2014年02月28日

Reverse508 最終話

留置所面会室の、透明な境の向こう側には、驚愕の表情。こちら側には腕を組みながらむすっとしている彼女。二人を見比べて、ニアは苦笑いを浮かべていた。
「な、なあ、ニア。これ本当にサクラなのか? 俺の知ってる妹と随分違うんだけど」
カスケードがついにその言葉を言ってしまったとき、彼女は爆発した。
「十三年も経ってるんだから、変わるにきまってるでしょ?! どうして帰ってこなかったのよ、お兄ちゃんのばかぁっ!」
ニアがカスケードに会わなかったのは五年だったが、サクラはもっと長かった。実家と断絶状態にあったカスケードは、妹の過ごした十三年間をまったく知らない。彼女が北方軍で軍医となったことも、カスケードの失踪をきっかけにニアと交流を持つことになったことも、これから説明しなくてはならない。だから、その前に。
「サクラちゃん、落ち着いて。カスケード、彼女は間違いなく、君の妹のサクラちゃんだよ。もう立派な大人だ」
「ああ、そっか。……ええと、すごい美人になったな。今、いくつだ?」
「二十歳よ。もう、お兄ちゃんが知っている幼い子供じゃないの」
ぎこちない兄妹は、これから空白を埋めていけるのだろうか。今日はそれを見守るだけにしようと思っていたが、どうにもそうはいかないようで。
「ニアさん、橋渡しお願いね。お兄ちゃんと話が通じるかどうかわからないから」
不安を抱えた彼女を支えるのが、今日の大事な仕事のようだ。

司令部襲撃から二日。サクラが中央に再び訪れた。もちろん、ようやく帰ってきた兄に会うため。そして、それによる家族会議のためでもあった。
「お父さんからも、お兄ちゃんが帰ってきたことは聞いたわ。大総統閣下のお考えも」
ニアに会ってすぐ、サクラはそう言った。大総統ダリアウェイドは、インフェリア家現当主と同期であり、若い頃から交流がある。先に話をしていても、おかしくはない。
「お父さんはどう考えてるの? カスケードを軍で預かることには、賛成?」
「……その話、あとでいい? 十三年間絶縁してて、今になってそんなことを言われても、どうしたらいいのかわからないのよ。……まだ、お兄ちゃんにも会いに行ってないみたいだし」
昨日までの時点で、カスケードに面会したのはニアだけだった。大総統から連絡がいっているにもかかわらず、北方にいたサクラを除くインフェリア家の人々は留置所を訪れていなかった。
「お兄ちゃんが、いなくなる前にお父さんと和解して、何度か帰ってきてくれていれば良かったんだけれど。それがなかったから、いなくなったって聞いても、帰ってきたって知らされても、実感がわかないの」
「……たしか、カスケードは軍人になるつもりはなかったんだよね。でも軍家の人間だからって、お父さんに軍人になるように言われたんだっけ」
「そう。お兄ちゃんが軍人になれば、私が軍に入らずに医者を目指すことを考えてもいい。そういう条件だった。結局私もこうして軍医になってしまったけれど、当時のお兄ちゃんは、私に夢を諦めさせないために軍人になった。だから、お兄ちゃんが家に帰ってこないのも、いなくなったのも、私はどこかで仕方のないことだって思ってた。……もちろん、会いたかったけれどね」
サクラと留置所に向かう途中、ニアはインフェリア家にある問題を改めて考えることとなった。カスケードたちの両親は、カスケードは軍に戻るべきだと思っているのだろうか。また大尉として復帰し、軍人として生きていくことを望んでいるのだろうか。
「サクラちゃんは、カスケードに軍に戻ってほしい?」
「ううん、私はお兄ちゃん次第だと思ってる。以前なら、軍を辞めてほしかったかもしれないけれど。……今は、たとえお兄ちゃんが軍に戻ることを選んでも、止める気はない。ニアさんたちがいるから」
妹は兄を、そして兄を受け入れてくれるであろう人々を、信頼していた。
ニアたちはそれに応えなければならない。応えるべくして、存在しているのだ。

そうして現在、ニアとサクラは留置所で、カスケードと話している。
だが、ずっと会っていなかった妹と何を話していいのか、カスケードはわからない。サクラはサクラで、写真ではない実物の兄と、どうやり取りをすればいいのか考えているようだった。
そこでニアが仲介に入る。
「カスケード。サクラちゃんは五年前から、僕の目を診てくれたり、君を一緒に捜したりしていたんだよ。彼女は北方司令部で軍医をしていて、僕も君がいなくなってから、今年の二月まで北方にいたんだ」
サクラのことだけではなく、自分のことも話す。カスケードはそれを頷きながら聞いていた。ときどき自分の記憶を探るように目を閉じては、切なげな表情をしたり、何かに気づいたりしたような表情を見せていた。
「サクラ、お前、医者になるんじゃなかったのか? 父さんは、約束を破ったのか?」
そうしてやっと言ったのが、それだった。
「お父さんは、お兄ちゃんが軍に入ったら、私が医者になることを考えてもいいって言ったのよ。たしかに考えてはくれた。その結果が、軍医という道だったの。……でもね、私ももう大人になった。これからだって、自分の道を選べる。もうすぐ軍を辞めて、憧れだった小児科医を目指すつもりよ。だから、お父さんが約束を破ったなんて言わないで」
「……そうか」
ニアが知る限り、カスケードが自分の家のことを語ったことはあまりない。軍家インフェリアの息子として見られることを、彼は昔から嫌がっていた。サクラという妹の存在も、いるということは言っていたが、彼女がどんな人なのかはほとんど話してくれなかった。だからニアは、北方で本人に会ったときに大層驚いたのだった。あまりにもカスケードに似ていて、けれどもその性格は、彼よりもずっとしっかりしていて厳しい。そんな印象だった。
カスケードが自分の家族のことをニアに教えなかったのは、家名というフィルタを通して見られたくなかっただけではないだろう。すでに家族を失ってしまった、ニアに対する気遣いもあったのだと、今は思う。だが、その気持ちは、カスケードが余計に実家から遠ざかるという結果を生んでしまった。サクラに、寂しさを与えてしまった。
「北方にいたなら、サクラも父さんと母さんにはあまり会っていないのか」
「私はお休みをもらって帰ってたわよ」
「サクラちゃん、お父さんとお母さんは、元気?」
「……元気よ。お父さんは相変わらず無口で、お母さんは明るいわ。そこは、お兄ちゃんの知っているお父さんとお母さんと変わらないはず。でも、やっぱり年をとったからかしら。少しずつ、彼らの背中が小さくなっていくの。会うたびに、それがちょっと切なくなる」
サクラの一言一言を、カスケードは噛み締めるように聞いていた。十三年間知ろうとしなかったことを、彼は今、妹によって突きつけられている。
「サクラ、ごめんな。俺、父さんから逃げてたんだ。逃げたまま、いろんなことを忘れてしまっていた。せめてサクラの進路は、見届けるべきだったな」
「見届けたところで、お兄ちゃんはどうせお父さんと喧嘩してたわ。……過去のことはもういい。お兄ちゃんは、これからちゃんと家族に顔を見せて。私と、それだけ約束して」
妹の懇願に、兄は答えを迷う。ニアに視線で助けを求めるが、これはカスケードが自分の言葉で、きちんと決めるべきことだ。彼の家族のことなのだから。
「カスケード。思い出してるんだから、わかるよね」
「……うん。どうせこうなった以上、家族会議は必至だし。でも、俺はまだここから出られないんだよな」
カスケードが家族に会うためには、ニアとサクラがそうしているように向こうがやってくるか、カスケード自身がここから出て実家に行くしかない。彼がここから出るためには、全ての事情聴取を終え、彼の処遇を決める必要がある。
言うしかない。今この瞬間が、大総統の意向を彼に伝えるべき時だった。
「カスケード、君の処遇について、大総統閣下が考えていることがある」
「俺の処遇? 軍を襲撃したんだから、刑罰を受けるのは確定じゃないのか」
「それが、まだ決まってないんだ。でも、閣下は君に、軍に戻ってほしがっている。君の身柄を軍で預かり、再び裏社会に取られることのないように、監視下に置こうとしている」
「俺が、軍に?」
カスケードは眉を顰める。やはり、戻る気はないか。そんな気にはとてもなれないだろう。ニアは「君の意思に任せる」と言ってしまおうとした。
だが、それは当の本人からの問いによって遮られた。
「他の組織の人間はどうなったか、確認していいか?」
「……生存しているオレガノ・カッサスとマカ・ブラディアナは拘束された。カッサス氏は、今朝、南方に送られることが決定したよ。南方の大佐が、受け入れを申し出たんだ。マカはクローンということもあって、扱いについてはまだ話し合い中」
「生存、ってことは、あとは死んだのか」
「マカが殺害を供述している。……あ、アルベルトは怪我はしているけれど、生きてるよ。彼はもともと人質ということになっていたから、そのまま軍に留まる。閣下は君も、アルベルトと同じ扱いにしたいんだと思う。記憶がなかったこともあるし、僕もそうして君を弁護したいと考えている」
ニアの答えを聞いて、カスケードはしばらく黙っていた。彼の考えていることはわかる。アルベルトは人質扱いでも問題ないが、自分は五年もの間組織に関わってきた。それが人質という扱いで、本当に良いのだろうか。しかるべき罰を受けるべきではないのか。おそらくは、そんなところだろう。
沈黙に耐えられなくなったサクラが、言葉を継ぐ。
「家の都合もあるのよ。インフェリア家の人間が、いつまでも留置所にはいられない。刑罰を受けるというのも、できればあってほしくない。お兄ちゃんは、こんな考えは大嫌いでしょうけれど」
「そうだな。そんな特別扱いはごめんだ」
予想通りの答えだった。彼は特別扱いのない審判を望んでいる。その「特別」がなければ、彼はこのまま刑を受けることとなる。ニアがどんなに弁護したところで、しばらく拘束されることには変わらない。
それでは、一緒にいられない。ニアはまだ、カスケードと一緒になれない。早く、彼と過ごせるようになりたいのに。
――ニアさんの本当の気持ちを言っちゃったら?
――言ってもいいと思いますよ。軍で待ってるって。
頭をよぎる、仲間たちの言葉。ニアには、自分の想いを言う権利がある。カスケードを捜してきた分だけ、彼に思いのたけを伝えることができる。彼らはそう言って、背中を押してくれた。
「僕は、そんな特別扱いで、君を弁護したいんじゃない」
願いはただ一つ。もう一度二人で、同じ希望を追いかけること。いや、今度は二人じゃない。みんなで目指すんだ。
「家とか、大総統の考えとか、本当はどうでもいいんだよ。僕が願っているのは、君との未来だけだ。君と一緒にいたいんだ。この五年間、君が何をしていたとしても関係ない。僕が君とこれからを歩みたいんだ」
「ニア……」
この我儘に、幻滅されてもかまわない。これがニアの本心だ。真っ直ぐな我儘のために、この五年を、中央に来てからの十か月を、費やした。それをただ、伝えたい。届けたい。
「僕は自分の我儘を通すためなら何だってするよ。君を必死で弁護して、使えるものは何でも使って、君を取り戻す。だって、僕は君の居場所を、軍につくってしまったんだから。たとえ君に拒否されても、僕らから押しかける。君の居場所は僕らのところにあるんだよ、カスケード。だから、どうか、……もう一度、おかえりって言わせてよ。一緒に、誰かを助けられるような人を目指してよ!」
いつかの願いを、希望を、再び胸に抱けるように。同じものを見られるように。ニアは走り続けてきたのだ。そして、もうすぐ手が届きそうなところまできているのだ。
あとはカスケードが、この手をとってくれるだけ。
「……ニアは昔から、ちょっと強情なところがあったよな。俺を初年兵訓練に引っ張っていった時だってそうだ」
カスケードは、そう言って笑みを見せた。懐かしげに、切なげに。
「軍が嫌いだった俺を、そうやって変えてくれたんだよな。ニアがいたから、俺の世界は変わった。ニアのおかげで、俺は人を助けられるようになりたいと思った。……そして、ニアを救うことができた。キメラから守れた。でも、それから随分待たせてしまったんだな」
長い五年だった。ニアにとっても、カスケードにとっても。その間に道を違えてしまったこともあったけれど、結局はここに戻ってきた。もう、彼は帰ってきているのだ。
「俺は、ニアに全てを託したいと思う。家のことや軍の都合なんてものに縛られるのは不本意だけれど、俺だってニアとまた一緒に歩んでいきたい」
「カスケード、それじゃあ……」
思わず身を乗り出しかけたニアに、しかし、カスケードはそっと手のひらを見せた。ニアの行動を、期待を、制するように。
「ただ、一つだけ。軍人だけが人を助けられるわけじゃない。誰だってできることがあって、その限界もある。失敗や罪もある。ニアにはそれを、忘れないでいてほしい。だから俺がどんな結末を迎えても、どうか、自分の力が及ばなかっただなんて思わないでくれ。……託すって言ったり、何があってもお前のせいじゃないって言ったり、ややこしいけれど」
一言一言を、丁寧に言う。こちらの考えを受け止めてくれた彼の、それが返事だった。たとえ軍人に戻らなくても、ちゃんと歩みは揃えているから。それが自分の気持ちだからと、カスケードは言ってくれている。
ニアもそれを受け止めなくてはならない。自分の我儘に、彼は「託す」と答えてくれたのだから。人を助けられるものは軍人だけではないという意思を曲げずに、それでもニアの思いにかけてくれたのだから。
「わかってる。僕だって、できることとできないこと、限界と突破できる壁を知ってきた。救えなかったものだって、壊してしまったものだって、たくさんある」
壁に道を阻まれたとき、大切なものを守れなかったとき。そんなとき、いつだって心に抱いてきた言葉がある。「もしも、カスケードなら」。――指針はいつだって、親友だった。今にして思えば、心は常にともにあったのだ。離れてなんか、いなかった。
それでももっと近づきたいと思うのは、彼と肩を並べたいと思ったのは、ひとえにカスケードのことを好きだからだ。親友で、憧れの存在でもある、彼の隣にいたかった。
ふと、ビアンカのことを思い出す。こうして考えてみると、彼を繋ぎとめようとしていた彼女の気持ちは、ニアにもわかってしまうのだった。彼女もまた、自分の我儘でカスケードを手に入れようとしていた。ニアに会わせないよう、束縛していた。彼女の気持ちは恋だったが、ニアの気持ちはそれに限りなく近いのかもしれない。恋心ではないけれど、自分もまた、カスケード・インフェリアという存在に強く執着していたのだから。
「じゃあ、ここから先は僕の我儘で進めるよ。軍とか裏とか関係ない。僕がそうしたいからするんだ。君はそれでいいんだね?」
「ああ、任せた。……それにしても、アルの言った通りだな。ニアは俺を受け入れようとしてくれるって、あいつは言ってた」
「アルベルトと随分仲良くなったんだね。妬けるなあ」
そうしているうちに、面会時間の終わりがやってきた。別れ際、透明の壁を挟んで、ニアとカスケードは互いの拳をつき合わせた。こつん、と音がした。この壁を越えることが、次のニアの目的だ。

サクラと歩く道すがら、雪が降ってきた。エルニーニャは暖冬で、中央に雪が積もることはごく稀なのだが、どうやら今年はその稀な年のようだ。子供たちがはしゃいで雪をすくい、固めていた。雪だるまを作ろうとしているらしい。
「お兄ちゃんに任されたんだから、ニアさんにもうひと頑張りしてもらわなくちゃならないわね」
ニアが遊んでいる子供たちを眺めていると、サクラが不意にそう言った。
「そうだね。弁護材料をきちんと確認して、正規の手続きでカスケードが世間に出てこられるようにしなくちゃ」
「あ、私が言ってるのはその前段階。強敵は大総統閣下や世間だけじゃないのよ。……インフェリア家当主様が、今回のことで大層お怒りのご様子なの」
サクラが自分の親をこのように言うということは、相当まずいことになっているのだろう。ニアも、カスケードたちの両親についてまったく知らないわけではない。母親は明るく元気な女性だというが、父親が特に厳しい人なのだと、昔から少しではあるが聞いていた。カスケードは家族に関して多くを語らなかったので、北方でサクラと出会ってから、彼らの人となりを詳細に聞くこととなったのだが、それはすさまじい内容だった。
幼少期のサクラは体が弱く、入退院を繰り返していた状態だったが、父は軍での仕事を娘の容体よりも優先してきた。また、インフェリア家の人間は必ず軍に携わらなければならないという信念を持っていたために、病気が良くなったサクラを早速軍に入れるべく教育し始めた。そのせいで幼くも妹思いだったカスケードと対立することとなったのだという。
カスケードが十三年間、少なくとも記憶を失くす前の八年間は自分の意思で実家に帰らなかったというのは、それが原因だった。
「そうだ、さっきは聞きそびれたんだった。お父さんは何て?」
「家に帰らなかった上に、裏社会に加担するとは何事だって。そんな人間はインフェリア家の者として認めるわけにはいかないって言ってるわ」
「……それは、困ったね。サクラちゃんは親子関係を修復させたいと思ってる?」
「当たり前よ。今日はそのための家族会議だもの。お兄ちゃんは何があったって、私のお兄ちゃんよ。たくさんの人に心配と苦労をかけてきた仕方のないお兄ちゃんだけど、私にはいつだって優しかった。お父さんだって、厳しいし軍にこだわるけれど、それにはちゃんと理由があるのよ。……だから、ニアさん。今夜、時間ある?」
その話からなぜニアの今夜の予定に及ぶのかは、すぐには理解できなかった。だがニアは正直に、「大丈夫だよ」と答えた。実際、これから軍に戻って仕事を片付けてしまえば、少し定時を過ぎるくらいで済むはずだった。
それを聞いたサクラは、兄に似た顔でにんまりと笑って言った。
「じゃあ、今日はお兄ちゃんの代理、よろしくね。迎えに行くから、一緒にうちに来てちょうだい」
「え、僕が?!」
「だって、お兄ちゃんの考えていることを言えるのはニアさんだけだもの。いつも言ってたじゃない。『カスケードならどうするか』って。その考えはいつだって、私の知っているお兄ちゃんと合致していた。さっきお兄ちゃんの話もちゃんと聞いたし、ニアさんになら絶対にできる。お父さんとお兄ちゃんを、仲直りさせてあげて」
カスケードを弁護することなら、ニアにだってできる。大総統にカスケードの考えを伝えることも可能だ。だが、家族の中に入っていくというのはどうなのだろうか。ニアはインフェリア家の人間ではない。カスケードと親友であるというだけの、部外者だ。そんな大役を簡単に引き受けていいのだろうか。
いや、これはサクラからの依頼だった。引き受ける引き受けないの問題ではなく、こなさなければいけないことなのだろう。家族の確執なら、今まで何度も見てきた。解決例が二つ。悲惨な結果に終わったものが一つ。今回は、うまく収めることができるだろうか。
「……わかったよ。今夜、インフェリア家に行く」
「お願いね。……家族が揃うチャンスを、逃したくないの。この十三年、私はずっと悩んできたんだから……」
彼女の切実な思いを、なんとかして叶えてあげたい。だが、それが自分に務まるかどうかという不安は、ニアの胸から消えることはなかった。

その日の夜、予告通りにサクラは迎えに来た。彼女に導かれて、初めて訪れたインフェリア邸は、さすがは建国三英雄の末裔というべき立派な家だった。
「……来る前に、大総統閣下からお父さんの攻略法を教えてもらおうとしたんだけれどね」
大総統ダリアウェイドは、カスケードの父アーサー・インフェリアと同期だった。しかも、その関係は深い信頼によって結ばれている。彼ならこの場をどうやって切り抜けるかを知っているかと思ったのだが、その考えは甘かった。
「アーサーの考えていることは私もたまによくわからないからな、だってさ。アドバイスは『気圧されないように気をつけろ』の一言だった」
「ダリアウェイドさんらしい答えね。大丈夫。お父さんさえ乗り越えたら、あとはもう何も怖くなくなるから」
いったいどれほど厳しい人なのだろう。ニアは緊張をなんとか抑えて、インフェリア邸の玄関に立った。
「ただいま。お客様、連れてきたわ」
サクラが戸を開けると、その向こうもシンプルだが高価なのが一目でわかる家具に彩られていた。仕事上、このような家に来ることは珍しくはないが、ここが親友が幼少期を過ごした場所であり、かつこれからその親友の代わりをしなければならないと思うと、目がかすむようだった。実際、ここまで来るのに眼鏡と薬を使っている。
「いらっしゃい。カスケードとサクラの母、ガーネットと申します」
奥から、金髪の美しい女性が出てきた。二十を過ぎた子供がいるというのに、若々しい。ニアはどぎまぎしつつ、挨拶をした。
「初めまして。ニア・ジューンリーと申します」
「サクラから話は聞いていますよ。とても聡明な方だって。これまでカスケードを捜してくれて、本当にありがとう。あの子を生きて帰してくれただけで、私はとても嬉しいわ」
彼女に勧められて、ニアはインフェリア家へと足を踏み入れた。綺麗な家だが、ふと柱を見ると、何本もの傷がつけられているのがわかる。その横には、名前と年齢らしき数字。おそらくは、カスケードとサクラの成長の記録なのだろう。カスケード十歳、サクラ七歳で止まっていたが。
微笑ましく思いながらリビングに通されると、途端に空気が変わった。そこにはカスケードによく似た、しかし雰囲気は全く異なる人物が待っていた。つかの間の安息は吹き飛び、ニアは息を呑む。だが、まずはこの一言だ。
「初めまして、アーサー・インフェリアさん。ご子息の友人をさせてもらっています、ニア・ジューンリーと申します」
「……私に息子などいない」
ニアが挨拶をした途端、この返事だった。すでに我が子との縁を切る気のようだ。ずきり、と胸が痛む。目がぼやけるが、それに耐える。ここで押し負けてはいけない。
「お父さん、今日の家族会議はニアさんにも出席してもらうわ。お兄ちゃんが出られないから、その代わりをしてくれるの。私たちが知らなかったお兄ちゃんの十三年間を、彼なら語れる」
「この五年はともかく、十八までの話ならアレクから聞いて知っている。今更語ってもらう必要などない」
アレクとは、大総統アレックス・ダリアウェイドの愛称だろう。彼は大総統のことは本当に信頼しているらしい。だが、それが全てだとは限らない。ニアしか知らないカスケードの一面だってある。そう思ってきたのだが、アーサーは完全にニアを「部外者」として見ていた。
「サクラ、今日は家族の会議だ。勝手に他人を連れ込むな」
「他人なんかじゃないわ。お兄ちゃんが家を離れていた間、お兄ちゃんに一番近かった人よ」
このままではサクラと父の間にも亀裂が入りかねない。ニアがどう取り繕ったものかと悩んでいると、ガーネットが間に入るようにして茶器を持ってきた。
「はいはい、そこまで。せっかく来てくださったんだから、お茶にしましょう。ニアさん、紅茶はお好き?」
「あ、はい。大好きです」
「そう、良かった。サクラ、ニアさんを座らせて差し上げなさい。家族会議なんて久しぶりだから、楽しみにしてたのよ」
子供たちが幼い頃から、この家族にはそんな時間があったらしい。大切な話をしながらお茶を飲むことを、この家では「家族会議」と呼ぶのだろう。ニアはガーネットの言葉に甘えることにして、ひとまずサクラに勧められた席に座った。彼女がこそりと教えてくれたことによると、ここがかつてのカスケードの定位置らしかった。
「さあ、アーサー。家族会議を始めましょう。まずはカスケードが生きて帰ってきたことをお祝いしなくちゃ」
「ここにいないものをどうやって祝うんだ。それに、帰ってきたところで迎えるつもりはない。インフェリア家から犯罪者が出たなんて知れたら、大事だ」
「お父さん!」
眉を寄せたまま、アーサーは紅茶を啜った。顔はカスケードによく似ているのに、この表情はなかなか見られるものではない。加えて、年も取っている。将来、カスケードはこのようになるのだろうか。紅茶の香りがあまりに良かったので、ニアは一瞬、そんなのんきなことを考えてしまった。
「だいたい、十三年も家に帰ってこなかった者を今更迎えるというのがおかしな話だ。奴ももう、ここに帰ってくる気はないだろう。私の顔を見るのも嫌なのではないか?」
緊張がほぐれたせいだろうか。それとも、アーサーがカスケードに似ているせいだろうか。ニアは最初よりも随分落ち着いて、そこにいることができていた。いや、たぶん、そういうことではない。この家にはたしかに、カスケードへの愛情が残っている。それをここに来て、確信できたからだ。
「おかしくなんか、ないですよ」
その言葉は自然に出た。サクラとガーネットが、ニアに注目する。アーサーはこちらを見てはいないが、紅茶のカップを持っていた手をぴたりと止めた。
ニアは率直に、考えていたことを述べた。
「カスケードがこの家を出たとき、まだ十歳だったはずですよね。先ほど、僕は身長を測った柱の傷を見ました。そしてこの席、カスケードの定位置だったそうですね。それを考えると、当時の彼には、このいすは大きすぎるし、新しいようにも思えます。このいすは、彼が帰ってくる日を待って、新調していたのではないですか?」
「まあ、すごい! サクラの言っていた通り、頭の良い方なのね」
ガーネットの反応を見るかぎり、この推理はあたりだ。ニアはにこりと笑って、先を続けた。
「アーサーさん、カスケードが帰ってくるのは、おかしなことじゃないです。だって、こうして彼がいつ帰ってきてもいいように、準備がしてあるじゃないですか。大総統閣下に、こまめに彼の様子を確認しながら。きっとこのことを知ったら、喜んで帰ってきますよ」
「帰ってきたところで、もう迎える気はない。あれでは軍にも戻れんだろう。アレクは奴を戻したがっているが、もう無理だ。私が許さん。軍人でないなら、この家の名を持つ資格などない」
しかし、アーサーはニアの言葉を切り捨てる。だが、応えてはいる。こんなとき、カスケードなら、おそらくは父の言葉をそのまま受け入れて勘当されてしまうのだろう。そして二度とインフェリアを名乗らず、軍からも、もしかすると首都、あるいは国からすら去ってしまうかもしれない。それは容易に想像できることだった。
だが、ニアがつくってきた場所のように、この家も彼にとって居場所の一つでなくてはならない。ここには彼を生んだ母がいて、彼が愛しんだ妹がいて、彼を育てた父がいるのだから。ニアが喪ってしまった全てが、あるのだから。
「……ごめん、サクラちゃん。やっぱり僕は、カスケードの代わりなんかできない」
「え?」
ニアはがたり、と席をたった。サクラがあわてるが、それを笑顔で制する。ここから立ち去るわけではない。ニアは、ニアでしかない。ニア・ジューンリーとして、アーサー・インフェリアに真っ向から語りかける。それしかできないのだ。
「軍人でなければこの家の人間を名乗れない? そんなことはないはずです。インフェリアがどうしても軍家でなければいけない理由は何ですか?」
真剣な目で、アーサーを見つめ、問う。
「……インフェリア家の人間たるもの、自分の身は自分で守れなければならない。軍家として、常に潰されてしまう可能性にさらされている以上は、軍人であり続ける必要がある。だが、カスケードはすでに潰されてしまった」
「まだですよ。まだ彼は潰れてなんかいません」
歴史の上で、自分の身を守りきれなかった御三家の一つは表舞台から消えてしまった。もしもそのことを懸念しているのであれば、その問題を解決する方法を、ニアは持っている。自分だけで守りきれなければ、誰かの助けを借りればいい。頼れる仲間がいればいい。それはニアがもう、用意した。カスケードを支えるための大きな力を、ニアはここまで育て、集め、繋げてきた。
「僕が潰させません。彼が軍に戻るのをあなたが許さなかったとしても、僕が彼を預かります。僕が彼を一生をかけて守り抜きますので、絶対に潰れません。彼はインフェリアであり続けることもできますし、僕が預かるんですから、また軍に戻ることだって選択できます。それは彼の自由だ。彼が自由でいられるように、僕が彼の傍にいます!」
繋げなくてはいけないのは、もう一つ。この家族だ。カスケードが見ないふりをしてきてしまった、そしてその父も息子と向き合うことを避け続けてきてしまった、悲しい家族。それをニアの手で今、繋げようとしている。
その思いが、アーサーに伝わればいい。きっと伝わるはずだ。なにしろ彼は、カスケードの父なのだから。
「……アレクからは、君の話も聞いていた」
海色の瞳――さっきまでまるで荒波のような眼だったのだが、今は凪いでいた――が、ニアを見る。やっと、こちらを見てくれた。
「カスケードの弁護をすると言ったそうだな。だが、裏社会で罪を重ねてきた人間を、どう弁護する? 記憶がなかったから操られたと? 記憶が戻った今では、そんな証明はできやしない。奴にとって不利な情報ばかりなのに、それでも守るというのか。それでも奴を潰さずに済ませるというのか」
「はい。それがカスケードに命を救われた僕にできる、恩返しだと勝手に思っています。あなたの、カスケードへの愛情を伝えることも含めて」
軍家がどれだけの重圧を抱えているのか、ニアにはわからない。だが、世間体のためだけでなく、その重圧に耐えうる人間に育てるために、アーサーは我が子を軍にいれたのではないかと、ニアは思うのだ。帰ってこない息子のために家具を新調し、彼が好きな紅茶を淹れるこの家の人々に、愛情がないわけがない。
その愛を繋ぎとめ、これからも紡いでいくために、ニアはカスケードを守ることを改めて決意した。彼が犯した罪を償いたいというのなら、そうさせるつもりだ。だが、その一方で家族が安心し、ニアが自分の我儘を通せるような案を採用するつもりだ。ニアがするのは、そのための弁護だ。
「僕はやりますよ。絶対にやり遂げます。カスケードを、解放します。僕らのために」
宣言したニアを、アーサーの海色の瞳が見つめていた。それがやがて細くなり、カスケードによく似た、笑顔になった。
「君のような友人がいたのに、あいつはなぜ記憶喪失になんかなったんだろうな」
「僕がいたから、記憶喪失になったんですよ。僕を守ってくれたから、こうなったんです。彼は、僕より先に、人を助ける軍人になったんです」
だから、次は自分の番なのだ。ニアがそう言うと、アーサーは深く頷いた。
「では、見届けようじゃないか。君の我儘がどれだけ通用するか。……愚息を、よろしく頼む」


