まくしたてるサクラを、茶髪の男、すなわちツキが、どうどうと抑える。
「サクラさん、だっけ? とりあえず落ち着いて。他の部屋にも患者さんいるから」
「あ、すみません。私も軍医なのに、取り乱しちゃって……」
サクラは北方司令部の軍医だ。かつてニアが北方で仕事をしていたとき、その目の調子を診たり、薬を処方したりしていたのは彼女だった。ニアの親友カスケードの実妹ということもあり、その捜索にも携わった。結局北方では、何も進展がなかったのだが。
とにかく、あらゆる面から見て、サクラはニアの元パートナーであった。そんな彼女としては、今回の件は驚くやら呆れるやら心配するやらで、平静を保つのが大変だったのだ。それが今、爆発したらしい。
「ええと……あなたはニアさんの同僚の方?」
ひとまず落ち着きを取り戻したサクラは、ツキに尋ねた。
「俺はツキ・キルアウェート。中央の外部情報取扱係所属の曹長で、ニアの年上の部下」
「そうですか。はじめまして、ツキさん。私はニアさんの元仕事仲間で、北方司令部軍医のサクラ・インフェリアです」
「カスケードの妹さんだよ」
ニアが補足すると、また再燃しだしたのか、サクラはニアに向かってぽんぽんと説教を始めた。
「暢気に口を挟んでいる場合じゃないでしょう。全く、久しぶりに電話をしてきたと思ったら『眼鏡をなくしたから軍病院に来てほしい』ですって? いったいどれほどの怪我をしたのか心配で、ナースステーションで聞いてきちゃったわよ。背中からお腹にかけて何かが貫通したみたいって、すごく深刻そうに話してたから、どれほど具合が悪いのかと思ったら! まあ、ニアさんって前からそういう人だけどね。わかってたわよ、心配が無駄だってことくらい!」
「無駄じゃないよ。ありがたいよ」
「そうやってすぐ人にお礼を言う! 自分が不利益を被っても言うんだから! それと眼鏡、新しく作り直すのに時間かかるわよ。また検査するところから始めなくちゃいけないんだから。そうだ、眼科に機材を借りられるかどうか確認しなくちゃ……」
よくもまあ、そんなに言葉が出てくるものだ。ニアとツキは苦笑しながらサクラを見ていた。それに気づいた彼女は「またへらへらして!」と言う。
ツキはこっそりとニアに尋ねた。
「カスケードもこんな感じなのか? 俺がそれらしき奴に会ったときは、こんなんじゃなかったけど」
「全然違うよ。サクラちゃんはすごくしっかり者で、腕のいい軍医なんだ。僕の目もちゃんと診てくれたし、カスケードを捜すのにも一生懸命。すごくいい子だよ」
まずは彼女の力を借りて、目を治さなければ。カスケードを捜すのも、ビアンカにもう一度話をしに行くのも、それからだ。




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posted by 外都ユウマ at 19:26| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年01月28日

Reverse508 第十五話

立て続けの事務仕事や任務の中でも、休息は大事だ。ここ最近慌ただしかったジューンリー班は、本日第三休憩室にて、珍しく全員で穏やかな休憩時間を過ごしていた。
「ツキ、お前また勝ちやがったな! いい加減にしろ、強運が!」
「褒めてくれてどうも。そもそもディアは捨て札が甘いんだよ。これとこれにしておけば次引いたときに役できたのに」
「今回は俺も良い役できましたよ! ……ブラックと同じなのは納得いかないけど」
「こっちこそお前と同じなんてごめんだ、バカイ。おい、たしかこれカードによっても強弱あったよな?」
「それでいくと君の負けになるよ、ブラック。それでいいの?」
……穏やかな休憩時間を、過ごしていた。
カードゲームで盛り上がる者あり、お喋りを楽しむ者あり、のんびりと茶を飲む者ありと、ジューンリー班の面々は自由だ。ただし、彼ら全員に茶を淹れるのはニアの役目である。
すっかり温かいお茶が美味しい季節になった。メリテェアが持ってきてくれた秋のフレーバーは、班員全員に好評だった。それを上手に淹れるために、ニアの腕前もあがっている。だが、一度にそう何杯も淹れられるわけもなく、出すのはどうしても順番になってしまう。カードゲーム組は白熱しているようなので後回しにして、のんびりしている人たちから。
「はい、おまたせ。ハルはちょっとだけミルク入れるのが好きなんだよね」
「覚えててくれたんだ! ニアさん、ありがとう!」
濃く淹れた紅茶に、ミルクをほんの少し。ハルの好きな紅茶の飲み方を、ニアはちゃんと覚えている。ハルだけではない。班員の好みはだいたい把握できていた。おかげで茶を出すのが遅れても、誰も文句を言わない。たとえ好みを把握していなくても、文句を言うような人間はここにはいないが。
「アーレイドは紅茶よりコーヒー派だよね。淹れようか?」
「いえ、紅茶でいいです。ニアさんの淹れる紅茶、濃い目で好きなので」
「それは光栄だね」
ちょうどハルに淹れた分が残っていたので、その濃い紅茶をアーレイドにも出す。
人数分の茶を淹れるのは大変だが、ニアにとっては心が安らぐ「仕事」だった。少なくとも、本業よりは。
本業のほうはというと、危険薬物取引が頻繁に行われている状態だ。ライズ村の事件以降多くはなっていたが、最近は急激に増えている。一日に何件もあることも珍しくなく、大多数の班が出動中という日もままある。
その異常な状況を、上層部も訝しんでいた。メリテェアも疲れているようで、紅茶を飲みながら溜息をついている。
「メリーちゃん、大丈夫? ここのところ会議ばかりだよね」
「ええ、大丈夫ですわ。わたくしはこれが仕事ですもの。……でも、今日は久しぶりにのんびりとした休憩で、正直に申し上げますと、ホッとしていますわ」
「メリテェアはいつも無理しすぎなのよ。もうちょっと自分が十六歳って自覚を持ちなさい」
しっかりした女子組が心配するほど、メリテェアは働いていた。彼女がまとめているのはジューンリー班だけではないので、仕事量は半端なものではない。それをクリアできるからこそ、彼女は准将という地位にいるわけだが。
「准将さんであんなに大変なんだから、大総統さんってもっと大変なんだろうね」
ハルが何気なく口にした言葉で、ニアは大総統ダリアウェイドの机を思い出す。たびたび訪れる大総統執務室の机は、いつも書類でいっぱいだった。たまには大総統にも茶を淹れてみようか、などと考えていたところへ。
『メリテェア・リルリア准将、至急第一会議室へ来るように。繰り返す、……』
放送で呼び出しがかかった。どうやら、准将の優雅なティータイムはここで終了らしい。
「あら、残念。ニアさん、また今度、お茶をお願いしますわね」
「はい。メリテェアさんの持ってきてくれる茶葉ですから、心を込めて淹れさせてもらいますよ。いってらっしゃい」
休憩室を出ていくメリテェアを見送りながら、ニアは彼女を心配に思う。はたしてきちんと休めた日があるのだろうか。仕事が佐官以下に下ろせるものならば、下ろしてほしい。
そんなことをぽつりと呟くと、クリスが呆れたように言った。
「ニアさん、それはあなたにも言えることですよ。本当に、仕事を抱えすぎる上司を持つと、こっちが気を遣わなければならないので大変です」
「そうそう。ちゃんとこっちに仕事ちょうだいよ、ニアさん」
アクトも笑いながら継ぐ。ニアはばつが悪そうに苦笑した。そう、人のことを言ってばかりいられないのだ。事務仕事の多いときは鬼と化す、とまで班員に言われるニアだが、実際に下ろしている仕事量はそれほど多くない。相対的に見て、の話だが。
そんな会話を楽しみながら和やかに時間は過ぎた。――その放送が入るまでは。

『司令部内にいる全兵に告ぐ。ただちに練兵場に集合せよ。繰り返す、……』

司令部全館にそれが鳴り響いたとき、第三休憩室も、しん、と静まり返った。
「……何かあったのか?」
グレンが不安げに呟く。するとラディアがその空気を壊そうとするように言った。
「きっと、何かのサプライズですよ! 大総統さんの誕生日とか!」
「あ、それなら楽しいですよね!」
「いや、そんな雰囲気じゃないでしょ……たしかにそれなら面白いけどさ」
シィレーネまでのろうとしたところに、クライスが笑いながら返すが、それはどこかひきつった笑顔だ。いつもならこのあたりで仕入れた情報を教えてくれる彼だが、何もないということは、急な事態なのだろう。
「と、とにかく行ってみない? ねえ、ニア大佐」
「そうだね、シェリアちゃんの言うとおりだ。行こう、みんな」
ただちに、というからには急がなければならないのだろう。第三休憩室に集まっていたメンバーは、全員練兵場へ向かった。

練兵場には中央司令部に属する軍人のほとんどが集まっており、がやがやと話し合っている。どうやら多くの者が、この緊急招集の意味を理解していないらしい。入隊したばかりの少年兵たちなどは、不安そうな表情をしている。
将官たちは練兵場の壁際に、まるで佐官以下の兵を取り囲むようにして立っていた。監視されているようで気味が悪いなと、ニアは率直に思う。
「諸君、静粛に!」
そのとき、突如鳴り響いた声で、その場は静まりかえった。ニアはこの声の主をよく知っている。大総統アレックス・ダリアウェイドだ。よく大総統室に行くので聞き慣れてはいるが、今日は何やら様子がおかしい。厳しさが格段に増しているようだ。
「今から、重要な報告をする。心して聞くように。……では、リルリア准将」
大総統はそれだけ言って、マイクをあろうことかメリテェアに渡してしまった。おそらくここに集まっている全員が「なぜ」「どうして」と問いたいだろうが、そうすると話が進まないので、口にはしない。
大総統からマイクを受け取ったメリテェアは、深呼吸をしたあと、語りだした。
「お集まりいただき感謝いたします。まず、みなさんに集まっていただいたのは、過去に全兵が動いたときのような、大きな事件が起きたからですわ」
その一言だけで、兵たちは息を呑む。ざわめきたい気持ちを抑え、メリテェアの言葉に耳を傾けた。
「先頃、危険薬物関連の事件が多発し、みなさんも出動されることが多くなっているかと思います。いつまでもこれでは、きりがない。わたくしたちはそう判断しました。……そこで今回、危険薬物取引を実行している組織を一気に壊滅させることにいたしました。わたくしたちのもとには、数日前にその組織に関する重要な情報が入っております」
十六歳の少女が放つ強い語気に、兵たちは圧倒される。危険薬物取引組織を壊滅させる。それはたしかに一大プロジェクトだ。軍総出で当たることも、なんらおかしくはない。だが、それを率いるのが准将とはいえ弱冠十六歳の少女だという事実は、衝撃だった。
「今回の任務の総指揮は、不肖、メリテェア・リルリアが執らせていただきます。准将以下の階級に属する皆さんは、わたくしの指示に従ってください。……と、言いたいところですが」
メリテェアは、ここでこほんと一つ咳ばらいをした。そして、こちらを見止めるとにこりと笑った。その時点でニアは察する。これは、大変なことになった。
「ニア・ジューンリー大佐、こちらへ!」
全兵がこちらへ一斉に注目する。ニアは戸惑うが、しかし無視するわけにはいかない。急いでメリテェアのもとへ行くと、小さな声で「すみません」と言われた。そして。
「わたくしの判断で、今回の実質的な指揮はジューンリー大佐にお任せいたします」
「え?!」
ほら、やっぱり。冷や汗を流すニアをちらりと見てから、メリテェアは続けた。
「わたくしは准将といえど、経験が足りません。ですから、わたくしよりも長く軍に在籍しております彼に、この立場を託したいと思います。もちろんわたくしが彼を補佐いたしますわ」
「で、でも、僕は……」
「大丈夫です、責任はわたくしがとりますから。それに、わたくしどもはあなたの実力を信じていますわ」
メリテェアが天使のように微笑む。だが、ニアはその裏に何か恐ろしいものがあるように感じてならない。
なぜ、自分が指揮官なのか。中央に来てまだ九カ月ほどの自分が、将官を差し置いて。だが、ここで断ってはいけない気がした。そう、親友がもし同じ立場になったなら、必ず引き受けるだろう。
「……わかりました。その命、お受けします」
「ご協力、感謝いたしますわ。……それでは、解散してくださって結構です。各班への指示は、のちほどあらためていたします。それともう一つ。今から呼ぶ方は、この場に残っていただきたいのです」
メリテェアはそうして、次々に名前を挙げていく。「以上ですわ」の言葉で呼ばれなかった者たちが練兵場から出ていったあとは、ごく少数の人間が残った。
ここにいるのは、ほぼ毎日顔を合わせているメンバーだ。グレン、リア、カイ、ラディア、アーレイド、クリス、ツキ、クライス、クレイン、ディア、アクト、アルベルト、ブラック、シェリア。――ハルとシィレーネを除いた、ジューンリー班のメンバーだった。
「……ちょっと待ってよ。シィは伍長だから任務にあんまり関われないのはわかるとして、なんでハルもいないわけ?」
真っ先に異を唱えたのはシェリアだった。ここまで班員が揃っていて、なぜこの二人だけがいないのか。アーレイドもそれに続いた。
「そうですよ。どう見てもいつものメンバーなのに……ハルは……」
ハルはここにはいない。もう練兵場から出たあとのようだ。だが、自分が呼ばれなかったことはきっと気にしているだろう。たとえ、シィレーネが一緒だったとしてもだ。
「メリテェアさん、どういうこと? 僕を司令にしたことといい、何か事情があるんでしょう?」
ニアが問い質すと、メリテェアは頷いた。その表情は、なぜか悲しげだった。
「……シィレーネさんに関しては、シェリアさんの言う通りですわ。階級的な問題です。ですが、ハル君は……特別な事情があって呼べません。みなさんも本人には内密にお願いします」
その悲しげな眼を真剣なものにし、メリテェアは告げた。
「この軍の情報を、敵方に送っている人物がいます。……裏切り者が、出てしまったのです」
「裏切り者?!」
「はい。容疑者は三名。ソフィア・ライアー、アーサー・ロジット、そして……ハル・スティーナです」
その名前に、メリテェア以外の全員が絶句した。この軍に、ハル・スティーナは一人しかいない。自分たちのよく知っている、あの少年だけだ。
「そんな……そんなはずないですよ! ハルが裏切り者だなんて! メリーさんはハルのことをそんなふうに思ってるんですか?!」
「アーレイドさん、お静かに。もちろんわたくしは、ハル君は無実だと信じています。ですから、彼の無実を証明するためにも、みなさんに動いてもらわなければなりません。上層部がわたくしを総指揮に指名したのも、わたくしがニアさんに指揮をお任せしたのも、全てはそのためです。みなさんには、危険薬物取引の取り締まりと同時に、スパイも捜してもらうことになりますわ」
メリテェアも焦っている。二つの仕事を同時進行することは難しい。実際のところは、危険薬物の取り締まりという大規模な作戦をメリテェアが、そしてスパイ捜索という細かで個人的ともいえる仕事をニアが引き受ける形になるのだろう。
それを把握できればいい。ニアのやることは決まった。
「その情報源は?」
「軍のコンピュータのアクセス記録からです。クレインにはこれからその信憑性を調べていただきますわ。改ざんされている可能性も当然視野に入れていますから。同時に裏組織の活動予測も、アクセス記録からとることができると思います。実働は、今回はいつもとは異なる班構成をとらせていただきますので、それぞれにお任せすることになります」
「わかった。……それじゃ、みんなでハルを助けるよ。いいね?!」
「はい!」
ジューンリー班の、仲間を救うための戦いが、始まった。

