2014年02月09日

Reverse508 第二十話

業務終了間際に続けて届いた、現地到着の報せ。それにひとまずはホッとしながら、ニアは仕事の後始末をして寮に戻った。
ディアとアクトの方は、今のところ、不審な点は見当たらないようだ。アルベルトとブラックは、まだ自分たちを呼び出したらしい人物を見つけることができていないという。
まだこれから、何が起きるかわからない。油断は禁物だ。
いつどんな連絡が来てもいいように、今夜は寝ずの番をするつもりだ。サクラなどに知られたら「睡眠をきちんととらないなんてとんでもない」と叱られそうだが、今日ばかりは見逃してもらいたい。なにしろ、仲間の安否がかかっているのだから。
その考えを見抜いていたらしいクリスたちは、「寮生が交代で番をすればいいじゃないですか」と提案してくれ、実際にそういう話になった。しかしニアには、今夜は眠れる気がしなかった。一晩くらいの徹夜なら、翌日の業務には響かないだろう。たぶん。
寮の食堂でいつも通りに食事をとり、そこで会ったグレンとカイに「ちゃんと寝てくださいね」と念を押された。ニアはそれを曖昧に笑ってごまかし、風呂は自室のものを使った。大浴場に行くと、また「睡眠をとれ」と言われかねない。
今夜は濃く出した紅茶とともに、これまでの調査資料を読みながら過ごそう。そう思っていた。
テーブルの上に資料を広げ、捲りながら紅茶を啜る。どこかに、裏組織の拠点を掴むヒントはないだろうか。クレインの提示してくれた「元アーシャルコーポレーションの研究施設」という可能性は、たしかに高い。だが、すでに調査終了として立ち入り禁止になっている。これをどうにかして突破できなければ、今後の調査の進展は見込めない。やはり大総統に直談判するしかないか、と結論付けたときだった。
ふと、窓の外が気になった。先日のキメラ襲撃の前例もある。ニアは眼鏡をかけてから窓を開け、見える範囲を見渡した。
司令部施設の周りには、高い塀が設けられている。現在はその塀の周辺にも、夜勤の見回り隊がうろついているはずだった。先日のキメラ襲撃を受けて、守りは強固なものになっている。そのはずだった。
だが、その見回り隊の姿が見えない。どこか別の場所を回っているのかもしれないと思い、ニアが窓を閉めようとした、その直後。
「おーい」
塀の上に、何者かの姿が現れた。あの高さを上ってきたというのか、かなりの身体能力の持ち主らしい。それに、こちらへ呼びかけるようなあの声は。
「……嘘だろ」
ニアは目を見開いた。塀の上にいたのは、夜の闇の中でも目立つ、真っ赤な髪の男。まるで噂に伝え聞いた、建国三英雄の一人ゼウスァートのようだと思った。だが、違う。彼は、たしかにその三英雄のうちの一人の血を継いではいるが、別の者だ。ニアには声でわかってしまう。
彼は身なりこそ違うが、まさしくカスケードだった。
ニアはすぐさま窓から離れると、部屋を出て、エントランスへ向かった。空気の冷たい夜の中に飛び込み、自分の部屋がある場所の真下まで行く。すると、それを待っていたかのように、赤毛の男は塀から飛び降りてきた。着地も完璧だ。
彼と初めて出会ったときのことが思い出される。司令部中庭の木の上から、彼はニアの前に降りてきた。それが二人の始まりだった。
「カスケード、だよね?」
ニアが尋ねると、赤毛に黒いシャツの男は嬉しそうに笑った。
「わかってくれたんだな! ニアならわかってくれるかもって思ったんだ」
その笑顔は昔から変わらない。ニアが大好きだった、太陽のような笑顔だ。
「あれ、今日は眼鏡してるんだな。目、良くないのか?」
「うん、あんまり……。って、そうじゃないよ、どうしてここにきたの? もしかして、記憶が戻ったとか?」
さっきの笑顔といい、もしかして、という期待を持つ。だが、帰ってきた答えは首を横に振ってのものだった。
「いや、ニアのことはやっぱり憶えてないんだ。ごめんな」
申し訳なさそうに、カスケードは言う。ニアも落胆するが、いつまでもそうしてはいられない。ここは軍の敷地内で、彼は裏組織の中枢にいるかもしれない人物だ。幸い誰にも見られてはいないようだが、ここにいてはまずい。そもそも、記憶がないのなら、彼の目的はいったい何なのか。
「軍を潰しに来たの? だったら僕は君の相手をしなくちゃならないけれど」
「今日は違う。まだ“あの方”の指示が出てないからな。俺は本当は、勝手に出歩いちゃいけないんだ」
“あの方”とやらの指示でもなく、しかも勝手な行動を止められているというのに、彼はここにいる。いったいどうして、何の目的があって、ニアの前に現れたのか。