本人から、そしてその家族から託されたものを、ニアは確実に繋げなければならない。任されたのだから、何があっても彼を守らなければならない。
そのための準備ならできている。あとは彼の処遇を決めるだけ。
「閣下。カスケードと、そのご家族と話をしてきました。彼らは全て僕に託してくれるということです」
「ふむ。やはりそうなったか」
こうなることはわかっていたというように、大総統は笑みを浮かべた。結局のところ、インフェリア一家を一番わかっているのはこの人なのかもしれないと、ニアは苦笑した。
「それで、君はどうするつもりなのかね」
「僕は閣下の、彼を軍で管理するという意見に疑問を持っています。それは今も変わりません。彼の自由を奪うのではという懸念は消えていません。ですが、僕らが彼の身柄を守るのだという考えには賛成です。そのために作った班ですから」
カスケード自身の希望がニアに託された今、軍内の反対を押し切って彼を軍に呼び戻すということも可能だ。「カスケード・インフェリアはこれまで裏組織の人質となっていた」という扱いにすれば、彼のこれまでの行動に対する処罰も軽減することができる。「軍の監視下に置く」ことを処罰の内容とすることができれば、彼を再び軍人とすることは可能だ。――要するに、それは。
「では、私の意向通りになるな。カスケード・インフェリアは軍の監視下に置く。もちろん隙があってはならないから、君たちジューンリー班に常に見張ってもらうことになる。しばらく自由の身になどさせんぞ。裏社会の動向に加担し、我が軍の精鋭たちを負傷させた。その罪はけっして軽いものではないのだからな」
大総統の思惑通りに、うまく丸め込まれたような気がしなくもない。だが、ニアは苦笑しながら、彼の言葉に頷いた。
カスケードに自由になってもらいたかった。だが、それは結果がどうなるにせよ、彼が裏社会に渡ってしまった時点で叶わぬことだったのだ。きっと彼は罪悪感を背負いながら、緩慢な束縛の中で生きることになる。彼のしてしまったことは、一生彼を苛むことになる。それはもう、変えられないさだめとなってしまった。
「ところで閣下。アーサー・インフェリア氏と頻繁に連絡をとっていたようですね。あなたたちも本当に仲がよろしいようで」
「アーサーとは親友だからな。ちょうど君とカスケード君のような関係だよ。アーサーはああ見えて天然ボケを連発するような奴で、たいていは私が彼を引っ張っていた。いうなれば私が君で、奴がカスケード君だ」
本当に、よく似た親子だ。そして、よく似た親友同士だ。ニアはやっと、心から笑うことができた。

ニアが大総統室にいる間、事務室では通常業務が進行していた。しかし、交わされる言葉には私語が大いに含まれている。
大総統の考えは、昨日のうちに親しい者には知らされていた。それを聞いて、胸にもやもやしたものを抱えていた者もいる。
「大総統閣下は、ニアさんが捕まったときは、将官たちの反対があるから協力できないって言ってたのに。どうしてカスケードさんは何をしてでも軍に戻そうとするんでしょうか」
カイが不満げに呟く。誰もが思っていて、けれどもニアの前では言えなかったことだ。それに対してアーレイドも頷く。
「建国御三家ってやつだからかな。オレもその贔屓っぽい対応には納得いきません」
「なんだ、お前らも思ってたのか。……まあ、俺も贔屓された側の人間らしいから堂々と文句は言えねぇけどよ」
ノーザリアのフィリシクラム大将という後ろ盾があったうえでエルニーニャにやってきたディアには、このことは思っていても口にできなかったらしい。だから真っ先に騒がなかったのかと、一部は改めて思っていた。
「ニアさんはあくまで一般の軍人ですからね。しかも身内がいないから、万が一のときに切り捨てても、軍という集団のダメージは少ない。それに引き換え、カスケードさんはいわば要人です。建国三英雄の一家から犯罪者が出たとなれば、国の根幹を揺るがす恐れもありますから。囚われてしまっていたものを軍で救い、引き取ったというシナリオにしたほうが、中央軍の株は上がります。現在の軍政にとって、どれだけメリットがあるかを考えると、やはり大総統閣下の動きは認めざるを得ません」
にべもなく言ってのけるクリスに、ニアと同じく身内のいないメンバーは眉を顰めたり、舌打ちをしたりする。だがそれをわかったうえで、クリスはさらに続けた。
「だからこそ、次の大総統はこれとは違う考え方を持った人間が必要なんですよ。おそらく閣下は、その人物に入隊時から目をつけていたのでしょう。それが記憶を失って行方不明になるなんていう予想外の事態が起こったので、彼に近しい者が相応の力を持って動けるようになるまで待ち、今回の解決へ導かせた。全ては閣下の手のひらの上、ハプニングは多少ありましたが、ほぼ台本通りに進んでいるのでしょうね。……ボクはそう思うのですが、メリテェアさんはいかがですか?」
ちょうどジューンリー班の様子を見に来ていたメリテェアに振り返り、答えを求める。だが、彼女は曖昧に笑って返した。
「さあ? 閣下のお考えは、わたくしにも測りかねますわ。所詮はわたくしも、閣下の手のひらの上の人間です。ニアさんが動きやすいように配置された駒の一つにすぎませんから」
しかし、一呼吸おいて、彼女は言った。
「でも、ニアさんはわたくしたちを駒だなんて思ってはいませんわ。閣下も恨まれることを承知で動いている部分がありますし、そう責めては可哀想です。だからわたくしたちは、自分にできることを精一杯やるだけではなくて?」
大総統に怒っていても仕方がない。全てはすでに動き出しているのだから。文句を言っていた面々も、そのことは認めるしかなかった。
「そういうことだ。今はとにかく、手を動かせ。カイ、自分の書類は終わったのか? アーレイドは、そろそろ新兵訓練指導に行く時間だろう。ディアさんは始末書を早く書いてしまわないと、またアクトさんに叱られますよ」
自分も苦手なデスクワークに就きながら、すらすらと指示をするグレンに、一同は上司の姿を見た。
「……グレンちゃん、ニアに影響されてねぇ?」
「半年一緒にいれば影響も受けますよ」

ようやく情報処理室が解放され、クレインは本来の自分の仕事に戻っていた。情報処理担当の仕事が詰まっていたので、クライス、さらにはアクトとハルまでも手伝いに入っている。もともと機械の扱いは得意ではないハルに、アクトが懇切丁寧に作業を教えている様子を見て、クレインがぽつりと言った。
「……お母さんと娘?」
「せめて父子にしない?」
本来ならば、ハルには別の仕事があった。アーレイドと一緒に新兵訓練に行っても良かったし、いつものように書類整理をしていてもかまわなかったのだ。だが、あえて仕事の溜まっている、しかも苦手な部署の手伝いを希望したのは、もちろん邪魔をしたいわけではない。
いつか自分の夢を叶えるため、経験を積んでおきたかったのだ。
「いろんな情報仕入れておかないと、大総統への道は厳しいからな」
クライスがそう言って笑う。ハルもそれに笑顔で応えた。
「ボク、頑張ります。ボクやニアさんみたいに、冤罪で苦しむ人が出ないようにしたいから」
「そうしてくれるとありがたいわ。私も一時は疑われかけたことだし、しっかりとした捜査の基準を作ってほしいわね」
「ハルが夢を叶えられるのは、いつだろうな。期待してるよ」
夢ができて、それに向かってひた走る、未来を背負う少年。その背中を、佐官組はそっと押してやる。彼がその夢を叶えるころには、自分たちは今とは違う道を選んでいて、この場所にはいないかもしれないから。
いや、彼が異例の早さで昇進してくれれば、もしかすると間に合うかもしれないけれど。
「ハルが大総統になったら、ニアさんなんかは感慨深いだろうね。自分に憧れて軍に入ってくれた子が、国の頂点に立つんだから」
「その前にニアさんが頂点に立ったりして。閣下から信頼されてるし」
「いや、オレはあの人は表に立つようなタイプじゃないと思う。トップになったら毎日眼鏡と薬が手放せなくなりそうだ。補佐としてならかなり有能そうだけど」
未来のことを語りながら、目の前に表示されていく仕事をこなしていく。この積み重ねが、いつかの明るい世界へ繋がるのだろうか。そうだといい。そうあってほしい。
ところで情報処理担当の得といえば、誰よりも早く人事関係の情報までもを知ることができるという点にある。しばらく作業を進めていくうちに、クレインの使っているコンピュータのディスプレイに、一件の新着情報が表示された。
「アクトさん、これ見てくれます? ……どうやら、ジューンリー班は面白いことになりそうですよ」
「うわ、対応早いな。ハル、やっぱり大総統ってこれくらい決断が早くないとだめらしい」
「だ、大丈夫かな、これ……」
この決定には、反発も出てくるだろう。ジューンリー班は初期の頃のように、変わり者の集まりと揶揄されるようになるかもしれない。だが、そんなことも乗り越えられないようでは、この先やっていけないだろう。この班は、そのために作られたものなのだから。

外部情報取扱係室の今日の手伝い要員は、シェリアとシィレーネだ。ようやく「先日の騒ぎは何だったのか」という問い合わせが落ち着いてきて、何件かまともな依頼や相談が入ってくるようになった。
「……はい、それではそのように、上に説明させていただきますね。ご依頼が通りましたら、こちらから再度ご連絡差し上げます」
どうやら、依頼型任務が入ってきたらしい。これが正式に任務となるかどうかは、上官との相談で決まるのだが、内容からして下級兵に任されることになるだろう。そうして任務をこなして、エルニーニャ軍人は一人前になっていく。
「シィレーネちゃん、これメリテェアのところに持って行ってくれるか? たぶん君の仕事になる」
「え、私のですか?」
「ああ、たしかに伍長向きだね。昇進試験にはぴったりの内容」
「しょ、昇進?!」
シィレーネも、そろそろ一人前を目指す時が来たようだ。先日の件で「カスケード・インフェリアを説得した」ということになっている彼女は、急に軍で一目置かれる存在になっていた。それまでは、邪険にされたこともあったというのに。
「と、とにかく書類、持って行きますね! いってきます!」
「転ぶなよー。……ところでさ、ツキ曹長。アタシいろいろあって、まだシィの青い王子様に会ったことないんだけど。どんな人?」
部屋を出ていくシィレーネを見送ってから、シェリアはずっと興味を持っていたことについて、ツキに尋ねた。写真は見たことがあるのだが、本当に「青い」という感想しか出てこなくて、人柄を掴めずにいたのだ。ニアの説明では、とてもいい人だそうだが。
「俺もちゃんとはわからないけれど、王子様っていうよりは将軍? とにかく強いんだよな。あれだけの力を持ってて、まだ裏にいたらと思うと、今でも鳥肌が立つ」
「そんなに強いの? ……でも、ま、シィを助けてくれたんだから、きっと優しい人だよね。あの子を泣かすようなヤツだったら蹴り飛ばす」
「シェリアとシィレーネちゃんも、良い親友同士だよな。俺もたまに、学生時代の友だちと遊びに行くかなー……」
などと会話をしているうちに、電話は再び鳴り響く。
「こちらエルニーニャ王国軍中央司令部です……」
その音が、軍に事件を運んでくる。

ブラックは軍病院に毎日足を運んでいる。今日はそれに、リアとラディアもついてきた。アルベルトの手にラディアの治癒が効くかどうかを試すためだ。
「おーい、起きてるか?」
「こんにちは、アルベルトさん」
「起きてる……って、マクラミーさん?! え、なんで、あの、」
「いつも通り挙動不審ですね。私もいますよー」
病室に入った途端に、この調子だ。アルベルトは元気だと思っていいだろう。おかげでブラックの抱える罪悪感は、深く根付いてはいるものの、重くて動けないほどのものにはならなかった。
そうでなければ、ここにリアたちを連れてきたりはしない。自分一人で通っては、しでかしてしまったことに悩んでいたことだろう。
「縫合痕はなんとかできると思いますけど、神経までは私の力が及ばないかもしれません」
「気にしないでください、ローズさん。僕のは自業自得ですから」
そもそも、中央に来なければこんな事態になるどころか、今も一人で父を追っていたかもしれない。犠牲者を増やしながら。現状は最善とはいえないが、「もしも」をいうときりがない。だから、これからのことを考える。
「リハビリ、大変そうですね。私にできることがあったら協力しますから、何でも言ってくださいね、アルベルトさん」
そう言って微笑む、リアのように。
「あ、ありがとうございます。マクラミーさん」
「リアです。私の名前はリア。マクラミーじゃ、私の家族と区別がつかないじゃないですか」
「あ、そうですね。……ええと、リア、さん……」
しかし、好きな女の子にあからさまに照れている兄を見ていると、これからは少し兄から離れてもいい気がする。彼女の助けがあれば十分じゃないか、などと思ってしまう。
「デレデレしやがって」
「ホントですね。リアさんとられないようにしなくちゃ」
「?!」
……いや、まだ知らないこともたくさんある。他人のことも、自分のことも。もう少し、兄と自分とを取り巻く環境の中で、過ごしてみよう。もっと何か見えるものがあるかもしれない。そうして迎える未来は、どんな色をしているのだろう。
何物にも染まらない黒は、どんな風に輝くのだろう。

その日の夕方、ニアは留置所にいた。カスケードとの面会と、もう一つ、重要な案件を目的として。先にその件について、モンテスキューから事情を聞くことになっていた。
「マカ・ブラディアナが逃げ出したって、どういうことなんですか?」
挨拶もそこそこに、ニアは本題に入った。モンテスキューは心底申し訳なさそうに頭を下げ、応えた。
「職員の一人が、買収されたようです。彼女の行方はわかっていません。本当にすみませんでした」
マカ・ブラディアナが拘置所から逃走した。その報せが入ったのは、ニアがカスケードに会いに行こうとした、ちょうどその時だった。外部情報取扱係に、モンテスキューから連絡が入ったのだ。
逃走を手伝った職員は拘束してある。――彼はいつかハルを侮辱し、ニアを嘲笑した、あの職員だった。マカに買収されて、彼女がここから抜け出す手筈を整えたらしい。現在、彼女の情報を持っているジューンリー班を中心に、捜索が進められている。
ニアはカスケードのところへ行くようにと、クリスに言われてここに来た。
「現在、裏組織の本拠地だった場所を中心に、マカを捜しています。カスケードにも、心当たりを訊いてみたいんですが」
「はい。すぐに面会室に呼びましょう」
本来ならば、カスケードへの事情聴取と、今後の動きについて細かに説明をするはずだった。だが、想定外の出来事のおかげで、今日は詳しい話ができそうにない。
「カスケード、マカがいなくなった。彼女が行きそうな場所、どこか知らない?」
面会室にやってきたカスケードに、ニアは開口一番そう尋ねた。焦っていて、重要なことを忘れていた。
「いや、わからない。そもそも俺だって、マカ・ブラディアナについては何も知らなかったんだ。“あの方”とはスピーカーを通じて話すだけだったからな」
そう、カスケードは“あの方”がマカ・ブラディアナであると、軍を襲撃したときに初めて知ったのだ。“あの方”は自分のことを一切語らずに、カスケードたちを操ってきた。手掛かりはここにはなかった。
「……そうだったね。ごめん、急ぎすぎたよ」
「ただ、ヒントになりそうなことならある。あのマカは、記憶保持クローンだったんだよな?」
俯きかけたニアだったが、カスケードの言葉に顔をあげる。マカ・ブラディアナの行方についてはわからないが、クローンの秘密ならば、知っている。彼は裏組織で、クローンをつくっている人間と話をしているのだから。
「記憶保持クローンっていうのは、オレガノさんによると、延命措置が必要らしい。栄養が脳に偏る分、肉体が崩れないように、定期的に培養液なんかに浸けて、保護しなくちゃならないんだそうだ」
「定期的にって、周期はどのくらい?」
「詳しくはわからないが、あまり日をあけてはいけないって聞いたな。日数が経つと、人間のかたちを保てなくなるらしい」
マカを拘束してから、すでに三日。彼女が最後の力を振り絞って逃げ出したのだとしたら、それほど遠くまでは行けないはずだ。だが。
――私は不老不死よ。この身が滅んでも、私の記憶を受け継いだクローンが目的を果たしてくれる。
言葉の通りなら、どこかに彼女の代わりがいる。彼女はそれを起動しに行ったのではないだろうか。それはいったい、どこにあるのだろうか。
「……崩れてしまうなら、捕まえても意味がないんだろうか。いや、組織が使っていた施設を利用すれば彼女を生かせる……」
「一度崩れてしまったものは、戻せない。三日なら、そろそろ限界かもしれない。……もう間に合わないよ、ニア」
他でもない、裏組織にいた人間が言うのだ。これ以上彼女を捜しても、何も出てこないのだろう。彼女の記憶を受け継いだクローンの居場所を探し、保護することに切り替えた方が、いいのかもしれない。
「……彼女はいつかまた、君を狙うかもしれない」
「そうだな」
「僕は、そうさせたくない。だから彼女の捜索は続ける。……間に合わなくても、彼女に次がある以上は、追い続ける」
また一つ、ニアに軍人を続ける理由ができてしまった。まだ当分、引退なんかできそうにない。いつか、ほんの少しだけ考えた。カスケードが見つかったら、軍を辞めようかと。親友の保護を最後の仕事にしようかと。けれども、それを決めるのはまだ遠い未来のようだ。
「追い続けるには、君の力が必要だ、カスケード。……君の処遇が決まったんだよ。事情聴取を終えたと僕が判断した時点で、君には軍に戻ってもらう。カスケード・インフェリア大尉として、僕の班に所属してもらう」
カスケードの目が見開かれる。それから彼は、ニアに向かって、不敵に笑ってみせた。
「また、一緒に事件を追うんだな。ニアがそう決めたのなら、そうしよう。どうせ監視とかも含んでそういう決定になったんだろ?」
「まさにその通り。君は常に僕の監視下に置かれることとなる。僕の命令は絶対だからね、カスケード」
裏組織による中央司令部襲撃の首謀者、マカ・ブラディアナが逃走。軍では彼女の行方を引き続き追う。担当するのは、ニア・ジューンリー大佐と、この件に関わり、軍に再び戻ることとなったカスケード・インフェリア大尉。五年前の春に一度解散した、ゴールデンコンビの復活宣言だった。

それから一夜明け、ニアは朝からカスケードの事情聴取に入った。マカの捜索も同時に進めてもらっているが、まずは早くカスケードを軍に戻すよう、大総統から命が下ったのだった。
聴取の合間に、休憩がてら雑談を挟んでいた。五年分の「積もる話」から「最近の出来事」まで、ネタには困らなかった。
「昨日はニアが急いでたから言えなかったけど、親に会った」
カスケードは昨日、ニアが訪れるより前に、両親と面会していた。サクラも一緒だったので、思っていたよりは話しやすかったという。
「全部ニアに任せたって、父さんが言ってた。だから俺は安心してニアの命令に従える」
「お父さんに認められて良かったよ。僕はそれが一番不安だったんだ……」
「いや、父さんはニアのことをかなり気に入ってるようだった。だから安心しろ。……ありがとうな、俺と親の関係まで世話してくれて」
どうやら、インフェリア家の問題は解決したようだ。カスケードと父も、これからは多少衝突しても、絶縁なんてことにはならないだろう。ニアには嬉しい報せだった。
「サクラちゃん、今日北方に帰っちゃうんだよね。見送りに行けないのが残念だけど」
「サクラとのことも感謝しなくちゃな。あいつ、びっくりするほどしっかり育ってたなあ……」
「初めて会ったとき、カスケードとは大違いだなって思ったよ」
「酷いな、ニア……お前も、五年前より随分強引になったんじゃないか? 昨日なんか『僕の命令は絶対』なんて言いだすし」
「カスケードを追ってるうちに、僕もいろいろあったからね。昔よりかなり我儘で横暴になったから、覚悟してね?」
何気ないやり取りと、真面目な話を繰り返す。空白を埋めるように、真剣に考えては、唐突に笑い、しんみりもして。そうしていくうちに、五年の別れなど気にならなくなる。ニアとカスケードは、ずっと親友であり続けてきたのだ。そしてこれからも。
そうして調書が埋まった頃、ニアは「これで終わり」と言った。聴取は完了したのだ。だが、カスケードは首を横に振って、「これが始まり」と返した。

* * *

翌週、彼は新しい軍服を着て、中央司令部に帰ってきた。
「大尉のカスケード・インフェリアです。本日からこちらでお世話になります」
背の高い彼がきちんと挨拶をすると、本当に立派に見えた。これなら僕と同じ、大佐を名乗っても違和感がないだろう。
伸びすぎていた髪も、リアちゃんの協力を得て、切り揃えてもらった。男の僕から見ても、彼はかっこよかった。
けれどもそれも数秒のこと。
「でも、寮へ荷物運んだりとか手伝ってもらったから、改めてお世話になりますっていうのも変な感じだな」
彼はすぐに、ふにゃりと笑って、周囲を和ませた。僕はきりりとしてかっこいい彼も好きだけれど、どちらかといえば、この人好きのする笑い方が気に入っている。昔と変わらないな、ということを実感できるからかもしれない。
彼が帰ってきたから、僕はもう彼の真似をして自分を慰めるようなことをしなくてよくなった。回りくどい言い方だけれど、つまりは僕も、髪を切った。カスケードのように少しだけ切り揃える程度ではなく、ばっさりと。リアちゃんが名残惜し気にしていたけれど、僕は本来の自分に戻れたようで、体も心も軽くなった。
そうすると、不思議と目の状態も良くなってきた。今日から、一日眼鏡をかけずに過ごせる日も増えるかもしれない。薬はだんだん効果を弱めて、減らしていくことになった。
僕が自分の体と心を回復させていくのと、カスケードが場に慣れるのとでは、どちらが早いだろう。
「ジューンリー大佐、俺は何をすればいい?」
「いつも通り、ニアでいいよ、カスケード。そうだな、しばらくブランクがあるし、グレンの仕事を手伝ってくれる? 大尉同士仲良くね」
「わかった。おーい、グレン! 俺にも仕事くれ!」
「え?! あ、はい、どうぞ……」
きっと、カスケードが慣れるほうが、ずっと早いだろう。彼はもともと、人に好かれやすいから。そういう魅力を持っている人だから、僕も彼に惹かれたのだ。
「なんか子供みたいだね、カスケードさん。おれたちと闘ったあの強さは、いったいどこからきたものなんだか」
僕のところに書類を取りに来たアクトが、少し呆れた調子で言った。否定はしない。
「十八歳で成長が止まってるみたいなものだと思って。ビアンカちゃんがかなり甘やかしてたみたいなんだ。これから教育し直さないと」
「うわ、ニアさんの教育って、絶対厳しいじゃないですか」
「カイ、僕はみんなに平等に厳しいよ? はい、君の分」
「お前、ニアに余計なこと言うと書類まみれにされるぞ」
「うるさい、まっくろくろすけ。お前だって書類まみれだろうが」
僕たちがつくりあげたこの場所に、カスケードは初めからいたみたいに溶け込むんだろう。だって、ほら、もう自然に話をしている。
「カスケードさん、この書類はこことここを重点的にチェックしてください」
「ん、サンキュ。グレンは教え方が丁寧だな」
大尉組はどうやらうまくやっていけそうだ。僕は安心して、自分の仕事に取り掛かることにした。カスケードの件が片付くと、僕らの仕事は随分と減ったように思う。その分、マカの捜索と、少しばかり特殊な事件にかかるようになった。今は主に裏社会の件に特化した班として、関係する案件を引き受けている。
「ニアさん、よろしいでしょうか。先日の報告書が戻ってきてしまいましたわ」
「先日? ……ああ、危険薬物取締の。ディア、もっと丁寧に書き直せって来てるよ」
「げ、またかよ……俺、始末書溜まってんだけど」
ディアの始末書件数は全く減っていないので、お詫び行脚はいつも通りだ。それを聞いたカスケードは、笑い転げていた。
「え、また何か壊したのか、不良?」
「うるせぇ、不良って言うな! お前は気安すぎだろ、カスケード! 俺は一応お前の上司なんだからな!」
「はい、仕事してね、二人とも」
それにしても、馴染むのが早い。僕がそれなりに苦労して集めた人員と、カスケードは一瞬にして打ち解けていく。これも才能なんだろうか。
「カスケードさんがいると、ニアさんは嬉しそうだね」
僕はその才能を羨むでもなく、カスケードと仲良くしている他の人に嫉妬することもなく、彼らの交流を嬉しそうに眺めているように見えるらしい。少なくとも、ハルからは。
「そうだね、嬉しいよ。嬉しいけど、騒がしいかな。ちょっと叱らないとまずいね」
「ニアさんが怒るなら、オレとハルは外出てますね。ちょうどクレインに頼まれてたものがあったので」
「アーレイドさん、その必要はないわ。私、来たから」
逃げようとしたアーレイドが、当のクレインちゃんに捕まっている。僕、そんなに怒ると怖いかな。それはともかく、とにかく騒がしい人たちを叱らなくちゃいけないなと思っていると、クライスとツキが次々に事務室にやってきた。
「依頼任務、ジューンリー班指名で来てるって。オレが潜入捜査してきたやつなんだけど」
「外部情報来たぞ。ニア、今大丈夫か?」
どうやら、叱る時間もないらしい。今日も忙しくなるな。カスケードの就任一日目だっていうのに。……思えば、自分が退院してから休んでないな、僕。
しいていうなら、カスケードが寮に来た日に、お祝いと称してあのアイスクリーム屋に行ったくらいだろうか。彼と食べるアイスクリームは、やはり格別だった。今度はハルとも約束したように、みんなで行きたい。
「はい、仕事ちょうだい。……これは佐官で対応しようか。クリス、リーダー頼める?」
「いいですよ。人員はボクの裁量で構いませんか?」
「うん。現場に詳しいからクライスを連れて行くといいよ。ツキ、外部情報って何?」
「マカ・ブラディアナっぽい目撃証言だ。信憑性は薄そうだけど、一応な」
「これは僕のだね。カスケード、僕らの仕事第一号だよ!」
さて、僕はともかく、この忙しさにカスケードがついてこられるだろうか。いや、ついてきてもらわないと困る。だって、これでも一時期よりは随分ましなんだから。
「俺たちの仕事って?」
「マカを目撃したかもだって。この人から話を聞いてこよう。ツキ、この人と連絡とってくれるかな」
「了解。アポ取れたらまた来る」
ツキの報告を待って、目撃者から話を聞きに行くついでにアルベルトのお見舞いにでも行ってみようか。それから、まだやらなくちゃいけないことが……。
「ニアさん、これ終わりました。確認お願いします」
「リアちゃん、ありがとう。……うん、大丈夫だね。ラディアちゃん、ファイリングお願い」
「はーい!」
こんな調子だけど、カスケードは大丈夫だろうか。……大丈夫そうだね。仕事にわくわくしているようだし。これなら僕の班員として合格だ。

「目撃証言はあまり有効ではなさそうですね。マカは死亡した可能性もあるんですよね?」
目撃証言は、別の誰かを見間違えた可能性が高かった。僕とカスケードは証言者と会った後、軍病院にいるアルベルトに会いに行った。彼は事務方でも十分にやっていけそうだった。聞いた状況から、考えを巡らせている。これなら手が回復してから、軍に戻ってこられるだろう。本人もそれを希望しているようだ。
「カスケードの話だと、長期間は肉体を保てないって」
「一週間以上はさすがに無理だろうな。どこかに潜んででもいない限りは」
司令部襲撃事件後、アーシャルコーポレーション関連の施設は全て再調査した。僕の主導でやったのだから、隠蔽はないはずだ。見落としはないだろうか。他に裏社会が使っている可能性のある場所は?
まだ考えなくてはいけないことがたくさんある。まだ、事件は終わっていない。きっとこれは、僕らが軍にいる限り続けなくてはいけない仕事になるのだろう。

雪が、降っていた。僕らは商店街でお土産を買って、事務室に戻ることにした。
シェリアちゃんと知り合ってからすっかりなじみになったパン屋で、袋いっぱいのパンを買った。買い物をしているときのカスケードは楽しそうだ。五年間、買い物はビアンカちゃんがやっていて、カスケードはずっと隠されていたらしい。ときどき外に出る程度だったから、こうして僕と歩けることが本当に嬉しいのだと言ってくれた。
「街を歩いたり、人と話すのっていいな。すごく楽しい」
「カスケードは、人が好きだもんね」
「ああ、だからシィちゃんに初めて会ったときは嬉しかった。……本当は、嬉しかったんだ」
彼にはまだ、本当の自由を与えてあげられない。常に僕が見ていなければならないということになっている。それなのに、ただ街を歩けるというだけで、人に会えるというだけで、彼にとっては素晴らしいことであるようだった。
「あ、ニア大佐とカスケード大尉。おかえりなさい」
「お、おかえりなさい!」
「ただいまー。シェリアちゃんの実家でパン買ってきたよ」
「ただいま。美味しいってニアから聞いたから、楽しみなんだ。シィちゃんはどれが好きなんだ?」
「えっと、私は……」
彼がたくさんの人と触れ合えるようにしてあげたい。そのために、今抱えている仕事を片付けたら、一度みんなで夕飯をとろうかと思っている。
今は年末。忘年会をするのもいいし、クリスマスも近いし、口実ならたくさんある。五年分を楽しもう。
美味しい紅茶と、賑やかな会話で。