対危険薬物取引組織用の特別な班は、すでにメリテェアたち将官の間で決められていた。貼り出されると同時に、各自にもしっかりと伝えられていて、ニアたちが話を終えて戻ったときにはすでに大多数の者が自分の所属を把握していた。
普段とは異なる班構成をとったのは、容疑者三人にこちらの疑いを覚られることなく、彼らを監視するため。だが、ジューンリー班の目的は「ハルの無実を証明すること」でもある。そのため、みんながバラバラになるということはなかった。マルスダリカを捜査したときのように、人員はある程度固めてある。
ハルは、アーレイドと同じ班に組み込まれていた。せめてパートナーである彼がそばにいてやったほうがいいということなのだろう。あるいは、普段一番近くにいるアーレイドこそが、ハルを監視しやすいという判断だったのかもしれないが。
ニアは手元の資料で班構成を確認しながら、実働班をどう動かすか考えていた。いかにして容疑者たちを監視しながら、メインの仕事である「組織」の取り締まりを行なうか。彼らが動くために必要な情報を得ようとしたとき、情報担当の負担はどれほどになるのか。今回の件はマルスダリカのときよりずっと複雑で、指揮を執るのは困難だった。
だが、やらねばなるまい。なにしろ、仲間の人生がかかっているのだから。軍に入隊する以前からニアを慕ってくれていた、弟のようにも思えるハル。あどけない笑顔で、毎日懸命に仕事にかかっている彼に、軍を裏切るなんてことができるはずはない。
頭の中で今現在の情報と今後の動きを整理していると、ニアの耳に話し声が飛び込んできた。あれは、ハルとシィレーネの声だ。
「二人が一緒にいるなんて珍しいね?」
ニアはなんでもないように声をかける。先ほど呼ばれなかった二人が一緒にいることは容易に想像できたのだが、あえてそれを隠した。
「あ、ニア大佐。今、ハル軍曹と話してたんです」
「さっき、いつもの班でボクたちだけ呼ばれなかったから。上の人たちの話かなって」
班の中でも、この二人は低階級組だ。年齢でも最年少だが、クレインは同じ十五歳ながら中佐という地位にいるので、どうしても特別枠になる。ニアはしばらく、それを利用させてもらうことにした。
「そうなんだよ。ちょっとだけ複雑な話」
「うわあ、やっぱり難しい話なんですね」
「そっか、やっぱりそうなんだ。ニアさんが言うなら間違いないよね……」
ハルは自分に言い聞かせているようだった。何か自分が重要なことから外されるような、そんなことをしたのではないかと、気にしていたのは明らかだった。
ニアはいつもの笑顔で、二人の肩に手を置いた。
「大丈夫。今回の任務は、大掛かりだけど、そう難しいものじゃないから。ハルには実働の大事な仕事があるし、シィレーネちゃんにはもしものときの救護に当たってもらうことになってる。二人とも、一緒に頑張ろうね」
「はい!」
「頑張ります!」
二人とも、とても素直でまっすぐな返事をする。シィレーネはもちろん、ハルがスパイだなんてことはまずありえない。ありえないのに候補に挙がったのは、いったいなぜなのだろうか。
――軍のコンピュータのアクセス記録。それが情報源だというが、はたしてハルに軍の複雑なコンピュータセキュリティが扱えるものなのだろうか。
「ニアさん、どうかしましたか?」
「あ、ううん、なんでもないよ。指揮官は緊張するなって思ってただけ。……そうだ、シィレーネちゃんはすぐに救護班の集まりがあるから、医務室に行ってくれるかな?」
「はい、いってきます! 指揮官、頑張ってくださいね!」
シィレーネが走り去ったあと、ニアとハルは二人取り残される。ニアも今後の作戦を立てるために行かなければならないが、ハルはどうしてここに留まっているのだろう。
「僕、もう行くけど。ハルは?」
「ボクはここでアーレイドを待ってます。同じ班だって聞いたので」
そういえば、アーレイドはあの話のあと、何か考え事をしているようだった。じきに来るだろうから、ここにハル一人を残しても何も問題はない。
「そう。アーレイドはすぐ来ると思うよ」
「はい。ニアさん、指揮官頑張ってくださいね。……それから、ありがとうございます」
どこか寂しそうな笑顔が、ハルが何かに感づいていることを物語っていた。
申し訳なく思いながら、それを本当の笑顔に変えるのだと決心して、ニアは再び書類に目を落としながら進んだ。

ハルの所属する班の司令官はクリスだ。主に潜入を担当しているが、スパイ容疑について知っている人員はちょっとした調査にもあたることになっているという。
「多くの人員には、即、任務についていただくことになっています。クリスさんがそう指示してくださるはずですわ。ハル君は……少し待機していただくことになりますわね」
ニアはメリテェアと二人、今回の任務の司令室にと指定された第一会議室にいた。二人でいるにはあまりに広いが、積まれた資料の数も膨大だった。なにしろ危険薬物取引とスパイ容疑の両方についてそろえてあるのだから。しかもこれからまだまだ増える予定になっている。
「ハルの待機ですけど、一人で? 可哀想だし、さすがに怪しまれない?」
「アーレイドさんについていてもらいますわ。いつものお二人ですもの、少しは自然に見えるでしょう」
少しは、と強調してメリテェアは言う。ハルは幼く見えるが賢い子だ。今回の動きが異常であることには、とうに気づいているだろう。
「そしてグレンさんたちにはクリスさんの指示に従って調べ物をしていただくことになっています。資料室にある個人データを見ていただきますわ」
クリスの班にはハルとアーレイドの他、グレン、リア、カイ、ラディア、シェリアがいる。彼らが資料の確認を行なうことになるのだろう。デスクワークが苦手な人員ばかりだが、クリスがリーダーなら問題ないはずだ。
「個人データは、スパイ容疑をかけられている人たちの?」
「ええ。だいたい察しはついていますけれど。……アーシャルコーポレーション捜査の際に、軍部内にも会社にいた経歴のある者がいることがわかっています。わたくしの記憶が正しければ、ハル君以外はアーシャルコーポレーションに所属していた経験があるはずですわ」
ニアは手元の資料を見る。ソフィア・ライアーとアーサー・ロジットの、簡易プロフィールだ。エルニーニャ軍には十歳から入隊が可能だが、二人ともそれをとうに過ぎてから軍に入っている。特にアーサーなどは、昇進が異様に早かったので気づかれにくいが、ごく最近入隊したようだ。だが、それ以前の経歴はここにはない。もっとも、この個人プロフィール自体も改ざんが疑われているのだが。
「……メリテェアさん。少し前に僕が相談した話、憶えてますか? 東方諸国連続殺人事件の際、僕らがイストラに行くタイミングを見計らったように、ラインザーがエルニーニャに来ている。アルベルトが国外に行くことを、明らかに予測した行動です。この情報を知るには、エルニーニャ軍内に、ラインザー本人か協力者だったオファーニと繋がりのある人物がいる可能性がある」
あれはイストラでの任務から帰ってきたあとのことだ。ニアはずっと、それまで国外で犯罪を犯していたラインザーがなぜエルニーニャに戻ってこられたのかを考えていた。しかも、アルベルトがエルニーニャを離れるそのタイミングを狙って。ニアでさえ、直前までいつ国外任務の許可が下りるのか予測できなかったにも関わらず、だ。
「そう言ってましたわね。アルベルトさんの行動を知り得るのは、上層部にいて軍人の動きを把握できる人物、あるいは情報担当かその関係に詳しい人物ですわ。……今回の件と、関わりがあると思いまして?」
「僕は疑っています。アーシャルコーポレーションと裏社会の関係性は、捜査からとっくに明らかになっています。……今回の件、僕らが思う以上に根深いものかもしれないですよ」
ニアの考えは、もちろん「よくある陰謀論」と括って捨ててしまうこともできるものだ。だが、ここ最近の薬物取引などの裏社会事情を考えると、簡単に否定してしまうこともできない。
メリテェアは短い時間で考えを巡らせていたようだが、一度息をつき、言った。
「たとえそうだとしても、今は目の前のことに集中すべきですわ。関係性は、当人を捕まえて聞き出せばいいことですもの」
「そうでしたね、ごめんなさい。……そうだ、アクトの班は? こっちは待機班ですよね」
取引は一か所で行われるとは限らない。それは最近の事例からも明らかだ。そこで予備の人員として、アクトも一班抱えている。こちらにはディア、アルベルト、ブラック、ツキが所属している。その他の人員も、軍有数の肉体派が多い。
「こちらは取引が複数発生したとき、必要に応じて活躍していただく班ですわ。速攻を重視しています。ただし、やみくもに動かれても困りますので、理性的なアクトさんに司令をお願いいたしました」
「うん、それは正解かも。一部のアクトを認めたがらない人たちも、ディアがいればおとなしくなるだろうし。こっちにはアーサー・ロジットがいるんですね」
「ええ。同様にクリスさんたちの班にはソフィア・ライアーを配属しています。できるだけ彼らを実働にし、情報の送受信ができるところから引き離したいというのが今回の狙いでもあります」
「……それは、ハルも同じ?」
「……そうですわね。将官見解としてはそうなりますわ」
容疑者たちはそれぞれの班に分散されている。スパイ容疑のことは、上層部と、ハルとシィレーネ以外のジューンリー班しか知らないことになっているので、自分たちの目の届くところに置いておかなければならない。監視という意味でも、守るという意味でも。
「さて、あとは情報担当だけど。ベルドルード兄妹は情報処理室?」
「クレインはそうですけれど、クライスさんは外に出てもらっていますわ。彼お得意の隠密行動です。連絡は随時二人の間でとってもらっています」
「それは助かるね。あの二人のコンビネーションは抜群だから」
ニアとメリテェアがそうして全員の動きを確認したところで、ちょうどクリスがやってきた。手には書類を持っている。彼らの調査の成果だろう。
「お疲れ様です、お二人とも。個人資料、ありましたよ。コピーで申し訳ありませんが。クレインさんにはこれから原本を渡しに行きます」
「ありがとう、クリス。……ああ、やっぱりハル以外はアーシャルコーポレーションにいたことがあるんだね」
ニアは資料を受け取り、すぐにそれを確認した。簡易プロフィールではわからなかった詳細な個人データが、そこにはあった。
「おや、このことはご存知で?」
「リアさんの件があった際に、わたくしが一度調べたんですの。記憶違いだといけませんので、この資料はいずれにしろ必要でしたわ。ありがとうございます」
二人が礼を言うと、クリスは微笑んで「どういたしまして」と返す。
「それではボクらは、夜まで一旦休憩をとらせていただきます。何か他の方に伝えることはありますか?」
「ありがとう、ご苦労様。この二言を。……ハルには、気をつけてあげてね」
「わかりました。……お二人は、根を詰めすぎないようにお願いしますよ。司令官が倒れては元も子もありませんから」
「お気遣いありがとうございます」
クリスはすぐに会議室を出ていった。休憩をとるとは言ったが、彼はまだ休まないだろう。班のために作戦を練って、それを遂行できるかどうか考えなければならない。しかし頭の良い彼ならば、問題ないだろう。
受け取った資料を広げながら、ニアは笑みを浮かべた。
「有能な部下を持つと、僕らは楽ですね」
「そうですわね。根を詰めすぎなくて済みますわ」
メリテェアもくすくすと笑う。しかし資料を見るときは真剣な目をしていた。
個人データをメインとしたその資料は、今後の流れを作るために重要な情報だった。それに一通り目を通し、メリテェアはニアに問う。
「この資料が改ざんされていない正しいものとしますと、今後はどういたしますの? アーシャルコーポレーションにいたからといって、裏の研究などに関わっていると断定はできません。ですが、見過ごせない事実ではありますわ」
「そうですね。……でも、作戦はこのまま進めたほうがいいと、僕は思います。たとえばハル以外の監視を強化したとして、それが原因で今回の任務の意味を覚られるとまずい。相手だって、全く気付かないようなことはないでしょう」
「ええ、わかりましたわ。それでは変更なしで進めましょう」
あとは、それが順調に進んでくれればいいのだが。作戦自体も気がかりだが、ハルのことも気になる。何としてでも、真のスパイを見つけ出さなければ。

実行の夜が訪れる。
『潜入班の者に告ぐ。大至急司令部入り口前に集合せよ。繰り返す、……』
合図の後、間もなくしてクリスたちが出動した。それを確認した頃、ニアのもとにクレインからの連絡があった。
「はい、ニアです。クレインちゃん、何かあった?」
『たった今わかった情報です。潜入班が行った東区画以外でも、もう一か所危険薬物を貯蔵しているところがあるみたい。クライスにも連絡して行ってもらおうと思いますけど、待機班をこの場所にまわしたほうが良いんじゃないかと思って』
この情報が入るということは、クレインはアクセス記録からうまく裏の情報を引き出せたということだ。やはり彼女の情報処理能力は頼りになる。
「やっぱり今回も複数あったんだね。場所は?」
『北区画の工場跡です』
「わかった、すぐにアクトに連絡するよ。ありがとう」
ニアは内線を切ると、すぐにアクトの無線へと繋いだ。北区画の工場跡なら、おそらくすぐに対応できるはずだ。
「アクト、情報が入った。北区画の工場跡に、危険薬物が貯蔵されてる」
『はい、了解。すぐ向かうよ』
これで待機班も出動したことになる。容疑者三人は全員、中央司令部を離れた。
「今のところ異常はないし、クレインちゃんのほうも順調そうだね。アクセス記録に入れたってことは、こっちは本物だと思っていい」
いつ鳴るかわからない電話機や無線受信機に注意を払いつつ、ニアは引き続きメリテェアとともに第一会議室にいる。現場の状況が伝え聞くことでしかわからないというのは、思った以上に恐ろしい。余計な想像が頭をかすめては消えていくので、状況が悪くないものであることを声に出して確かめる。
「アクセス記録が本物ということは、ますます真のスパイ以外の無実を証明しなければなりませんわね。容疑者の中の誰かが、確実に組織と繋がっているということになりましたから」
「そうですね。……でも、どうしてハルなんだろう? あの子に疑いをかけることで、いったいどんな得があるっていうんだ?」
ニアには、ハルが疑われることで得られるものなど思いつかない。それは仲間だからという贔屓目なしに、本当に存在しないように思われた。あの幼くも見える少年を罠にかけたところで、誰かが得をするとは考えられない。
「ハル君の何かが相手にとって不都合だった、という見方はいかがです? 得るのではなく、想定される不都合の回避だったのでは?」
「それにしても、僕にはわかりません。ハルが何か重要な情報を持っているなら、誰かそれを知っていてもいいはずです。それこそアーレイドとか。でもそんな気配は全くない。リアちゃんのときのように、その不都合が形のあるものならわかりやすかったのかもしれないけれど……」
どうしてハルに容疑がかけられなくてはならないのか。それは現時点での最大の謎だった。犯人にしか知り得ない情報なのかもしれない。だが、それを知ることができれば、ハルを守れるかもしれない。
しばらくメリテェアと話し合っていたが、いくら考えてもらちが明かない。時間ばかりが過ぎていく。
「……わからなくても、この分だと、予定通りに事が運びそうですわ。そうなってくれれば、真犯人から全てを聞き出すことができます」
「そうですね。……そうだといいけれど」
そう呟いたときだった。急に無線受信機がけたたましい音を立て、ニアはそちらへ飛びついた。発信元はアクトだ。
「アクト、どうしたの?」
『アーサー・ロジットがいなくなった。追いかけたいんだけど、ちょっとこっちも手一杯で……』
容疑者の一人が動き出した。ニアとメリテェアは一瞬だけ目を合わせ、頷きあった。それだけで十分だった。
「わかった。アーサーは僕たちに任せて、アクトたちはその場でできることに専念して」
『うん、お願い』
無線を切り、今度は電話へ。受話器をとり、情報処理室のクレインへと繋ぐ。彼女は待機していてくれたのか、すぐに応じてくれた。
『はい、何かありました?』
「アーサー・ロジットがいなくなったって情報があった。クライスに連絡して、捜してもらってくれない?」
『わかりました。すぐに連絡します』
すぐに受話器を戻し、メリテェアに向き直る。どこか不安げな彼女に、ニアはあえて笑顔で言った。
「予定通りにはいきませんでしたね。でも大丈夫。予定外も想定内です」
「そうですわね。……ええ、そうですとも」
これくらいのことで戸惑ってどうする。人が一人動いたくらいなら、まだ序の口だ。
ニアは再び席につき、続報を待った。それが良いものであることを祈って。

アクトは無線を切ると、すぐに迫っていた敵をナイフで斬り払った。ディアがこちらへ向かって来ようとしていたが、それに目線だけで「問題ない」と返す。
相手は四十人ほど。そう見積もっていたが、実際はそれよりも多かった。しかも応援を寄越してくる。どうやらこの場所は大当たりだったようだ。このまま倒していけば大量検挙になる。
「ったく、殴っても殴ってもかかって来やがる。楽しくて仕方ねぇな」
ディアが皮肉と本心の入り混じった台詞を吐く。それを聞いていたツキが苦笑した。
「そりゃ良かったな、喧嘩屋さん。俺は普段事務だから、こういう場は慣れてなくて……なっ!」
そう言いながらも、ツキは豪快に敵を蹴りとばしていた。軍人としての実戦経験は少ないが、賭け事に関わっていると、多少は手を出されることもある。これはそれに対する防御策だ。攻撃という名の、最大の防御。
「よくこんな状況で楽しんでられるな、あの喧嘩バカども。こっちは早く帰りたくて仕方ねーってのに」
ブラックは文句を言いながら、敵を気絶させていく。実に器用な峰打ちだった。動きが素早いので、本当に斬られたと思った相手が勝手にのびてくれることもあった。だが、手ごたえのない相手ばかりを何人も寄越されても、うんざりするだけだ。
「アクト君、アーサーの件はどうなりました?」
敵の足や腕、武器などに確実に銃弾を撃ち込みながら、アルベルトが尋ねる。攻撃の片手間に会話をするというよりも、会話のついでに攻撃もしておく、といった風だ。もう誰にも隠す必要のなくなった実力を、彼は存分に発揮していた。
「ニアさんたちがなんとかしてくれるって。今動ける人なら、たぶんクライスあたりじゃないかな。心配しなくてもいいと思うよ」
「それなら安心ですね」
いよいよ数が減ってきた敵を片付け、ついに最後の一人をディアが殴り倒した。起き上がってこようとする者は一人としていない。あとは軍に連絡し、彼らと危険薬物を運ぶだけだ。
「こっちはなんとかなったな。アクト、ニアに連絡してもいいんじゃないか?」
「そうだね。輸送のための車が必要って言わないと……」
アクトが無線を手に取ったときだった。向こうから、誰かのうめき声と、何かが落ちたような音が聞こえた。ふとそちらに目をやると、アクトたちとともに来ていた軍人たちが、たった一つの影に倒されていた。次々に、あっけなく。
「……誰、あれ」
逆光でよく見えないが、背の高い人物のようだった。近くにいた軍人から順に、いとも簡単に足を払ったり、胸のあたりを拳で叩いたりして、少しずつこちらへ近づいてくる。
おかしい。ジューンリー班以外の軍人たちも、その立場にいるからには戦えるはずだ。しかも、軍きっての肉体派がそろっているはずだった。だが、彼らはまるで何の力も失ってしまったかのように倒れていく。いったい、どうして。
「おい、お前! 何しやがる!」
我に返ったディアが真っ先にその人物へととびかかっていく。思い切り拳を振り上げ、その顔面に打ち付けようとした。だが。
「ちょっと振りが大きくないか? それじゃ見切られやすいぞ」
その人物は右手一つで、その拳を簡単に止めた。
ようやく慣れた目で、ディアは対峙した相手を見る。その眼は黒。髪も黒。黒いシャツに、黒いボトムス。肌以外の全身が真っ黒な男だった。背はツキよりも高いくらいだろうか。
――黒髪黒目の、大柄な男。その情報に、ディアは覚えがあった。
「お前、まさか……」
その一瞬のできごとだった。ディアの見る世界が、ぐるりと反転した。いや、違う。ディアが目の前の男にひっくり返されたのだ。
何が起こったのかわからないでいるディアを越えて、黒い男は進む。進もうとした。だが、その足をディアが掴んで引き留めた。
「……おい。まだ勝負はついてねぇぞ!」
足を掴んだその腕を思い切り引くと、男はバランスを崩して転んだ。その隙にアクト、ツキ、アルベルト、ブラックが男を取り囲む。
「いてて……あ、やばい。コンタクト落ちた……」
男は囲まれていることもかまわずに、片目を押さえて立ち上がった。ディアの手を蹴って払うと、それからなぜか、嬉しそうに笑った。
「まあいっか。初めて俺と勝負できそうな奴に会えたし」
男は目を押さえていた手を離すと、その手を握りしめ、拳をツキの腹に叩き込んだ。あっという間の出来事に、本人も周りも反応できなかった。
「ぐ……っ!」
「ツキさん!」
腹を押さえてうずくまるツキを、アルベルトが支えようとかがむ。だがその瞬間、頭を大きな手に掴まれ、そのまま放り投げられた。まるで人形でも扱うかのように。
「……っ」
「アルベルト! ……この野郎が!」
ブラックが刀に手を伸ばす。だがその手は柄に届く前に、男に掴まれ、捻られる。それから体が床へと叩きつけられた。
アクトは右手にナイフを、左手に無線を持っていた。そっとスイッチを入れて、送信状態にする。受信はしない。相手に無線のことを覚られてはいけない。
「あんたも組織の人間? 何が目的?」
男を睨みながら尋ねる。彼は首をかしげて、「うーん」とうなった。
「特に目的はないな。暇だから遊びに来ただけ。……でも、うん。やっぱり違うな。一瞬お前かと思ったけど、あの声はもうちょっと柔らかかった」
そして彼はアクトの右手を掴もうとした。だが、それは背後の人物によって止められた。
「そいつは俺のもんだ。手ぇ出すなよ、デカブツ」
「あ、立った」
男はディアを見て嬉しそうに笑うと、間髪を入れずに右手を拳に握り、ディアの腹に叩き込んだ。ディアはうめいて腹を押さえる。だが、倒れなかった。
「軽いな。ツキの奴、こんなのにやられたのかよ」
「……倒れないんだな、お前。びっくりだ」
軽いはずはない。むしろ、内臓どころか脳にまで響くくらい重い一撃だった。しかしディアは耐えてみせた。ここで自分に注意をひきつけておかなければ、アクトに矛先が向く。
「今度はこっちの番だぜ、デカブツよぉ!」
ディアが拳を振るう。今度は止められず、男の腹に打ち込まれた。男はうめいて咳き込んだが、なぜかあげた顔は笑っていた。
「いいな、その拳。軍人にしておくには惜しいよ。お前は殺さないでおいて、思いっきり喧嘩がしたい」
ディアの渾身の一撃を、この男はわざと受けたのだ。ただ、その力量を測るためだけに。ディアもアクトも、これにはぞっとした。男の嬉しそうな笑顔が、恐ろしかった。
殺さないでおいて、喧嘩がしたい? この男は、初めはディアを殺すつもりだったということか。ディアだけではない。ここにいる軍人全ての命を奪うつもりなのだろう。
しかし倒れた軍人たちは、まだ生きている。今回は殺さないでおいてくれるのだろうか。そうならありがたい。そう、心から思えた。
「あ、それ何?」
男が、ふと何かに目を留めた。アクトの左手だ。そこには無線が握られている。送信状態にした、無線が。
男の片目が興味深げに光った。とても美しい、海の色だった。

突然アクトから通信が入った。ニアが無線受信機に近づくと、アクトの声が聞こえた。
『あんたも組織の人間? 何が目的?』
こちらに呼びかける声ではない。少し離れたところから、他の誰かに呼びかけている。
「アクト? そこに誰がいるの?! ねえ!」
こちらから呼びかけても返事はない。どうやらこちらの音声を受信しないように設定しているらしい。
『特に……な。暇……。……でも、うん。……あの声はもうちょっと……』
誰かの声がする。アクトが話しかけていた相手だろうか。何を言っているのか、うまく聞き取れない。
だが、ニアはそのわずかな響きに、なぜか言いようのない懐かしさがこみあげてくるのを感じた。
『そいつ……だ。……、デカブツ』
『あ、……』
ディアらしき声がして、誰かがそれに反応したようだった。その直後、うめき声らしきものが聞こえた。ニアは耳をそばだてる。メリテェアは胸を押さえて、ニアの背中を見守っていた。
『……な。ツキ……、……やられた……』
『……倒れない……、……。びっくりだ』
ツキがやられた、と聞こえた。まさか、怪我でもしたのだろうか。
「アクト! アクトってば! ねえ、何が起こってるの?!」
ニアがどんなに叫んでも、向こうには届かない。だから、答えない。その代わり、ディアの叫びが聞こえた。
『今度はこっちの番だぜ、デカブツよぉ!』
おそらくはディアが反撃したのだろう。だが、そのあとは何が起こっているのか、よく聞き取れない。
『……、その……。軍人に……。……殺さないで……、……い』
相手が何か言っている。物騒な単語が聞こえたが、はっきりとはわからない。ただ、一つだけわかったのは、ディアが攻撃したのにそれが通用していないということだ。
『……、……何?』
誰かがそう言った直後、受信機がザザッと音をたてた。受信部に触れてしまったときに走るノイズ音だ。それから少しして、「誰か」の声がはっきり聞こえた。
『もしもーし、聞こえますかー? ……あれ、返事ないな。あ、これか』
何かのスイッチが入った音がした。向こうの受信ボタンが押されたらしい。ニアはとっさに叫んだ。
「アクト! ディア! 聞こえる?! 何があった?!」
だが、呼んだ者の返事はない。代わりに「誰か」が、声だけでもわかるくらい嬉しそうに言った。
『あ、この声! そうだ、音は悪いけど、絶対そうだ! なあ、お前の名前は?』
明るい声だった。昔よく聞いたような、懐かしくて、なぜか悲しくなる声だ。
「……君は、誰?」
ニアが問う。相手はしばらく沈黙していたが、やがて弾んだ声で言った。
『内緒』
それから、がしゃん、と音がした。無線が落ちたらしい。いや、落としたのか。
少し遠くから、細い声が聞こえた。
『ニア……さん、……っちは、大丈……』
「アクト?! どうしたの? 今のなんだったの?!」
ざり、と無線を手繰り寄せる音が聞こえた。アクトの声が、はっきりと聞こえるようになる。
『わかんない。突然現れて、今いなくなった。組織と関係あるかははっきりしなかったけど、軍人を狙っているみたいだ。……そいつに、ほとんどやられた』
「ほとんどって……ツキたちも?」
『ツキとアルベルト、ブラックも。でも意識はあるよ。ディアも殴られて痛がってはいるけど、たぶん大丈夫。こいつは無駄に頑丈だし。おれは突き飛ばされたけど、かすり傷で済んだ』
「そんな……相手はどんな奴?」
そのとき、電話機が呼び出し音を鳴らした。メリテェアがとり、話し出す。相手はクレインのようだった。メリテェアはしばらく相槌を打っていたが、次第にそこに焦りが混じり始める。もう一方も非常事態のようだった。
『ニアさん?』
「……あ、ごめん。なんだかこっちもあまり良くない状況みたいなんだ。そっちにはとりあえず、まだ待機している班と救護班を送る。さっきの人については、あとで改めて聞かせて」
『わかった。じゃあ、お願い』
ニアは無線を切って、メリテェアのほうを見た。ちょうど電話を終えた彼女は眉を顰め、悲しそうに、悔しそうに、言った。
「アーサー・ロジットがクリスさんたちの担当区域の路地裏で殺害されたそうです。そしてその容疑がハル君にかかり、クリスさんたちの判断で留置所に連れて行かれたそうですわ」
「そんな、どうして……こんなことばっかり次々に……」
だが、事態を憂えている場合ではない。ニアは他の班の無線に連絡をし、アクトたちのいる場所へ向かうよう伝えた。救護班にも待機していた班と合流するように指令を出し終えたところで、再び無線の呼び出し音が響いた。メリテェアが出ると、クリスの声が聞こえた。
『メリテェアさんですか? ボクです。クリスです』
「クリスさん、どうかしましたの? わざわざクライスさんの無線を使って……」
『ええ。実は、メリテェアさんに許可をいただきたくて。アーサー・ロジットの遺体を、検分させていただきたいのです。彼の身元について、疑わしい部分が多々ありますので、彼が本当にアーサー・ロジットという人間なのかどうかを確認したいのです』
メリテェアとニアは顔を見合わせた。本来、エルニーニャでは遺体に外傷がある場合や軍人が任務中に死亡した場合は、遺体の検分、つまり解剖ができないことになっている。ただ、将官以上の人間から特別な許可が下りた場合は別だ。二人は頷きあい、答えを決めた。
「わかりましたわ。特別に許可を出します」
『ありがとうございます』
アーサー・ロジットの遺体から、クリスが何かを見出してくれるかもしれない。ハルが助かるための手掛かりを掴んでくれることを祈りながら、ニアはドアに向かって歩き出した。
「ハル君のところに行くんですのね」
「はい。少しの間、お願いします。メリテェアさん」
「ええ、お気をつけて」
わからないことは多々あるが、そこはなんとかできる仲間に任せよう。ニアには、ニアにしかできないことがある。