* * *

一日、二日と日が経って。今年の終わりが近づいていた。クリスマスには忘年会を兼ねてみんなで集まろうということになり、一同は仕事を進めつつも心を弾ませていた。
カスケードはすっかり班に馴染み、初めは遠巻きに見ていた他班の者や将官たちも、次第に彼のペースに巻き込まれていった。彼には対人関係を容易く築いていく才能がある。ニアがそう言うと、大総統は「インフェリア家の人間にはそういうところがある」と返した。
彼についての報告は、毎日行なっている。実際に仕事をしてはいるが、やはり彼が監視下にあることには変わりない。彼の日々の行動を、ニアは丁寧に、詳細にまとめていた。その内容はどうやらインフェリア家にも伝わっているらしい。だが、ニアの「命令」でカスケード自身が実家に顔を出すようになったので、それもじきに必要なくなるだろう。
その日、終業後に、ニアとカスケードは司令部中庭にいた。今は雪の積もる大樹の下で、二人が思い出していたのは、夏の景色だった。
十三年前の夏、二人はこの場所で出会った。エルニーニャ軍では入隊成績の上位者は伍長階級からスタートする。だが、ニアは体力面で、カスケードは筆記試験の結果によって、その枠に該当しなかった。
親の言いつけにより嫌々軍に入ったカスケードは訓練をさぼり、自分の理想の軍人になるために真面目に訓練を受けていたニアが彼を呼びに行った。
この中庭で、この木の下で、彼らは出会ったのだった。
「懐かしいな。ニアに名前を呼ばれて、思わず下りてきたんだった」
「さぼってるカスケードを、適当にあたりをつけて呼んだら、見事に正解だったんだよね。……あのとき、君が僕を無視していたら、今頃こうして一緒にいることもなかったかも」
どんな痛みも、今へ繋がっている。あの出会いがあって、現在が、そして未来がある。見上げる大樹は、その歴史を知っている。この国に軍ができてから、いや、その前から、ずっとここにあるものなのだという。この木の下で出会ったことは、ニアの中では運命として刻まれていた。
「カスケード、僕と出会ってくれてありがとう。あの日、僕の声に応えてくれてありがとう」
ニアがそう言うと、カスケードはすっかり日の落ちた中でもよく見えるような、眩しい笑顔で返した。
「こっちこそ、ニアが呼びに来てくれて良かったと思ってる。……昔と変わらない、太陽みたいな笑顔を見せてくれて、ありがとうな」
「僕にとっての太陽は君だよ。僕はいつも君を追いかけていた」
「そうだとしても、とっくに追い越してる。今やニアは大佐、俺は五年前のまま、まだ大尉だ」
「階級なんか関係ないよ。僕は、いつだって君を追いかけて、そうやってここまできたんだから」
ニアは微笑む。カスケードと顔を見合わせて。冬なのに、温かな風が吹いたような気がした。
「……いや、きっと、並んでたんだ。俺とニアは、いつだって肩を並べて、歩いてたんだ。道はきっと、隣り合わせだった」
「そして今また、やっと同じ道を歩けるようになったんだ」
「まだだよ。俺はまだ、罪を償っていないから」
「それなら僕だってそうだ」
道は、同じだ。この先も、ずっと。
「来年の夏、また海を見に行こうよ」
「……ああ、それもいいな」
それを確かめ合うように、二人は子供のように手を繋いで、笑いあった。


これは、いつか誰かが望んだ、裏返しの物語。
初めから書き換えた、再誕の物語。
願いと希望が叶った、もう一つの、世界暦508年の物語。



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2014年02月27日

Reverse508 第二十六話

鈴のような音色の声。小首を傾げて笑う、愛らしい顔。揺れる、栗色の巻毛。どう見ても十代後半から二十代の少女に見える彼女は、しかし実に七十年分の記憶と技能、知識を持つ。その肉体は、この何年かのうちに作られたものなのだろう。彼女はたしかに「裏社会の天才科学者」と呼ばれた人間の、最後の作品にして、彼女自身であった。
マカ・ブラディアナ。五十三年前に姉殺しという罪を犯し、軍に身柄を拘束された、当時十七歳の女性。彼女が起こした事件を解決したのは、当時の大佐であり、のちに第二十五代大総統となったカスケード・インフェリアだった。彼の功績は国中に認められ、その名は孫に引き継がれている。
因縁を纏って、かつての少女は復活を遂げた。軍への復讐心と、インフェリア家の人間に対する妄執が、彼女をこの事態を引き起こすまでに駆り立てていた。右手には銃を持ち、その狙いは今、軍も組織も裏切ったアルベルト・リーガルへと向けられている。
「約束は守ってあげたわ。あなたが手を切り落としたから、司令部に仕掛けた爆破装置の一つは止めてあげた」
マカは可愛らしい声で言う。
「一つって……」
出血が多く、息も絶え絶えになっているアルベルトが鸚鵡返しに言うと、彼女はおかしなものを見るような目で返した。
「だって私は最初から、起爆装置が一つだなんて言っていないでしょう?」
「嘘よ! 軍のシステム上では、もう起爆するような要素なんてない! 私がこの目で確認したもの!」
クレインが反論するが、マカはふう、と溜息をついて答えた。
「何も、システムに介入するものだけが爆破につながるとは限らないでしょう。それともこの軍では、爆弾の処理なんかやったことがないのかしら?」
軍のシステムを利用したもの以外にも、爆発物がある。たとえそれが司令部を全て焼き尽くすようなものではないにしても、危険物であることには変わらない。場所によっては誘爆を引き起こし、大惨事になる。たとえば、武器庫か。あるいは、人質が集められている場所か。
「ブラック、アルベルトを連れていけ。俺とクライス、クレインで爆弾を捜す」
ツキが抱きかかえていたアルベルトの体を、ブラックに託す。ブラックは頷き、アルベルトを担いで、その手を持って、少女の脇を抜ける隙を探した。
「無駄よ。リーガルにはここで死んでもらうわ。もちろん、お前たちも一緒にね!」
マカが銃口をアルベルトに向ける。ブラックはとっさにアルベルトを庇い、前に出た。最悪、自分の命が失われても、アルベルトを守らなければならない。だって、もう、彼の手をこの手で切り落としてしまったのだから。そうでなければ、犯した罪を償えない。
「ブラック、やめて」
僕はもういいから。そう、アルベルトが言おうとしたときだった。
銃口が見えなくなった。素早く間に入り込んだ大きな影に遮られた。ブラックどころか、ツキよりも背の高い、大柄な男。背中へ伸びた髪の色は、ダークブルー。いつか敵となって現れた彼が、今度はこちらを守る盾となっていた。
「カスケード、さん?」
アルベルトの細い声が、その名前を呼ぶ。彼は振り向いて、海色の眼で笑った。
「アル、大怪我したんだろ。早く無事な場所へ行け。ここは俺たちで食い止めるから」
俺たち。彼はたしかにそう言った。そして、それは真実だった。
少女の後方には、大剣を手にした青年が立っていた。光に透けたその髪は、美しい緑色。瞳もまた同じ色で、倒すべき敵と、守るべき仲間を見ていた。
「ブラック、早くアルベルトを医務室へ。あそこはもう大丈夫。クリスが怪我をした人たちの救護にあたっているから、応急処置だけでもしてもらって。ツキとクライス、クレインちゃんは、他に危険物や動いているクローンがいないかどうか確認を」
リーダー、ニア・ジューンリーの指示に、全員が動く。脇をアルベルトを抱えて通り過ぎようとするブラックへ、マカが反射的に銃弾を放つが、それはニアの大剣によって止められた。他の三人がそれぞれその場を離れた後、残されたのはマカとニア、カスケード。少女は似つかわしくない歪んだ表情で舌打ちをした。
「あなたが、カスケードたちを動かしていた“あの方”ですね。……マカ・ブラディアナ」
ニアの言葉に、マカは嘲笑を浮かべた。
「すごいのね、名前まで知っているなんて」
「僕の仲間たちが調べてくれましたから。すでに本人は死亡していることが確認されているから、あなたは彼女が作りだした記憶保持クローンといったところでしょうか。なにしろ天才科学者だ。自分の記憶を植え付けたクローンを作り、死後も動かし続けることなど、造作もないことでしょう」
「まあ、正解! ……それはそうと、カスケード。私が“あの方”だと知っていて、逆らう気かしら? それとも記憶、戻っちゃったの?」
スピーカーから聞こえてくる口調とはまるで違うが、カスケードにも彼女こそが“あの方”であるとわかっていた。自分の名前を呼ぶその調子が同じだった。
「記憶はまだ戻っていない。でも、俺はあなたのしてきたことをおかしいと思った。ビアンカを殺したことも、イリーを殺せと言ったことも、アルを傷つけたことも、納得いかない!」
「ビアンカを殺したのはボトマージュだし、リーガルを斬ったのはその弟よ。イリーに至っては、手を下したのはカスケードじゃないの。私は指示をしただけ。従ったのは君たちだわ!」
「どうしてそんな指示をした?! 軍をなくして、平和を築く。それがあなたの理想じゃなかったのか?!」
「嘘じゃないわよ。軍がなくなれば、裏社会を支配する私の天下。私にとっての平和だわ。それにはカスケード、君の力が必要だった。かつて私が唯一求めたもの、それがカスケード・インフェリアという存在だったの。偶然にもビアンカ・ミラジナがその確保を達成してくれたけれど、彼女は君を独占しようとしていた。だから邪魔だったの。本当は五年前の時点で殺しても良かったのだけれど、君がいなくなれば軍が動くでしょう? 軍を排除するために、利用できるかなと思ってとっておいたのよ。……そう、本当は彼女の役目は、君を私に譲れば終わりだった」
ビアンカの役目は五年前に終わっている。それはいつかスピーカーを通して、マカが言っていたことだ。カスケードを手に入れた時点で、マカの中での彼女の価値はほとんどなくなっていたのだ。
それを「キメラ研究を手伝う」という名目で先日まで放っておいたのは、軍に攻撃を仕掛けるため。だが、期待はしていなかった。キメラでは、ビアンカの力では、軍を潰せるはずがないと、マカ自身が考えていた。
それに、いつまでもビアンカにいられては困るのだ。マカがほしかったのは、カスケードなのだから。
「なんで、俺を……」
「君は、君のおじいさんによく似ている。かつて私を唯一救い、そして私を裏切った、あの男にそっくり。……だから、今度こそ裏切らせないようにしようと思った。私だけのものにしようと思った。でもね、それにはビアンカと、……ニア・ジューンリーが邪魔だった」
マカがニアを睨む。そのまま、彼女は言葉を続けた。
「けれども、ビアンカのおかげでカスケードは記憶を失っていた。ニア・ジューンリーという親友なんてものの存在はすっかり忘れていた。そのままで良かったのよ。そのままでいてくれれば、私の目的は達成できた。私たちが、軍の滅びた新しい世界の父と母として君臨する。生涯、私がつくりあげた世界で愛し合う。それが私の目的」
「……あなたはカスケードが、正確にはカスケードのおじいさんが好きだったんですね。けれども彼に罪を暴かれたことで、裏切られたと思った。……あなたの計画は、五十三年前から始まっていたんだ」
マカ・ブラディアナについての報告は、ニアにも届いていた。一足早く情報部隊が動き出し、有力な説を導き出してくれたことで、ニアもそれを把握することができていた。
しかし、まさかたった一人の少女の恋心が憎しみに変わったという、ただそれだけのことがこの事態を招いたということには、衝撃と呆れしかなかった。
人間の感情というものは、かくも測れぬものなのか。――他でもない自分自身が親友に執着していたことを考えると、ニアにはわからなくもなかったが。
「五十三年。その歳月が私にとって、どんなに困難なものであったかわかる? わからないでしょう。やっとここまでこぎつけたの。ニア・ジューンリー。君に邪魔されるわけにはいかないのよ」
カスケードにニアを思い出されて困るのは、ビアンカだけではなかった。親友のことを思い出せば、彼は確実にそちらへついてしまう。それをマカも、スパイからの報告などを通じてわかっていた。わかっていて彼を軍に露出させたのは、確証がほしかったからだ。もう、カスケードがニアのことを思い出さないという確証を。ビアンカとは真逆の考え方だった。
だが、こうしてカスケードがわけもわからないままにでもニアの味方をしているということは、彼は本能的に親友を選んでいるのだろう。それがわかった今、マカがすることはただ一つ。
カスケードの居場所を、たった一つにしてしまうこと。彼が生きるための場所を、自分の傍を除いて全てなくしてしまうこと。
「もう一つの爆発物の場所、教えてあげましょうか。私について来ればわかるわ。私がその場に行って起動させる必要があるの。……こっちよ」
マカはニアの横を通り過ぎ、歩いていった。逃げようとしているのではないらしいが、罠には違いなかった。自分で起動させなければならないものを、彼女が仕掛けるわけがない。自分も巻き込まれてしまっては、彼女の目的は達成しえない。
しかしこのままマカを逃がすわけにもいかないので、ニアは彼女の後を追った。その後ろから、カスケードもついていこうとする。だが、ニアがそれを、大剣を持っていない方の手で制した。
「カスケードは、ここにいて。危険だから。きっと僕の仲間が、君を保護してくれるはず」
「でも」
「僕は、君をもう巻き込みたくないんだよ。……君を失いたくないから、僕が彼女と決着をつける」
まっすぐな緑色に見つめられると、カスケードは動けなかった。懐かしくて、切なくて、けれども思い出せないのが悔しくて、立ち尽くす。
そんなカスケードを置いて、ニアは行った。かつてカスケードが、ニアを置いて戦いの場に行ってしまったように。

マカの後を追って辿り着いた場所は、練兵場だった。爆発物を仕掛けるにはどうにも広すぎる場所だ。ただし武器庫とつながっているので、そちらに被害が及べば大変なことになる。
だが、彼女は練兵場の中心に向かった。そしてそこで足を止めると、ニアに振り向いた。
改めて見ると、実に愛らしい少女だった。彼女が過去に殺人を犯したということすらも信じられないほどだ。栗色の髪を揺らし、天使のように微笑む彼女が、いったいどうして凶行に及んだというのだろうか。
「ニア・ジューンリー。あなたには、両親がいないんだったわね」
唐突に、彼女は言った。ニアは頷き、「そうだね」と答えた。
「それがどうしたっていうの?」
「私には両親と姉がいたわ。貴族家で、裕福な家。周りは羨ましがると同時に、憐れんでいたわ。姉が重い病気を患っていて、生まれたときからずっと臥せっていたから。両親は姉にかかりきりで、あとから産まれた私にはあまりかまわなかった。私はずっと、メイドに育てられていたの」
ふっと、マカの表情が陰った。彼女の手から銃が滑り落ち、地面にあたった。彼女は今、自分自身の心の傷を、ここに至るまでの動機を、語ろうとしていた。
「私は両親によって十分な教育を受けさせられてきたけれど、両親からの愛は全て姉に注がれていた。私はずっと寂しい思いを抱えて生きてきた。姉さえいなければ、と思ったことも、何度もあった。……でもね、耐えたのよ。十七歳の、あの日まで」
十七歳――彼女が事件を起こした年齢だ。おそらくは今の体も、当時を模したものなのだろう。そのとき起きた出来事が、彼女の運命を動かした。
「ある日、私は初めて人に助けてもらったの。初めて私だけを見てくれる人に出会ったのよ。彼にまた会いたいと願った。彼は殺人や危険薬物取引に携わることの多い軍人だった。そう、二代前の大総統、カスケード・インフェリアよ。私は彼に再び会うために、事件を起こした」
殺人担当なら、きっと事件があれば来てくれる。また彼に会える。マカはそう考えて、姉を殺した。姉のもとに足繁く通っていた叔父に全ての罪をかぶせ、自分は悲劇の主人公を演じれば、彼が助けに来てくれるはずだと信じた。――ところが、彼女の罪は暴かれたのだった。当のカスケード・インフェリアと、そのパートナーによって。
「彼を私のものにするために、あと一歩及ばなかった。牢獄の中で、彼と再び巡り会うにはどうすればいいか考えたわ。そしてひらめいたの。私が彼に追われればいいんだって」
刑期を終えた彼女は、裏社会に入り込んだ。持ち前の知識に研究と実践を重ね、長い時間をかけて裏社会の重鎮に君臨した。しかし、そうしている間に当のカスケード・インフェリアは、若い頃に受けた傷の後遺症によってこの世を去っていた。子供と、孫を残して。
しかし子孫が生きていて、それがかの恋焦がれた人と同じ名前だということを知った彼女は、未来に可能性を託した。自分が若返り、かつ不老不死になれば、孫に近づくチャンスがある。かつての夢を叶えることができる。そうして誕生したのが、記憶保持クローンだった。全ては彼女の、恋という執念が起こした事件だった。
「その体も、やはり記憶保持クローンなんですね」
「そうよ。若くてきれいでしょう。でも、当時は誰も褒めてくれなかった。私に手を差し伸べてくれたのは、あの人だけだった。だから手に入れたかったのに。何をしてでも私のものにしたかったのに。どうしてみんな、私の邪魔をするのかしら?」
ニアには理解できなかった。恋に狂った女の執念は、わからなかった。彼女は幸せになろうとして、壊れてしまったのだ。その土台には、愛されなかったという悲しみがあった。――彼女は情念によって、これまでの人生を生きてきたのだ。一度、死んでまで。
「あなたのために、たくさんの人が死んだんですよ。それでも自分の恋を優先させようというんですか? 自分の欲こそが第一と考えるんですか?」
震える声でニアが問うと、マカは眩しいくらいの笑顔で言った。
「人間が生きるのに、欲以外に何が必要だというの?」
そして銃を離した右手の袖口から、何かをとりだした。ライターだった。
「今度こそ、私は欲しかったものを手に入れる。君は必死でカスケードの居場所をつくろうとしていたようだけれど、そんなものはいらないわ。それはね、私の傍だけで十分なのよ」
ライターは蓋の開け閉めで火をつけることができるものだった。蓋を開け放したまま落とせば、当然何かに引火する。だが、ここには隅にある武器庫以外に、引火するようなものはない。それに万が一のことがあっても、スプリンクラーが作動するようになっている。「黒髪黒目の男」の正体がカスケードであると暴いたときのように。
だが、全てはマカの計算のうちだった。午前九時、ラインザーのクローンたちに紛れて軍施設内に入り込んだマカが、最初に行なったこと。それは、練兵場に来ることだった。「天才科学者」である彼女には、無臭の引火性の液体を用意することなど容易かった。
もちろんさっきまで監視室にいたのだから、そこにあるスプリンクラーの作動装置をオフにすることだってできる。
ライターが落ちた瞬間、その場はニアとマカを取り囲むように燃え上がった。
「何てことを……こんなことしたら、君も危険だろう?!」
ニアが叫んでも、彼女は笑っていた。
「私は不老不死よ。この身が滅んでも、私の記憶を受け継いだクローンが目的を果たしてくれる。死なんか怖くないわ。……それより、人の心配なんかしている場合? あなたにはたしか、三つほど弱点があったわね」
にい、とマカの唇が三日月のような笑みをつくる。その間にも、すでにニアの体は震えはじめていた。
「一つ、親友のカスケードを含む仲間」
大剣を握る手から、力が抜ける。支えを失った重い塊は、その場に倒れた。
「二つ、五年前から見えにくくなった目」
目がかすみ、足もがたがたと震えだす。炎の赤を見るだけで、十四年前の悪夢がよみがえる。
「三つ、十四年前の火事のトラウマ。燃え盛る炎!」
全てが消えゆくその瞬間が、頭の中を埋め尽くしていく。炎によって崩れる家具に、壁や柱。その下敷きになって動けなくなった両親。気が遠くなり、それを助けられなかった自分。たった一人残された、あの寂しさ。つらさ、苦しさが、胸に湧き上がってくる。
ニアは膝からその場に崩れ落ちた。頭を抱えて、首を振った。また、これだ。一人になる。全てが消える。自分が、消える。
「やだ……やだよ……」
マカの笑い声が遠くに聞こえた。

司令部内に侵入していたクローンは全て倒され、ボトマージュとアクト・カッサスはマカによって殺された。オレガノ・カッサスだけが、クリスに捕まって医務室にいた。
その医務室に、ブラックがアルベルトを担ぎながら彼の手を持って現れた。クリスはぎょっとして、二人に駆け寄った。
「いったいどうしたんですか?! これは、ボクにもどうにもできませんよ。軍病院から医師を手配しましょう」
「頼む。……オレが斬ったんだ。オレが、この手で……!」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、ブラックが言う。クリスは彼を気にしながらも軍病院に応援を要請した。おそらくは、何の問題もなくここまで来られるだろう。全てのクローンが死したことを、オレガノに確認してもらっている。
アルベルトは、まだ意識を保っていた。泣いているブラックの頬に無事な左手を添え、笑顔を浮かべて見せる。まるで痛みなど感じていないかのように。
「泣かないで、ブラック。男の子でしょう」
電話を終えたクリスが応急処置を施している間も、アルベルトはブラックに微笑みかけていた。

ディアは兄と姉そしてアスカのクローンの死体を丁寧に並べて、見つめていた。これから彼らをどうするべきだろう。クローンとはいえ、人間の死体だ。どのように葬ってやるのが一番良いのか、わからなかった。
そして、ボトマージュ。何が起こったかわからないままに死んだこの男は、どうすればいいのだろう。
「大総統さんよ。俺、手続きとか全然わかんねぇんだ。こいつら、どうしてやったらいい?」
「ボトマージュは死亡証明を出したうえで、共同墓地に埋葬だな。……クローンの三人には、戸籍もなければ、そもそも人だと認識して処理を進めて良いものかもわからない。このままでは廃棄だろうな」
「人の形してるのに、ゴミみたいに捨てられちまうのか。……本当に、何のために生み出されて、死ななきゃいけなかったんだろうな」
声は途中から涙交じりになり、まともな言葉にならなかった。殺してしまったという罪悪感。クローンという人間が作りだした命への憐み。それが混ざり合って、心の中に溜まっていく。そんな思いを、ディアは抱えていた。抱え続けなければならなかった。
大総統が彼の背中をそっと叩いた。幼い子供にそうするように、優しく。

遺体の目を閉じさせると、まるで鏡を見ているような錯覚にとらわれる。こんなに似ているのに、自分たちは別々の人間で、異なる人生を歩んできた。そしてそれはどちらも、幸福と不幸の両方で満ちたものだったはずだ。
アクトは、死んでしまったもう一人のアクトを見つめながら、彼のために泣いた。きっとそれができるのは、自分と、彼の父であるオレガノと、彼の母くらいなものだから。
生きていれば、友人になれたかもしれない。アクトの父と、オレガノのように。――オレガノはアクトの父リヒテルを殺したといっていたが、本当はそうしたくなかったのではないだろうか。本当に親友だったからこそ、同じものを好み、同じ人を好きになってしまったのではないか。アクトには、そう思えてならなかった。
「おい、もう終わったのか。俺たちは助かったのか」
将官たちがにわかに騒ぎ出す。それに対してメリテェアが、「ここはもう終わりましたわ」と答えた。彼女も、グレンたちも、よく戦ってくれた。残るは後始末だ。
「親友……か。ニアさん、無事かな」
きっとカスケードとの決着をつけようとしていたであろうニアのことを思う。彼は今、どのあたりにいるのだろう。カイによれば、ニアはカスケードを取り戻しに行ったらしい。それは達成されたのだろうか。

スプリンクラーだけでなく、火災報知機もオフにされていたために、練兵場で何が起こっているかは誰も知らないはずだった。そこへ向かったニアとマカ以外には、知ることができないことだった。
それにもかかわらず、カスケードは迷いなく走り出していた。ニアはこっちにいるはずだと信じて疑わずに進んだ。
――君をもう巻き込みたくないんだよ。
それはいつか自分が抱いた気持ちと同じだった。たしかにそう思っていた。だから、ニアを置いて一人で戦いに行ったのだ。目の調子が悪そうなニアを戦いに出すことは危険だと判断して、たった一人でキメラに立ち向かったのだ。
全ては、ニアを失いたくなかったから。あの場面でニアを戦いに出してしまったらもう二度と彼が戻ってこない気がしたから。――そうなってしまったら、自分はきっと酷く後悔するだろうとわかっていた。
そして、今も。ここで走り出さなければ、ニアのもとに辿り着かなければ、絶対に後悔する。幼い頃にした約束を守れなかったと、苦しむことになる。そしてニアは、苦しみさえも味わえなくなるのだ。
そんなのは駄目だ。絶対にあってはいけない。――後悔しないように、何が何でもニアを守らなければ。そのためにカスケードは、生きてきたのだから。
足が辿り着いたのは練兵場だった。五年ぶりにニアに再会した、あの場所だ。その時の自分は、彼のことが判らなかった。記憶をなくし、たった一つのものに縋っていたから。
いや、声は憶えていた。声だけは忘れられなかった。人は誰かを忘れるとき、声から忘れていくのだと、いつかオレガノが言っていた。では、声だけを憶えているというのは、どういうことだったのだろう。
それほどまでにその声が優しく、柔らかく、自分をいつも呼んでくれていたということではないのか。いや、確実にそうと言い切れる。
空白の時間の中で、いつも傍にいてくれたのは。

「ニアぁぁああ――!!!」

赤くて眩しくて、けれども心を闇に閉ざすような炎の中。その声がたしかに聞こえた。自慢の耳が捉えた声だ、間違いない。
ニアは我に返った。けれども、炎に囲まれていては、足がすくんで動けない。立つことすらもままならない。恐怖がこの身を焦がして、焼き尽くしていく。そろそろ、息をするのも苦しくなってきた。
高笑いをしていたマカは、すでに倒れていた。酸欠になったのかもしれない。だが彼女は、クローンが記憶を引き継いでくれているから、死んでもかまわないのだと言っていた。
「そんなはず、ないだろ……」
死んだら全てが終わってしまう。だから、命は尊い。どんな命も、死ぬために生まれてきたのではないはずだ。それはマカだって、例外ではない。
助けたかった。この体がいうことをきいてくれるなら、たとえ敵であっても救いたかった。それがニアの目指した、軍人の姿だから。そうなろうと、約束したのだ。
大好きで、ずっと一緒にいたいと思っていた、親友と。
捜し求めて、やっと再会した、かけがえのない彼と。
傍にいて、一緒に笑っていた、唯一無二の存在。カスケード・インフェリアと。
「ニア、大丈夫だ。俺が、ずっと手を繋いでてやるから。炎なんか怖くないぞ」
後ろからそう声がかかるとともに、力の入らなかった手に温かいものが触れた。
振り返れば、海色の瞳。手はしっかりと繋がれている。それから彼はそのまま、倒れているマカに近づき、あいている方の腕で彼女を担いだ。
「ニア、立てるか?」
「……うん。カスケードがいてくれるなら、平気」
彼がいるだけで、笑ってくれるだけで、力が湧いてくる。このままどこまでだって行けそうだ。ニアは立ち上がり、カスケードとともに、炎の壁に向かった。
飛び込めば大火傷は必至だ。だが、ここに居続けても結果は同じだ。それならば、踏み出すしかない。視界は驚くほどクリアだ。きっと、この炎も越えられる。
カスケードと固く手を握り合い、覚悟を決めた。
そのときだった。天井から大量の水が降り注ぎ始めた。それは炎の勢いをみるみるうちに鎮めていき、ついには練兵場をもとの状態に戻してしまった。武器庫に引火する前に、誰かがスプリンクラーを作動させたらしい。
火が消えると、びしょ濡れのニアたちの頭の上に声が降ってきた。
『ニアさん、大丈夫?! 火傷とかしてない?』
「ハル……?」
門番を病院に連れて行ったはずのハルだった。病院からすぐに戻ってきて、シェリアとともに司令部内のクローン討伐にあたっていたのだろう。その過程で監視室に入り、ちょうど練兵場の様子を見たのだ。
『司令部内のクローンは全滅しました。組織の人間がまだいたら、速やかに投降すること』
今度はアーレイドだ。二人は合流していたのだ。そして、みんなと一緒に司令部の危機を救っていたのだ。
きっと、これで、全てが終わった。ニアは安堵し、それからカスケードを見た。彼は笑みを浮かべて、そして、「終わったんだな」と言った。
「……さて、俺は投降しなくちゃな。組織の人間だったんだ、けじめをつけなくちゃ」
「うん……そうだね。でも、記憶がなかったんだから、少しは情状酌量の余地があると思うんだ。僕も君を弁護したいと思う」
ニアが言うと、カスケードは目を丸くした。それからニアの手を握っている手に、ほんの少しだけ力を加えながら、その言葉を口にした。
「五年経って成長したな、ニア。大剣の扱いも昔よりかなりうまくなったし、人を弁護できるくらいの立場も得た。仲間もたくさんできたんだな。……俺がいない間、心配かけて、ごめん」
成長した。昔より。いない間。――そんな言葉は、五年より前のことをわかっていなければ使えない。思い出さなければ、比較なんかできない。
「カスケード、思い出したの?」
おそるおそる、ニアは尋ねる。返ってきたのは、
「長いこと待たせてごめんな。ただいま、ニア」
この五年で一番聞きたかった、そのひとことだった。
頬を涙が伝う。迎えるときは笑っていたかったのに。けれども、止まらないから、そのまま笑顔をつくった。
背の高い彼を見上げながら、ニアは涙を浮かべながら、ふわりと笑った。
「おかえり、カスケード」