留置所は、中央刑務所と併設してある。ニアが到着すると、すぐ近くにいた職員が、こちらの階級バッジを確認して声をかけた。
「これはこれは、大佐殿ではありませんか。何のご用件でしょうか?」
「さっき、ハル・スティーナって子が連れてこられたはずです。彼に会わせてください」
「ハル……? 聞いたことがありませんが」
どうやら彼は、ここに連れてこられた者の名前を把握していないらしい。ニアはやきもきしながら、ハルの外見を説明した。
「赤紫色の髪で、背はそんなに高くない、男の子の軍人です」
この国ではハルのような髪色の人間は珍しいので、こう言えばすぐにわかるはずだ。案の定、職員は納得したように言った。
「ああ、あの同僚殺しの件で連れてこられた少年ですか。あの少年なら留置所のB棟に連れて行かれましたよ。全く、あんな子供が殺しなんて、いったい何を考えているやら……」
職員が呆れたように、しかしどこか馬鹿にしたような笑みを浮かべて言った。その表情を見たとき、ニアの中で何かが切れた。もともと張りつめていた心の糸に、この職員の態度がとどめをさしたのだ。
ニアは職員の胸倉を掴み、その顔を見つめた。その眼は酷く冷たく、職員は表情を凍らせた。そこへ、冷気のような言葉を淡々と浴びせる。
「……君、あの子の何がわかるの? あの子は僕の部下だ。僕はあの子のことを、君なんかよりずっとずっとよく知っているよ。少なくとも、君にそんなふうに嗤われるような子じゃない。僕の部下を侮辱するような物言いはしないでいただきたい」
静かな怒りは、職員に恐怖と混乱を与えた。ただ、彼は懸命に謝り始めた。
「す……すみませんでした。もう言いませんので、どうか許してください……」
その言葉を聞いて、ニアは彼から手を離した。そして咳き込む彼に見向きもせず、施設内に入って行った。
B棟を進むと、すぐにすすり泣く小さな声が聞こえた。ニアは小走りでそこへ向かい、牢の中の小さな姿を見つけた。
「ハル」
呼びかけると、隅のほうで膝を抱えていた少年はびくりと肩を震わせた。そして恐る恐る顔をあげ、ニアの目を見た。
「ニアさん……?」
ずっと泣いていたのだろうか。頬に傷のできた顔も目も赤くなって、涙でくしゃくしゃになっている。ニアはふわりと微笑んで、ハルをまっすぐに見られるように屈んだ。
「大丈夫? 泣いてちゃ、顔の傷が痛いでしょう。はい、これ使って」
ニアがハンカチを差し出すと、ハルは躊躇いながらもこちらへやってきて、それを受け取った。「ありがとうございます」と小さく言うと、それで顔を拭いた。けれども涙は次々に溢れてくるようで、ハルはハンカチに顔をうずめたまま、嗚咽交じりに語った。
「ニアさん、助けてください。もう、ニアさんしか頼れないんです。誰も……誰もボクを、信じてくれないんです。クリスさんも、グレンさんも、みんな。ボクは……ボクは絶対にやってないのに……」
泣きじゃくるハルの頭に、ニアはそっと手を伸ばす。そしてその髪を優しく、丁寧に撫でながら、幼い子供に言い聞かせるような穏やかな声で言った。
「うん、辛いよね。苦しかったね。ハルはここまで、よく頑張った。僕が来るまで、一人で寂しいのに耐えたね。とても偉いよ。でもね、大丈夫。すぐにクリスやグレンが、君をここから出してくれるから」
ハルはそれを聞いて、ハンカチから顔をあげた。そして首をかしげる。
「グレンさんたちが? だって、ボクをここに入れたのに? ボクを……信じてくれなかったのに……」
ニアはゆっくりと首を横に振る。彼らの真意はわかっている。みんなが、同じ気持ちなのだから。
「ハル、そうじゃないんだよ。グレンたちが君をここに入れたのは、君がやってないって信じてるから。ここが君を守るのに、一番安全だからなんだ」
「どういう……ことですか?」
「ハルは殺してない。そんなのはみんなわかってるよ。真犯人は他の人だ。その人が、たとえば君がアーサーを殺したことを悔んで自殺したように見せかけて、君を殺してしまうかもしれない。それを防ぐために、君をここに逃がしたんだ。そうすれば、今後の捜査にも集中できるしね」
ニアがにこ、と笑うと、ハルはすがるように格子に手をかけた。そして、尋ねた。
「じゃあ、みんなボクを信じてくれてるの? ボクは……一人じゃないの?」
「もちろん。だから、安心して待ってて。すぐにここから出られるからね」
「……はい」
返事をしたハルは、もう笑みを取り戻していた。ニアはもう一度ハルの頭を撫で、それから力強く言った。
「よし、ハルも元気になったことだし、僕は戻るね。また、司令部で会おう」
しっかりと約束をして、ニアはその場をあとにした。
B棟を出ようとしたとき、前方に人が待っていた。シィレーネの叔父で施設の職員である、ケイアルス・モンテスキューだ。
「モンテスキューさん! どうしてここに?」
「ジューンリー大佐が来ていると聞いたので。……先ほどはうちの職員が失礼をしてしまったようで、申し訳ございませんでした」
モンテスキューが深く頭を下げるのを、ニアはあわてて止めた。
「僕も言いすぎたかもしれないので、もういいです。ハルに対する暴言だけ反省してくれれば、それで……」
「ハル……さっきここに来た、ハル・スティーナ君のことですね?」
さすがはモンテスキューだ。ここに来た者の名前は、しっかり把握していた。
「連れては来られたけれど……あの子は何もしていないのでは?」
「わかるんですか?」
「長年この仕事をしていますとね。……あの子に仲間を殺せるはずがない。あんなに小さいのに無実の罪をきせられて、可哀想に……」
モンテスキューは心の底からハルのことを心配してくれていた。ニアはそれがわかったから、彼にハルを託すことにした。
「大丈夫です。あの子は、ああ見えて強い子ですから。……でも、たしかにショックで参っているようなので、ここにいる間は彼をよろしくお願いします」
今度はニアが深く頭を下げる番だった。モンテスキューはニアに顔をあげさせ、しっかりと頷いてくれた。

倒した敵共を全員拘置所に送り、謎の人物に倒された軍人たちを救護班が手当てしている間に、アクトのもとにはクレインからの連絡が入っていた。
『……というわけで、ハル君は留置所に連れて行かれてしまいました』
「……そう」
先ほどの襲撃に加え、ハルが捕まってしまったという事実。二重のショックに、アクトの声も沈む。だが、次のクレインの言葉で復活せざるを得なくなった。
『そこで、アクトさんたちにお願いしたいことがあるんですけど』
「何?」
『アーシャルコーポレーションの近くの施設を調べてほしいんです。そこに、もしかしたら亡霊がいるかもしれないので』
「亡霊?」
尋ね返すと、クレインは詳細を教えてくれた。
アーサー・ロジットの遺体は本人ではなくクローンであった。彼はアーシャルコーポレーションに所属していた経歴があるので、もしかしたらその付近でまだ生きているかもしれないらしい。文書上では彼は行方不明になっているが、それが真実かどうかわからないので、本物のアーサーを捜して確かめてきてほしいとのことだった。
「ああ、わかった。すぐに向かうよ。何かわかったら連絡する」
『よろしくお願いしますね』
クレインには、こちらの状況は知らせていない。ニアやメリテェアからも聞かされていないようだ。それなら、平気なふりをして仕事をしよう。余計な心配はさせたくない。
「クレイン、何だって?」
手当てを受け終えたツキが尋ねる。アクトは無線をしまいながら答えた。
「うん、亡霊の確認をしてほしいって」
「何だよそれ」
「ここでは言えないから、詳しい説明は後。ツキ、動けそう?」
腹をやられていたが、内臓に影響はないだろうか。打ち身は大丈夫だろうか。心配事は色々とあったが、ツキは笑顔で答えた。
「もう全然平気。クレインの頼みとあらば、動かなくちゃな」
「そっか、じゃあ一緒に行けるな。ディアは? 動ける?」
少し離れた場所に呼びかけると、「なめんじゃねぇ」と返ってきた。問題なさそうだ。
「あとはアルベルトとブラックだけど……」
「あ、僕も平気です」
「本当かよ。……まあ、オレは問題ないけどな」
強がりな兄弟も、もちろん参加するつもりらしい。アクトは笑って、立ち上がった。
「それじゃ、頼まれごとをやってしまおうか。大事な話もあるんだ。つらいと思うけど、ちょっとだけ急ごう」
アクトの声に、状態を確認された四人も立ち上がる。救護班として来ていたシィレーネが、「本当はおとなしくしていてほしいんですけどね」と口を尖らせたので、「ごめんな」とだけ返しておいた。
移動する車の中でハルが留置所に入れられた件や、アーサー・ロジットの身元のことなどを話しながら、五人は夜の町を進んだ。
同時に、先ほどの戦いのことをニアにどう説明しようかということも、考えていた。
「あれ、中央刑務所に来たっていう黒髪黒目の男だよな。たぶん」
「間違いないだろ。……目はコンタクトレンズで色を変えてたみたいだけど」
「色、見たか?」
「……暗くて見えなかった、ってことにしたい」
見たものを、そのままニアに伝えるべきだろうか。伝えなければいけないはずなのだが、ごまかしたい思いもある。
あの海色の瞳は、ニアに見せてもらった写真で笑っていた人物と同じだった。髪なんて、染めればいくらでも色は変えられる。
「とにかく、クレインさんからの頼みごとが先でしょう。大佐への報告については、後で改めて考えましょうよ」
重苦しくて潰されてしまいそうな空気を、アルベルトが立ち直らせる。そう、今はそうするしかなかった。
そして調査の結果、やはりというべきか、アーサー・ロジットは生存していた。自分が軍に在籍していたことすら知らず、アーシャルコーポレーションでも表の仕事しかしていない。彼は本当に巻き込まれただけだった。
それをクレインに報告し、アクトたちも司令部へ戻ることとなった。ニアへの説明を、今度こそ考えながら。

ハルとの面会を終えて司令部に戻ってきたニアは、メリテェアに断りをいれると、いすにどっかりと腰かけた。深く息をつきながら、自分がいない間に起こったことをメリテェアから聞いた。
「アーサー・ロジットは、クリスさんによる検分の結果、クローンだということが判明いたしましたわ。アーシャルコーポレーションに在籍していましたから、彼のクローンを作ることは容易だったでしょう」
「なるほどね。本物は?」
「書類上は行方不明ということになっていましたわ。けれども、この書類の信憑性が疑われているので、クレインが調べてくれています」
「そう……」
ニアは点眼薬を取り出し、両目に点した。それから頓服薬を水を使わず飲み込み、最後に眼鏡を装着した。ことが重なり、一気に目に負担がかかっている。とくにアクトたちのもとに現れた「誰か」のことを考えると、目の前が暗くなるようだった。
あの声は、たしかに知っているものだ。求めてやまなかったものだ。だが、どうしてそこに現れたのか、どうして物騒な言葉を口にしたのか、……どうしてニアに「お前の名前は?」なんて訊いたのか、全くわからなかった。心のどこかに理解したくない自分がいた。
あれが彼だとしたら、なぜ軍人を攻撃したのか。彼は軍人のはずだ。軍人だったはずなのだ。ニアが最後に見た、あの瞬間までは。
電気がついているにもかかわらず、周囲がうす暗く見え始めた頃。無線受信機が鳴り響いた。ニアがふらりと立ち上がろうとするのをメリテェアが制し、代わりに連絡を受けた。
「こちらメリテェアですわ」
『クリスです。たった今、全てが終わりました。結論から言いますと、犯人はソフィア・ライアー。ただし今回の件は、被疑者死亡という結果に終わりました』
「死亡って……いったい何があったんですの?」
メリテェアとクリスのやり取りに、ニアは耳をそばだてる。どんなに疲れていても、悩んでいても、指揮官として事件の顛末は知らなければならない。

今回の事件の首謀者は、女性軍人ソフィア・ライアーだった。彼女はハルのクローンまでもを作りだし、アーレイドに重傷を負わせたという。
ハルをここまで貶めようとしたその理由は、ハルが軍にいることが、彼女らにとって都合の悪いことだったためだ。それが、なんとも信じがたいことなのだが――ハルが南の民サーリシェリア人の血をひく者であり、ソフィアたちは彼らの持つ「予知夢」の能力を恐れていたのだという。特殊能力を持つ者は、組織にとっていずれ邪魔になる存在だった。
そこで彼女はアーサー・ロジットのクローンを利用し、ハルに罪をきせた。アーレイドをハルのクローンに襲わせたのも、最後の一押しだったのだろう。全てはハルを軍から追放するための手段だったというわけだ。
アーサー・ロジットは、アクトたちが自分たちの怪我を気にせずに調べに行ったらしく、全く無関係であったことが発覚した。
そして最終的に、ソフィア・ライアーはこう言ったという。
「今回のことは私の単独行動だから、調べても何もわからないわよ。クローンにも、何の証拠も残していないわ。……これ以上組織について詮索されると困るから」
彼女はその言葉を残して、自らの手で命を絶った。
結局、彼女は今回の件にしか関わっていなかったのだろうか。それとも最後の言葉までも嘘で、本当は他の事件とも関わりがあったのだろうか。今となっては、もう何もわからない。
「……つまり、僕らがすぐにしなければならないのは、アーレイドのお見舞いか。無事だといいけれど」
「きっと大丈夫ですわ。アーレイドさんもお強いですから」
ニアは立ち上がり、メリテェアに支えられながら、病院へと向かった。

アーレイドの手術中、ハルがモンテスキューに連れられて病院へやってきた。もう無実が証明された彼は、自由に外を歩けるのだ。
「あの……アーレイドは?」
ハルがニアに尋ねる。ニアは眼鏡の奥で微笑んだ。
「大丈夫、命に別状はないよ。手術ももうじき終わる。……モンテスキューさん、ハルを連れてきてくれてありがとうございます」
「私は当然のことをしたまでです。それでは、お先に失礼いたします。彼の無事を祈っていますよ」
去って行くモンテスキューの背中を見送った後、手術室から医者が出てきた。アーレイドの手術は成功したということだが、背中を大きく斬られたおかげで、彼の長い髪は切らざるを得ないということだった。
それだけで済んで良かったと、みんなが安堵した。「よかった、よかった」と言いながら抱きついてくるハルを、ニアは優しく抱き返した。

今回の任務はこれでひとまず解決と相成った。メインであった危険薬物取引組織の壊滅も、大方は果たせたと思われる。少なくとも大きな組が二つ壊滅したのは間違いない。
アーレイドも無事目を覚まし、ハルと共に語り合ったという。
被疑者死亡のためにスパイについての詳細な情報は得られなかった。それはまた別の方面から調査しなければならないだろう。
何にせよ、メリテェアとニアの指揮官としての役目も、これで終わりだ。
「ニアさん、お疲れ様でした。……まだ、眼鏡は外せませんの?」
事件の晩が明けた日の夕方、ひとまずの報告書をまとめ終えたニアに、メリテェアが尋ねた。
「うん、まだちょっと気になることがあってね」
「……例の、アクトさんたちのところに現れた人物ですわね」
任務の報告が片付いた今、ニアにはアクトたちに確認しなければならないことがある。あの無線から響いた声の主は、いったい誰だったのか。
いつも手帳に入れている親友の写真を手に、ニアはアクトのもとへ向かった。
「……あ、ニアさん」
「アクト。……それに、ディアとツキ、アルベルトにブラックまで」
その途中で、こちらへ向かってくる彼らと鉢合わせた。向こうも同じことを考えていたらしい。六人は第三休憩室に入り、机を囲んだ。
ニアがどう切り出したものかと思っていると、先にアクトが言ってくれた。
「ニアさん、おれたちが会った奴のことだけど。……黒髪黒目の大柄な男。中央刑務所に来た人物で間違いないと思う」
初めに彼が目撃されたのは、中央刑務所だった。軍の大尉の格好をして、南方殲滅事件首謀者ボトマージュに面会に来たのだ。
その後、彼はライズ村の長の娘クオレの送迎をしている。そのとき、彼が髪を染めていることが判明した。地毛の色は、ダークブルーだ。
三度目はアーシャルコーポレーション事件のとき。レスター・マクラミーに軍を訪れることを進言したというのも、黒髪黒目の男だった。
それからぱたりと見なくなったかと思えば、今回の四度目だ。あまりにも堂々とした登場だった。
ニアは目の前にいる五人に、知りうる限りの「黒髪黒目の男」の情報を話した。本当はもっと早くに、全員に言うべきだった。
「……そう、地毛はダークブルー、ね」
アクトがぽつりと、その情報を呟く。そして、躊躇いがちに言った。
「ニアさん、申し訳ないんだけど……カスケードさんって人の写真、持ってるよね。見せてくれない?」
ニアは息を呑む。そして、写真を手帳から取り出す前に、眼鏡を外した。自分の目で、これから起こることを確かめたかった。
「……はい、どうぞ」
写真を差し出すと、アクトたちはそれをじっと見つめた。そして、顔を見合わせた。言うべきか、言わざるべきか、迷っているようだった。
しばらくして口を開いたのは、ディアだった。
「正直、顔まではわかんねぇ。よく見えなかったし、化粧で変えてたかもしれねぇ。……でも、これだけははっきりしてる。強く印象に残ってるんだ」
直接対峙したディアの脳裏には、鮮明に残っていた。
その鮮やかな、海色の瞳が。
ああ、これで。ダークブルーの髪に、海色の瞳が、そろってしまった。
「……そう。彼は、こんなに近くにいたんだね」
ニアはそっと写真を撫でた。あんなに捜していたのに、会いたいと思っていたのに、彼が存在していることがわかった途端に苦しくなるのはなぜだろう。
「どうしてだよ……一緒に、人を助ける軍人になろうって……そう言ったじゃないか……!」
間違いないのは、彼――カスケード・インフェリアと思われる人物が、軍人を殺そうとしていること。それも、脅威的な強さを持って。


鼻歌まで歌って、どうやら非常に機嫌がいいらしいカスケードに、ビアンカはつい尋ねてしまった。
「どうしたの? 何か良いことあった?」
「ああ、すごく良いことだ! いつも夢の中で聞いていた声が、現実にあったんだ!」
夢の中の声。カスケードがよく言っている、彼の名を呼ぶ優しく柔らかな声。それにビアンカは、心当たりがあった。だからこそこれまで、それを明かさずにきた。
それなのに彼は、とうとう探し当ててしまったのだ。
「……会ったの? その、声の主に」
「いいや、無線で聞いただけ。やっぱり軍にいたんだな」
「そう、軍に。……軍にいるなら、殺さなきゃ、だよね」
「そうなんだよな。それがすごく残念だ。……せめて本物に会って、俺の手でやりたいな。あ、そうそう。喧嘩がすごく強い、面白い奴もいてさ……」
カスケードがどこで何をしてきたのか、ビアンカは知らない。ずっと研究室にこもっていて、彼が勝手に外出したことさえ知らなかった。変装はしていたようだから、正体はばれてはいないはずだ。
だが、彼は会いたがっている。絶対に会わせてはいけない人間に。すでに声を聞いてしまった。実在すると知ってしまった。
それがきっかけで、彼の記憶が戻ったら? 今までのことはすべて無駄になり、ビアンカは彼と離れなければならなくなる。
そんなのは駄目だ。そうなる前に、かたをつけなければ。
「……ねえ、カスケード。もしもその声の主が、カスケードが手を出す前に死んじゃってたら、諦める?」
ビアンカの問いに、カスケードは首をかしげて答える。
「? そりゃあ、諦めるしかないよな」
「そうよね……」
それしか、方法はない。自分が先にやってしまおう。
ニア・ジューンリーを、消してしまおう。





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posted by 外都ユウマ at 21:49| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年01月27日

Reverse508 第十四話

再びあの不快な人物に関わらなくてはならないなんて。そう思うと、憂鬱で仕方がない。だが、そうしなければならないのだ。それが“あの方”の命令なら。
カスケードはいつもの変装をし、彼と合流した。黒髪にライトグリーンの目をした男は、相変わらず人を見下すような態度をしていた。こちらのほうが背はずっと高いのにだ。
「君は取引のときにいたな。まさか君が出迎えてくれるとは思わなかったよ」
国境付近の町で出会った彼からは、血のにおいがした。どんなに香水などでごまかしていても、カスケードにはなぜか彼が殺人を犯してきたということがわかってしまった。
「誰か殺したんですか」
率直に尋ねると、相手は目を丸くした。しかしそれから声をあげて笑った。
「そうだね、誰かを殺したよ。誰なのかはいちいち憶えていないけれどね。……ああ、でも、やはり若い女はいいな。肉が柔らかくて、刃を入れるたびにぷつりぷつりと健康な血がわいてくる。そういう女が、僕の欲をかきたててくれるんだ」
聞いてほしくて仕方ない、というように、彼は語り続けた。カスケードはそれを右から左へと流す。
「君も一度体験してみるといい。組織の者なら、機会はいくらでもあるだろう」
「あいにく、まだ人を殺したことはありません。いずれ殺すための準備はしていますが」
「それならそのいずれの機会にやってみるといい。死んだばかりのまだ温かさが残る女は、抱くのには最高だ」
下卑た話は好きではない。性的なことには、あまり関心がない。ビアンカすら、五年前に数回抱いただけだ。向こうから、半ば強制的に誘われて。
――早く終わらせたいな、この仕事。
彼を首都に連れて行くまで、まだかなりの時間がかかりそうだった。


ノーザリア危機を越え、ジューンリー班の地位もそれなりには認められてきた。問題行動の多い人間の集まりだと揶揄されていたこともあったが、今では将官からも一目置かれるようになっていた。
そのおかげで、ようやく待ちに待った「特例措置」がとられた。他に例を見ない、佐官をリーダーとしての国外任務。皮肉にもノーザリア危機でのディアの「報告」やニアの活躍が、それを支えることとなった。
「さて、これから会議を始めるよ」
ニアはこれまでの記録をまとめたファイルと、大総統からの命令書を、並べて机の上に置いた。これからこの第三会議室で始まるのは、異例の作戦の会議だ。
「東方諸国連続殺人事件の、捜査協力要請がついに僕らにきた。心してかかるように」
東方諸国連続殺人事件とは、東の小国で国境をまたいで行われていた殺人事件だ。しばらくは各国で一件か二件ずつ行われていたものが、二カ月ほど前から一か所で何件も続けてなされるようになった。しかし犯人の手掛かりが掴めず、また過去にエルニーニャ中央部で似た事件が起こっていることから、こちらに協力要請が来ていたのだった。
しかし、国外の事件に関わることができるのは、原則将官以上ということになっている。大佐であるニアが指揮を執る許可を得るまで、そしてそれが実行できるまで、長い時間をかけてしまった。
その間に事件も悪い方向に進展していた。連続殺人は、別の国で起きるようになっていたのだ。犯人はターゲットを変えたのである。
そこで、今回捜査するのはもと殺人事件が多発していたユィーガではなく、最近になって連続殺人が起きたイストラになった。どれも手口は同じなので、同一犯と見てほぼ間違いない。外れてもかなりマニアックな模倣犯だ。真犯人とつながっている可能性は高い。
この任務に参加するのは、ニア以外に四名。ディアとアクト、アルベルトと、そして唯一の尉官であるブラック。リーダーはニアだが、捜査の主軸はアルベルトとブラックだ。これは、彼らの事件なのだから。
だが、ディアとアクトはそれを知らない。案の定、質問が上がった。
「将官の仕事なら、将官に任せとけばいいじゃねぇか。俺たちがここまでする理由が見えねぇな」
「おれもわからない。どうしてこの任務が佐官に下りてきたのか、それから、どうして中尉であるブラックまで一緒なのか」
アクトがブラックに視線を向けると、ブラックはそれを睨み返した。それをニアが諌める前に、アルベルトが発言した。
「ディア君とアクト君には、話しておかなくてはなりませんね。実は、この事件とよく似た事件が十七年前にレジーナ郊外で起こっているんです。その被害者が、ブラックのお母さんなんですよ」
「お前、また勝手に……」
ブラックは舌打ちこそしたが、アルベルトの説明をやめさせることはなかった。それで、ディアとアクトもようやく理解した。この件には、ブラックが関わらなければならないのだと。
「そっか、その事件ともし同一犯だったら、ブラックはお母さんの仇をとらなくちゃならないのか」
「そう。それで今回は特別に連れていくことになったんだ。それだけじゃなく、この事件はさらに根深くて、二十五年前にもある小国で同じ手口の事件が起こっている。こっちは犯人は入水自殺したってことで一旦片付けられたんだけど、もし生きているとしたらとんでもないことになる。二十五年もの間、ずっと殺人犯が野放しになっていたってことだからね。それを詳しく調査してくれたのが、アルベルトだった」
「はあ?!」
あまりに意外だったのか、ディアが驚愕の声をあげる。しかしアルベルトは落ち着いて頷いた。このことは任務に参加する者には話すべきだと思っていた。
「ずっと追っていました。僕も、ブラックも。……この一連の事件の犯人は、ラインザー・ヘルゲインという男です。彼はリーストックという偽名を使って、リーガル家の婿となって一子を得、さらに他の女性との間にも子供を作りました。それが、僕らです」
「……本当に?」
「マジかよ……」
ディアとアクトが、頭を抱える。こんな事実、あってほしくなかった。だが、それがなければアルベルトとブラックはここにいない。
「本当は、僕ら二人でけじめをつけるつもりでした。しかし東方諸国連続殺人事件として公になってしまった以上、そうもいきません。そこで大佐に協力を依頼し、リルリア准将を通じて、僕らに仕事として下ろしてもらうようにしたんです。……ですよね、大佐」
アルベルトの説明に、ニアは頷く。ここまで来るのには大変な苦労をしたし、大総統やメリテェアにも手間をかけさせた。たくさんの助けがあってここにある以上は、絶対に犯人であるラインザーの手掛かりを得なければならない。捕まえられれば、もっといい。
「責任、指揮は僕が執る。でも、その場の行動選択はアルベルトとブラックに一任しようと思う。今回の任務は、そういうものだ」
ついに、このときがきた。追いかけてきたものに、手が届く瞬間が。

エルニーニャ王国とその東西南北にある大国の隙間を埋めるように、小国は存在する。そのうちの一つが、東方に位置するイストラ国だ。治めているのは女王で、軍は国防大臣の指揮の下で動く。
女王に謁見したあと、ニアたちはイストラ軍の施設を見てまわった。エルニーニャのものよりも規模は小さいが、設備は十分に整っている。周囲を確認しながら寝泊りに使わせてもらえるという施設へ向かっていた、その途中のことだった。
「貴様らだな、エルニーニャから来たという若造は」
年齢は三十代か四十代といったところだろうか。ディアよりも大柄の男が、こちらに声をかけてきた。
「はい、これから数日、お世話になります。エルニーニャ王国軍中央司令部大佐、ニア・ジューンリーと申します。そしてこちらが……」
ニアが名乗り、引き続き部下たちを紹介しようとしたときだった。男はニアの頭を掴み、そのまま壁に叩きつけた。ゴンッ、という鈍い音が響く。
「ニアさん!」
「ニア!」
とっさにディアとアクトが駆け寄るが、男はそれを睨むだけで足止めした。その気迫に、二人は立ち止まるしかなった。
男はニアを壁に押し付けたまま怒鳴った。
「大佐、だと? ユィーガには将官を寄越したくせに、うちには佐官か。随分となめられたものだな!」
「……けっして、イストラを蔑ろにしているわけではありません。今回は責任者である僕が、無理を言って引き受けてきたんです」
痛みをこらえながら、ニアは言う。それを聞いた男は、ニアの頭から手を離すと、再びこちらを睨み付けた。
「俺は大将のジョグ・モールズ。貴様らが手を付けるという連続殺人事件の捜査指揮だ。貴様らにこの件は任せておけん。とっとと偉い大国にでも帰るんだな」
「お言葉ですが大将殿、我々は全身全霊をかけて、この任務に臨んでいます。そちらの持っている情報とこちらの持っている情報を合わせれば、必ずや手掛かりが得られると確信しています!」
ニアは怯まずに返すが、モールズ大将は鼻で笑った。
「どうだかな。……案外、貴様らも犯人の仲間かもしれん。疑いのある者は徹底的に疑わなければ、今回の事件は解決できん」
「……っ!」
犯人の仲間、という言葉に反応し、ブラックが自分の刀に手をかけようとする。それをアルベルトが止めたが、モールズ大将にはしっかりと見られていた。彼はブラックをねめつけると、その髪を鷲掴み、顔を近づけた。
「貴様、今刀を抜こうとしたな? エルニーニャ王国のバッジの色は知っているぞ、貴様は尉官じゃないか。なぜ尉官なんぞがここに来た。なぜ刀を抜こうとした」
「やめてください! ブラックはそんなつもりでは」
「黙っていろ、貴様が一番軟弱に見える!」
アルベルトが止めようとするが、それも空しく、モールズ大将はブラックに罵声を浴びせ続ける。
「やはり貴様も犯人の仲間ではないのか? あの忌々しい殺人鬼の!」
「……一緒にするんじゃねーよ……!」
「ほう、目上の者に対してそのような口のきき方をするのか、貴様は……」
モールズ大将は、ブラックの髪を掴む手に力を込めた。ブラックの表情が、痛みと怒りに歪む。
「やめてください! 彼は僕の部下です、発言の責任は僕がとります!」
ニアが止めに入って、ブラックはやっと解放された。モールズ大将はこちらに背を向けながら、「若造が……」と呟いていた。
「ブラック、大丈夫?」
ニアはブラックの身を案じて頭に触れようとするが、その手は弾かれた。
「触るな。……お前こそ、頭打っただろ」
「僕は平気。あんなの十三年も軍人やってれば慣れっこだし。……それにしても、厄介な人がトップにいるみたいだね」
情報は仕入れられるのだろうか。捜査は進展するのだろうか。手荒い歓迎に、ニアたちは不安と怒りを覚えていた。