マカ・ブラディアナとオレガノ・カッサスは中央刑務所に送られた。ヤークワイア・ボトマージュとアクト・カッサスは、ひとまず軍病院に送られることとなった。死亡は確認されているが、額に穴が開いたままではあんまりだという一部からの声で、傷だけは治療することとなった。
クローンたちは皮膚片を採取してサンプルをつくった後、全て焼却処分されることとなった。ラインザーのクローンだけではなく、ディアの兄と姉、アスカも同様に処理される。
司令部内は後始末に追われることとなった。くたくたに疲れていても、大総統が病院に送られても、やらなければならない仕事があるからだ。早く元の状態に戻さなければならない。国の安全を守るために。
施設内から、システム異常以外の爆発物が見つかることはなかった。システムの方も改めて構築され、自動環境調整システムはすぐに正常稼働するようになった。
カスケード・インフェリアの処分はまだ決まっていない。ただ、しばらくは留置所で身柄を預かることになった。しばらくはモンテスキューの世話になる。
彼の記憶は、完全ではないが、ほとんど戻っていた。尋ねれば五年より前のことも答えられ、同時に自分が組織にいた間のことも語ることができた。彼の証言をもとに、さらなる逮捕者が出るかもしれない。
「カスケード、調子はどう?」
組織による司令部襲撃から一夜明けて、ニアは留置所を訪れた。面会室に来ていたカスケードは、五年前までそうしていたように、髪を結いあげていた。ニアがこれまで真似しようとしていた、無造作な結い方だった。
「どうって。ニアこそ大丈夫か? 昨日の今日で、疲れてるんじゃないのか」
疲れは顕著に出ていた。ニアは今日も薬を飲み、眼鏡をかけている。けれどもカスケードはそれを知らない。ただ「目が悪くなってしまったんだな」ととっている。
「僕は大丈夫だよ。こうしてカスケードに会いに来る時間が取れる程度にはね。ほら、僕、大佐だから。みんなが頑張ってくれているおかげで、堂々とサボれるんだよ」
「俺に会いに来るのも仕事のくせに、何言ってるんだ」
「あはは、ばれたか」
司令部襲撃事件の後始末は、軍全体で行なうことになっている。その中で、カスケードへの事実確認や事情聴取などは、大総統の一存でニアがすることになったのだった。部下たちが忙しくしているのに、自分だけこうして親友に会いに来ているのは後ろめたい気もしたが、迷っていると「早く行って来い」と背中を押された。
「それじゃ、仕事だから何点か質問を。憶えてる限りは答えてね」
「わかった」
こうして少しずつ真実を明らかにし、同時にカスケードのまだ思い出せていない記憶も取り戻していかなければならない。しばらくはそれが、ニアの仕事だった。もちろんジューンリー班のリーダーとして、一大佐として、他の仕事もこなさなければならない。裏組織の拠点についての報告も残っている。やることは山のようだ。
「……よし、今日はこのくらいにしておこうか。また明日、今度はサクラちゃんも連れて来るよ。カスケードが帰ってきたって連絡したら、喜んでたよ」
「サクラ? サクラって、俺の妹のサクラか? いつの間に知り合いになったんだ?」
「それは明日話してあげる。この五年のこと、カスケードにもたくさん話してもらわなくちゃならないけれど、僕だってたくさん話したいことがあるんだからね」
そのために、これまで必死でやってきたんだから。そうして話していくうちに、ちゃんとカスケードの居場所を用意していたのだと、わかってもらいたい。

だが、うきうきしてもいられない。まだニアがやるべきことは、数多い。部下たちの心のケアや、ぼろぼろになってしまった司令部の修繕の手伝い。それから、たった今話したカスケードの、今後の処分について。
軍人にはもう戻せないだろうとは思っている。戻らなくてもいい。カスケードさえ無事に戻って来れば。ニアはそう考えていた。
だが、軍全体を見ると、そう簡単にはいかない問題なのだった。
大総統ダリアウェイドは、怪我を負いながらも、もうその椅子に戻っていた。ニアが大総統室に入ると、包帯と絆創膏にまみれた姿で迎えてくれた。部下たちが頑張っているのに、自分だけのうのうと入院しているわけにはいかないということだった。
それに、早く処遇を決めなければならない事項がいくつかある。カスケードのことも、その一つだった。彼をいつまでも留置所に置いておくわけにはいかない。彼個人の問題ではなく、インフェリア家の人間が留置所にいるという事態そのものも問題だった。
「インフェリア家の人間が軍に敵対し、戻ってきたとはいえ、そう簡単には受け入れられない状況ができてしまった。だが、このまま放っておくのも軍にとって脅威になる可能性がある」
傷が突っ張るのか、時折表情を歪ませながら、大総統は言う。「脅威って……」とニアは反論しかけたが実際そうだった。一部隊を片手で放り投げるように倒してしまう彼の力は、軍にとって十分に恐るべきものだ。その力をまた裏社会に利用されるようなことがあれば、軍は今度こそ危ういかもしれない。
「国益、軍益を考えれば、反対を押し切ってでも彼を軍に戻すのが一番良いのだがな」
「……それはもしかして、彼を軍の管理下に置くというお考えですか?」
顕著な例がある。軍がアーシャルコーポレーションから回収した、核兵器やクローン、生物兵器などのデータだ。これらは軍の管理下に置くことによって、国にとっての脅威ではなく、軍による有効利用を目指している。
カスケードをもそう扱うというのなら、彼に自由はなくなる。軍という檻の中で、一生飼い殺すことになる。それはインフェリア家の軍家という歴史を繋ぐことにもなり、カスケードが一度軍に敵対したという事実を隠蔽することも容易くなる。対外的に見れば良いこと尽くしなのだが、当の本人はどうだろうか。常に軍の監視下にあり、今回の件を知っている人間からは白い目で見られるかもしれない。軍を潰そうとしたのに軍に所属しているという矛盾の痛みを、彼はずっと抱え続けることになる。それははたして、カスケードにとって得になるのだろうか。国益や軍益をにはなっても、彼という個人を潰してしまうことにはならないだろうか。
「閣下、僕は賛成できません。カスケードはせっかく裏組織から自由になったんです。それなのに軍に縛ろうだなんて、そんなことは……」
「ジューンリー大佐。私は、常に国益を優先して選択をする。それに君の班は、彼を受け入れるために作ったものだ。全力で彼を守り、同時に監視する。君だからできることなんだよ」
親友を監視する。そんなことが、あっていいのか。少なくともニアは、そんなことはしたくない。そんなことのために、仲間を集め、彼を捜していたわけではない。「居場所をつくる」とは、彼を囲って外へ出さないようにするという意味ではなかったはずだ。
「本人の考えも、聞いてください。カスケード自身の希望を考慮してください。記憶は戻りましたが、彼が軍にまた属したいと思うかどうかは別の問題です」
「……そうだな。君が彼の思いを聞いてくるといい」
しかし、聞いてきたところで、この大総統が考えを変えるだろうか。カスケードはこのことを聞いて、どう思うだろうか。
――今のエルニーニャは軍がトップだ。軍の決定が国を動かしている。
カスケードの言葉が思い出される。軍の頂点に君臨する大総統が「こうだ」と決めたなら、それに逆らう余地はない。たとえカスケードが、その決定を拒否したとしても。ニアが反対したとしても。個人の思いなど、大衆の前には役に立たない。

思い悩みながら歩く廊下は、まだ汚れている。練兵場も、現在は閉鎖されている。幸いにも書類の紛失や破損がなく、物品もほとんどはまだ使える状態であったために、中央司令部がその機能を失うことはなかった。
あれほどの大事件だったのに、大総統が外部には一切の情報を公開しないことを決めたので、町の人々の生活はいつも通りだ。説明を求める声もあがってはいるが、軍はそれをシャットアウトしていた。
外部情報取扱係はいつぞやのように電話応対に追われていたが、全てに対して「あの騒ぎは大規模な演習である」と答えていた。家族が軍にいる人々からの疑問に対しても、同じことを返すように命じられている。
あの恐怖を実際に味わった軍人たちの心の傷は、そうして封じ込められていった。誰にも本当のことを言えず、軍の内部だけで全てを終わらせようとする。それは軍の権威の失墜を防ぐためだけではなく、市民に不安を与えないためでもあったのだが、納得のいかない者も多かった。
「あ、ニアさん。戻ってたんですね」
「おかえりなさい。カスケードさんの様子はどうでした?」
施設内の片付けにあたっていたハルとアーレイドが、ニアを見つけて駆け寄ってくる。それに曖昧に笑って返して、「元気だったよ」と言った。
「事件の後始末を早くしてしまって、あそこから出してあげたいんだけれどね。家に帰してあげたいな」
それからふと、大切なことを思いだした。まだ彼らに言ってなかったことがある。そっと彼らの頭に手を置き、今度はいつもの、ふわりとした笑顔で言う。
「昨日は、助けてくれてありがとう。君たちのおかげで、僕もカスケードも生き延びることができたよ」
「監視室に入ったのは偶然だったんです。ツキさんたちから、爆発物があるかもしれないってことを聞いて……」
「それで、監視室も調べようと思ったんです。そしたら、練兵場が燃えてて、ニアさんたちがいるのが見えたので、なんとかしなきゃってなって」
「うん、君たちの判断は正しかったよ。本当にありがとう」
あのときハルたちが動いてくれなかったら、ニアもカスケードも、そしてマカも大火傷を負っていた。カスケードはその危険も顧みずに、炎の中に飛び込んできてくれたわけだが。それを思うと、自分はいつだって誰かに助けられている。その恩返しが、できるだろうか。
「……ニアさん、アイスクリーム食べに行こうよ。カスケードさんが留置所を出たら、みんなで」
唐突にハルが言う。ニアは目を丸くして、答えを探した。しかし見つける前にアーレイドが続ける。
「そうだな。あの店混むらしいから、みんなで行けるかどうかはわからないけれど。だからニアさん、元気出してください」
ニアがまだたくさんの心配事を抱えていることをわかって、彼らはそう言っていた。ニアに元気になってほしくて。いつでも笑顔でいてほしくて。その気持ちは十分に伝わってきた。ニアは頷き、それからもう一度笑った。
「そうだね。僕もカスケードが戻ってきたら行くつもりだったんだ」
幸せまで、あと少しで手が届く。そのためには、前を向いていなければ。カスケードが、みんなが、褒めてくれるこの笑顔で。
事務室の方はすっかり片付いていた。将官用事務室以外は被害が少なかったようだ。事件当時、ほとんどの者が出払っていて、残った人員があまり分散していなかったためだろう。おかげですぐに本来の仕事に取り掛かることができた。
「あ、ニアさん帰ってきた! 聞いてくださいよ。ブラックの奴、まるで俺たちにやれと言わんばかりに書類を分類して置いていったんですよ」
「ちゃんとやる気なんだね、カイ」
ニアが事務室に入ってくるなり、カイが文句を言う。それを笑って流して、ニアは自分の机に向かった。今この部屋で作業をしているのは、グレン、リア、カイの三人だ。ラディアは病院に赴き、下級兵に出てしまった怪我人の治療を手伝いに行っている。あとで病院に彼女らの様子を見に行こうと、ニアは思っていた。
「ブラックはアルベルトさんのことがあるからな。見舞いに行っている間の仕事は俺たちがやらなきゃ、進まないだろう」
「……と、グレンさんが言うので、俺は仕方なくしてやってるんですよ」
「文句言いながらもちゃんとやるんだから。カイ君ってば素直じゃないわよね」
まるで昨日のことが嘘のような、いつも通りのやり取りだ。ここがそれほど被害を受けていないからだろうか、すでに日常が戻りつつある。ニアはそのことに安堵していた。上層部がどんなに面倒なことになって、自分たちがそれに巻き込まれようとも、変わらないものはある。変わらず振る舞うことが、何よりもニアへのエールになると思っているのかもしれない。
「ニアさん、あとで病院行きますよね。アルベルトさんの様子、教えてください」
「うん、もちろん。……あれ、リアちゃん、アルベルトのこと名前で呼んでたっけ?」
「みんなそう呼んでますし、私もそうしようと思って。せっかく助けてくれた人に、よそよそしくしたくないなって思ったんです」
これを聞いたら、当の本人はどんなにか喜ぶことだろう。彼にとって良い見舞いになるよう、早く教えてあげたい。それとも、退院してから驚かせたほうがいいだろうか。――どちらにせよ、アルベルトはしばらく戻ってこられそうになかった。戻れたとしても、実働からは離れることになるだろう。彼の手は、完全に治ることはないという。切り離された手が再びくっついただけでも奇跡なのだ。だが、どんな奇跡が起こっても、過去を変えることはできない。ブラックは兄を傷つけてしまったことを、一生悔やむのだろう。
だが彼を、彼らを、支えられる仲間がここにいる。今もこうして、仕事を代わりにやったり、思いをはせたりしてくれている。そんな場所をつくることができたはずだと、ニアは自負していた。彼らはもう、自分たちだけで悩まなくていいのだ。もちろん、ここにいる者たちだって。
机の上の仕事を少し片付けてから、ニアは外部情報取扱係室へ向かった。ここも幸いにして被害のないところだったが、シィレーネが倒れていたことやカスケードが機器を使用したことで、昨夜までは担当者すらも立ち入り禁止になっていた。今朝からようやく、通常の業務が始まっている。
「ツキ、お疲れさま。……あれ、クライスとクレインちゃんはどうしたの?」
部屋にはここの担当者であるツキだけでなく、ベルドルード兄妹もいた。こちらを見止めると、すぐにいすを用意してくれる。ニアが礼を言いながら席につくと、クライスがことのあらましを教えてくれた。
「昨日、ここ機能してなかったんで。そのあおりが今日一気に来ているみたいだから、ちょっと応援を」
「情報処理室はまだ立ち入りできないので、どうせ私は手が空いてますし」
クレインがそう言っている間にも電話は鳴る。受話器をとって、話を聞いたあと、本日お決まりの文句で返す。――「昨日は大規模な演習がありまして」だ。今日はずっとこの調子だろう。
「そういうことだ。今のところはその対応ばかりで、特別な情報は入っていない。裏社会の一組織が潰れたって情報は、それほど拡散されていないとみていいんじゃないか?」
「今のところはね。……それとも今年は大きな事件が続いたから、みんな麻痺しちゃってるのかもしれない」
あまりに忙しくて意識していなかったが、もう年末が近いのだ。カレンダーは最後の月を表示している。この年は、おそらく一生忘れられないものになるだろう。
「この件にさっさと片をつけて、忘年会ができるといいな。カスケードも一緒に」
「……そうだね。そうなればいいんだけど。大総統閣下の考え次第になりそうだ」
さすがにこの忙しそうな状況の中、大総統と話した内容を相談することはできなかった。ニアは「邪魔してごめんね」と言って、外部情報取扱係室をあとにした。
そろそろ、病院へ行くにはちょうど良い頃合いだろう。

軍病院はいつにもまして大盛況だった。昨日の被害者や、彼らを看るために来ている応援で、人はいっぱいだ。
「おや、ニアさん。アルベルトさんのお見舞いですか」
応援に駆り出された一人であるクリスが、こちらに真っ先に気づいてくれた。彼も一息ついたところらしい。
「君のお見舞いもね。お疲れさま」
「ボクは平気ですけれど。ラディアさんがここぞとばかりに酷使されて疲れていますので、労ってあげてください」
「ラディアちゃん、大丈夫なの? あの子の力、かなり精神力を使うよね」
「それなのに、頑張ってくれましたよ。ニアさんは、目は大丈夫ですか?」
「まだ大丈夫。明日になったらサクラちゃんも来るから」
ラディアの居場所を聞き出して、ニアはクリスと別れ、院内を歩く。なじみの看護師たちに挨拶をして休憩室に通してもらうと、そこに彼女はいた。
「ラディアちゃん、だいぶ疲れているみたいだね」
「あ、ニアさん。私は全然平気ですよ。みんなの役に立てて、本当に嬉しいんです」
笑顔を浮かべてはいるが、疲労はありありと見て取れた。「無理しちゃだめだよ」と頭をなでると、「はーい」と、ほんの少しだけ弱くなった返事があった。
「……私、ちょっとびっくりしてるんです。こんなにたくさんの人を治癒して、誰にも『異常だ』って言われないことに。私の持っている力は、やっぱり疎まれたこともあったから。でもそれがないうちは、まだ動けるかなって。誰かが私を必要としてくれているなら、動きたいなって思うんです」
「気持ちはわかるけれど、それで倒れたらいけないからね」
「そうですね、気をつけます。……ニアさんも、気をつけてくださいね」
私より無理しやすいんですから、とラディアは冗談めかして言う。いや、きっと本心からの言葉だった。
休憩室を出て病室へ向かおうとしたところで、シェリアとシィレーネに会った。昨日、シィレーネは外部情報取扱係室で倒れていたので、検査入院をしていたはずだった。
「シィレーネちゃん、もう動いて大丈夫なの?」
「はい。これから手続きをして、寮に戻るところなんです。シェリーさんってば、わざわざ迎えに来てくれたんですよ」
「そりゃあ、心配だからね」
相変わらず、二人は姉妹のような親友同士だ。話を聞いてみると、シィレーネには特に異常は見られなかったようだ。明日には仕事に復帰するという。
「ニアさんには、カスケードさんのことも話さなくちゃならないので、あとでお時間いただければと思っています」
「そうか、カスケードと一緒にいたんだよね。彼といてくれて、ありがとう」
「だって、約束しましたから。私はニアさんと、カスケードさんと、それからみんなとずっと一緒にいるんです」
いつかニアとしてくれた約束を、彼女は守ってくれようとしている。今回も、これからも。そんな彼女の表情は、今までで一番明るいものだった。きっとどんな結末になっても彼女はその思いを貫いてくれるだろう。ニアは頷いて、寮へ戻っていく二人の少女を見送った。
そうして、ようやく最後の目的地へ。アルベルトのいる病室をノックすると、複数の返事が聞こえた。見舞いに来ていたのは、彼の弟だけではないらしい。
「ディアとアクトも来てたんだね。怪我はちゃんと診てもらった?」
「うん。おれもディアも、大したことはないけど」
「ニアこそ大丈夫か? 今日、休んでねぇだろ」
ずっと動き回っていたことは知られていた。苦笑しながら「平気だよ」と返して、それからアルベルトとブラックへ視線を移す。目の下にくまがあるブラックと、右手に包帯を巻いたアルベルト。どちらも痛々しかった。
「具合はどう?」
「僕は大丈夫ですよ。すぐにでも戻りたいくらいです」
だが、アルベルトはニアの問いに即答した。ニアが目を丸くしていると、ブラックがため息交じりに言った。
「ニアみたいなこと言ってんじゃねーよ。絶対安静だろうが」
「え、僕ってこんな?」
さらに驚いたところへ、アクトとディアが頷きながら「あー……こんなかも」「ブラックもうまいこと言うじゃねぇか」と言い合う。やはりニアとアルベルトは似ているのだろうか。あるいは、アルベルトがわざとニアの真似をしているのか。
「……アルベルト、わざとだね」
「ばれましたか」
ニッとアルベルトが笑う。思っていたよりも元気そうだ。たとえそれが普段から仕事を詰め込みすぎているニアへの皮肉だったとしても、ブラックに責任を負わせないためであっても、ニアは安心した。
「本当にしたたかだな、君は。裏の情報を掴むために自分から捕まったりして」
「大佐だって、スパイの疑いがかかるのは明白なのに、カスケードさんと会ってたそうじゃないですか。僕のことばかり言えないでしょう」
「もうやだ、この兄貴と上司……」
「ブラック、お前大変だな」
「落ち込んでる暇もないね」
まるでニアの部屋に集まったときのように、部屋が賑やかになる。そう、落ち込んでいる暇などない。これから日常を取り戻していくのだから。
ニアはひとまず、カスケードの記憶が戻ったことや、彼の処遇について大総統が不穏な考えを持っていることなどを話した。ツキに相談したくて、けれどもできなかった内容だ。幸いここには年下ではあるが階級の近い者が揃っている。
「閣下のやり方が、大佐は気に食わないんですか」
「気に食わないんじゃなくて、カスケードをそこまで軍に縛りつけておくのもどうかなって思うんだ。彼はしばらく、軍を否定する考え方を持っていた。いくら大総統権限でそれができるからって、簡単に軍に戻って来いだなんて、言えないよ」
たしかに最初は、カスケードを見つけ出し、班で受け入れるのが目的だった。そのためにニアは仲間を集めた。だが、状況はまるで変わってしまった。ほんの十か月で、事態は急転した。できることなら、カスケードの意思で、今後のことを決められるようにしてほしい。それが今のニアの願いだ。
軍に戻ってこなくとも、ニアがカスケードの親友であることには変わりないのだから。
「……僕、もう言ってしまいましたよ。大佐がカスケードさんのために居場所をつくってるって」
アルベルトが言う。ニアは「彼と話したの」という言葉を口にしかけて、話すだろうなと思い直した。けれども、まさかそこまで話が及んでいたとは。カスケードが記憶を取り戻した要因の一つは、アルベルトなのかもしれない。
「大佐は、言ってもいいと思いますよ。軍で待ってるって。そこには自分たちがいるって。記憶を失って居場所を求めていたカスケードさんは、大佐がつくりあげた場所に希望を持っていると思います」
「アルベルトに賛成。ニアさんの本当の気持ちを言っちゃったら? 決定権はカスケードさんにあるかもしれないけど、それくらいは言ってもいいよ。だって、ずっと捜してたじゃない」
「お前ら、親友なんだろ。簡単に言えないなんて、そんな遠慮が必要な相手なのか?」
次々に返ってくる意外な言葉を、ニアは受け止める。自分の本当の気持ちとは、彼に伝えたかったこととは、何だったか。五年間、積もり積もったのは、年月と経緯だけか。ニアの想いはどうだっただろう。会えたらそれで終わりではないはずだ。その先のことを思って、これまでやってきたはずだ。
「……アルベルト、結構カスケードってヤツと話してるんだな。ニアより距離近いんじゃねーの?」
ぽつり、とブラックが言った。そのひとことに対するとっさの反応が、ニアの思う全てだった。
「ずるいよ、アルベルト! 僕だって、もっとカスケードと一緒にいたいのに!」
数秒の静寂。ニアはハッとして口を押さえる。なんて子供みたいなことを言っているんだ、と思うと、顔が熱くなる。
他の四人は顔を見合わせ、それから破顔した。
「ニアさん、それそのまま言ったらいいよ」
「自分で言って、顔赤くしてんなよ。あーおかしい」
「ニアでもガキみたいなこと言うんだな」
「やっぱり似てますね、カスケードさんと大佐」
口々に追撃され、ニアはさらに赤くなる。子供みたいな嫉妬だが、きっとそれが正直な気持ちなのだ。――彼と一緒にいたい。その思いが、ニアをここまで連れてきた。
気づかされたのはありがたいが、笑われるのは少し悔しい。ニアは咳払いをして、「そういえば」と切り出した。
「リアちゃんがアルベルトのこと、名前で呼ぶようになってたよ。カスケードのことはともかく、リアちゃんと距離が近くなって良かったね」
「マクラミーさんが? それは朗報ですね」
アルベルトも一緒に照れて、からかわれればいいと思った。だが、アルベルトは思ったより冷静だ。もっと何か仕返しを、などと本当に子供じみたことを考えだしたニアに、もうひとこと、言葉がかけられた。
「いい報せをありがとうございます、ニアさん」
ニアの耳が間違えるはずはない。これはたしかに、アルベルトの声だった。
ああ、また、してやられた。彼らを仲間にしてよかった。
視界が、クリアになっていく。

「アルベルトさんのご様子はいかがでした?」
司令部に戻ったニアに、メリテェアが尋ねた。
「意外に元気そうでした。ブラックも」
「そうでしたか。……ニアさんも、お元気そうでよかったですわ」
彼女の安心したような笑顔が、眼鏡を通さずともよく見えた。
「メリテェアさん、今までありがとうございました」
「あら、いやですわ。これからもよろしくお願いします、のほうが嬉しいです」
まだまだ、これからでしょう。彼女がそう言う隣で、ニアは、そうですね、と返す。
「……カスケードを受け入れるために、作った班でした」
ようやく本来の目的を果たせそうなところまできている。けれどもその前に、この班は班員にとっての居場所になっている。
初めは久しぶりの中央の雰囲気に馴染めなかったニアも、今ではこの班に救われていた。
「みんながいてくれて、僕はここまで来られました。僕が人を集めたんじゃない。みんなが集まってくれてこの班があるのだと、今は思うんです」
彼らとともに、カスケードを迎えたい。彼の選択がどんなものであっても。




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posted by 外都ユウマ at 21:17| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年02月26日

Reverse508 第二十五話

司令部内の環境は、基本的に自動調節システムによって保たれている。外気温に合わせて心地よい室内温度をつくりだしている。だが、それが一旦暴走すれば、どうなるか。たとえば室内の、特に武器庫など火気のある場所の温度が急激に上昇すればどうなるか。あるいは空調に使用しているガス類が、引火しやすいものに変わったらどうなるか。システムを少しばかりいじれば、丈夫にできているこの建物をも、一瞬で崩壊させることができる。
「爆弾の中にいる」――それは、そのままの意味だった。司令部の施設そのものが巨大な時限爆弾となって、内部の人間たちを包み込んでいる。それを解除するためには、軍のシステムに入り込み、爆発物として働く要素を見つけ出し、書き換えなければならない。
まず、軍のシステムに入り込むことからして困難だった。だが、一度裏組織関連のアクセス記録に入り込むことのできたクレインになら、それもクリアできる。あとは原因部分の発見とその書き換えだけだ。空調関係か、暖房を過剰に動かすのか、あらゆる可能性を潰していかなければならない。どのくらい残っているのかわからないが、確実に近づいている、制限時間内に。
いや、アルベルトが軍側についたことが判明すれば、その時点でもうなす術はなくなるのだ。この広く複雑な建物に、逃げ場などない。外に出られたとしても、これだけ大きなものが大爆発を起こすのであれば、近隣にも被害が出る。
「……あった、たぶんこれだわ。これを書き換えさえすれば、司令部の爆破は止められる!」
極限状態の中、ついにクレインはその個所を見つけた。途中からクライスが駆け付けてくれたおかげで、作業効率が良くなったことも救いだった。
「よっしゃ、どう書き換えればいい?」
「時限装置を解除して、本来の数値に戻さなくちゃ。クライス、資料!」
「それも探さなくちゃならないのか。急がなきゃな」
クレインの見たところ、残り時間はおよそ一時間。間に合うだろうか。間に合わせなくてはならない。それが自分たちの戦いだ。

情報処理室の外では、アルベルトとブラックが闘っていた。銃声と金属音の響く廊下で、二人は全力でぶつかりあう。
「ブラック。僕はね、少しだけ嬉しいんだよ」
手際よく、隙を与えないように再装填しながら、アルベルトは言った。
「嬉しい? こんな状況の何が嬉しいんだよ」
ブラックが怪訝な表情で、刀を握り直す。手が汗ばんで、柄がうまく握れなくなっていた。それほどまでに緊迫した状況の何が嬉しいと、兄はいうのだろうか。
「本気の君と闘えること。僕ら、口喧嘩こそするけれど、こんなことは初めてだろう。……最初で最後の大喧嘩だと思えば、これもまた一興かなって」
殺し合いを演じることの、何が一興だ。ブラックは舌打ちして、しかし、ほんの少しだけは同意していた。嬉しくはない。だが、昂揚感はあった。
「最初で最後? 馬鹿言うな。これからも何度だって喧嘩してやるよ」
「……君に会えて良かった。君が弟で、本当に良かった」
アルベルトは目を伏せる。父ラインザー・ヘルゲインに一つだけ感謝していることが、ブラックの存在だった。その彼を殺せと、“あの方”は言う。そんなこと、できるはずがない。
――もしも、どうしても元仲間を殺せず、司令部を爆破させることも避けたいと思うなら、一つだけそれが可能な方法を教えよう。
それは誰にも話していないこと。アルベルトと“あの方”だけが知る、司令部爆破の阻止の仕方。だが、それをしてしまうと、大切な弟の心に深い傷を残してしまうことになる。
だから選択したくなかった。選択できないと思っていた。けれども情報処理室から「あと一時間」という声が聞こえてしまったとき、その選択も視野に入れ始めた。
大切な人の心は傷つくが、この一時は誰も死ぬことなく済む方法。それをアルベルトは知っている。だから本気で闘うことにした。
反応が一歩遅れたことにすれば、それは達成できるのだ。
タイムリミットまで、あと、少し。

同じ顔をした二人の闘いは、どちらがどちらかわからない。だから誰にも手出しはできない。どうやって手に入れたのか、軍人ではない方も軍服を着用しているからだ。唯一ナイフがぶつかる瞬間に、事情を知っている者だけが、判別することができる。大切なものを奪われた方が味方。奪った方が敵。わかるのは、一瞬だけ。
「ほら、僕たち、動きまでよく似ている。お前がいなくなっても、僕が代わりをする。僕が代わりに生きてあげる。だから早く死んじゃってよ!」
金属同士が当たって軋む音がする。だが、軍支給のナイフよりも、銀色の特別なナイフの方が、澄んだ音をたてていた。その音を自分の手に取り返すために、アクト・ロストートは闘っている。どっちが本物だとか、代わりをするとか。そんなことはどうでもいい。
「カッサス、お前はお前、おれはおれだ。代わりなんてないんだよ。似ているだけで、全然違う。生き方も、考え方も、大切なものもまるで違う」
今のアクトをアクトたらしめるものは、それぞれ異なる。アクト・ロストートには苦難の日々と仲間たち、そして唯一無二の相方が必要だった。アクト・カッサスには、おそらくは両親が。互いに持っていないものを持っていて、持っているものを持っていない。こんなにも違うのに、代わりになんかなれるはずがない。
だが「ただ一人のアクトになる」というそれだけを目的に生きてきたアクト・カッサスには、アクト・ロストートの言い分が理解できない。
「違うなら、奪ってしまえばいいよね。このナイフだけじゃない。もっとたくさん奪ってあげるよ。たとえば、君がとても大切にしている人とかさ。……たぶん今頃は、ボトマージュが連れて行ったクローンに殺されているだろうけれど」
銀のナイフを踊らせて、アクト・カッサスは嘲笑する。だが、アクト・ロストートはまったく動じない。目の前の闘いだけに集中する。それが自分の役目だから。
「殺されないよ。……あいつは、強いから」
カッサスの攻撃を避け、ロストートは足払いをかける。わずかでも引っかかれば、それが勝負の分かれ目。床に押し倒し、ナイフを突き立てる。その身にではなく、床に。
だが距離が近づくということは、相手にとっても有利になる。倒されたカッサスは、右手に握ったナイフの刃を、ロストートの首にあてがう。
「甘さを見せたら負けるよ。負けた方はアクトじゃなくなるんだから、もっと慎重になったら?」
ひやりとした刃が、首をつうと滑る。ゆっくりと引くので、血もじわじわと滲む。
「両方、アクトでいいんじゃないの? お前は今まで通り、オレガノさんと、お前の母さんと、生きたらいいよ。こんなことしなくても、生きられるよ」
それでも、ロストートは笑みを浮かべた。カッサスは困惑した。どうして笑っていられるんだ。痛いはずなのに、苦しみの表情を浮かべないんだ。
それを読み取ったように、血を滴らせる方は言う。
「おれ、痛いのには慣れてるから。……お前は、どう?」
「……僕は、痛いのは、いやだ」
「ほらね、おれたちは全然違う。なり替わることなんて、できないんだよ」
カッサスは目を見開いて、ナイフの刃をそっと、ロストートの首から離した。

闘うため。ただそれだけのために、少女はよみがえった。そうさせられた。その動きも、呟く言葉――どうして、わたしを、ころすの――も、ボトマージュがディアを苦しめるために彼女に教え込んだものだ。
ここで動揺してしまっては、相手の思うつぼ。わかっていても、苦しい。ディアが少女を誤って撃ち殺すようなことがなければ、いつかはこのように成長し、明るい笑顔を浮かべて走り回っていたかもしれない。そんな思いが、捨てられない。
もう、どうしようもないのに。過ぎてしまったことなのに。ああ、どうして、自分たちは人を殺してしまっても裁かれないのだろう。いっそ刑罰を与えてくれた方が楽なのに。
それとも、彼女を再び死の世界に戻してやることが、与えられた罰なのか。
ゆらりと揺れながら、けれども俊敏に自分を斬りつける少女に、ディアは何の反撃もできていなかった。
「そうだ、アスカ! もっと、もっとヴィオラセントを苦しませてやれ!」
ボトマージュは愉快そうに笑う。それが耳障りで、ディアは顔をしかめた。この男の目的は、ディアが、かつて偶然にも自分を牢獄へ閉じ込めることとなった人間が、苦しむのを見たいだけだ。ずっとそう思っていたが、はたしてそれだけなのだろうか。どうしてこうにも、彼はディア・ヴィオラセントという人間にこだわり続けるのだろうか。
裂けてぼろぼろになった傷口からは、血があふれている。全身を赤く染めながら、さらに傷が増えていく。
ライフルを少女に突きつけ、引き金を引きだけで済むのに。それがディアにはできなかった。ボトマージュはそれを知っていて、わざとアスカと闘うよう仕向けている。
「わけわかんねぇ……」
壁に追い詰められながら、呟いた。目の前には少女の持つナイフの切っ先が迫っている。それを反射的に素手で掴み、少女の動きを止める。
「ボトマージュ。お前、いつからこんなばかげたことをしようって考えてた? 南方も、この襲撃も。兄貴と姉貴のことだって。お前には聞きたいことが山ほどある」
刃が手を傷つけるのも厭わず、ディアは少女の向こうにいる男に尋ねる。訊かれたほうは下卑た笑みのまま答えた。
「私が南方司令部長に任命されたのは六年前だ。そこに転がっている大総統閣下が決めた。奴はこの私を地方に追いやり、中央での立場を奪った上で、あろうことか北国の子ザルを受け入れた。憎くて仕方なかったよ。大総統も。ヴィオラセント、貴様も! “あの方”が声をかけてくれたのは、そんな折だった。軍が憎いなら潰せばいいと、私に文書を送ってくれた。そうだ、私を、私の力を認めぬ軍など潰してしまい、裏の人間としてこの国を乗っ取ってしまうほうが、私の理想に近かったと、そのとき気づいたのだ。貴様の家族のことを知ったのは“あの方”がこちらにクローンの資料を送ってよこしたことで、偶然知った。実に幸運な偶然だったよ。貴様も、大総統も、両方苦しめることができる。私は今こそ、復讐を遂げるのだ!」
「むちゃくちゃなこと言いやがって……」
ボトマージュが配置に納得していないことは、軍にいたスパイが“あの方”とやらに知らせたのだろう。結局彼は、まだ他者の手のひらの上なのだ。それに気づかず、自分の力を誇示しようと躍起になっている。なんてちっぽけな自尊心だろうと、ディアは呆れるばかりだった。
そんなくだらない理由で、目の前の少女は死してなお闘わなければならなくなったのだ。
掴んだ刃をそのまま押し返す。ぐらついた少女の体に、ライフルの銃口を突きつける。どんなに残酷でも、一生苛まれようとも、受け入れなければならない。その覚悟が、やっと、できた。
「あんな奴に振り回されるのはもうごめんだろ、アスカ。……二度も殺しちまって、ごめんな」
ディアが倒さなければならない真の敵は、彼女ではない。その向こうの人間だ。そこに届くためには、こうするより他はなかった。

狙いの甘い銃撃など、大剣で簡単に防ぐことができる。やはり、彼は人を殺すことを迷っている。スパイだった中将が言っていたように「一人殺せば二人も三人も同じ」とは、彼は考えていないようだった。カスケードのその気持ちがわかればニアは十分だった。
カスケードが所持している軍支給の銃は、弾数に制限がある。六発。それを全て凌ぎきれば、こちらの番だ。すでに何発か使用していたらしく、それまで待つことはなかったが。
その銃が弾丸を切らしたところで、ニアは大剣を振りかぶった。その広い面をカスケードに当てられれば、体勢を崩すことができる。大抵の相手ならば、その戦法が通用するはずだった。
だが、振った大剣を、カスケードは腕で止めた。銃を捨てて、彼はすぐに肉弾戦に切り替えてきた。大剣はリーチが長いが、その分近距離の相手には通用しにくい。一瞬にして目の前に迫った拳を、ニアは大剣を捨て、とっさに屈むことでかわした。そう、こんなことは、武器を大剣に切り替えたときから経験でわかっている。カスケードと何度も訓練をして、体で覚えた。
彼のやり方も、自分がどうするべきかも、全て解っていた。だからこの勝負は、当時の記憶が残っているニアにこそ有利なのだ。――カスケードが、その感覚を失っていなければ。
ニアが屈んだところへ、カスケードはすぐさまローキックを叩き込んでくる。五年前よりも強くなった脚は、屈んだニアのわき腹に入った。その攻撃で床に倒れるが、ただ寝転んではいられない。こちらも足をのばし、カスケードへ足払いをくらわせる。バランスを崩したところで生まれたその隙を、大剣を再び回収するために利用する。
何度も、何度も、同じようなことをしてきた。ニアは、そしてきっとカスケードも、その体に互いの手口を染み込ませていた。共に過ごした八年分に、別れていた五年を足して。二人は声なき言葉を交わしていた。
倒れたカスケードに、ニアは大剣の切っ先を突きつける。訓練ならばこれが勝利の合図だ。だが、今のこの戦いは練習ではない。向けられた剣を、カスケードは手で掴み、自分の脇へと引き寄せた。引っ張られたニアは、体勢を崩し、前のめりになる。「あ」と思った瞬間に、カスケードの顔が目の前にきていた。
どうしてこんなときにでも、海色の瞳はきれいに見えるのだろう。
バランスを失ったニアの体を、カスケードは空いていた片手で受け止めた。そして、力を込めて押し戻した。視界がぐるりと反転する。形勢も逆転だ。一瞬のうちに、倒れたニアを、立ち上がったカスケードが見下ろしていた。
「……何か思い出した?」
それでもニアは笑みを浮かべていた。カスケードは怪訝な表情で首を横に振った。
「わからない。けど、闘い方はすぐにわかった。お前の手段が見えてた。……痛くないのか、ニア?」
「痛いよ。……前より強くなったね、カスケード」
懐かしさが嬉しくて、負けても悔しいと思えない。彼があの頃とほとんど同じ闘い方をして、加えて強くなっているということが、ニアにはむしろ喜ばしいことだった。記憶を戻せるかもしれないという、確信ができたから。
一方のカスケードは、混乱しながらも、このあとどうすればいいのかわかっていた。倒れた相手には、手を差し伸べる。そうすることが、一番自然だと思った。相手は軍人、敵なのに。
手を出しかけては引っ込めるカスケードを見てニアはくすりと笑った。それから自分で立ち上がると、まっすぐに相手の目を見た。
海色と、深い森の色。五年前までは、互いの視線を合わせれば、言いたいことがすぐに分かった。最も気の合う相方として、やってこられた。
「今の闘いでわかった。やっぱり君は、カスケード・インフェリアだ。僕たちが捜していた人間だ」
カスケードも、ニアの目を見ていた。驚いているような、けれども少し泣きそうな、海色で。
「カスケード、戻っておいでよ。昔を思い出すのはいつでもいい。軍人にならなくてもいい。でも、組織からは抜けよう? 何があっても大丈夫だよ。今の僕なら君を守れる。今度こそ、君を助けてみせる。約束するから」
だから彼を怯えさせないよう、優しく、柔らかな声色で、ニアは言う。カスケードが唯一憶えていた、その声で。そして手を伸ばして、微笑みかける。揺れた髪の隙間から、銀色のカフスが光った。
「……ニアは、俺を嫌わないのか? 記憶がなくて、軍を襲ったのに、それでも俺に戻れって言うのか」
震える声が返ってくる。それを包み込むように、ニアは頷く。
「僕には、君のいない世界はぼやけてしまうんだ。僕の、僕らの世界には、君が必要なんだよ、カスケード」
――帰るべきです。
アルベルトの言葉が、カスケードの頭の中に響く。この場所こそが、帰るべき場所なのだろうか。ニアの傍にいることが、カスケードにとっての最善なのだろうか。
けれどもそれを選んでしまったら。全てが、崩壊してしまう。今ここで選ぶことはできない。じゃあ、いつ、選べばいい? これがきっと、最後のチャンスなのに。
「俺、は」
――何があっても大丈夫だよ。今の僕なら君を守れる。
ニアのその言葉を、信じてもいいのだろうか。信じた瞬間に壊れてしまわないだろうか。それが怖いということは、きっともう、信じようとしているのだ。ニアを死なせたくないから、光の差すほうを選べない。
それならいっそ、他の選択をしてしまおうか。この身が滅んでしまえば、もう何も考えなくていいのではないか。記憶も、命も、何もかも捨ててしまえば、苦しまなくて済むのではないか。
「俺は、お前に殺されたいよ、ニア」
絞り出した答えを、口にした。手を差し出したままのニアが、笑顔をなくした。
「どうして、そういうことを言うの」
「だって、俺には選べないんだ。組織を裏切れば司令部が爆発する。組織の言う通りにすれば、お前を殺さなくちゃいけない。……どっちを選んでも、お前が死ぬんだ。ニアを、死なせちゃいけないのに。死なせたくなくて、一人で戦ったはずなのに。……だったら、俺一人がいなくなれば」
差し出されていた手が、不意にカスケードの視界から消えた。振りかぶったのだとわかったときには、もう、平手がカスケードの頬を打っていた。じん、とする痛みが、なぜか温かいと思った。
「だから! そんなのは僕が求めているものじゃない!」
ニアは力の限り叫んだ。親友を叩いた手の痛みをこらえながら、喉がかれるのも厭わずに、誰かに聞かれるのもかまわずに。そうだ、“あの方”とやらに聞かれていたってかまわない。司令部が爆発するなんて、信じない。たとえ真実だとしても、親友は、仲間は、この手で救ってやる。だって、ニアの求めるものは。
「僕が求めているのは、君との、君たちとの未来だ! カスケードがいないなんて、僕の手でそれを断ち切るなんて、絶対にしない。するものか!」
ここで終わらせてしまったら、これまでの全てがなくなってしまう。そんなのは駄目だ。これまでを無駄になんかさせない。それがニアの大佐としての責任であり、カスケードの親友としての務めだ。
「僕を死なせたくないなら、君が生きろ。僕がどれだけ君に執着し、依存してきたか。それを知ってもらうために、思い出してもらうために、もっともっと生きてもらわないと困るんだよ!」

迫るタイムリミット。あと一つだけ、足りない鍵。それがどうしても見つからない。
資料を捲る手。全てを頭に叩き込もうとする目。けれども、どれだけ頑張っても、あと一つが見つからない。わからない。
残り時間は、あと四十分。時間の経過が恨めしい。
「正しい数値は打ち込んだ。でも、入力できない。入力するためのパスが足りない。もう少しなのに……!」
エラーを起こす画面を、クレインは忌々しげに見つめる。クライスは自分も資料を捲りながら、思いつく限りの提案をしていた。
「可能性があるもの、全部打ち込んでみたらどうだ? ここに爆発の細工ができた人間は、あの中将しかいない。あいつが設定しそうなものを片っ端から入れていけば」
「やってるわよ! やってるのに、どれも当てはまらない。もしかしたら、あの中将が考えたんじゃないのかもしれない。パスワードらしく、まったく意味のない言葉かもしれない。全てを試すことは不可能だわ。……せっかく、ここまで来たのに!」
この扉だけが開けない。これさえ開けば、司令部の危機は乗り越えられるのに。そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎていく。焦るほどに、エラーは増える。そして、もう、何回目だっただろう。
規定回数のエラーを起こすと、自動的に全てをシャットアウトするようになっていたのだろう。エラー表示の後、これまで解いてきた部分までもがリセットされた。初めから、解除し直しだ。しかも、このシャットアウト状態を解除するところから。
「……時間が、ない。もう、あと、三十分……無理があるわ」
絶体絶命だった。キーを叩く指が、資料を捲る手が、震える。それでも最後まで諦めたくなくて、ベルドルード兄妹は動き続けた。あと十分だけ勝負しよう。あと十分で駄目なら、屋内の人間を避難させよう。でも、どこへ?
あらゆる考えを巡らせながら、減っていく数字を見る。画面の端に表示されたそれが、おそらくは起爆までの残り時間を示していた。そのカウントが、一つ、二つと減っていき、ついに。
ぴたりと、止まった。
「……え?」
まだカウントはゼロになっていない。では、これは全く関係のないものだったのだろうか。そう思った直後、廊下から叫び声が聞こえた。その主が誰なのかは、すぐにわかった。

――もしも、どうしても元仲間を殺せず、司令部を爆破させることも避けたいと思うなら、一つだけそれが可能な方法を教えよう。
――それは、君が、弟に自分の手か足を切り落とさせることだ。
ちょっとだけ反応が遅れたふりをすれば、とても自然にできることだった。なにしろ、互いに本気で闘っているのだから。
アルベルトの右手は、ブラックの攻撃を避けそこなったふりをして、体から切り離されて床に転がった。手首から先が、実にきれいな切り口で、落ちていた。
「……おい、お前」
「ごめん、しくじった。君のせいじゃないよ、ブラック」
すでに残り時間が少ないこと、起爆装置の解除ができないことを、アルベルトはわかっていた。止めるには、こうするしかなかった。そうすれば“あの方”が装置を止めてくれるかもしれない。それにかけるしか、方法が見つからなかった。
「馬鹿、今すぐ止血!」
「いいよ、いらない。これは軍を裏切った僕への罰だから」
「ふざけたこと言ってんじゃねーよ!」
ブラックが必死になって手当てをしてくれる。その光景だけで、アルベルトには十分だった。これが最期に見るものになってもいいくらいだった。
情報処理室からクライスとクレインが飛び出してくる。何かを言おうとして、こちらを見、それをやめた。
「アルベルト少佐、その手!」
「大丈夫。もともと左利きだから、右手がなくなったくらいで不自由はしないよ」
「そういう問題じゃないでしょう! せっかく起爆装置が止まったのに、こんなことになるなんて……」
クレインの言葉に、アルベルトは安堵した。“あの方”の言っていたことは、本当だったらしい。アルベルトが最も大切な人に罪を擦り付けることで成立する、爆破装置の解除。残酷だが確実な方法だったのだ。
倒れたふりをしていたツキが起き上がって、アルベルトを担ぎ上げる。起爆装置が解除されたなら、もう動いていいはずだと判断した。それに、こんなときに倒れてなんかいられない。
「医務室が無事ならいいんだが……」
斬られた腕は上に挙げさせ、無事な場所を探した。いまや、そんな場所があるのかどうかもわからないが、とにかく行くしかない。アルベルトを救わなければ。
だが、前へ進もうとした足は、阻まれた。立ちはだかった、たった一人の人物によって。

なり替われ、と言われ続けてきた。両方アクトで良いなんて、初めて言われた。アクト・カッサスにとって全てであった「ただ一人のアクトになる」という考え方が、覆される。
「何、それ。だって、僕はアクトになるために……」
「もうなってるじゃん。おれとお前は違うんだから。戦う必要なんて、一人になる必要なんて、ない。おれにはおれの生き方があって、お前にはお前の生き方がある。それじゃ、だめなの?」
「そんなこと、考えたこともなかった……」
もしもそれでいいのなら、これまでしてきたことは何だったのだろう。その意味付けのためにも、アクト・カッサスはアクト・ロストートになり替わらなければならないのだと思い込んできた。
「おれは、それでいいと思う。お前は、オレガノさんをお父さんとして、お前の人生を送ればいい。お前は、おれにはなれないよ。おれが、お前になれないように」
「……父さん」
アクト・カッサスの気持ちはぐらついていた。このまま説得できれば、二人とも死なずに済む。どちらのアクトも消えることなく、幸せな人生を掴むことができる。
その瞬間まで、そう思っていた。
その方向にはグレンたちがいたはずだった。ラインザーのクローンたちを倒し、アクトたちの闘いを妨害しないようにしていた。それなのに、破裂音はその方向から聞こえた。グレンの銃の音ではない。メリテェアが持っていた銃の音でもない。まったく別の種類の音が、アクト・カッサスの頭を後ろから貫いた。
飛び散った赤。倒れてくる体。ついさっきまで話していたはずの彼は、一瞬でその命を奪われた。
「おい、アクト! アクト!!」
倒れたアクト・カッサスの下から這い出して、アクト・ロストートはぐったりした肢体を支えようとした。どれだけ呼んでも、返事はない。彼の家族との未来は、完全に奪われてしまった。
「今の、誰が?」
「俺じゃない。クローンか?」
「でも、クローンはみんなナイフを持ってるんじゃ……」
クローンたちに紛れて動いていた者に、アクトは気づかない。グレンたちも、状況がすぐには掴めない。
それを背に、銃を手にした人物が去って行く。次に目指すは、大総統室。

倒れたアスカを、ディアはただただ見ていた。泣くことも、詫びることも、これ以上は無意味だと思っていた。だから、何も言わない。
「まさか本当に撃つとはな……貴様はこれで、我々の仲間入りだ。我々を責めることなどできないぞ」
ボトマージュは引き攣った笑みを浮かべながら言った。大総統が、「すまないな」と呟いた。両方聞こえていたが、ディアは返事をしなかった。どちらも無言で受け止めた。
心の中に、言葉を沈めて、受け入れて。目の前にある事実を認めて。ようやく、顔をあげた。
「そうだな、俺はお前を責められねえ。それは他の奴に任せる。俺がやらなきゃいけないのは、他の奴がお前を裁けるよう、ここで決着をつけることだ」
一歩一歩、ボトマージュに近づいていく。兵隊を失った彼に、もうなす術はない。自分では戦おうとしなかった彼は今、完全に無防備だった。
「来るな、来るんじゃない。貴様、私に何をする気だ!」
「安心しろ。個人的な恨みで、一発ぶん殴らせてもらうだけだからよ」
それ以上のことはしない。できない。それはディアのすべきことではないからだ。この手でボトマージュを裁くことはできない。ボトマージュの言う通り、自分の意思で命を奪ったのだから、すでに彼と同じなのだ。少なくともディアはそう思っていた。
傷ついた手を握りしめ、大きく振りかぶる。ボトマージュの顔は、それだけで恐怖に歪んだ。なんて弱い。これが、村を一つ潰した人間の顔なのか。
ディアが拳をボトマージュにあびせようとした、そのときだった。
「ヴィオラセント中佐、避けろ!」
大総統の声が響いた。反射的にディアはその場所から飛び退いたが、ボトマージュはそこに立ちつくしていた。破裂音が響いても、その頭に穴が開いても、彼は何が起こったかわからないまま、直立して絶命していた。足の力を失って倒れるまでの時間が、妙に長く感じた。
「……ボトマージュ? おい、何が起こった?! 大総統、何か見たのか?!」
額にあいた穴から血を流すボトマージュを見てから、ディアは大総統を問い詰めた。だが、彼は首を横に振った。
「気配は感じたが、何も見えなかった。だが、おそらくは軍人ではない。……処分、されたというのか」
その言葉に、ディアは立ち上がって廊下へ出た。しかしそこにはクローンの亡骸が転がるばかりで、生きている人間は誰一人として存在していなかった。
「どういうことだよ、これ……」
ボトマージュを撃った主は、とうにそこを離れ次の場所を目指していた。
軍も組織も裏切った、情報処理室前にいる人物のもとへ。

ニアはカスケードを引っ張って、監視室にやってきた。ここは敵の親玉がいるかもしれない場所だが、弱気になった親友を一人で置いてくるわけにはいかなかった。何があっても彼を守る。そう誓って、ここまで来たのだ。
だが、中には誰もいなかった。軍施設内の状況を見るにはここが一番都合が良いはずなのに、隠れている気配すらない。ということは、もうここで見張りの真似事をしなくてもよくなったということだ。
「カスケード、司令部爆破の条件を確認していい?」
嫌な予感にかられ、ニアは後ろにいた彼の目を見上げる。カスケードは頷いて、答えた。
「アルが、軍側につくことだ。それを確認したら、“あの方”が司令部を爆発させる」
「アルってアルベルトのことでいいんだよね。……ということは、アルベルトの行動が確認できたのかも。司令部が今のところ無事だということは、軍側についたってわけでなさそうだ」
「じゃあ、アルが誰か殺したってことか? 軍で仲間だった人間を殺すことが、アルに課された条件だった。それが達成されたんだとしたら……」
「いや、それは達成できないよ。アルベルトにそんなことができるはずがない。何か理由があったんだ。たとえば、爆発物がすでに処理されてしまったとか」
爆発させる予定のものが処理されてしまったとしたら、“あの方”はどんな行動にでるだろう。そもそもその爆発物の存在や処理の仕方を、軍に教えられるのはアルベルトだけだ。その通りに爆発物を解除されてしまったのだとしたら、“あの方”は自らの手で全てに決着をつけなければならなくなるはずだ。狙いは、組織を裏切り爆発物の処理方法を伝えた、アルベルト。
「カスケード、さっき君はアルベルトのことをアルって呼んだよね。ということは、組織で仲良くなったの?」
「ああ、落ち込んでた俺に話しかけてくれた、良い奴だ」
「なら、彼を助けたいと思わない?」
カスケードならきっとこう答える。そんな確信を持って、ニアは尋ねる。ニアの知っているカスケード・インフェリアならば、必ず頷くはずだと。
「それとも、まだ“あの方”とやらに従って、自分の気持ちをごまかす?」
まっすぐに、真剣に。ニアは海色の瞳をじっと見た。昔からこの眼は、嘘を吐くのが下手だ。ごまかそうものなら、すぐにわかる。
だが、ニアがそこに迷いを見ることはなかった。カスケードはニアを見返すと、こくりと頷いた。
「助けたい。アルを助けに行く」
「決まりだね。じゃあ、一緒に行こうか」
ニアはにっこりと笑うと、すぐに真剣な表情に戻って、監視室に並ぶモニターを見た。その姿はすぐに見つけられた。倒れているアルベルトと、それを支えようとするツキ、ブラック、クレイン、クライス。なるほど、情報部隊に爆発物を任せたらしい。そして彼らは、爆破を阻止することができたのだろう。だから“あの方”が動き出したのだ。
「ここは情報処理室前だね。様子からいって、アルベルトが怪我をしたみたいだ。……あれ?」
映像の中に、見知らぬ人物が入ってくる。見たところ、十代後半から二十代ほどの女性のようだ。その手には、銃が握られている。――彼女は、軍の人間ではない。では、組織の者だろうか。カスケードに振り返るが、彼は首を横に振った。どうやら、彼女のことは知らないらしい。
「そういえばカスケードは、“あの方”と会ったことがあるの?」
「いや。いつもスピーカーから指示をする声を聴くだけだったから、会ったことはない。変な声だったから、年齢も性別も知らない」
“あの方”は“あの方”、それしか知らない。以前、カスケードはそう言っていた。だが、このタイミングでアルベルトに近づく部外者がいるとすれば、それはこれまで組織をまとめていた人物以外にありえるだろうか。あまりに若すぎるように思えるが、可能性は大いにある。
「カスケード、この子が“あの方”かもしれない。情報処理室前に急ごう!」
早くしなければ、ニアはまた大切なものを失うことになる。そんなのはいやだ。
何かを得る代わりに何かを失うというのは、確かに道理かもしれない。だが、ニアは欲張りで、我儘だ。そういう自覚がある。何もとりこぼさず、取り戻して、未来へ繋ぎたい。大切な人たちだけでも救いたい。それはどんどん増えてしまったけれど、増えるたびに守れるかどうか不安になったけれど、やるしかない。だってニアは、そのために軍人として生きているのだから。
束ねた緑の髪を揺らして走る後姿に、カスケードは既視感を覚えた。昔も、こんな光景を見た気がする。誰かのために、誰かを助けようと、必死で走る姿。緑色の髪が動くたびに揺れて、自分はそれを追いかけていた。追いかけて、並んだ。
そして、誰かを助けたときに、緑の髪の少年は言うのだ。
――もう大丈夫。僕たちと一緒に行こう。
そう、「僕たち」だった。彼一人ではない。隣にいた自分も、たしかにその数に入っていた。人を助ける者の数に。
「……俺は、」
カスケードは、たしかに、約束した。そうなろうとした。「人を助ける」何かに。
五年間見えなかったものが、見え始めた。

首をかしげながらにっこりと笑う少女は、何も知らない人から見れば、どこかから迷い込んでしまった無関係な人間だっただろう。この状況下で、すぐに彼女を守らなければと手を差し伸べたことだろう。
だが、彼女が手にしているものがそうさせない。右手には、軍支給のものではない銃があった。そして愛らしく微笑むその顔は、情報部隊が知っているものだった。
「おいおい……随分と若作りしたな」
ツキが呟く。すると、少女は目だけを冷たく光らせた。
「失礼ね、若作りだなんて。私は不老不死なのよ」
その顔を、ここにいる者では、ツキとクレインが知っていた。五十三年前、当時の大佐によって捕まえられた殺人犯。
彼女の名は、マカ・ブラディアナ。裏社会でその頭脳を発揮してきた、天才科学者だ。




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posted by 外都ユウマ at 18:05| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年02月24日

Reverse508 第二十四話

四方から次々に襲いくるクローンを、レイピアで突き、鉄扇で防ぎ、銃で撃ち抜く。自分の周り全てが見えているかのように、感覚を研ぎ澄ませ、反射的に有効な武器を選ぶ。ただの軍人にはできないような神業を、彼女はやってのけていた。
それができるからこそ、彼女はこの若さで将官となった。天才の名は、彼女のためにこそある。それを誰もが認めざるを得なかった。
メリテェア・リルリアは、一人で何人分もの働きをこなすことのできる、まさしく天賦の才を持った人物だった。
室内を占拠していたクローンが彼女の手で倒されていくさまを、他の将官たちは呆然と見ていた。これまで彼女を「若いくせに」「貴族の戯れで」と下に見ていた者たちも、その認識が誤りであったことを知る。
そうして最後の一体が倒れても、メリテェアはほとんど息を乱していなかった。怪我を負った将官に真っ白なハンカチを手渡すと、それまで状況を見ているだけだったアクト・カッサスに目を向けた。
彼は、面白いものを見たというように、拍手をしていた。
「すごいね、ちゃんとこんなふうに闘える将官がいたんだ。これは想定外だったな」
「そんなことを言っている場合ですの? 次はあなたの番でしてよ」
メリテェアはレイピアの先をアクト・カッサスに向けた。クローンたちを使わず、正々堂々と自分の力で勝負をしろと、彼に語りかけていた。
だが、彼は口元だけで笑って、首を横に振った。
「……僕は闘わないよ。まだ、闘う必要はない。だって、まだそれ、動けるからね?」
その声に合わせたように、再び倒れたクローンが立ち上がる。ゆらりと体を起こすそのさまは、まるで眠りから目覚めた死者だ。いや、実際その通りだった。
「甘いよ、准将さん。ちゃんと殺してあげないと、クローン兵は本能に従って、何度でも標的を切り刻もうとする。ここにいる約二十体、全て心臓を貫くか、頭を撃ち抜いてあげないと、いつまでも止まらない。殺さないようになんて考えは捨てないとね」
アクト・カッサスの嘲笑を、メリテェアは苦々しく受け止めた。それしか方法がないというのなら、そうするしかない。その決断ができるのも、彼女が准将たる所以だ。
「そうですわね。生ける屍たちですもの。きちんとあるべきところへ送ってあげませんと。……わたくしは何度でも、お相手いたしますわよ」
レイピアと鉄扇を傍にいた将官に預け、代わりに銃を受け取る。銃弾を装填している暇はないだろう。ここにいる将官たちのうち、銃を使っている者の数を確認する。――正確に撃ち抜いていけば、十分だ。いざとなればナイフと短剣もある。
「みなさんに闘えない事情があるのは承知ですわ。ですからここは、わたくし一人で切り抜けて差し上げます。ご覧あれ」
一瞬だけ天使のように微笑んだ後、メリテェアは死にぞこなった哀れな者たちに向けて、銃弾を放った。