宿泊施設は質素なもので、打ちっぱなしのコンクリートの壁がどこか拘置所のような雰囲気を漂わせていた。借りた部屋は三部屋で、ニアは奥から二番目の部屋を一人で使うこととなった。
荷物を置いてすぐに、長距離用の特殊無線を手に取る。メリテェアたち中央司令部の人間との連絡用だ。
「メリテェアさん、今いいですか?」
声をかけると、常に待機してくれているのか、すぐに返事があった。
『はい、メリテェアですわ。そちらの様子はいかが?』
「今のところ異常は……まあ、かなりこっちがピリピリしてますね。担当の大将は特に苛ついているみたいです。ブラックが危うく暴力を振るわれそうになりました」
『まあ……。お気をつけくださいね、お怪我などなさらないことを祈っておりますわ』
「ありがとうございます」
通信が切れると、部屋は静かになる。いや、両隣からそれぞれの話し声がわずかに聞こえていた。どちらも先ほどのモールズ大将の行動に苛立っているらしい。
後ろ頭をさすりながら、ニアはこれまでの事件についての資料を広げた。昔――正確には二十五年前だと判明した――小国で起こった連続一家殺人事件、十七年前に起きたブルニエ・ダスクタイト殺害事件、そしてその後の連続殺人事件。その全てがわかりやすく、かつ詳しくまとめられている。アルベルトとブラックの執念が込められたものだ。危険薬物についてはニアが提供した資料もあるが、これにもさらに様々な情報が加えられていた。
国外任務が決まったと告げたとき、アルベルトは複雑な表情をしていた。悲願の実現への期待と不安が入り混じっていたのだろう。ブラックはそんな彼を心配しているように見えたが、きっとそれを言うと必死に否定するのだろう。彼は照れ屋だから。
やはり、二人は兄弟だった。たとえ彼らを繋ぐ血が凶悪殺人犯のものでも、彼らはごく普通の兄弟になれるはずだと、ニアは思っていた。彼らは互いに、想いあっている。
皮肉なものだ。ラインザーがいなければ、彼ら兄弟は生まれてすらいなかったのかもしれないのだから。
資料を読みながら考えを巡らせていると、ドアをノックする音が響いた。ニアが戸を開けると、そこには一人の青年が立っていた。年の頃は同じくらいだろうか。
「こんばんは、ジューンリー大佐。私はイストラ軍大佐を務めております、オファーニ・ルークと申します」
「こんばんは。ニア・ジューンリーです。どうぞよろしくお願いします」
人の良さそうな青年だった。常に笑顔を浮かべている。握手を交わし、ニアは彼を部屋に入れた。
「今回の任務、ご苦労様です。わざわざ遠いところから来てくださるなんて」
「いいえ、とんでもないです。ここにきてすぐに、大将殿に叱られてしまいましたから」
ずきり、と後ろ頭が痛む。だがそれを隠すように、ニアは無理やり笑みを浮かべた。オファーニは「大将」と聞いて、すぐにその人物がわかったようだった。
「モールズ大将ですね。……あの人は短気ですから、気にしなくていいですよ」
「でも、今回の事件の責任者なのでは」
「実質的に動いているのは私です。あの人のは単なる執念ですよ。それよりジューンリー大佐」
ニアは「執念」という言葉が気になったが、オファーニが流すので、それを問えない。ただ、彼の話を聞いていた。
「あなたはこの事件についてどのような感想を抱いていますか? たとえば、残酷だ、とか、人間の仕業とは思えない、とか」
こんな言葉を、目の前の彼は笑顔で問う。ニアは一種の気味悪さを感じながら答えた。
「酷いとは思いますよ。手口も悪質ですし」
「……そうですか」
余計なことは言えないと思い、ありきたりな言葉でごまかした。だが、オファーニは納得がいかないような顔をして、立ち上がった。
「ジューンリー大佐、明日はこちらの資料を見ていただきます。モールズ大将のことはどうぞお気になさらずに。それではおやすみなさい」
流れるような動作で、オファーニはさっさと部屋を出ていってしまった。ニアはただ茫然と、閉まるドアを見ていた。
イストラ軍には、奇妙な人ばかりがいるようだ。

素早く支度を終え、イストラ軍へ改めて挨拶に行き、これまでの事件資料を見せてもらう。それが今日の予定だったのだが、そう簡単にはいかない。イストラ軍には、この男がいるのだ。
「若造ども、止まれ!」
「……おはようございます、モールズ大将」
つとめてにこやかに挨拶をしたニアに対し、モールズ大将は鋭くこちらを睨み付ける。
「おはようございます、か。就業まであと三十分しかないのに、とんだ時差ボケだな」
馬鹿にしたように鼻で笑い、ついでにアルベルトを突き飛ばすと、彼は去って行った。よほどこちらが気に入らないらしい。
「大丈夫か?」
よろけた体をディアに支えてもらい、アルベルトは体勢を立て直す。
「はい、すみません……」
「お前のせいじゃねぇよ。……あいつ、マジで嫌な奴だな」
ディアは以降機嫌をすっかり損ね、歩き方も乱暴になった。アクトにたしなめられても直らないところを見ると、よほど苛ついているのだろう。彼以外は気を取り直して事務室へ向かい、挨拶をした。
「おはようございます。今回お世話になります、エルニーニャ王国軍中央司令部大佐ニア・ジューンリーと申します。そして……」
「ジューンリー大佐!」
部下の紹介をしようとしたところへ、にこやかな表情の人物がやってくる。まぎれもなくオファーニだ。挨拶はいったん中断せざるを得なくなった。
「ルーク大佐、おはようございます」
「オファーニで構いません。そちらが部下の方ですね」
オファーニはニアの後方にいた四人を一通り見る。「これから紹介しようと思っていたんです」とニアが言うと、「お願いします」と返ってきた。
「こちらからディア・ヴィオラセント中佐、アクト・ロストート中佐、アルベルト・リーガル少佐、ブラック・ダスクタイト中尉です」
ごく自然に紹介したつもりだったが、ある時点でオファーニの目つきが変わったようだった。気づいたのはニアだけではなく、その変化のきっかけとなった本人も息を呑んだ。だが、それを追及する間も与えずに、オファーニは言った。
「ありがとうございます。私はここの大佐のオファーニ・ルークです。みなさん、どうぞよろしくお願いします。それではさっそく、こちらでお話しましょう」
オファーニは事務室の奥のドアへ進み、ピアノを弾くように軽やかに指を動かすと、そのロックを解いた。どうやらパスワード式の鍵がついているらしい。それを思わず感心しながら見ていると、オファーニは大仰な仕草と共に言った。
「さあ、ジューンリー……いえ、ニアさん。私と二人きりで話しましょう。他の方はこちらのココノエ大尉がご案内しますので、応接室へどうぞ」
ニアは他の四人に目配せし、部屋の中に入った。アルベルトたちは女性大尉に連れられ、応接室へと連れて行かれた。

厳重なドアの向こうにあったのは、いたって普通の部屋だった。本棚には本が隙間なく並び、部屋の中央にはテーブルとソファがある。しかしながらどうにも落ち着かない感覚に襲われつつ、ニアは勧められるままにソファに腰かけた。
「さて、ニアさん。なぜあなたとお話がしたかったかというと、あなたの部下に気になる方がいたからです」
オファーニは笑みを崩さずに、ニアの真正面に座った。そして、何でもないことを言うようにそれを口にした。
「あのアルベルトという少佐、ラインザー・ヘルゲインの息子ですね」
「!」
ニアは言葉を失う。なぜオファーニがそれを知っているのか。いや、そもそも二十五年前に死んだことになっているラインザーが生きていると、なぜ彼は知っていたのか。疑問は尽きないが、ひとまず落ち着いて尋ね返す。
「どうしてそう思うんですか?」
「二十五年前の連続一家惨殺事件、これに私はとても興味を持っていました。そうして調べていくうちに、その犯人ラインザーは生きているという結論に至ったのです。これは私以外誰も知らないはずの情報なのですが、ラインザーは顔と名前を変えてエルニーニャに渡り、エルニーニャ王国の運輸会社リーガル社の娘と結婚しました。アルベルトという名の子もできたと聞いています。さらにあの髪と眼。ラインザーと全く同じ色ですね。ここまで揃えば完璧に、彼がラインザーの実子だといえるでしょう」
得意げにオファーニは語る。だが、その発言はおかしい。ニアはオファーニを見つめ返すと、その発言に潜む奇妙な点を一つ一つ暴くことにした。
「なぜラインザーが生きているという結論に至ったんですか?」
「ここ最近の事件ですよ。手口が酷似している。模倣犯にしては正確すぎる。これは本人にしかできないことでしょう。東方諸国連続殺人事件が、彼の生存を証明したのです!」
弁に熱が入っている。しかしニアはそれに引きずられない。
「あなた以外知らないはずのその情報は、どうやって手に入れたんですか? ラインザーの見た目に関しては?」
「ですから独自に調べたのですよ。見た目は写真があればわかります」
「独自に、とはどのような方法で? そこまで詳しい情報ならば、情報源もたしかなものなのでしょう。いったい誰がそんなことを言ったのですか?」
「誰がって……資料を紐解いて調べれば、」
「あなたはたしかにラインザーに子供ができたと“聞いています”と仰いましたよ。誰かから聞いた情報でなければ、そんなふうには言わないと思いますが」
オファーニの笑みがひきつった。ニアはすでに、目の前の大佐と名乗る男に疑いを持っていた。彼がここまで詳細な情報を持っている理由を考えるとすれば、答えは一つ。彼が本人に直接あるいは間接的に接触したからだ。
「あなたはラインザーという人物に会ったんですか?」
ニアが問い質すと、オファーニは笑顔で答えた。
「いいえ」
感情の読みにくい表情だ。ニアは舌打ちしたいのを抑えて、もう一度問おうとした。
「あなたはどうやってそれらの情報を」
「ところでニアさん、あなたは部下が大切ですか?」
だが、突然の質問で打ち切られる。これ以上は何も触れるなというように。それがますます怪しかったが、ニアはその問いに答えることにした。
「当然大切ですよ。僕は部下に助けられてばかりですし、みんな良い部下ですから」
「“良い部下”ですか……」
オファーニはニアの言葉を繰り返すが、その言い方には馬鹿にしているような感さえある。ニアが眉を顰めると、オファーニは相変わらずの笑顔で言った。
「あなたは幸せですね。“良い部下”と言い切れるんですから」
そう言って彼は立ち上がり、ドアのロックを解除した。もう話は終わりらしい。これ以上追及されたくなかったのだろうと、ニアは思った。

オファーニのあとについてやってきた応接室では、先に来ていた四人と、イストラ軍の女性大尉が談笑していた。しかし彼女はオファーニが来ると、すぐに立って敬礼をした。
「お待ちしておりました、両大佐」
「ええ、お待たせしました。……ニアさん、彼女はナナツ・ココノエ大尉です。本件を担当する一員です」
「よろしくお願いします、ジューンリー大佐」
黒髪を結った、きびきびとした態度の女性だった。ニアの知っている女性たちとは、また違う魅力がある。
「さて、さっそく資料を見てもらいましょうか。ココノエ大尉、お願いします」
オファーニの指示で、ナナツが資料の公開を始めた。被害者の状況や遺留品など、一つ一つ丁寧に説明してくれる。その中に、ニアは気になる名前を発見した。
モールズ。被害者女性の一人の、ファミリーネームだ。顔写真を見ると、そこにはわずかながら、あのモールズ大将の面影があった。
「……彼女、モールズ大将と何か関係が?」
ニアが訪ねると、ナナツは俯いた。代わりにアクトが答える。
「さっき聞いたんだけど、その人、モールズ大将の娘さんらしいよ。あの人、娘さんを守れなかったことをかなり悔やんでるらしい」
そうか、と気づく。モールズ大将の「執念」とは、このことだったのだ。娘を守れなかった悔しさが、彼を厳しくしているのだ。その想いを、他人にぶつけてしまうのだ。なんとしても解決したい事件なのに、ユィーガのときと違って佐官が来るという状況は、たしかに彼にとっては良くないことだったのかもしれない。
「大将のことはもう良いでしょう。あの人は娘さんにこだわるあまり、周りが見えていません。こちらで冷静に対処したほうがいい」
オファーニはそう言って、資料に話を戻す。だが、ニアも、仲間たちも、モールズ大将のことが気になっていた。