大総統室ではボトマージュが、クローンと闘う大総統ダリアウェイドを見物していた。肉体改造を施され、俊敏に動く三体のクローンに、ダリアウェイドはついていくので精一杯のようだった。その軍服は切り刻まれ、頬や手などの露出部分には血がにじんでいる。大総統のその姿に、ボトマージュは言いようのない悦楽を覚えていた。
闘っているのは自分の手下だ。つまり、彼らが大総統を殺せば自分の手柄だ。自分こそが、この国の頂点なのだ。そんな考えが、ボトマージュの脳内を満たしていた。
「大総統閣下とあろうものが、そんな人間もどきにてこずっているとは。話にならないな」
嘲笑まじりに声をかけても、大総統は何の反応もしない。そんな余裕はないというのか。ああ、なんて滑稽な姿だろう。これがこの国を治める者の正体なのだ。作り物の人間になすすべもない、哀れな男。それを見ていることの、なんと楽しいことか!
そればかりに気をとられていて、ボトマージュは気づいていない。ダリアウェイドの状態が、「軍服が切り刻まれ、露出部分に血がにじんでいる」だけだということに。彼が俊敏なクローン三体を相手に、それだけのダメージしか受けていないということに。
ダリアウェイドは攻撃のほとんどをかわし、剣で止めていた。三体を相手に、自分へのダメージを最小限にし、かつ相手に対して致命的な攻撃を行なわないというやりかたを貫いていた。
ここにボトマージュがいて、使用しているクローンはディア・ヴィオラセントの関係者。おそらく彼らの本当の相手は、ディアなのだ。ダリアウェイドはそれに気づいていて、あえて本気を出していなかった。真に闘う相手がいるのなら、彼が帰ってくるまでを繋ごう。それが自分の役目だと思い、攻撃を止めるまでに留めていた。
それが残酷な結末を生むかもしれないとわかっていながら、ディアが彼らと決着をつけるべきだと考えて、剣を楯にし続けていた。
――南区画から人員が戻ってくるまで、手こずっていたとしても一時間。それまでなんとかしてみせよう。自分は、この国の大総統なのだから。この国の人間となった者のため、全力でこの場を凌いでみせよう。自分では闘おうとしない卑怯な人間に、この大総統ダリアウェイドが負けるわけにはいかないのだ。
「ボトマージュ、確認しておこう。このクローンとやらを止める方法はあるのか?」
ようやく口を開いたダリアウェイドに、ボトマージュは得意げに返した。
「あるとも。確実に殺せばいい。もっとも、貴様にそんなことはできないだろうがな」
技術的な面でも、「人間の形をしたものを殺す」ということへの嫌悪的な意味でも。ダリアウェイドにも、そしてディアにも、そんなことはできるまいとボトマージュは考えている。だからこそ、連れてきたクローンは彼らなのだ。
「……ふむ、それではヴィオラセントにとってはつらい戦いになってしまうだろうな。ならば」
ダリアウェイドは、攻撃を防いでいた剣を反した。そして、その刃に一番近かった女性型クローン――ボトマージュが「ラヴィッシア」と呼んでいたそれに、初めて反撃した。鮮血が飛び散り、ダリアウェイドの頬にかかる。それが一層、彼の目を冷酷なものに見せた。
「……ダリアウェイド。貴様、人間の形をしたそれを殺すつもりか」
笑みを引き攣らせたボトマージュが問う。ダリアウェイドは、それに無表情で返した。
「私は常に、国を、そしてそれを支える軍人を含む国民たちの大多数に有利になるようことを運ぶ。たとえ自分が恨まれようとも、それが国のために、国民のためになると判断したならば、そうしよう。ヴィオラセントに軽蔑され、殺されたって構わない。それで彼が君を追い詰めることができるというのなら、私は悪になろう」
選択すべきものを決めた大総統が、この国を動かす大きな力が、どんなものであるかを知らしめよう。この矮小で卑怯な人間に、国一つを抱えるということがどれほどのことかを教えてやる。
ボトマージュの肌が粟立ったのを、ダリアウェイドは見逃さなかった。

銃は狙いを定めて弾を放つまでに、わずかなタイムロスがある。その一瞬を狙って、ツキはアルベルトの放つ銃弾の方向を見極め、ぎりぎりのところでかわしていた。とはいえ、銃弾の走るスピードに追い付けるはずもなく、徐々に体は傷ついていった。加えて、ラインザーのクローンたちと闘ったときに体力を消耗している。本気で戦い続けるには、限界があった。
チャンスは銃弾が切れて、新たに装填し直さなければならないそのタイミング。そこでアルベルトに近づくことができれば、彼の動きを止められる。
そのことはアルベルト自身もわかっていた。わかっていて、手を休めることをしなかった。こちらが弾切れになり、ツキが接近してくるであろう瞬間を、待っていた。
軍支給四十五口径リボルバーの弾数限界は六。それを全て放ち終わる頃、ツキはアルベルトに向かって猛ダッシュしてきた。右手にはナイフ。左手はアルベルトの腕を掴み、壁にその身を叩きつける。そして、ナイフをその耳の真横に突き立てた。銃を持っている右手は封じている。
「……アルベルト。あと何分稼げばいい」
小声で確認する。誰がどこで聞いているかもわからない。追い詰めているふりをしながら、問うしかなかった。答える方も同様だ。
「爆弾はおそらく、司令部内の自動環境調節システムを利用したものです。クレインさんがそれに気づいて、解除にかかってくれているのなら、こんな茶番はそう長く続けなくてもいいでしょう。……ブラックたちが戻ってきてくれた時点で、あなたは死んだふりをしてくれてもかまいません。そのあとは、彼らと闘いますから」
「クレインさえ守れればいいってことだな。了解、引き続き抵抗をどうぞ」
「ありがとうございます」
ツキの腕を払い、アルベルトは素早く弾を再装填した。そして再び銃口をツキに向け、その胸を狙う。狙ったふりをする。わずかに致命傷になる部分を外して、発射した。
ツキはナイフから手を離し、それを避ける。アルベルトが隙を見せてくれたその間に、壁に刺さったナイフを取り返して、アルベルトに向ける。
あまりにも長く続ければ、これが本気を含めた演技であるとばれてしまう。だからこそ、早く他の人員が戻ってくることを祈る。ツキを殺せば、クレインに手をかけなければなならなくなるのだから。情報処理室に逃げ込んだふりをして、「爆弾」の解除に必死になってくれているはずの彼女を、どうしても守らなければならない。

カスケードに銃口を向けられても、シィレーネは一歩も引かなかった。ただ、彼の海色の瞳をじっと見つめていた。
そこに浮かんでいるのは、困惑と恐怖。その感情を、シィレーネは的確に読み取ることができる。その赤い瞳で、相手がどのような思いを抱いている人物なのかを探ることができるのだ。だからこそこの瞳は気味悪がられ、実の親にすら嫌われた。彼女には常に悪意が突きつけられてきた。
だが、叔父は、シェリアは、ニアは、……仲間たちは、そうではなかった。彼女を受け入れ、居場所を作ってくれた。人からの悪意と自分の瞳が持つ力に怯えていた彼女を、仲間たちは救ってくれた。
今こそ、その恩を返す時だ。自分たちがいつか受け入れるはずの、目の前の彼に、手を差し伸べること。それがニアと約束した、シィレーネの役割だ。――ずっと、傍にいてあげる。そう誓ったのだ。
「……なんで、逃げないんだ? 俺は、君を殺すんだぞ?」
震える声が言う。その奥に見える、「助けて」の言葉。それをシィレーネは信じた。
「逃げません。あなたと一緒にいるって、ニア大佐と約束しましたから。……それに、その先に外部情報取扱係の部屋があるんです。ツキ曹長に、外にいる人たちと連絡を取るように頼まれています。私、自分の役割を果たさなきゃ」
組織とクローンが司令部を襲撃したそのとき、ツキとシィレーネは事務室にいた。そのあとすぐに、ツキは自分の持ち場である外部情報取扱係室に戻り、ニアたちとの連絡中継をするはずだった。だが、組織が乗り込んできたことにより、状況が変わってしまった。
クレインが一人で取り残されている情報処理室を守りに、ツキは走った。シィレーネに連絡役を託して。
メリテェアがここまでの道を拓いてくれた。クローンを倒し、シィレーネを助けながら、自らも将官や下級兵たちを救いに行った。
彼らの行動を無駄にせず、託されたことを果たすため、シィレーネは引くわけにはいかなかった。この先に進まなければならなかった。――その途中で、カスケードに出会ってしまったのだ。
「早くしないと、みんなに連絡ができません。ここであなたに殺されちゃ、だめなんです。……そんなに怯えたあなたに、私が殺せるとも思えませんけれど」
「そんなことない! 俺は、俺はやらなくちゃならないんだ。君を殺して、ニアも……」
「だから無理です。あなたはニアさんの親友なので、そんなことはできません! たとえ記憶がなくたって、思いはどこかに残ってるはずです。本当に大切なものは、どんなことがあったって、捨てられないんですよ。自分で、守っているから。何が何でも守ろうとしているから!」
背後に、何かが近づいてくる気配がする。メリテェアが逃してしまったクローンだろうか。ここで立ち止まっている時間はなさそうだった。
それでも、伝えたい。ニアが何よりも大切にしている人に、彼がずっと抱いてきた思いを。シィレーネが、彼から学んだことを。自分を助けてくれた、本当はとても優しく頼もしいに違いない、その人に。
海色の瞳は、まだ困惑に揺れている。けれども、少しずつその「かたち」が変わってきたようだった。シィレーネの言葉を聞いてくれている。その言葉に、感情が変化してきている。本質は人を殺すことなんてとてもできないような、優しくて、臆病で、何かに縋りたいと思っている人なのだろう。ニアと、シィレーネと、多くの人と同じように。
だったら縋れるものはある。ニアが用意した場所がある。シィレーネさえも救ってくれた、とても温かな場所が。彼をそこに、導きたい。その思いが、銃口への恐怖を超えていた。
「思い出せなくても、きっとあなたは大切な心を守っている。だから私を助けてくれた。今もこうして、手を震わせている。……私と一緒に来てください。ニアさんの声を聴いて、ちゃんとその気持ちを、守っている心を、呼び覚ましてください!」
赤い瞳に訴えられ、カスケードは感じた。この眼には、逆らえないと。この眼を持つ少女の言う通りにすれば、答えが得られるのではないかと。ずっと迷っていた場所から抜け出して、本当の居場所に辿り着けるのではないかと。
だが、今は悠長に考えている暇はなかった。カスケードは気を取り直し、手の震えを止めた。銃口の狙いをぴたりと定め、引き金を引いた。
響く破裂音。飛び散った赤い色。二度目になるが、この感触はやはり、吐き気がするほど恐ろしい。


第一班がごろつきを全て確保し縛り上げ、第二班がラインザーのクローンたちをシャッターの向こう側に封じ込め、第三班が司令部へ向かおうとしている頃だった。
それまで何の応答もなかった無線が、突如司令部からの声を受信した。
『外に出ている軍人たちに告ぐ。中央司令部全施設は、我々組織が占拠した!』
クリスたちにとっては初めて聞く声だ。アクトたちにとっては三回目だった。そしてニアにとっては、もう何度も聞いて、捜し求め、ついに辿り着いたものだった。
「カスケード?! どうして……」
ニアはとっさに無線に応答する。だが、声はそれを無視して続けた。
『こちらは多くのクローン兵を利用し、人質をとっている。また、司令部には爆発物も仕掛けている。早く来なければ、彼らがどうなるか、わからないお前たちではないだろう!』
それは現在、中央司令部に起きているできごとの詳細だった。無線の応答がこれまでなかったのは、情報部隊がこの緊急事態にあたっていたからだったのだ。
それを理解した全班の人間が、司令部へ向かって動き出した。すでに司令部を目指していた第三班は、より急いだ。
「カスケード……君は、どうしてこんなことを……」
こうして無線で連絡が来るということは、カスケードが外部情報取扱係を占拠しているということになる。そうしてわざわざ、状況を外にいた部隊に知らせているのだ。
ニアには、大きな不安と、かすかな期待があった。外部情報取扱係にいるはずのツキはどうしているのか。将官たちは、メリテェアは、大総統は無事なのか。クレインは、シィレーネは、どうなっただろう。
カスケードは重要な情報を、なぜ自分たちにもたらしてくれたのだろう。
とにかく司令部へ辿り着かなければならないことだけは確かだ。


ほんの少しだけ、時は遡る。
銃弾に倒れた影を、カスケードは確認した。軍人の少女の背後に迫っていた、ラインザーのクローンたちだ。それらの頭を全て撃ち抜いて、カスケードは彼らの動きを止めた。
「……また、助けてくれたんですね」
自分の背後を振り返りながら、少女は言った。だが、カスケードは首を横に振る。今は、そうすることしかできなかった。どこで“あの方”が見ているかわからない。カスケードが軍の人間の味方をすれば、“あの方”は仕掛けた爆発物を作動させるかもしれない。アルベルトの裏切りが発覚した場合と同じようなことが、カスケードにも起こりうる可能性があった。
「助けたわけじゃない。外部情報取扱係に、一緒に行ってもらわないと困るんだ。俺はニアを殺さなくちゃいけない。ニアがここにいないなら、呼び出してでも」
「……わかりました。一緒に行きましょう」
そうしてカスケードは、少女とともに外部情報取扱係室へやってきた。まずは彼女に、各班の無線へ連絡をとってもらわなければならない。だが、どうやら階級の低いらしい彼女には、無線の扱い方がよくわかっていなかった。
「ええと……外にいる全班と通信するには、どうするんだったかな……ツキさんに教えてもらったはずなのに、どうしよう……」
焦って泣きそうな彼女の背後から、無線の送信機を覗き込む。この機械を扱った記憶はない。だが、憶えていない時間の中で、触ったことがあるのだろう。カスケードは一目見て、その構造を、使い方を、理解した。
「貸してくれ。俺がやる。……その方が、都合がいい」
彼女の目的を達成させるのは、軍に手を貸したことになる。それでは“あの方”の邪魔をしてしまうことになる。そうしないためには、カスケードが自ら全軍に通信を送り、組織の人間らしく振る舞うことが必要だった。
言うべきことは、頭の中で整理されていた。不思議なほどに操作は手馴れていて、その言葉もすらすらと出てきた。
「外に出ている軍人たちに告ぐ。中央司令部全施設は、我々組織が占拠した!」
本来ならば、軍人の少女がSOSとして送るべき言葉を、組織の立場で宣言する。少女が息を呑むのがわかったが、かまわずに続けようとした。
そこへ、その声が帰ってくる。
『カスケード?! どうして……』
ニアの声だ。カスケードには、すぐにそれがわかる。どんなに音が悪くても、それだけははっきりとわかってしまうのだ。たった一つ、忘れられなかったもの。五年より前のことがどんなに思い出せなくても、これだけは憶えていた、柔らかな響き。
だが、今はそれに返事をしている余裕はない。惜しみながら、言葉を継いだ。
「こちらは多くのクローン兵を利用し、人質をとっている。また、司令部には爆発物も仕掛けている。早く来なければ、彼らがどうなるか、わからないお前たちではないだろう!」
これで、外にいる部隊は全て帰ってくるだろう。ニアもきっと、ここに来る。来れば対峙しなくてはならないが、これでいい。これで、司令部内のクローンは帰ってきた軍人たちに排除される。爆発物だって、きっと手分けして見つけてくれる。ボトマージュやカッサス親子のことも、止めてくれるだろう。
「アル……これで、いいんだよな……」
無線を切って、呟く。少女にはそれが聞こえたらしく、すぐに反応した。
「アルって、もしかしてアルベルト少佐のことですか? ここに来てるんですか?!」
「来てる。俺が行動に出るまで時間を稼いでくれているんだ。今度は司令部内の爆発物を探さなくちゃならない。ニアを待ちながらだから、まずはこの部屋だな」
「それ、私も一緒に」
「だめだ。一緒にいることが“あの方”に知れたら、司令部は爆破されるかもしれない。君には、ここでしばらく眠っていてもらう」
カスケードが“あの方”から命じられたのは、「ニア・ジューンリーを殺すこと」だ。彼女を殺すのは、自分でなくてもいい。厳密にいえばアルベルトの仕事だ。そう解釈したことにして、カスケードは彼女を気絶させようと手を振り上げた。
「……そうだ。君、名前は?」
「シィレーネ。シィレーネ・モンテスキューです。……記憶を取り戻しても、憶えていてくれると嬉しいです」
気絶させられる瞬間まで、シィレーネは微笑んでいた。カスケードを信じてくれているかのように。いや、きっと、信じてくれていた。
その彼女を、忘れるわけがない。親友であるニアの声だって、憶えていたのだから。


真っ先に司令部へ到着したのは、何の邪魔もなかった第三班だった。ニアは着くなり、班員全体に指示を出した。
「司令部内にはクローンが多数いる可能性がある! 慎重に、かつ迅速に人質となった恐れのある下級兵、情報部隊、将官たちを救出する! エスト准将、あとをよろしくお願いします。僕はカスケードに接触します」
「引き受けてやろう。全体、進め!」
エスト准将の号令に合わせ、第三班のほとんどは司令部施設内に突入した。カイが倒れた門番を見つけ、その容体を確認する。
「ニアさん。この人、体中傷だらけです。ラディアがいれば治せるんでしょうが、今は応急処置しかできません」
「仕方ないね。ハル、彼を安全な場所に運びたい。力を貸して。シェリアちゃん、カイの処置が終わったら、ハルと一緒に軍病院へこの人を連れて行って」
「わかりました。すぐに車を用意します」
「ニアさんはカスケードさんのところに行くんだよね。……気をつけてね」
「大丈夫。……きっと彼を取り戻すから」
ニアはハルの頭を一撫でし、ふわりと微笑んだ。それから真剣なまなざしで司令部を見、その中へ飛び込んでいった。
内部にはふらふらと歩き回るラインザーのクローンたちがいた。すでに誰かがダメージを与えてくれていたのか、その体はボロボロだ。だが、それでもなお彼らは動いていた。それを大剣で叩きながら、ニアは外部情報取扱係室へ向かった。そこにまだ、カスケードはいるだろうか。
廊下を走る途中、悲鳴が聞こえた。先に司令部内に入っていた、第三班の者の声だ。向かう先とは逆の方向だったが、ニアは迷わずそちらへ向かった。
そこには、まだ体力の有り余っている様子のクローンたちがいた。それに襲われ、軍の者たちは叫んでいたのだ。どうやらこの廊下の向こうから、まだまだ送り込まれているらしい。この先は、軍が倉庫に使っている地下室だ。
「……まさか」
ニアはクローンを斬り払い、襲われていた軍人を助け出すと、そのまま地下室の方へ向かった。スパイがいたのなら、連絡通路があってもおかしくはない。例の中将には、密かにそれをつくることが可能だった。地下倉庫は、将官権限で利用されていたのだから。
大剣はクローンを一掃するのにちょうどいい武器だった。ただし、溢れるほどに湧いてこなければの話だが。逃がしてしまった分は、司令部にいる他の人間に倒してもらうしかない。
しかもクローンは、ただ溢れてくるだけではない。傷ついただけでは、またふらりと立ち上がって襲いかかってくる。彼らを止める方法は、ないものか。
「そんな攻撃では止められないよ。完全に息の根を止めてやらなければ、彼らの行進は続く。南区画の倉庫からここまで、どんどん送られて来る」
生気のない声が、地下倉庫へ続く階段から聞こえた。クローンを斬り払って視界を広げると、その声の主が見えた。とても疲れた顔をした、初老の男性だった。
「あなたも、裏組織の人間ですか」
「ああ、クローンをつくっている。今は交通整理かな」
クローンを作る者――ニアに思い当たる人物は、一人だけだ。アクトが会ったという人物、オレガノ・カッサス。
「あなた、オレガノさんですね。なぜ、こんなにクローンを? そもそもあなたは、クローンをつくって何をしようというんですか?」
「用途はさまざまだね。こうして兵士として利用することもできるし、致命的な損傷を負った人間のスペアにもなる。……大切な人を、よみがえらせることだってできる」
「そんなことのために死者を目覚めさせているんですか?! 終わった命に、さらに鞭打つようなことを?!」
クローンたちを掻き分け、ニアはオレガノのもとに辿り着いた。彼は全く表情を変えることなく、答えた。
「君がどう解釈しようと勝手だが、僕にはそれしか愛する人を手に入れる方法がなかったんだ。ビアンカ・ミラジナのおかげで、簡単には死なないクローンをつくることができた。このヘルゲイン型は、首を刎ねるか、心臓を貫くかして、確実に息の根を止めてやらないと動き続ける」
「……あなたたちは、命を何だと思ってるんだ。人を殺すために、死なせるために、命をつくるなんて!」
「殺すのは君だよ、ニア・ジューンリー。……名前、合っているかな?」
この手でラインザーのクローンたちを確実に殺せと、彼は言う。生んだ罪を裁くために、殺す罪を背負えと言う。ニアは躊躇する。ビアンカの作ったキメラを殺したときと同じ気持ちが、湧き上がってくる。
「あなたは、そんなことをしていて、むなしくならないんですか」
「終わりの見えない研究というのは、どれもそんなものだよ」
この感情を殺してしまった人を憐れみながら、ニアは大剣を握りなおした。終わらせなければならないというのなら、それが残酷なことであっても、成し遂げなければならない。
でなければ、軍の人間が、クローンたちが市街に出れば町の人たちが、死んでしまうかもしれないのだから。
「うわあああああああっ!!!」
叫びながら、涙をこらえながら、ニアは大剣の刃をクローンたちに叩きつけた。どれだけ周りが赤く染まろうとも、オレガノは泣きも笑いもしなかった。

戻ってきた第一班がまず目にしたのは、門番を軍病院に送り届けようとするシェリアとハル、そして門番の応急処置を終えたカイだった。
「カイ、今の状況は?!」
「ニアさんたちが司令部内に乗り込みました。俺も今から行くところです」
グレンの問いに的確に答えたカイに、クリスが頷いた。
「では、カイ君はこれから第一班に加わってもらいましょう。……どうせ、混戦状態でしょうから、班なんて意味のないものになるでしょうけれど」
門番をシェリアとハルに任せ、クリスたちは司令部に足を踏み入れた。しかし、そこはすでに地獄絵図だった。至る所に同じ顔の死体が転がり、怪我をした軍の人間たちが壁に寄り掛かっていた。どうやら必死になって、このクローンたちを倒したらしい。
「大丈夫ですか? 傷、治しますね」
ラディアが軍人に駆け寄って、手を傷口にそっとかざす。徐々に塞がっていく傷を見ながら、彼はクリスに報告をしてくれた。
「エイゼル中佐。このクローンたちは、完全に殺さなければ動きを止めないようです。……俺、人を、殺してしまいました……」
「ご報告、ありがとうございます。あなた方が頑張ってくれたおかげで、ここのクローンはもう動かないようですね。どうか休んでいてください」
この惨状にそわそわし始めたのは、クライスだった。こんな場所にずっといた妹は、はたして無事なのだろうか。情報処理室は、襲われていないだろうか。
「クリス中佐、オレ……」
「ええ、クライス君はクレインさんのところへ行ってください。途中、クローンが現れると思いますが、どうか躊躇せずに倒してください」
「はい。……畜生、本当に損な仕事だな、軍人って!」
それでも彼は、国に尽くすため、妹をはじめとする家族を守るため、この仕事を続けていくのだろう。この地獄の中を駆け、時に情報を集め、時に槍を振い、進んでいくのだ。それしか道がないのだから。
「ボクの武器では、クローンを確実に止めることは難しいですね。せいぜい脳震盪を起こさせて気絶させるくらいが関の山でしょう。グレン君、カイ君、ラディアさん。相手を止めることができるのは、あなたたちですよ」
「わかりました。カイ、ラディア。行くぞ!」
「はい!」
まだ動いているクローンを掃除しに、三人は走る。第一班の人間が、次々に戦いに身を投じていく。クリスも現れたクローンと対峙しなければならなかった。

最後に到着した第二班も、司令部内の状況には息を呑んだ。嘔気に口を押さえる者もいる。出入り口付近はすっかり死体と怪我人だらけになっており、進めばさっき倒したばかりのラインザーのクローンが現れる。ここでも闘わなければならないらしい。
「ったく、うんざりするぜ。アクト、さっきの無線、カスケードからだったよな?」
「たぶんね。だとすると、ここにボトマージュたちも来ている可能性が高い。アルベルトも、きっといる」
「じゃあ、やることは決まりだな。オレはあの馬鹿兄貴を捜す。ディアはボトマージュを、アクトはカッサスとかいうのを捜せ」
因縁の相手がいるディア、アクト、ブラックはそれを捜すことにした。司令部内に、まず間違いなくいるだろう。彼らも待っているはずだ。
「アーレイド、リアを守れ。この状況はあんまり良くない」
「わかりました」
アクトの指示に、アーレイドは頷く。だが、リアは首を横に振った。
「守られてばかりじゃいられません。今確認したら、グレンさんたちがもうここに来ているみたいです。私だけ、守られてるなんて嫌です。私だって軍人です!」
「……そうだね。ただ、リアの武器じゃクローンには対抗できないから、グレンたちと合流するまではアーレイドと協力すること。いいな?」
「はい!」
やるべきことは二つ。味方を見つけて状況を確認すること。敵を見つけて決着をつけること。成すべきことは、生きてまた合流すること。
第二班は情報を集めながら、それぞれの行くべき場所を目指した。

「すごいな、在庫切れだ」
オレガノが呟いた。かなりの数を取り逃がしてしまってはいたが、地下室前には多くのクローンの死体が転がっていた。血で全身をべっとりと染めたニアの目は、ひどく霞んでいた。
胸ポケットから薬を取り出し、飲み込む。いつもの苦味に加え、鉄さびのような味がした。眼鏡をかけて、オレガノに向き直る。
「人を、ものみたいに言うんですね」
「君こそ、人の形をしたものを切り刻んだじゃないか。……ともかく、僕の用意したクローンはこれで全部だ。僕もこれで、お役御免かな」
ふ、と自嘲気味に笑って、オレガノはその場に座り込んだ。
「あとは司令部が爆発するのを待つばかり、か。きっと妻も処分されてしまっているだろうし、息子と心中するしかないな」
「そうだ、爆発物! オレガノさん、それがどこに仕掛けられているものか、知っているんですか?!」
ニアはカスケードの言葉を思い出す。「司令部には爆発物も仕掛けている」と、彼は言っていた。それがどこにあるのか、裏組織の人間ならば知っているかもしれない。
しかし、オレガノは首を横に振った。
「どこにあるのか、どんなものなのか、僕たちは知らない。ただ一つはっきりしているのは、それがアルベルト・リーガルの裏切りによって起爆するものだということだ。きっと彼は軍に味方するだろう。“あの方”がそれを見届け、起爆スイッチを押すんだ」
「アルベルトが? ……そんなことって……」
どうやって“あの方”がアルベルトの裏切りを見極めるというのか。それこそ、内部に侵入でもしていない限り、わからないのではないだろうか。
他人の行動がわかる場所が、軍内にはある。監視カメラの映像を確認することができる、監視室だ。そこに“あの方”がいるかもしれない。しかし、カスケードのことも気になる。
「君はカスケードのところに行くべきだ。彼には、君を殺すように命令が下っている。“あの方”よりもまず、そっちを気にした方がいいんじゃないか?」
「カスケードが、僕を……」
それなら、きっと待っている。いつまでも待たせていてはいけない。ニアは無線のスイッチを入れ、受話部に声をかけた。
「カスケード、そこにいる?」
間もなくして、返事があった。
『ニアか? 今、どこだ?』
「地下倉庫前。オレガノさんと一緒にいるよ。……君が僕を殺さなきゃいけないって、本当?」
少しの間、沈黙があった。けれども、声はそれを肯定した。
『本当だ。“あの方”からそう言われている』
「わかった。……すぐにそっちに行くよ。決着をつけよう」
『ああ、待ってる』
これでいい。互いに傷つけあうことになるかもしれないけれど、これで会える。もう一度話ができる。
今度こそ思い出させてやろう。自分と彼との、全ての記憶を。

アクトはクローンを切り裂きながら、将官事務室に辿り着いた。ここにアクトによく似た人物がいるということを、隠れていた下級兵から聞いたのだ。メリテェアが、ここで一人で戦っているということも。
ドアは開いていた。隅には将官たちがかたまって、縮こまっている。侵入してくるクローン全ての相手をしていたらしいメリテェアは、ふらつきながらも立っていた。
「アクトさん! ここまで辿り着けましたのね」
「メリー、大丈夫? ここで、ずっと一人で? ……誰も、助けなかったのか」
アクトは将官たちを睨む。だが、メリテェアは首を横に振った。
「今気にすべきは、そちらではありません。あなたを待っていた相手がいますわ」
「そうそう。すごく待ったよ。その准将さん、よくここまで頑張ったね」
全てをクローンたちに任せていたのだろうか。まったく無傷のアクト・カッサスが、壁に寄り掛かって、ナイフを弄んでいた。
「……決着つけようか、アクト・カッサス」
「そうだね。ちょっとは僕も動いておかないと。……じゃあ、始めよっか」
二人のアクトが対峙する。その間にも、まだラインザーのクローンたちは部屋に入ってこようとしていた。メリテェアは疲れ切っている。これ以上、一人で戦わせるわけにはいかない。そう思ったアクトが、そちらを気にしかけたときだった。
「アクトさんは自分の相手に集中していてください。こっちは俺たちが片付けます」
大きな助けが、やってきた。
「グレン! カイに、ラディアも!」
「私も追いつきましたよ」
「リア、ここまで無事だったか!」
最強の四人組が揃えば、この場は大丈夫だ。アクトは安心して、目の前の相手だけに集中できる。
「さあ、どっちのアクトが生き残るかな。もちろん、僕のつもりだけれど」
アクト・カッサスが、銀色に光るナイフを構えた。アクト・ロストートは、彼に向き直り、その姿を見据えた。

ディアは大総統室に到着した。目撃情報から、ボトマージュがここにいることを突き止めたのだ。他の部屋よりも重厚な扉を開けると、そこには三人の人間が倒れていて、二人がディアを待っていた。
「遅かったな、ヴィオラセント。貴様の兄と姉は、すでに閣下が殺してしまったぞ。もっとも、その閣下ももう動けないようだがね。ちょうどとどめをさしてやろうと思っていたところだ」
「ボトマージュ、てめぇ……」
ディアの兄と姉のクローンは、すでにこと切れていて、ぴくりとも動かなかった。大総統は呼吸こそしているが、大怪我をしてぼろぼろだった。せめて大総統補佐官がいれば、ここまでの傷は免れたかもしれない。だが、彼は大総統命令で、下級兵たちの身の安全を確保するために動いていた。
「さて、残るはとっておき。貴様が南方で殺した、アスカ・クレイダーのクローンだ。貴様が殺さなければ、数年後にはこのように成長しているはずだった」
唯一立っているクローンは、南方殲滅事件の際に、ディアが誤って殺してしまった少女のものだった。九歳ほどの子供だったはずだが、ここにいる彼女はそれよりももっと成長している。何もなければそうなるはずだった、十五、六歳ほどの姿だ。
「死肉から生前の姿を再生し、さらに成長させるという奇跡を拝ませてやったのだ。感激しながら殺されろ」
「誰が殺されるか。……悪ぃな、アスカ。お前を二度も死なせちまうことになる」
ディアはライフルを構える。他のクローンと同じなら、彼女もまた、確実に殺さなければならないのだろう。どんなに、苦しくて、つらくても。

破裂音が聞こえた情報処理室前で、ブラックは倒れているツキと、銃を手にしているアルベルトを見つけた。ツキのわき腹からは赤い液体が流れている。これがどんな状況であるか、ブラックは即座に判断した。
「アルベルト、お前……ツキを撃ったのか」
「ああ、ブラック。来ちゃったね。……君は絶対に来てくれると思ってたよ」
再装填しながら、アルベルトは悲しげな笑みを浮かべる。
「質問に答えろ! なんで、お前が」
「ブラック、黙って」
破裂音とともに、銃弾がブラックの頬を掠めていった。その弾丸は彼の背後でうごめいていた、ラインザーのクローンの頭に命中した。
「斬りかかっておいでよ。じゃないと、何も始まらない。いつまでもツキさんをこのままにしておくわけにもいかないでしょう?」
「……そうだな。何があったか全部聞かせろ、アルベルト!」
ブラックは刀を構え、アルベルトに走り寄る。アルベルトはそれをかわし、ブラックの手を自分のそれで押さえ、ぴたりと止めた。そして、耳元で囁いた。
「ツキさんにはしばらく倒れてもらっている。クレインさんとクライス君が、今、爆発物の処理をしてくれている。それが完了するまで時間を稼ぐから、君は本気で僕に斬りかかってきて」
クライスは無事にクレインのもとに辿り着いていた。アルベルトとツキが戦っているのを見てぎょっとしたものの、「クレインを頼む」というツキの言葉に従い、すぐに情報処理室に入ってくれた。ブラックが来たのは、ちょうどその直後だった。それを察して、アルベルトはツキに視線で了解を得て、死なない程度にわき腹を撃ったのだ。血は、実際はラインザーのクローンのものだ。ツキもさっきまでクローンと戦っていたのだから、もともとここは血にまみれていたのだ。
「そういうことなら仕方ねーな。……全力で行くから、ちゃんと受け止めろ」
「君もちゃんとかわしてね。……いこうか」
たとえ偽りのものでも、全身全霊をかけた兄弟同士の戦いだ。そうでなければ、時間稼ぎにならない。
タイムリミットはあとどのくらいだろう。クレインは、クライスは、それまでに爆発物を解除することができるだろうか。

ニアは外部情報取扱係室の前で、彼に再会した。ダークブルーの髪と海色の瞳は、変わっていない。彼はありのままの姿で、そこにいた。
だからニアも眼鏡を外した。全身血まみれで、酷い有様ではあったが、せめて自分の目で彼と向き合いたかった。
「カスケード。僕、たくさんのクローンを斬ってしまったよ。……君の言う通り、僕らの罪は重いかもしれないね。でも、僕はそれでも人を助けたい。……僕が何よりも助けたいのは、君なんだ」
彼が窓から飛び出していった夜に言えなかったことを、やっと言えた。こんな姿だけれど、彼は、この言葉を受け入れてくれるだろうか。
カスケードはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「俺は、ニアに会ったら何か変わるんじゃないかって、何か思い出すんじゃないかって思った。だから、お前を呼んだんだ。……でも、だめだな。そんなにすぐには思い出せない。無線の使い方も、司令部の構造もわかるのに、お前のことは思い出せないや」
感覚はやはり、残っている。あとは記憶だけなのだ。彼が生きたのに忘れてしまった、十八年分の記憶だけだ。
「……そう。じゃあ、闘ってみる? 君と僕とは、よく一緒に訓練をしたんだよ。闘ったら、思い出すかも」
ニアが大剣の柄を握りなおすと、カスケードは頷き、銃を構えた。
カスケードは憶えていない、けれどもニアの記憶にははっきりと残っている、戦闘訓練の思い出。それがこの戦いで思い起こされれば、ニアの勝ち。カスケードが何も思い出せず、ニアを殺してしまえば、それまで。
これがラストチャンス。もう、「次」なんかない。それを二人とも、解っていた。



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posted by 外都ユウマ at 21:25| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年02月23日

Reverse508 第二十三話

かつてアーシャルコーポレーション管理下にあった三施設は、どれもキメラやクローンを保有するのに十分な機能を持っている。加えて出入り口を首都の至る所に構えており、いずれも先日のキメラ襲撃に都合の悪いことはない。
全てを一斉に調査するには、人員を一旦、最低でも三分割する必要があった。
「情報処理部隊も必要だから、実質四分割だね。クリスたちが将官を説得してくれたおかげで、他班の協力も得られることになった。人員は十分に確保できるよ」
ホワイトボードに人員配置を書きながら、ニアは今回の件で動いてくれる全ての人に感謝していた。仲間たちがここまで繋いでくれたものを、有効に利用しなければならない。
ジューンリー班の人員は、過去の実績などを考慮して組まれた。
「第一班、アーシャルコーポレーション地下施設。ここは主に核兵器開発をしていた場所のようだね。ここのリーダーはクリス。メンバーはクライス、グレン、ラディアちゃん」
この班にはアーシャルコーポレーション事件の際の捜査で取りこぼしがないかどうかも同時に調べてもらうことになるため、情報関係に強いことが求められる。いわば頭脳派チームだ。
「第二班、南区画住宅街地下施設。過去にレスター・マクラミー氏が頻繁に出入りしていたという場所だ。クローンの開発には都合がよさそうだね。ここのリーダーはアクトに任せたい。ディア、リアちゃん、ブラック、アーレイドを配置する」
クローンおよびその関係者との接触経験のある者を中心に組んだ班だ。また、旧マクラミー邸付近ということもあり、リアに案内を頼んだ。
「第三班、東区画地下。生物兵器製造の実績があるらしい。ここは僕が担当しよう。カイ、シェリアちゃん、ハルに援護を頼みたい」
キメラ開発の可能性が最も高い場所だ。ここをクリスに頼むことも考えたが、裏組織の拠点として利用されるには一番都合がよさそうだということで、ニア自らが指揮を執ることにした。ジューンリー班メンバーとしては階級が低いものを配置しているが、一方で他班の佐官などの協力を多く得ている。
「そして情報部隊。連絡の中継と総集を行なうとともに、裏組織の実権を握っていると思われる“あの方”について調べてもらう。メリテェアさんにはここについてもらうことになっている。他のメンバーはクレインちゃん、ツキ、シィレーネちゃん」
ある意味で、最も重要な役割を担うチームだ。将官として全員をまとめるメリテェアを中心として、優秀な事務方を置いている。資料調査があるため、この会議の後、即始動する。
以上四陣。今回の突入作戦は、我らジューンリー班の動きにかかっている。いくら大総統命令で全軍の協力を得られたとはいえ、ニアへの疑いが完全に晴れたわけではない。ここで「軍人として適切な働き」をしなければ、信用は得られない。
現にこの作戦を進める上での名義上の総指揮は、メリテェアということになっている。この状況に至ってもまだ、少将以上は自らが動くことに難色を示していた。大総統は別だが。
「第三班の指揮は、表面上はエスト准将が執るということになっている。でも実働は僕に任せてくれるって。……あの人も、本当に分からない人だなあ」
数少ない真の協力者を頼り、疑いつつもついてきてくれる人々に頼み。エルニーニャ王国軍中央司令部による大作戦は、明日午前九時の決行となった。その時間に、同時に現場へ突入する。
これで全てを終わらせる。追い求めていたものを手に入れ、奪われたものを取り戻す。
「軍が何のためにあるのか。……わからせてあげるよ、カスケード」
破壊や殺戮のためではない。大切なものを助け、守るために存在するのだと、証明してやる。


“あの方”の命令によって、軍突入の決行は午前九時に決まった。きっと明日は、長い一日になる。カスケードはまだ震えの止まらない手を見つめ、自問自答を繰り返していた。
本当に、自分に人が撃てるのか。――軍は悪だが、軍人は人間だという意識を、カスケードはすでに持ってしまった。ニアやアルベルトと接触することで、それを実感してしまった。
単身で勝手に薬物貯蔵庫へ乗り込んだ時とは、まるで考えが変わっていた。あのときは、軍人など野犬と同じようなものだと思っていた。自分たちの行動を邪魔する、妙な生き物だと。
だが、そうではない。彼らもまたカスケードと同じようにものを考え、信念に基づいて行動している。それが正しいかそうでないかは別として。
「……怖いな」
抱いている感情を、声に出してみる。以前軍と対峙した時は、散歩を楽しむような気分だった。自分と渡り合える人間に出会ったときは、気持ちが高揚していた。だが、今はそれがまったく感じられない。ただただ陰鬱だった。
「ボトマージュはきっと、人を殺す。オレガノさんや、アクトだって。“あの方”のいうことなんだから、きくはずだ。……アルだって、自分の命がかかっているんだから……」
記憶を継承しているクローンが用意されていると“あの方”は言っていた。だがクローンを作っているはずのオレガノからは、そんなことはひとことも聞いていない。“あの方”が用意しているとしても、来たばかりのアルベルトの記憶継承クローンが、はたして作れるものなのだろうか。作られていないのなら、アルベルトは、ここで「死んでしまう」。“あの方”の世界には残れない。
カスケードだって、他の人員だってそうだ。生きられるのはその記憶を継承してはいるが、クローンの方だ。本人ではない。
結局、ニアの言う通りなのだろうか。全て“あの方”の都合のいいように動いているだけなのだろうか。
「俺の……俺の思う正義は……」
これで正しいのかが、わからない。納得のいかないことは山ほどある。ということは、今の状況はカスケードにとって正しくないことなのではないか。……でも、それに縋るしか生きる道がないのなら、そうしなければならないのか。
「カスケードさん、起きていますか?」
ドアの向こうから、自分を呼ぶ声がする。駆け寄って開けると、アルベルトが立っていた。なぜだろうか、今は彼が来てくれたというだけで、泣きそうになった。堪えていたものが一気に溢れてくる。
「アル、俺、どうしよう。ニアを殺さなくちゃならない。そんなの最初からわかってたはずなのに、いつかはやらなくちゃならないって知ってたのに、今になって怖いんだ。俺はあいつを死なせちゃいけない気がする。俺は、あいつを死なせたくなかった。……憶えてないけど、そうだったような気がするんだ」
自分より十センチ以上も身長の低い彼の肩に、額をつけるように寄りかかる。アルベルトの表情は見えないが、少し間をおいてから、頭をなでるように触れてくれた。
「気がする、じゃないですよ。あなたはたしかにそうだった。あなたがそう思ったから、今、ニアさんは生きているんです。そして、あなたを取り戻そうとしているんですよ」
「でも、そんなの無理だ。俺が、お前が、軍を潰さないとみんな消える。拒否なんかできない。逃げることなんかできないんだ。戻ることなんかできないんだ」
「そんなことないですよ」
耳元で、しっかりとした声が言う。少しも恐れを感じない。――さっきから、ずっとそうだ。“あの方”の絶望的な命令を聞いてもなお、アルベルトは希望を捨てていなかった。その手で、かつての仲間を始末しなければ、全てが終わってしまうというのに。
「突破口はあります。軍ではきっと、僕らの仲間が動いてくれています。軍に入りこんでいた人間が捕まったということは、“あの方”はもう軍の情報を手に入れることができません。それでもなお軍の動きを掴みたいのなら、僕たち自身が突入するしかない。これはそういう作戦です。その上で僕が裏切ったとして、そのことを“あの方”が確かめるには、現場を見ていなくてはなりません。これは“あの方”の正体を知るチャンスです」
「正体って、……悠長なことしてたら、司令部ごと爆発させられるんだぞ」
「させません。させたとして、犠牲は出しません。……僕は、自分が関わった事件では、それ以上の犠牲を出さないことで有名だったんですよ」
顔をあげて見たその表情は、笑顔だった。こんなときに、どうしてアルベルトは笑えるんだ。カスケードがその問いを口にする前に、答えはあった。
「大丈夫です。僕は、僕らの仲間を信じています」
さっきから、アルベルトは「僕らの仲間」と言う。「僕の」ではない。カスケードに言い聞かせるようにして、彼は「僕ら」と言っている。
「アル、お前、まだ俺がニアたちに受け入れてもらえると思ってるのか?」
「当然です。ニアさんはそういう人です。……僕は似ているので、わかるんですよ」
その分苦手な部分も多いですけれど、と言いながら。アルベルトはカスケードにもう一度微笑んで、そっと離れた。
「明日、僕はできる限り時間を稼ぎます。ですが、カスケードさんの行動は自由です。どうしたいのか、どうするべきかは、自分で考えてください」
そうは言いながらも、アルベルトはカスケードがある一択を選ぶことを望んでいるようだった。いや、それを選ぶだろうという確信があるのだ。だからこうして、「時間を稼ぐ」と宣言した。
部屋へ戻っていくアルベルトを見送りながら、カスケードは選ぶべき答えを思っていた。おそらくはそれで間違いないのだが、はたしてそれを選んでしまってもいいのだろうか。まだ、心には迷いがあった。


情報部隊は“あの方”と呼ばれる裏組織中枢にいる人物の正体を見極めるべく、何年分もの資料を遡って調べていた。
メリテェアがレスター・マクラミーから聞いた情報によると、十年前にアーシャルコーポレーションに記憶継承クローンを売り込んできたのは、当時五十から六十代の女性。裏では天才科学者として有名だったというが、名前など素性は一切不明。だが、それだけの知識を身につけられる環境にいたことが考えられる。さらに反軍組織を抱えていることから、おそらくは過去に軍と何らかの確執があるはずだ。
「それなりの教育を受けられる状況にあり、過去に軍とトラブルがあったと思われる、現在はええと……六十代か七十代になっているはずの女性ね。裏で有名ってことは、他の事件にも関わっている可能性がある。ディアさんが持ってきた資料によると、記憶継承クローンの第一号が作られたのは十四年前、ノーザリアでのことだから……」
データベースから、条件を絞り込んで検索を進めていく。国内の事件資料だけでは足りない。ノーザリアの協力も必要だ。クレインは国内資料を調べつつ、メリテェアに尋ねた。
「十四年前に、ノーザリアでクローン研究がされていたのよね。何か関係がありそうな事件はある?」
「直接関係があるのは、その資料にもある通りの、ディアさんのご家族が亡くなられた件ですわ。ノーザリア軍のスターリンズ大将に、詳細を教えていただきましょう。何かあれば協力してくださるということでしたので、すぐに動いてくださるはずですわ」
クレインが検索し、メリテェアが収集した多くの資料を分類するのは、ツキとシィレーネの仕事だ。関係がありそうなものを年代順、事件別に並べ、精査していく。約五十年分の資料を全て確認するのは、骨の折れる作業だった。他班の協力がなければできなかっただろう。
「裏の天才科学者に関する噂は、二十年ほど前からあるようだな。そこからアーシャルコーポレーション関連を取り除くと……これでもまだ難しいな」
「その天才科学者ってうのになるまでに、相応の知識を蓄えたり、裏での活動をしているわけですよね。だったら、もっと前のことも調べなくちゃ……」
次々に手渡される資料にざっと目を通し、一つ一つを分けていく。些細なことでもいい、何かヒントがほしかった。
その過程で、シィレーネはふと気になる名前を見つけた。五十三年前――随分と古い資料で、おそらくは過去に軍で捕まえた犯罪者と事件担当者を総検索したときに出てきたものだった。膨大な数の名前の中に、それはあった。
「あの、カスケード・インフェリアって、ニアさんの親友のカスケードさんだけじゃないんですね」
「え? ……ああ、たぶんそれ、先々代の大総統じゃないか。まだ大佐だったころに扱った、貴族家の遺産争いとして処理された殺人事件みたいだな」
先々代の大総統は、インフェリア家から出ていた。ニアの親友であるカスケードの名は、祖父から貰ったものなのかもしれない。
「捕まったのは当時十七歳の女性、マカ・ブラディアナ。今生きていれば七十代に……」
貴族家の人間なら、それ相応の教育を受けているはずだ。その後捕まってはいるが、刑務所からは五年ほどで出所している。知識を蓄えるには十分な若さだ。軍に、特にインフェリア家の人間と関わりを持っているという部分も気になる。なにより、年齢と性別が合致している。
「シィレーネちゃん。もしかしたらこれ、大手柄かもしれないぞ」
ツキの言葉に、シィレーネだけでなく、クレインとメリテェアも反応した。
「先々代の大総統、カスケード・インフェリアの扱った事件ということになると、今になってインフェリア家の人間を使う理由にもなりそうね。反軍の目的だけではなく、インフェリア家への復讐も成し遂げられる」
「可能性としてはありえないことではありませんわね。……あら、ノーザリア大将からもう返事が来ましたわ。なんてお早い……」
メールに添付された資料を見て、メリテェアは言葉を失った。まるで、全てが何者かによって導かれているような気さえした。
「神様はどうやら、わたくしたちの味方のようですわ。シィレーネさん、よくさっきの事件を見つけてくださいました。ノーザリアで当時研究を進めていた人物の名前が、向こうでは明らかになっていたそうです。彼女は現在行方不明。そもそも、どこから来たのかということすらわかっていない、謎の科学者。クレイン、すぐに彼女の名前で検索を」
「マカ・ブラディアナね。了解」
国民データから、合致する者を探す。はたして、その人物についての項目はあった。経歴のところどころが「詳細不明」となっている、見るからに怪しい人物が検出された。しかし。
「……だめだわ、メリテェア。彼女が今回の首謀者であるはずはない。彼女、六年前には死亡が確認されているのよ。軍で事故死として扱っているわ」
見つけたデータ上では、マカ・ブラディアナはすでに死んでいる。軍で身元を確認したのだから、間違いはない。ラインザーのように川に飛び込み、死体が上がらなかったというわけでもない。完全に彼女はこの世のものではなかった。
「おいおい……じゃあ、今回の件には関係ないっていうのかよ」
「ここまで来て無関係というわけにはいきません。彼女の遺志を継いだ者が、今回の首謀者である確率は高いと思うわれます。そこで、ディアさんの持ってきてくれた資料ですわ。……その記憶を継承したクローンさえ作っておけば、彼女は生き続けることができます。マカ・ブラディアナはまだ生きているかもしれません!」
死んだはずの者が生きて現れる。このケースはもう、何度目だろう。ラインザー・ヘルゲイン。リアの父レスター・マクラミー。アーシャルコーポレーション社員アーサー・ロジット。ディアの兄と姉。いずれもケースは違うが、死者がよみがえるという奇妙なできごとは、起こり得ないことではない。自らの死をごまかすか、裏の技術を使えば、可能なことなのだ。
「いずれにせよ、まだ“最有力候補”の段階ですわ。他にも該当しそうな人物を探ってみましょう。マカ・ブラディアナのデータは出力しておいてくださいませ」
メリテェアの指示に、クレインは頷いた。逮捕当時の顔写真とともにプリントアウトされたデータは、古いものだが、妙な存在感を持っていた。

その夜は、眠れたものではなかった。ついにカスケードと戦うことになるかもしれない。そう思うだけで、ニアは恐ろしくてたまらなかった。
情報部隊の進行状況は確認済みだ。“あの方”最有力候補であるマカ・ブラディアナという女性の存在についても把握している。彼女が“あの方”だったとして、軍の動向を把握できるとすれば、他にもスパイを送り込んでいるか、あるいは直接こちらへ乗り込んでくるかしかない。なんとか先手を取れればいいのだが、スパイが捕まったという情報を仕入れているのであれば、彼らは今夜にでも動き出す可能性があった。
もしものためにと思うと、眠っていられない。けれども明日の作戦が先手を取れるものであるなら、今のうちに休んでおいたほうが良い。
夜勤組の見回りは、態勢を改めた。何かあったらすぐに報せがあるはずだ。
「……うん、今日は眠ろう。眠らなくちゃ。カスケードと会わなくちゃいけないんだから」
ハーブティーで神経を落ち着かせ、明日の作戦を成功させることだけを考える。どこに相手がいても対応できるように、アーシャルコーポレーションの施設概要は頭に叩き込んだ。レスター・マクラミーの減刑のために動いたことが、今になって大いに役立っていた。
「大丈夫。明日はきっとうまくいくから。待ってて、アルベルト、カスケード」
語りかける相手は彼らではない。ニア自身だ。そう言い聞かせなければ、不安で仕方がない。
窓を見る。カスケードが飛び降りていったその窓からは、月明かりが射し込んでいた。

翌朝、各隊が配置についた。相手に気取られることのないよう、慎重に。
号令がかかるそのときを、静かに待つ。
一方で、軍を訪れた者もあった。その姿から、門番役は彼を「客」だとは思わなかった。
「あれ? ロストート中佐、南区画は大丈夫なんですか? もうじき作戦ですよね」
「……ああ、ちょっと忘れ物。大丈夫、すぐに片付くから」
時計の針は、午前九時を指し示そうとしていた。門番は時計を確認し、ハッとする。いくら「忘れ物」があったからといって、彼がこの時間に、ここに戻ってくるはずはない。一隊の司令官に、そんな暇はないはずだ。
だが、門番が実働第二班に確認するより早く、その時はやってきた。
全班の無線に、そして司令部に、異なる声が重なり、響く。

「突入!」

軍の実働隊三班が旧アーシャルコーポレーション研究施設に乗り込むのと、裏組織の人員と彼らの率いるクローン兵たちが司令部に侵入したのは、同時だった。

クリス率いる第一班は、アーシャルコーポレーション地下に潜入した。そこに待っていたのは、おおよそ研究員とは程遠い者たちだった。裏社会の人間だとしても、どう見ても下の下だ。
「ここははずれですね。ただのごろつきどもの溜まり場のようです」
グレンが銃を構える。裏の人間に変わりはないのなら、彼らを一掃するまでだ。しかし、それをクリスが止めた。
「まがりなりにもアーシャルコーポレーションのもとにあった施設ですよ。こんなところに、勝手に破落戸が湧くとは思えません。こちらの動向を予測され、集められたと考えるのが妥当でしょう」
「なーるほど。突入するなら人員を割くだろうと見越してたんだな。この時間稼ぎ要員を集めるために、『なんでも屋』みたいなことをしてたわけだ」
クライスが槍を構え、クリスに目配せする。その意味をすぐに察知し、クリスは無線を手に取りながら、班員に命令を下した。
「彼らは雑魚です。さっさと片付けて、本拠地に行きますよ!」
全体が敵に向かい、敵はこちらへ向かってくる。その中でクリスは、無線を司令部へ繋ごうとした。だが。
「こちら第一班エイゼル。応答してください。……どなたか、応答を!」
情報部隊が機能していない。まさか、真の敵がいるのは拠点ではなく――!?
「ラディアさん、その辺一帯を急いで倒してください! クライス君、グレン君。司令部の様子がおかしいです。ここの掃除が終わったら、戻りますよ! 総員、全速力で相手を沈めなさい!」
クリスも無線を腰のホルダーに戻し、棍を手にして闘いに加わる。ごろつきどもを早く一掃し、司令部へ向かわなければ。あの場には、闘えるような人間はほとんどいない。将官たちは前線を退いている者ばかり、若年の下級兵たちにはできることに限りがある。情報部隊で戦えるものはごくわずかだ。
棍を振るい、叩き、突く。その間にも、他の班のことを考える。おそらくはここと同じ状況だろう。こうして足止めを食らっている間に、司令部は襲撃されている恐れがある。この場合にすべき判断は、何か。
グレンは襲いかかってくる敵を次々に撃っていく。だが、混戦状態では味方に弾が流れてしまう恐れがあるため、うまく戦えない。どうしても受け身にならざるを得なかった。こんなときに有効な策は知っている。慣れないことではあるが、仕方がない。
「ラディア、短剣のスペアはあるか?!」
さほど離れていない場所で、まるで踊るように短剣を操るラディアに向かって叫ぶ。華麗にくるりと廻りながら、ラディアはスカートをたくし上げ、腿に固定していたスペアの短剣をぬきとった。
「グレンさん、うまく受け取ってくださいね!」
小さなブーケでも投げるかのように、短剣が放られる。くるくると回りながら放物線を描いたそれは、グレンの手に収まった。
「ありがとう。これで俺も闘える!」
グレンは銃をホルスターに収めると、短剣を握りしめて敵に向かった。
ラディアの舞は止まることなく、むしろ勢いを増して続けられていた。三十人斬りの噂が真実であり、現在はそれ以上の実力を持っていることを、軍にも敵にも知らしめる。回っては跳び、跳んでは斬って、赤の散る美しいダンスはまるで赤い花弁を纏う踊り子のよう。クリスに言われた通り、自分の周りに集まっていた雑魚共は華麗に素早く片付けた。
クライスは普段は諜報を専門にしているが、その場で戦いになることも珍しくはないので、武道の心得はちゃんとある。あまり表に立たない彼の実力に、他班の軍人たちは驚きを隠せなかった。槍さばきは一流、その上相手の特徴を掴むのがうまい。必要ならば、即サポートに入ってくれる。少佐という地位についているだけの力を、彼は当然のごとく備えていた。
順調に相手の数が減っていった頃だった。敵の一人が、銃を構えて叫んだ。
「軍人さんよ、ここがどこだか忘れたわけじゃねえよな?! アーシャルコーポレーションの施設だぜ。こっちには最新式の兵器があるんだ!」
そう言って撃った銃は、弾丸を放つものではなかった。銃口から光が飛び出したかと思うと、その正面にあった柱の一部が溶けた。アーシャルコーポレーションの負の遺産が、敵に渡っていたのだ。
「あれは……高熱線を発射し、ものを溶かすことができる装置のようですね。それを兵器に利用したということですか」
敵を倒しきり、しかしまだ棍を構えたまま、クリスは光線銃を冷静に見る。あれに撃ち抜かれれば、ひとたまりもないだろう。人間ならば皮膚が溶け、再生することはまず難しくなる。軍が下手に動けないものと思った光線銃の持ち主は、勝ち誇ったように笑った。
「ははは、見たか! ここにはまだ、こういった兵器が残っている! お前ら軍の調査が甘かったな!」
だが、あんなものを持ちだされては動けなくなってしまうのは、彼以外の敵も同じだ。彼が狙いを外せば、自分は死ぬ。その恐怖が、敵側にも満ちていた。
「愚かとしか言いようがありませんね。……グレン君、やっとあなたの本領が発揮できますよ」
クリスがふっと微笑んだ。相手はただのごろつきだ。銃を握った経験も少ないだろう。それに引き換えこちらには、百発百中の名手がいる。
グレンはラディアから借りた短剣を傍にいた軍人に預けると、ホルスターから銃を抜いた。
「おいおい……この俺を撃とうってのか。この光線銃の方がはるかに威力は高いんだぞ? お前なんか」
「黙れ」
安全装置を外し、銃口を向け、破裂音とともに弾丸を放つまではまさに刹那。狙いを完全に定めた弾は、まっすぐに男の手へと吸い込まれていった。
手を負傷した男に、もうその光線銃を持つことはできない。それをラディアが素早く回収して、クライスに投げて渡した。受け取った方はすぐさま男の付近から、その銃と同じタイプのものが大量に入った箱を見つけた。
「大方、あの中将が隠していたんだろうけど。でも、失敗作も多いみたいだな。お前が持ってたこれだって、たった一発で銃口を溶かして塞いで、駄目にしてしまっている。あのまま二発目撃ってたら、暴発して死んでたかもな」
クライスが銃を確認しながら言った。箱の中の銃は、どれも銃口が溶けかけていた。グレンは溜息を吐きながら銃を下ろした。
「無駄口を叩かず、すぐに撃っていたら、命が危なかったのか。良かったな、手の怪我で済んで。それくらいなら、ラディアが治せる」
「はい、もちろん。……ですが、私が力を使うまでもありません。それより早く残りの方をやっつけて、司令部に向かわなくちゃならないんですよね?」
「その通りです。急ぎますよ、みなさん」
クリスの一言で、最後の仕上げが始まった。