事件は、その矢先のことだった。その夜、部屋に届いた一報に、ニアは愕然とした。現場に辿り着いたときには、もう何も言葉が出なかった。
「……んだよ、コレ……」
「惨いな……」
ディアとアクトが呟くのが聞こえた。本当に、そうとしか言えない状況だった。
廊下は液体で真っ赤に染まり、イストラ軍がその処理にあたっている。その隙間から、カバーをかぶせられている、倒れた人間が見えた。話によると、あれがモールズ大将の亡骸だという。
「……大将が、そんな。どうして……」
震える声は、ナナツのものだった。両手で顔を覆う彼女の背を、アクトが優しく支える。彼女はモールズ大将を尊敬していたらしく、彼の娘とも親友だったそうだ。ニアがオファーニと話していたあいだ、他の四人は彼女とそんな会話をしていたらしい。
「ナナツさん、戻ったほうがいい。これ以上ここにいるのは、辛いと思う」
ナナツはアクトに頷き、ふらふらと戻っていった。イストラ兵が一人、彼女に付き添っていった。
それと入れ替わりに、オファーニがやってきた。大将の亡骸に近づくと、少しも躊躇せずにかけてあったカバーを捲った。……ナナツが去った後で、本当によかった。遺体は切り刻まれ、内臓も外に引きずり出され、酷い有様になっていた。
「……一連の事件と同じですね。大将まで被害者になるとは思いませんでした」
こちらを振り返ったオファーニの顔は、笑っていた。
「……どうして笑えるんですか、こんな状況で」
「すみません、これが地顔なもので」
ニアにさらりと答えると、彼は周囲の者に命じて、モールズ大将の遺体を片付けさせようとした。しかしその大柄な体を運ぶのは難しく、移動がままならない。
「困りましたね……手伝ってくれますか? ニアさんと、その部下の方々」
ニアたちはすぐに遺体に歩み寄り、カバーの上から倒れた体に手をかけた。悲しい重みが腕にかかる。遺体は軍施設内の医療施設へ運ばれた。
アルベルトとブラックは、遺体を運び終えた後で合流した。そのとき、すでに現場はイストラ軍によって処理された後で、血液もサンプルを採り写真を撮ってから、拭き取られていた。
「大佐、モールズ大将は……」
「今は会えない。明日にはきれいな状態で会えるって」
ニアが首を横に振ると、アルベルトは掴みかかるように言った。
「それじゃ意味がない! 僕は、僕は……!」
真剣な眼差しを、ニアは止めることができなかった。そんなことができるはずはなかった。
「……かなり酷い状態だったよ。耐えられる?」
「僕は殺人事件担当の軍人だったんですよ。それに、大将の痛みに比べたら何でもないです」
「そうだね……うん、行こうか。大将はさっき、僕らが医療施設に運んだ。これから検分が始まると思う」
アルベルトとブラックを連れて、ニアは来た道を戻った。一度ここに来たのは、何か手がかりが残っていないか確認するためだったのだが、何も見つからなかった。
それを二人に報告すると、彼らも話してくれた。モールズ大将に最後に会ったのは、おそらく自分たちであること。そして、大将が娘を救えなかったことを悔んでいたことを。
「大将は言っていました。軍人のくせに、一般市民としてのあの子も守れなかった。父親のくせに、あの子が死んだ後にしか会えなかったと。……自分も、殺人犯と同じだと」
「オレたちがもう少しあの場に留まっていれば、大将は殺されずに済んだかもしれねーんだ。だからこれは、オレたちが解決する。絶対に」
二人の強い意志が、ニアに伝わってくる。――伝えてくれるようになったのだ。ニアのことを、以前よりもずっと信じてくれるようになった。それならば、こちらも協力を惜しまない。
「どうしたんだ、ニア? 現場見に行ったんじゃねぇのかよ」
医療施設の前に、ディアがいた。部屋に戻ろうとしていたらしい。アクトはモールズ大将の遺体を検分する、その補助を頼まれたのだという。おそらく、この奥にいるはずだった。
「アルベルトとブラックが、大将に会いたいって。これから検分に参加できないかな」
「ブラックはともかく……アルベルトはやめといたほうがいいんじゃねぇか?」
「平気です」
たったひとことだけ、はっきりと返して、アルベルトは奥に進んだ。ブラックがそれを追いかける。
それを見ていたディアは、怪訝な表情をしていた。
「ニア、アルベルトの奴、雰囲気違うよな?」
「あれもアルベルトだよ。オロオロしてても、真剣な表情をしてても、彼は彼だ」
そうしてニアも、奥へ進んだ。
ニアたち三人が手術着に身を包み、作業中の室内に入ると、先に中にいたアクトはひどく驚いたようだった。
「ブラックはともかくとして……。アルベルト、来て大丈夫なの?」
「はい。……僕、もともと西方で殺人事件担当だったので。遺体は見慣れています」
「ああ、そう……」
初めて見る雰囲気のアルベルトに、アクトも戸惑っていた。だがすぐにイストラの軍医と軍人たちに話をつけ、遺体を見られるようにしてくれた。
ニアはアルベルトとブラックとともに、モールズ大将の死に顔を見た。今にも怒鳴りだしそうなのに、実際、それは二度とかなわないのだ。
「……ブラック、あの人のやり方は覚えてるね?」
「当たり前だ」
二人が検分に臨むのを見届け、ニアはそこを離れた。
「アクト、二人を頼んだよ。僕はエルニーニャに連絡をしなくちゃ。終わったら一緒に戻ってきて」
「……わかった」
頷くアクトと、アルベルトとブラックを残し、ニアは手術室を出た。装備を外して廊下に出ると、ディアはまだそこにいた。どうやら戻るのをやめ、アクトたちが出てくるのを待つことにしたらしい。
彼に後を任せて、ニアは部屋に戻った。すると、ちかちかと光るものがあった。無線が、信号を発している。向こうからの連絡を受信していたらしい。
エルニーニャとイストラは、若干の時差がある。向こうは今、真夜中のはずだ。
「……はい、こちらジューンリー」
怪訝に思いながら無線をとると、切羽詰った声が聞こえた。
『ニアさん! 何やってたんですか?!』
カイだ。なぜかひどく焦っているようだ。何かあったのだろうか。
「ごめん、こっちも立て込んでて。どうしたの?」
『殺人事件なんです! 一家全員、無残な姿で発見されました。メリーに言われて連絡したんですけど……』
メリテェアの指示で連絡が来る殺人事件。それはつまり、こちらとの関係性が疑われているということだ。ニアはもしや、と思う。
「犯行手口、わかる?」
『かなり惨いです。俺も見ましたけど、体中ぼろぼろで……』
脳裏に、モールズ大将の遺体の姿がよみがえる。鮮明な脳内の映像を、口にする。
「体中切り裂かれて、腹が割られている?」
『そうです、その通りなんです。でも、どうしてそれをニアさんが?』
できれば聞きたくない肯定だった。同じ事件が遠く離れた二か所で起こっているなんて。何が起こっているのかわからないのが、最も恐ろしい。
『俺たちはこれからまた現場です。ニアさんに連絡を取るために、一度戻ったんです』
「そう、ありがとう。ついでで申し訳ないんだけど、一つだけ頼んでいい?」
『何ですか?』
「女の子には、あまり現場を見せないでほしい。リアちゃんとかは、きっと嫌なことを思い出してしまうから」
『……わかりました』
通信はそこで切れる。ニアは急いで部屋を出て、来た道を戻った。無線は念のため握りしめたままだ。向こうでも、いつ何が起こるかわからない。
「ディア、まだ終わってないみたい?!」
ニアの切迫した表情に、ディアは驚いていた。壁に寄り掛かっていたのだが、すぐにこちらに駆け寄ってくる。
「終わってねぇけど……何かあったのか?」
「検分の結果にもよるけれど、……僕たちは、とんでもない罠に嵌ったかもしれない」
「罠だと?!」
アクトたちが戻ってきたのは、その声と同時だった。どうやら検分は終わったらしい。アルベルトとブラックの表情は真っ青だった。
「二人とも、大丈夫? やっぱり具合が悪くなった?」
「違います。……そうじゃないんです」
ニアの問いに、アルベルトは首を横に振った。彼の顔から血の気が引いていたのは、死体を見ていたからではなかった。
「あれは、あの人の殺し方じゃありませんでした。モールズ大将を殺したのは、模倣犯です」
「何だって?! それってつまり、犯人はお前らが追ってる奴じゃねぇってことか?!」
ディアは驚きをあらわにする。しかしニアは無線を握りしめ、静かに問いかけた。
「その違いは?」
「ラインザーは殺し方にこだわりがある。遺体の傷つけ方の順番から、内臓の引きずり出し方まで、法則を持ってるんだ」
答えたのはブラックだった。その殺し方をかつて目の前で見た彼は、声を絞り出すように説明した。
「あの男は首を最初に、腕、手首、背、足と下がってきて、最後に腹を割って内臓を引きずり出す。腸だけでなく、臓器全てを取り出し、並べる。……だが、大将の死体は傷つけ方もめちゃくちゃ、内臓の出し方も中途半端。あれは奴の仕業じゃない」
ニアはその言葉をしっかりと記憶する。想像するだにおぞましいが、しっかりと憶え、確認しなければならない。医療施設から少し離れ、無線をエルニーニャに繋いだ。
「こちらジューンリーです」
『ニアか? ツキだ。メリテェアに代わろうか?』
「ううん、現場の、というか、遺体の状況がわかる人にお願い」
『あ、ちょうどグレンがいる。ちょっと待ってろ』
こちらで起こっていることが模倣犯なら、あちらはどうなのだろうか。一刻も早く確かめなければならない。それによって、行動は大きく変わることとなる。
『ニアさん、グレンです』
「グレン、遺体の状況わかる? 斬られた順番とか、内臓はどうなってたかとか」
『内臓は俺が直に見たのでわかります。体の中は空っぽになっていて、全ての臓器が遺体の近くに並べられていました。斬られた順番は、クリスさんによるとこうです。首を最初に、腕、手首、背、足、そして最後に腹を割られたと思われます。それから、薬物反応も見られると。こちらはこれからカイが詳しく調べます』
ああ、やっぱり。こちらが罠だったのだ。そもそも数人が殺されてから、やっとエルニーニャに要請が来たことがおかしかったのだ。隣国ユィーガや近隣諸国ですでに同様の事件が起こっているのに、すぐに連絡が来なかったこと自体を疑うべきだった。
「……そうか、ありがとう。すぐにそっちに二人ほど戻す。それまで現場周辺に注意して待機しているように」
無線を切ったところで、背後にアルベルトとブラックがいたことに気づいた。話は全て聞こえていたらしく、彼らの目つきは厳しいものになっていた。
「聞いてたよね。こっちの事件は……」
「囮、だったんですね。あの人が、エルニーニャに戻るための」
そもそもラインザーが国境の向こう側で殺人を行なっていたのは、自分を追っている人間から離れるためだった。その人間が、現地を離れるような状況を作りだせるとしたら。こちら側に協力者を用意することができるとしたら。
「いち早く戻るには、空を飛んだほうがいいね。イストラ軍のヘリを借りて、二人でエルニーニャに戻って。アルベルトは西で操縦してたから、できるよね?」
「しばらくやってないから、上手くできるかはわかりませんが。この際、仕方ありませんね」
「墜落させるなよ、馬鹿」
「馬鹿って言わないでよ、ブラック。……さ、行こうか」
アルベルトとブラックが走っていくのを見送ってから、ニアはディアとアクトを見る。二人が「本物」と決着をつけに行ったのなら、こちらは「偽物」を捕まえなければ。
「軍施設内で起きた事件だ。模倣犯は内部にいる。……容疑者の目星もついている」
「事件のことをよくわかっている人間だから、担当者の誰かだよね。だいたい予想はつくけど」
「よっしゃ、暴れてやるか!」
ディアが拳を叩いたのが、ちょうどいい合図になった。三人はまず、連続殺人事件を担当している彼女のもとに向かった。

応接室の四隅には観葉植物が置いてある。その大きな鉢の覆いは、異様に大きなものだった。鉢を除けてみれば、案の定そこには異物があった。真っ白な粉と有色の粉が、それぞれパックされた袋だ。
「白いほうはイリュージョニア、有色のものがウィルドフェンス。……そうだよね、ナナツさん?」
アクトの問いに、ナナツはくちびるを噛みながら頷いた。
犯人は内部の人間、しかも殺人事件について詳しい、担当の者。そこで真っ先にあがったのが、彼女だった。
ナナツが昼間用意した資料とその説明の中に、「殺害の手順」についてのものはなかった。これまでの被害者の検分結果から「殺害の手順」が判明していたことは、軍医に確認をとっている。しかし、なぜそれが公開されなかったのか。
ナナツに直接問い質したところ、彼女は白状した。自分が隠していたのだ、と。
「どうして隠していたの? 僕らにそれを知られると、何か不都合なことが? ……たとえば、大将を殺すときの邪魔になるとか」
「……そう、です」
ニアの言葉を彼女は肯定した。俯いて、震えながら。その彼女に、ニアははっきりと言った。
「でも君は犯人じゃないよね。犯行時刻、君が軍人寮にいたのを目撃している人物が多数いる。だとしたら、君は犯人をかばっているんだ。その計画を知ってしまったために、せめて彼が捕まらないようにと資料を隠したんだ。……まさか僕らの中に、『殺害の手順』を知っている者がいるなんて思わなかったんだろうね」
彼女は黙っていた。だが、それは今や肯定にしかなり得なかった。彼女はもう、自分が代わって犯人となる術さえも失ったのだ。
「ナナツ・ココノエ大尉。……君はどうやって、オファーニ・ルーク大佐が連続殺人の真犯人と関わっているということを知ったの?」
ニアが問い詰めると、彼女は震える声で語りだした。もう、観念するしかなかった。
「私……聞いてしまったから……」

ナナツはオファーニの部下として、彼のことを誰よりも信頼し、周りにもそれを求めてきた。彼女は実に優秀で、素直な人物だったのだ。
しかし、二カ月ほど前から何かが変わってきた。事務室の奥にあるオファーニの仕事部屋に、パスワード式の鍵がついたことから、全てが狂い始めた。
オファーニは大切な客人が来るから用意したと言って、長いときは一日中その部屋に籠るようになった。客人などいつ来ているのか全く分からないが、とにかく周りの者を一切その部屋に入れなかった。
客が来るなら茶を、と思って戸を叩いたナナツでさえも、そこに足を踏み入れることは許されなかった。
しかしあるとき、鍵に不具合が起きていたのか、中の様子を窺い知ることができる状況ができた。事務室にはナナツ一人で、戸の向こうからは二人分の声が聞こえる。ナナツは気になって、その声にそっと耳を澄ませた。
「……ですから先日も申し上げましたが、ユィーガからこちらに来られては? ここなら私が情報操作をすることも可能ですし、エルニーニャには知り合いがいますから、あちらの状況もわかります」
オファーニの声だ。それに、もう一人が答える。初老の男性のようだった。それほど低くはない、あっさりした調子だ。
「もうしばらくかかるが、じきに移ろう。向こうではそろそろ殺しすぎたかとおもっていたところだ。……で、薬の件はどうなった?」
「応接室の観葉植物に隠しています。灯台下暗し、というやつでしてね。案外気づかれないものですよ」
不審な会話はしばらく続き、初老の男性の声が止んでから、オファーニが部屋から出てきた。とっさに事務室を出たナナツは、オファーニには気づかれていないはずだった。しかし、不安は大きくなる一方だった。
殺しすぎたとはどういうことか。薬とは何のことか。応接室の植物がどうしたのか。ユィーガ、エルニーニャという国名の組み合わせは、最近取りざたされていたものではなかったか。
オファーニの目を盗んでこっそり調べた結果、ナナツは大量の危険薬物を発見した。これは誰かに言うべきだろうか。いや、そんなことをすれば自分は消されるだろう。誰かを殺してきたらしい、あの初老の男性に。
誰にも言えずに過ごしてきた結果、ついに連続殺人事件がイストラで起こってしまった。この国の三人目の被害者が、ナナツの友人でありモールズ大将の娘である女性だった。
一人目の被害者のときから、遺体検分の結果はオファーニに見せないようにしていた。他の書類にも少しずつ手を加え、オファーニには嘘の報告をしていた。いつかはばれるだろうと恐れながらの行動だったが、結局気づかなかったところを見ると、最近は「客人」と会っていなかったのだろう。
そうしているうちにこの国の四人目、五人目の被害者が出て、オファーニはようやくエルニーニャへの協力要請を出した。その頃には、「客人」はもうこの地で人を殺すのに飽きていたのかもしれない。
最後にモールズ大将が殺されたとき、ナナツは直感でオファーニがやったのだと思った。「客人」の仕業の報告を、彼はどこか楽しそうに見ていた。きっと自分でもやってみたくなったのだ。
本当は信じたくなかった。まだどこかで、ナナツはオファーニを信じていた。しかし、それは無情にも砕かれたのだった。

「ジューンリー大佐。オファーニ大佐はどうなるんですか?」
ナナツは声を震わせて尋ねた。ニアは淡々と答える。
「まず、軍にはもういられない。ラインザーの共犯だとすれば終身刑か、もしくは……」
この先は言わなかったが、彼女は当然イストラの制度を知っているだろう。それを考えれば、想像は容易だ。泣き崩れるナナツを、ニアはそっとかがんで、抱きしめた。信じていたものが崩れるというのは、本当につらいことなのだ。――それをニアも、経験するかもしれない。親友の行方によっては、近いうちに。
「……ココノエ大尉のおかげで、真実がはっきりしたよ。ありがとう。つらかっただろうに、ここまでよく頑張った」
時間もかなり経っていた。この分だと、今頃はアルベルトとブラックもエルニーニャに到着しているだろう。
だが、彼らのことを気にしている場合ではない。こちらもどうやら、戦わなくてはならないときが来たようだ。
「ニアさん、おれたちも最終決戦みたいだよ」
「やってやろうぜ、ニア。俺はずっとあの大佐野郎が気に食わなかったんだ」
「僕も大佐なんだけど。……でも、そうだね」
廊下から足音が聞こえ、ドアの前で止まった。きっと向こうも、こちらを捜していただろう。
「信じてくれていた部下を裏切るような人は、僕も許せないかな」
ニアが言うと同時に、扉が開いた。そこにいたのは、笑顔を浮かべたオファーニ・ルーク。だが、今やそれも醜悪に見える。
「こんなところで何をしているんですか? ココノエ大尉、みなさんも」
「そんなの自分の胸に聞いてみやがれ」
ディアが真っ先に口を開く。「野蛮ですねえ」とオファーニが呟いた。それに反応したのはアクトだ。
「野蛮なのはどっち? モールズ大将をあんな殺し方しておいて」
「大将を? 私がですか? なぜそんなことを?」
口元の歪んだ笑顔が、オファーニの顔に張り付いている。ニアはそれを見据えながら、ナナツをかばうように立ち、前に出た。そしてこちらも不敵に笑ってみせた。
「エルニーニャとの連絡とたった今得た証言で、あなたのしたことは全て明らかになっています。オファーニ・ルーク。あなたはラインザー・ヘルゲインの指示で、モールズ大将を殺害した。二カ月の間、綿密な計画を立ててね」
オファーニは笑みを崩さなかった。全く表情を変えずに、いけしゃあしゃあと答えた。
「たしかにラインザー氏の指示で、私は大将を殺害しました。私にとっても都合が良かったんです。また出世できるんですから。それをあなたがたはこんなふうに邪魔をして……ココノエ大尉などは初めから私を疑っていたようですし」
「違います! 初めは信じていました! でも……」
ナナツは叫ぶが、それはもうオファーニには届かなかった。いや、最初から聞く耳など持ち合わせていなかった。
「もう良いんですよ。……楽になってしまいなさい、ナナツ・ココノエ。それとニアさんとお仲間も」
オファーニは短剣を二本、懐から取り出した。こちらを嘲笑しながら、それを構える。それに対し、ディアとアクトは溜息をついた。
「おいおい、俺たちはその他大勢かよ」
「おまけ扱いって、あんまりいい気はしないよね」
ディアは拳を握りしめ、アクトは服の下に隠し持っていたナイフを取り出す。そしてニアはナナツをかばったまま、そっとその場を離れた。
「おや、ニアさんは戦わないんですか?」
「今はね。……ディア、アクト。任せたよ!」
ニアはとっさにナナツを抱きかかえると、オファーニを避けて部屋を出ていった。目指すは、宿泊している部屋だ。
「逃がしませんよ、ニア・ジューンリー!」
オファーニはそれを追おうとして、ディアとアクトに背中を見せた。それを好機と見て、ディアは拳を、アクトはナイフを振り上げる。だが、オファーニはそれを俊敏にかわした。どうやら速さには自信があるようだ。
「アクト、お前のほうが速ぇだろ」
「はいはい」
だが、アクトも速さなら負けてはいない。壁沿いに走り、素早くオファーニの前に回り込んだ。前面にはアクト、後ろにはディアがいる。オファーニの逃げ場は、この廊下のどこにもないはずだった。
しかし、
「これで捕えたつもりですか?! 愚かなことですね!」
オファーニは跳んだ。高く跳躍し、アクトを越えて廊下の先へと進んだ。走り続けるオファーニを、しかしアクトは再び追い越し、立ちはだかる。
「その攻撃は効かないとわからないんですか?」
オファーニは馬鹿にしたような笑みを浮かべ、再び跳びあがる。しかし、ディアとアクトはニヤリと笑う。
「わからねぇのは」
「そっちだろ!」
ディアは銃を取り出し構え、アクトはナイフを上に向け、一斉にオファーニに放つ。それは見事にオファーニの両足を封じ、廊下に倒れこませた。
「ぐぁ……っ?!」
情けない声を出しながら見上げた先には、不敵な笑みを浮かべるエルニーニャの軍人二人。ただのおまけだと思っていたのに、そうでもないらしい。だが。
「これでやったと思うなよ……!」
オファーニは笑顔を歪め、その足で立ち上がった。そしてアクトを突き飛ばすと、傷を気にせず走り出した。
「私に勝とうなど百年早いんですよ、雑魚共が!」
だが、ディアもアクトも、もう彼を追わなかった。オファーニの行く先には、彼がいる。あとは我らが大佐が、きっちりしめてくれるだろう。
宿泊施設で、ニアはナナツを守るようにして立っていた。これまでの廊下でのやりとりも、全て聞こえていた。目は悪いが、耳はいいのだ。
部屋から持ってきた大剣を右手に、オファーニを迎える。
「ニア・ジューンリー、女をこちらに渡せ! さもなくばお前を殺す!」
オファーニが叫ぶ。その顔にはもう、笑顔はなかった。
「化けの皮が完全にはがれた状態だね。そうそう、僕は君のその表情を待っていた。やっぱり勝負は本気でなくちゃね?」
ニアはにっこりと笑う。大剣を持ち上げ、その切っ先をオファーニの鼻先に突きつける。……なるほど、これはいい距離だった。少し前に進めば、顔に傷がつく。オファーニはこれ以上、ニアに近づくことができない。
「どうしたの? 向かっておいでよ。……笑って来てみろよ、偽物がっ!」
オファーニは「ひっ」と短い悲鳴を上げると、その場にへなへなとへたりこんだ。そこへディアとアクトがゆっくりと追いつき、銃口とナイフの切っ先を向ける。
「勝てもしない喧嘩は売らないほうが身のためだぜ?」
「この状況で笑っていられたら、少しは感心してやったのに」
もうどこにも逃げ場はない。オファーニは恐怖に歪んだ顔のまま、その場に固まった。

あとの処分はイストラ側に任せ、ニアたちは朝を待ってイストラを発った。ディアとアクトは仮眠をとったが、ニアは寝ていない。一晩を、エルニーニャとの連絡に費やした。
向こうでは捜査の途中、リアがいなくなって一時混乱したという。どうやら予想通りエルニーニャにいたラインザーに捕まり、危うく殺されかけたという。
「それで、大丈夫だったの?」
『はい、無事助かりました。アルベルトさんが駆け付けてくれたので』
ヘリは間に合い、アルベルトが窮地にいたリアを救った。だがそれは、宿敵との対峙でもあったはずだ。ニアは息を呑み、それから尋ねた。
「……それで、犯人は?」
『死亡しました。アルベルトさんに撃たれて虫の息だったところを、ブラックが首を刎ねてとどめをさしたんです』
「……そう」
ニアが一緒に行っていれば、親殺しというこの後味の悪い結末を変えられただろうか。いや、無理かもしれない。彼らはラインザーを、親だと思っていなかった。ひたすらに仇だと思い、追い詰めたのだ。
ブラックが彼の首を刎ねたのは、せめてもの慈悲だったのかもしれない。それ以上苦しむことなく、一気に死なせてやろうという。
「……でも、こんなのって……」
ニアは顔を覆い、俯いた。これまでに、歪だった親子関係が修復された例をいくつか見てきた。グレンしかり、リアしかり。二人とも最終的には親と和解することができた。
だが、アルベルトとブラックは状況が違う。彼らは、親であるはずの男を許せなかった。親を守りたくて離れたグレンや、疎ましく思われてもなお親を愛したリアとは、初めからなにもかもが違うのだ。
それでも、思う。二人に、別の道はなかったのかと。人を殺させずに済む方法はなかったのかと。
「本当に……軍人って、嫌な職業だな……」
それでもニアは、ニアたちは、軍人なのだ。その道を選んでしまって、二度と後戻りはできないのだ。

エルニーニャに到着したニアを待っていたのは、アルベルトからの衝撃の一言だった。
「大佐、僕はこれで軍を辞めます」
なんともあっさりした口調だった。これまでのアルベルトとは、まるで違った。ニアにはいつも一線引いた態度をとっていたのが、もうすっかりなくなっていた。
「……なんで?」
「僕が軍にいたのは、初めは父から身を守るため、のちに父を追うためになりました。父がいなくなった今、僕に軍にいる理由はなくなりましたから」
そうかもしれない。目的がないのだからここにいる必要はないというのは、尤もだ。でも、ニアは納得できなかった。
「理由なんて、また探せばいいじゃない。それに、ほら、リアちゃんもいるし」
「大佐、僕はマクラミーさんの前で人を撃ったんですよ。僕だって、彼女の過去のことは知っています。お母様を銃で亡くされた彼女の前で、僕は明らかな殺意を持って銃を使いました。彼女に顔向けできるわけがありません」
「だって、それはリアちゃんを守ろうとしたんでしょう?」
「殺意を持って彼女の前で銃を使った。それだけで僕が彼女から離れる理由には十分です」
ニアがどんなに言っても、アルベルトはきかなかった。ただ、いつかのようにかわしもしなかった。
「大佐。僕ら、初めから険悪でしたよね。互いの要求を突きつけあって、条件付きで仲間になって。……それがこんなに話せるようになるなんて、思っていませんでした」
「僕もだよ。君とこんなに話せるなんて、思ってなかった。君がこんなふうに思いを言ってくれるなんて、夢でも見ているみたいだ」
「夢じゃないです、現実です。……それでは、僕は辞めるので、これをお願いします」
いつから用意していたのだろうか。少しだけ褪せた退職願を押し付けられて、ニアはそれを受け取った。これを大総統に渡してしまえば、全てが終わる。
アルベルトとの付き合いも、ここまでだ。
「ブラックには、言ったの?」
「これから言います。やっぱり、先に上司に相談するべきかと思いまして」
アルベルトは朗らかに笑った。けれどもやはり、どこか寂しそうだった。
そうして彼は数日後、軍を出ていった。

――それから、数週間後。十月も末日になったその日、エルニーニャ王国軍中央司令部の軍人寮に、一人の青年がやってきた。
「ブラック、荷物運ぶの手伝ってー」
「自分でやれ、馬鹿! ……ったく、なんでコイツが同室になるんだよ!」
いったいどんな心境の変化があったのか、アルベルトは軍に復帰した。周囲は呆れるやら喜ぶやらで、大騒ぎだった。
この数週間、ニアはずっとアルベルトの退職願を自分の手もとにおいていた。アルベルトがいなかった分は都合で休みを取っていることにして、彼を辞めさせなかった。
なんとなく、だが。戻ってくる気がしていたのだ。
「だって、僕たち似てるしね。……僕だったら、大切な人がいたら心残りで、絶対に戻ってくる」
荷物を運びながらわいわいやっている部下たちを見ながら、ニアは呟いた。
「それに、僕の頼みはまだ聞いてもらってないものね。……カスケードの捜索、本気で手伝ってもらわなくちゃ」
そのためには、ニアの考えを明かさなければならない。黒髪黒目の男が、求めている人物である可能性を話さなくてはならない。アルベルトとブラックだって、自分たちの抱えている事情を明らかにしたのだ。ニアがそのままにしているわけにはいかない。
「ニアさーん! アルベルトの荷物多いんだ、手伝ってー!」
「お願いします、大佐ー!」
「はいはい。今行くよー!」
逃げずに戦わなければ、先へ進めない。それは自分で、よくわかっている。
仲間たちから、学んでいるのだから。


新聞や週刊誌には、『今明らかに! 東方諸国連続殺人事件の真相』という見出しが踊っている。それとともに、ラインザー・ヘルゲインという男の顔写真も出回っていた。
「この前運んだ人、死んだのか」
口に出しては見たものの、実感は薄い。まあ悪は滅びるものなんだろうな、と思って、新聞と雑誌をごみに出した。
「……世の中は軍が正義。でも俺たちにとって軍は悪、か。……どっちが正解なんだろうな」
悪が滅びるものならば、自分はいったいどちらだろう。カスケードはぼんやりと考えながら、窓の外を眺めていた。
と、そのときだった。スピーカーからいつもの声が聞こえてきた。
『知っていると思うが、オファーニ・ルークが捕まった』
「……それ、誰でしたっけ」
『東方イストラ軍の大佐だ。こちらからエルニーニャの事情を流してやっていたのだが、その扱いに失敗したようだ』
「それはそれは」
カスケードにとってはあまり興味のない話だ。自分の仕事に関すること以外は、聞いても仕方がない。
『おかげで薬物流通のルートが一つなくなってしまった。また開拓しなければなるまい。そこでどのルートが最も扱いやすいか、実験をしてみることにした。取引回数を激増させる。軍に所属させている同胞に働いてもらってな』
「それ、俺もやらなきゃ駄目ですか?」
『前線に立つ必要はないが、今まで通り裏方として動いてもらう。売人たちを送り届けたり、……そうだな、クローンの運搬もしてもらおうか』
「結構忙しくなるんですねーっと。わかりました、やりますよ」
『期待しているよ、カスケード』
そこで通信はぶつりと切れる。“あの方”はいつも一方的だ。それでもカスケードは言うとおりにする。それしかすることがないからだ。
「俺もたまには大立ち回りとかしてみたいよな。せっかく銃もあるんだし」
独り言を呟きながら、記憶をなくした頃からずっと持っている銃を見る。あらためて眺めてみると、本当に自分はこれを使えたのだろうか、と思う。
グリップに国章がある、四十五口径リボルバー。これを見ていると、何かを思い出せそうで、やはり何も思い出せない。
ただ、頭の中に声が響くのだ。誰かがやわらかな響きで「カスケード」と呼ぶ声が。
「……取引、こっそり参加しちゃ駄目かな」
もしかしたら軍と衝突して、あの声の主を捜せるかもしれない。どうせいつかは消す相手だが、顔が気になって仕方がない。
カスケードは思い付きで、“あの方”の命令以外のことをしてみようと思い立った。




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posted by 外都ユウマ at 20:20| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする
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