第二班、南区画住宅街地下。ここにも雑魚が集っていた。ボトマージュやアクト・カッサス、イリーなどの姿は見えない。アクトは舌打ちし、「はずれか」と呟いた。
「ディア、ブラック、アーレイド。おれが司令部に連絡している間にやっつけちゃって。リアはおれの周りをお願い。全員、出撃!」
アクトの号令で、第二班の総員が敵と対峙する。それを確認してから無線を中央司令部へ繋ごうとする。だが、いくら声をかけても応答はなかった
「こちら第二班。誰かいないの? ツキ? クレイン?」
中継の要がまったく機能していないということは、司令部で何かあったとしか考えられない。再びの舌打ちの後、アクトは作戦を変更した。そうするしかない。
「リア。ここの奴らを片付けたら司令部に戻る。何かあったらしい」
「何かって……クレインちゃんたち、大丈夫かな」
「大丈夫だと信じるしかない。とにかく今は、ここを収める」
アクトは軍支給のナイフを構えると、敵の中に飛び出していった。リアもそれを追う。斬りつけ、鞭で足を払い、敵の動きを止めていく。
ここの人間はやけに数が少ないようで、すでにほとんどがディアに殴り倒されるか、あるいはブラックの峰打ちをくらうか、アーレイドによって床や壁に縫い留められていた。他班の者も活躍してくれ、今すぐにでも司令部へ向かえそうだった。
「アクト、片付いたぜ。ここははずれなんだろ、他の場所に移るぞ」
「うん。司令部から応答がないから、すぐに戻ろうかと思ってたところ」
「応答がないって、どういう……」
そんなやりとりをしている間のことだった。敵の中でまだ動ける者が這っていき、壁にあったスイッチを押した。軍の一同がそれに気づいたのは、施設奥にあったシャッターが開く音が響いてからだった。
「なんだよ、これ……?!」
ブラックが心底嫌な顔をする。いや、ブラックではなくとも、誰だってこの状況には戦慄する。シャッターの奥に並んだ、虚ろな目をした人々。それらはみんな同じ顔をしていた。手にはナイフを握らされている。それが彼の、生前の武器だったからだ。
ぞろりと並んでいたのは、ラインザー・ヘルゲインのクローンたちだった。この場所がクローン保管施設であることは、間違いなかったようだ。この特別な兵隊たちが控えていたからこそ、ここに配置されていた人間は少なかったのだ。
「ブラック、対処法は?」
アクトが唯一これらと戦ったことのある彼に問う。眉をしかめたまま、彼は答えた。
「心臓を止める、首を刎ねる。確実に殺さねーと、こいつらは動き続ける。胸糞悪くなるだろうが、それしか方法はねーな」
「最悪だな、おい」
ディアとアクトにとっては南方殲滅事件を、ブラックにとっては父を殺した瞬間や先日の戦いを思い起こさせる、気分の悪い状況だ。リアの武器では殺せない、そもそも彼女は人殺しが嫌で鞭を使っている。アーレイドにとっても、他の人員にとっても、この状況は地獄としか言いようがなかった。
こちらへ歩いてくるラインザーたちを見て、リアがぽつりと言う。
「……あのシャッター、もう一度閉めることはできないんでしょうか。彼らをあそこに押し込めて、閉じ込めてしまうことはできませんか?」
「被害を最小限にするにはそれしかないか。まず仕組みを見ないとわからないね」
頷くアクトを確認した後、ディアがブラックに言った。
「おい、こいつら斬れるか?」
「散々斬ってきたんだ、今更斬れねーわけがねーよ。お前は撃てるのか?」
「それしかねぇなら撃つ。……アクト。リアとアーレイド連れて、シャッターの閉め方探してこい。あとは俺たちと他班の奴らで何とかするからよ」
「……わかった。任せた」
すでに死んだ人間のクローンで、記憶や感情を持たないとはいえ、人の形をしたものを殺していくのは酷くつらいことだろう。特に、ディアとブラックにとっては。他の者だってそうだ。それをあえて引き受けようとする者に、アクトはそれを託した。リアとアーレイド、そして他にも数人を連れて、シャッターを閉めることに専念する。
だが、それにもかまわずラインザー型クローンたちはこちらに襲いかかってくる。アクトはそれをナイフで斬り払いながら、前へ進んだ。
ディアはライフルを構え、ラインザーたちの心臓や頭を撃ち抜いた。改造して威力を増したその弾丸は、人体を確実に破壊する。引き金を引くたびに、南方殲滅事件の惨状が脳裏によみがえる。しかしそれでもなお、ディアはその手を止めなかった。
ブラックもまた、刀を振う。今度は峰打ちなどではない。刃でラインザーの姿をしたものたちの首を落としていく。裏組織がよみがえらせた死者を、今度こそ葬ってやる。それしかできることがない。何度斬っても、この感触だけは慣れない。慣れたくない。
混戦する中、リアとアーレイドが壁のスイッチに辿り着いた。シャッターの開閉は、これで出来るようだ。ラインザーたちをこの奥に押し込め、もう一度このボタンを押せばいい。
「アクトさん、このボタンです! これでシャッターを……きゃあっ!」
報告しようと立ち止まったリアに、ラインザーの一人が手をかけた。一度本物に襲われかけたことのある彼女の脳裏に、当時のことがよみがえる。あのとき助けてくれた人は、今はここにはいない。必死になって鞭で叩き払うが、これではきりがなさそうだ。早く、彼らを押し込めなければ。
「リアさん、下がって。ボタンをいつでも押せるよう、準備をしていてください。オレがこいつらを倒します!」
アーレイドが前に出る。せめてこのラインザーたちを動けなくして、奥へ放り込むことができれば。いつもハルの重い大鎌を持ち上げて鍛えているアーレイドだ、人一人くらいは放ることができる。襲いくる一体を蹴り飛ばし、倒れたところをシャッターの内側へ投げ入れた。
「ディア、ブラック! シャッターの閉め方がわかった! そいつらをを押し戻せ!」
自分に襲いかかってくるものたちを奥へ誘導しながら、アクトは叫んだ。それが合図となって、徐々にラインザーたちは奥へ戻されていく。クローンではない人間たちを巻き込まないよう、慎重に、しかし、急いで。
「リアさん、今です! スイッチを押してください!」
「オーケー!」
アーレイドの指示に合わせ、リアはシャッター開閉ボタンを押した。巨大なシャッターがゆっくりと降りてくる。それが閉まりきるまで、ラインザーたちをシャッターの向こう側に留め置かなければならない。つまり、これが閉まるまではここから離れられない。
「早く閉まれ……早く……!」
そうでなければ、司令部が危ない。

第三班は東区画地下にいた。しかし突入したは良いものの、ここには誰もいなかった。不気味なほどの静寂に満ちた場に、先頭にいたニアは息を呑む。
「今は、人はいないみたいだね。……でも、たしかにいた形跡がある」
つい最近まで、というよりは、さっきまで使われていたようだ。たしかにここには、人間がいた。それも、複数の。わずかに残る靴跡から、そう判断できた。
「ニアさん、ここが敵の本拠地だったんじゃないでしょうか。……見てください、ここ、たぶん研究スペースだと思います。薬品や機材が、綺麗な状態で並んでますよ」
カイが指し示すものは、明らかに使用後に丁寧に片付けられている。引き出しには、用途不明の器具が、ピカピカに磨き上げられた状態でしまいこまれていた。ここを利用していた人間は、とても几帳面な性格だったのかもしれない。
「これ、研究メモでしょうか。色褪せていないところを見ると、最近のものですよね。……アタシには何のことだかさっぱりわかりませんけど」
壁に貼ってあった紙を、シェリアが眺めていた。ニアが駆け寄って確認すると、何かの品番のような記号と数字の羅列が書かれていた。その数字の書き方に、ニアは覚えがあった。
「……この字、アクトに届いた手紙の字によく似てる。オレガノ・カッサスの字だ。だとすれば、ここが裏組織の研究に使われていたことは間違いなさそうだけど……」
それにしても、もぬけのからとはどういうことだろう。軍が来ることを覚り、逃げられたか。それにしては、綺麗に整頓されている。ここにいた者の余裕が窺えるのだ。それが奇妙でならない。ニアが考え込んでいると、ハルの「わあ」という声が聞こえた。
「すごい色の液体が、たくさんの瓶に入ってます。それからこれ……コンタクトレンズ?」
最後の一言に、ニアは反応する。すぐにハルのところへ行き、そこにあるものを確認した。液体は何かの塗料、そしてコンタクトレンズは、目の色を変えるためのものらしい。そこには見覚えのある、黒や鳶色のものもあった。塗料は髪を染めるものだとすれば、これらはカスケードが変装に使っていたものである可能性が高い。
「間違いなく、ここはカスケードの言っていた『引っ越し先』……裏組織の本拠地だったんだろうね。カイたちはこの研究室らしきスペースをもう少し詳しく調べてみて。僕はもっと奥に行ってみる」
ニアはそうして、そこからのびる廊下へと歩みを進めた。薄暗い廊下を進んでいくと、ドアが両脇に並んでいる場所に辿り着いた。ドアノブを回してみるが、鍵がかかっているようで、びくともしない。けれども諦めずに一つ一つ確認していくと、一か所だけ扉が開いた。そっと開けてみるが、中には誰もいない。だが、乱れた布団が、たしかにここに住人がいたのだということを示していた。
この部屋にあるのは、ベッドと机、パイプいすだけ。非常にシンプルだ。しかしある一点に、ニアは目を留めた。それは、なぜか机の上にあった。
小さなスピーカーの横に、ぽつんと置いてある、銀のつるの眼鏡。手に取ってかけてみると、しっくりくる。間違いなくこれは、失くしたはずのニアの眼鏡だった。
「ここ、ビアンカちゃんの部屋? ……それにしては、さっきまで使われていたみたいだ。じゃあ、もしかして……」
この眼鏡を手に入れることのできる人間は、ビアンカのほかにもう一人いる。彼女と生活を共にしていたという、親友カスケードだ。ビアンカが回収し忘れていたものを、持っていたのかもしれない。
ベッドを確認すると、ダークブルーの毛髪が落ちていた。ここはカスケードの部屋で間違いないのだろう。
クロゼットには、黒い服が入っている。カスケードが来ていたものだ。軍服は見当たらないところを見ると、着ていったのだろう。――それを着て、どこへ行ったというのだろう。
嫌な予感がして、ニアは無線を司令部へ繋いだ。
「こちら第三班、ジューンリーです。……聞こえていますか? 応答願います」
返事がない。常にツキたちが待機しているはずなのに、まったく応じない。そんな事態があるだろうか。あるとすれば……
「誰もいない研究室。軍服を着ていなくなったカスケード。……そして、繋がらない無線」
答えはそう考えずとも導かれた。ニアたちがここに来たタイミングは、最悪だったのだ。敵はおそらくこちらとほぼ同時に動いた。そうとしか思えない。
ニアは走って研究スペースに戻り、全員を一旦召集しようとした。ところがそれより早く、カイがニアを呼びに来た。
「ニアさん、大変です! 発見したんですよ、クローン!」
「クローン?! どこに?」
こっちです、とカイが示した場所には、重そうな扉のついた部屋があった。先ほどハルがここをこじ開け、その中身を発見したという。一歩入ればひやりとした空気が身にまとわりついた。
両脇には、大きな強化ガラス製のカプセルが並んでいた。その中にはまだ不完全な形ではあるが、たしかに生き物がいた。おそらくは、人間だ。
「ここでクローンを……」
どのような仕組みで作られているのかはわからない。だが、たしかにここで人間の形をしたものが作られている。今も、それは進行中なのだ。この場所は、手放されたわけではなさそうだ。
「隣の部屋もハルが開けました。そっちは、もっと大きなものが入るカプセルがあります。たぶん、そこでキメラを作っていたのではないかと思います」
カイの案内で、隣の部屋にも足を運んだ。こちらには、空ではあるが、隣の部屋にあったものよりもはるかに大きなカプセルがあった。キメラや大型獣の大きさを考えると、これで作られていたのに違いなさそうだった。
「たしかにここに裏組織がいたんだ。でも、今は誰もいない。スパイを失い、情報を手に入れられなくなった彼らが行く場所といえば一つしかない!」
今すぐに司令部に戻らなければ。彼らは再び、今度こそ軍を潰すために、やってきているはずだ。ニアは全員に招集をかけた。
「きっとここが本拠地で間違いないと思う。でも、当の本人たちがここにいない上に、司令部と連絡が取れない。すぐに司令部に戻ろう! 彼らはきっと、そこにいる!」
急がなくては。今の司令部は、守りが薄い。大総統と将官たち、低年齢の低階級層、そして情報部隊が残っているが、まともに戦える者が少なすぎる。


午前九時、中央司令部は突然湧いて出た大勢によって襲撃された。
門番をしていた軍人は、その数にあっけなく倒れ、彼らの施設内への侵入を許してしまった。まったく同じ顔をしたそれらは、施設内にいる軍人たちに次々と斬りかかる。将官だろうが、若年兵だろうが、関係ない。そうしてあっという間に軍人たちを一か所に追い込み、取り囲んでしまった。
将官たちの抵抗も、多くは無駄に終わった。机の上に張り付いてばかりの人間が、体力を調整されたラインザー型クローンたちに敵うはずがなかった。将官用事務室は、いまやまるで人質を集めたようになっていた。
「貴様、ロストートか? それとも偽物か?」
追い詰められた将官の一人が、クローンたちを率いている青年に問う。金髪に、美しい顔。それは軍に在籍しているアクト・ロストートのように見える。だが、先日司令部には、彼に似た人物が一度入り込んでいる。将官たちも当然そのことは把握していた。
だが、クローンを率いる彼は、問うた人間を嘲笑った。
「そんなの答えても仕方ないでしょ? だって、もうすぐアクトは一人になるんだから。そしてその世界にお前たち軍人はいない。まったく無駄な質問をしないでほしいな」
銀色のナイフを手で弄びながら、「アクト」は将官たちを見ていた。なんて情けない。これがこの国のトップに近い人間たちだというのか。数ばかりのクローンに慄き、身動きもとれなくなるような者たちが、国を動かしているというのか。
「もっと骨のある将官っていないわけ? クローンくらい倒してみせてよ。まあ、クローンとはいえ元凶悪殺人犯だから、お前たちが敵うとは思えないけれど」
「貴様……っ!」
挑発され激昂した一人の将官が、「アクト」に向かってくる。だが、それをラインザーの一人が止めた。その腕を掴んで、持っていたナイフでざっくりと切り裂くと、室内に将官の叫び声が響いた。
「そのくらいで痛がってちゃだめだよね。これからどんどん切り刻まれるよ。そうだな、我慢したら、その分下級兵を助けてあげる。まだ軍の考えに洗脳されてない子たちなら、これから育て直すことができるからね。……でも我慢できなかったら、そうだなあ、お前たちの子供を探しだして、その子から殺そうかな!」
将官たちの命と、下級兵たちの命が、秤にのせられる。自分の身を守るか、若者を生かすか、迫られる。傷ついた将官の顔は、恐怖に引き攣っている。そこへ「アクト」は追い討ちをかけるように言葉を重ねた。
「そうそう、首は斬らないでおいてあげてるんだからね。すぐ死んじゃうのはつまらないから。腕の次は、手首かな。それから背中、足。最後に腹を掻っ捌いてできあがりだけど、そこまで我慢できるかな?」
ラインザーの「殺害の手順」を、彼は熟知している。“あの方”と父から、このクローンたちの扱いは学んでいる。父の作ったこの兵隊を使って、将官たちに恐怖を与えることが、彼の役目だ。その役割は、しっかり果たされていた。
下手に動けば、自分も下級兵も死ぬ。将官たちはそんな極限の状態に置かれている。この状況で動ける者など、誰一人いない。
彼の言う、「骨のある者」を除いては。
「みなさん、ここにいましたのね」
事務室のドアが、外側から開かれた。廊下にもクローンを配置しているはずだが、彼女はそれを見事に潜り抜けてきたらしい。そもそも、この事務室以外にも将官がいたことに、「アクト」は驚いた。彼女の左胸に光るものは、間違いなく准将を示すバッジだ。
「へえ。将官って、みんなここに逃げ込んでいるものだと思ってた。よくここまで切り抜けてきたね?」
「……やっぱりあなたは、わたくしたちの仲間のアクトさんではありませんのね。それがわかれば、手加減せずに済みますわ」
若き天才准将の手には、レイピアと鉄扇。それだけではない。腿にはそれぞれナイフと短剣を装備し、腰には銃を提げている。彼女はこれら全てを使いこなすことができた。だからこそ、彼女はここにいる。この立場にある。
「将官も、下級兵たちも、殺させません。このメリテェア・リルリアが、あなたのお相手をして差し上げますわ」
「あっそ。……まあ、もう一人のアクトはいないみたいだし。あいつが来るまでの遊び相手にはちょうどいいかも」
「アクト」は銀のナイフの切っ先を、メリテェアに向けた。ラインザーたちが一斉に、その先が指し示すものを見た。

目当ての人物がいないことに、ボトマージュは不満を抱えていた。せっかく特別なクローンを用意してきたのに、闘わせたい相手が不在だとは。軍を制圧するには都合がいいが、それだけでは気が収まらない。
それならばと、もう一つの目標に目を向けた。この国を治めている人間を殺し、自分が頂点に立てたなら、どんなに素晴らしいだろう。かつて自分を南方司令部長に任命した男に、自分こそが国家の頂点にあるべきだと知らしめてやろう。
ボトマージュは大総統室を目指した。彼もかつてはこの国の軍人だった。場所はよく覚えている。廊下の真ん中を、とっておきのクローンを引き連れて歩いた。
将官たちは事務室に集められたらしい。揃ってそこに逃げ込んだところを、アクト・カッサスに閉じ込められているはずだ。下級兵たちは各部屋で震えているのだろう、姿を見せようとしない。時折蛮勇な者が飛び出してくるが、ボトマージュの抱える圧倒的な力を持つクローンの前には無力だった。ボトマージュ自身は、ただ指揮をしながら歩くだけでいい。
「……ここだ」
大総統執務室の大きな扉の前に立つ。ここに、この国のトップがいるはずだ。扉を無遠慮に開くと、はたして彼は、そこにいた。
「この非常事態に、のんびり構えていていいのか? アレックス・ダリアウェイド!」
自らの机を背に立っている彼を嘲笑うように、ボトマージュは言った。だが、大総統ダリアウェイドは少しも動じることなく、静かに告げた。
「部下に言われてね。『閣下はこの部屋から動かないように』と。……私は部下を信じた」
「その結果がこのざまだ! すでに軍は私たちに制圧されている。貴様にも逃げ場はない。私のクローンが、貴様を始末してくれる」
「……そうか。君は相変わらず、自分より下だと認識した人間を扱うのがうまいね。ヤークワイア・ボトマージュ」
ダリアウェイドは深く息をすると、腰の左に提げていた剣を、鞘から抜き取った。大総統になって以来、この剣を抜くことはめったになかった。いつも部下たちが、この国を守る精鋭たちが、彼の指示に従って動いてくれていたからだ。
その彼らが動けないというならば、自らが戦うしかない。この手で、一度は一司令部を任せた男に、引導を渡すしかない。
剣を抜いた大総統を見て、ボトマージュはにやりと笑った。連れているクローンは三体。どれもオレガノによって強化されている。大総統にだって、勝算はないはずだ。
「君に対して、責任をとろう。彼らと闘えばいいんだな?」
「貴様には勝てないだろうがな、ダリアウェイド。これらはクローンだが、ディア・ヴィオラセントの兄と姉、そして南方で死んだ少女だ。それが貴様に斬れるのか?」
「……ほう、死者を使うか。死んでもなおこのようなことに利用されるとは、可哀想に」
ダリアウェイドの目に憐れみを見て、ボトマージュは愉快だった。これでは彼に、クローンを斬ることはできまい。いや、斬らせない。これはそのための策なのだ。
「さあ、いけ。アフェッカー、ラヴィッシア、アスカ!」
大総統にその甘さを知らしめ、自分こそが頂点に立ってやる。あわよくば、“あの方”でさえも配下にしてやりたい。この国を、この手で、乗っ取ってやる。

アルベルトは自分の役割を果たすべく、ジューンリー班の人間を探していた。どうやら軍でも裏組織の調査をすべく作戦に出たらしいが、全員が外に出ているということはないだろう。情報担当が、必ず残っているはずだ。
そしてその人員こそが、アルベルトの求める人間だった。
昨夜、カスケードと話した後に、部屋のスピーカーから“あの方”が告げた。「時間を稼ごうと考えても無駄だ」と。
アルベルトが裏切れば、“あの方”が司令部を爆破する。ここに侵入した組織の者やクローンもろとも、全てを破壊することになっている。だがそれは、“あの方”がアルベルトの裏切りを確認することで実行される。時間を可能な限り稼げば、回避できるかもしれないと思っていた。
しかし、“あの方”はそれを見越したうえで、司令部爆破の手筈を整えていた。――もし何もしなくても、時間が経過すれば自動的にそれが作動し、爆発する。つまり必要以上に時間が経てば、結果は同じなのだ。そのことを知っているのは、今のところアルベルトだけのようだった。
裏組織の人間は、アルベルトさえ自分の仕事をやり遂げれば、司令部の爆破は防げると思っている。自分が死ななくて済むのだと、そう思いこんでいる。だからアクト・カッサスは将官たちで遊んでいるし、ボトマージュは大総統執務室へ向かったのだ。おかげでアルベルトに監視の目はない。“あの方”が既に監視室にいて、状況把握をしようとしていなければ、だが。
それでもすぐには爆破されることはないだろう。“あの方”は、自分まで巻き添えにするようなことはしないはずだ。時間にも、行動にも、まだ余裕があるとみていいだろう。
ラインザーのクローンがうろつく不快な廊下を歩いて、情報処理室に近づこうとしたところで、求める姿を見つけることができた。情報部隊も、事務室や情報処理室に籠っているわけにはいかなくなってしまったのだろう。クローンと必死で闘う、ツキとクレインがそこにいた。ツキはともかく、完全に事務方に徹していたクレインまでもがナイフを手にし、必死に抵抗している。
「クレイン、もうちょっと頑張れるか?」
「大丈夫よ。闘える人たちが帰ってくるまでは、私たちが頑張らなくちゃ……!」
ジューンリー班で事務方として残っているのは、彼らだけなのだろうか。彼らだけでもいい。特にクレインがいてくれることは、アルベルトにとって好都合だ。彼女には、重要な役割を負ってもらわなくてはならない。
アルベルトは銃を構え、情報処理室前の二人にまとわりつくラインザーたちの心臓を狙った。次々に撃ちぬいていくと、彼らはばたばたと倒れていった。その状況に驚く、ツキとクレインの表情が、はっきりと見えた。
「アルベルト少佐?! 戻ってきたのか!」
「助かったわ、ありがとう!」
こちらの姿を見止めるなり、彼らはそう言った。だが、アルベルトは銃を下ろさない。そのまま二人を見据え、首を横に振った。
「助けに来たわけじゃありません。単に、それが邪魔だったので撃っただけです。……僕は、あなたたちを殺さなければなりませんので」
「は?! 何を言ってるんだ?」
「本気なの、アルベルト少佐?!」
二人の表情が歪む。けれども、そんなはずはないと、まだ信じてくれている。敵についた自分のことを、まだ味方であるはずだと思ってくれている。だからこんなにも、縋るような顔をしているのだ。
ツキはきっと、情報処理室に控えていたクレインを助けに来たのだろう。本来は、外部情報取扱係として、役割を果たさなければならないはずだ。彼が外に行かず、ここに残っているということは、そういうことなのだろう。その想いを、アルベルトは砕かなければならない。二人をこの手で引き離さなければならない。
「二人とも、いいですか。この司令部は、時間が経つと爆発します。もうあなたたちに逃げ場はありません」
“あの方”から仕入れた情報を、銃口を向けながら語る。いつでも引き金を引ける準備をして、一歩一歩、二人に近づいていく。
「爆発、って」
「爆弾を探そうとしても無駄です。司令部施設内にいる時点で、爆弾の中にいるようなものだからです。これが作動する条件は二つ。一つは起爆時間が訪れること。もう一つは、僕が軍側につくこと。どちらかが満たされれば、全てが吹き飛びます」
どうか、この情報から察してほしい。自分の意図するところを、汲み取ってほしい。
「だから、僕はあなたたちと闘わなければなりません。外に出ているらしい他の人たちが帰ってきても、同じです。僕が僕の手で、あなたたちを始末しなければ、みんな死にます」
「そんな……」
彼らなら、それができるはずだ。それを確信しているからこそ、アルベルトはここに来た。
「ツキさん、僕と勝負です。……クレインさんはいつでも処分できますので」
「……そうか、そういうことか」
ツキが溜息を吐く。仕方がない、というように。クレインはそんなツキを見て、それから、アルベルトに言った。
「そうね、私はいつでも処分できるでしょうね。……ツキさんがあなたを留めていてくれることを祈るわ」
そうして彼女は、情報処理室に入っていった。ツキは、ナイフを構えてこちらに向かっている。それだけで十分だった。アルベルトの意図は、間違いなく彼らに伝わっている。
「それじゃ、あいつらが来るまで相手をするよ。アルベルト少佐」
「今の僕は少佐なんかじゃありません。そう呼ばれる資格なんか、ない」
タイムリミットがいつなのかはわからない。だが、クレインならそれまでに必ず突き止めてくれるはずだ。爆発物の正体と、それを止める方法を。
そしてツキとお互い本気で戦っていれば、“あの方”も手を出せない。ラインザーに対抗できる人員が戻ってくるまでは、こうしてしのぐしかない。

司令部に乗り込んだものの、カスケードはまだ自分の行動に迷っていた。実働の人間は外に出ているらしく、ニアの姿も見えない。多くの軍人の相手は、ラインザーたちや、カッサス親子、ボトマージュがしてくれている。そのことに、少しだけホッとしていた。
銃を手にしながら、司令部施設内を歩く。時折、悲鳴が響いた。こうしている間にも、誰かが傷つき、死んでいっているかもしれない。それを思うと、息が苦しくなった。
今のカスケードは、軍服を着て、軍支給の銃を持ち、見た目は軍人そのものだ。だが、この姿で軍人を殺さなければ、求める世界はやってこないと“あの方”が言う。
「アルが、時間を稼いでくれている。その間に、どうするか決めないと……」
軍のない平和な世界。それはたしかに理想の世界だ。だが、こんなやり方でそれが実現できるのか。こんなやり方が、自分にできるのか。カスケードの胸に一度湧いた疑念と恐怖は、晴れなかった。
組織を裏切るか。そんなことをしたら、“あの方”が何をするかわからない。最悪、全てが木端微塵だ。命令通り軍人を殺すしかないのだろうか。でも。
こうして施設内を歩く間も、まったく迷わない。記憶はないのに、どこに何があるのかが、考えずともわかった。以前、ビアンカを追ってここに来た時もそうだった。やはり五年前までの自分は、軍人で、ここにいたのだろうか。ニアの言った通りに。――まだ、何も思い出せないけれど。
だが、その名を呼ぶ者がいた。
「カスケードさん……?」
女の子の声だった。この声には、覚えがある。聞いたのは何か月か前だ。昔のことじゃない。
「……君は」
黒い髪と赤い瞳を持つ少女が、そこに立っていた。いつか山で野犬から助けてしまった、軍人の少女だ。
「どうして俺の名前を? 君も、俺の過去を知ってるのか?」
恐る恐る近づいてみる。彼女はそこから動かなかった。
「名前なら知ってます。あなたは、ニアさんの親友ですから」
その声で、殺さなければならない相手の名前を言う。彼女も、ニアの仲間なのだろうか。アルベルト曰く、自分を受け入れてくれるという、ニアの集めた「仲間」の一人なのだろうか。
「俺は、ニアの親友なんかじゃないよ。だって、あいつを殺さなくちゃいけないんだから。……親友って、そんなもんじゃないだろ」
「あなたには殺せません」
赤い目の少女は、弱々しいカスケードの言葉を、きっぱりと否定した。こちらを見るその眼は、不思議な輝きを持っている。じっと見つめていると、力が抜けてしまいそうだった。
「あなたは、私を助けてくれました。そんなあなたに、人を殺せるはずがないです」
そんなことはない。もう、一人殺してしまった。彼女はそれを知らないだけだ。知らないのに、どうしてこんなにはっきりとものが言えるんだ。
「違う、俺は……」
手が腰に提げた銃に触れる。彼女もニアの仲間なら、軍人なら、殺さなければならない。ここで一人殺してしまえば、吹っ切れるかもしれない。
カスケードは、銃のグリップを、しっかりと握った。



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posted by 外都ユウマ at 18:15| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする
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