それをこの場所で問い詰めることはできない。今は他を見回っているとはいえ、じきにここには夜勤の軍人が来るだろう。彼が見つかれば、即捕まってしまう。赤い髪をしているので「黒髪黒目の男」や「カスケード・インフェリア」とはすぐには結び付かないだろうが、不審な侵入者であることは確かなのだから。
「とにかく、場所を移さなくちゃ。それか、君が帰るか……」
「ニアに用があるから、帰らない。話があるんだ」
彼は微笑みながら、きっぱりと言った。ニアは目を丸くし、それから少しだけ考えて、「じゃあ、」と返した。
「僕の部屋に行こう。他の人に見つからないよう、静かに、そっとね。……こっちだよ」
エントランスには監視カメラがあるが、ニアはそれにとらえられることなく出入りする術を知っていた。夜遅くまで外に出ていた寮生が、その方法を使ってよく夜中に出入りしている。見回りをしている者に見つからなければいいのだ。
そうしてカスケードをなんとか寮内に入れ、自分の部屋まで案内した。もしかしたら、自分の持ちものを見て、記憶を取り戻してくれるかもしれない。そんな淡い期待とともに。
「ものがあるのに片付いてるな。ビアンカと暮らしてた家みたいだ」
カスケードの、部屋に入って最初のひとことがこれだった。ニアはそれに、敏感に反応する。
「ビアンカちゃんと暮らしていたの? いつから?」
「五年前から、このあいだまで。全然憶えてないんだけど、ビアンカは俺の恋人だから、一緒に暮らすのが当たり前って言われてたんだ」
故意か不可抗力かはわからないが、カスケードの記憶を奪った者はやはりビアンカだったのだろう。キメラとの闘いの末のことだったのかもしれない。どちらにせよ、彼女はそれを利用し、カスケードに対して自分の立場を偽っていたらしい。
「どこに住んでたの?」
「森の中に、ビアンカの家があったんだ。もう引っ越したけど。あ、引っ越し先は軍には言えないから内緒な」
部屋をきょろきょろと見回しながら、カスケードは世間話をするように重要なことを言う。つまり、ニアが呼び出された家に、カスケードはずっといたのだ。あの日そこにいたかどうかはわからないが、これで怪我をした自分がわざわざ村まで運ばれた理由がわかった。
あの場所にニアの死体があっては、困るのだ。彼女はニアを、カスケードの目に触れさせたくなかったのだから。
「時々外に出たりはした? 例えば、このあたりの森に入ったりとか」
「ビアンカに内緒でこっそり出かけたことは何度かあるぞ。軍の女の子に見つかって、やばいなって思ったことはある。退屈だったから、軍の奴の力を見に行ったことも」
シィレーネと会ったときのことや、アクトたちを襲ったときのことだろう。しかし、いくらなんでも素直に話しすぎではないだろうか。裏組織に、守秘義務というものはないのか。いや、先ほど「引っ越し先は言えない」と言っていたから、それだけは絶対に教えないつもりなのだろう。
カスケードはベッドに勝手に座ると、「なんか懐かしいな」と呟いた。しかし「何か思い出した?」と訊くと、「何も」と答えた。記憶はなくとも、かつてこの寮にいたという、感覚だけは残っているらしい。
「なあ、ニアは俺の過去のことを知ってるのか? 俺の名前も知ってたし、五年前より前に会ったことがあるんだよな?」
カラーコンタクトレンズをはめた鳶色の瞳が、じっとこちらを見つめる。ニアはそれがなんだか落ち着かなくて、目を逸らした。
「……君のことは、よく知っているよ。僕らは親友だったんだから。この軍の寮の、同じ部屋で過ごしたこともあった。君は軍人なんだよ、カスケード」
「軍人? 俺が?」
首をかしげた彼は、しばらく考え込んでいたようだった。沈黙に耐え切れず、ニアは台所に立つ。お湯を沸かしなおして、彼の分の紅茶でも淹れようかと思った。
その間に、彼は何か合点がいったというように、手を叩いた。
「そうか、だから俺の銃のグリップには、ライオンのマークが入ってたんだな。俺が元軍人で、その時の武器を持ちっぱなしだったんだ。あの銃は軍の支給品ってことか」
「まだ、その銃使ってるの?」
「使い方はわかるけど、人を撃ったことはない。ビアンカが作ったキメラで、練習させられたことはあった」
「……そう」
ニアはホッとした。彼は裏組織にいながら、まだ人を殺してはいないのだ。それなら、彼が記憶を取り戻してこちらに帰ってきたときの、弁護材料ができる。
淹れたての紅茶をカスケードに渡すと、彼は目を輝かせた。その匂いを嗅いで、嬉しそうに笑った。
「良い匂いだな、アップルティーだろ。ビアンカが淹れたのよりも、香りが強い」
「君が過去に好きだったものだよ。僕がそれを淹れる腕をあげたから、前より香りもいいし、美味しいはず」
「へえ、俺はこれが好きだったのか。……あ、美味い。確かにすごく好きな味だ」
こんなに幸せそうな顔をしているのに、まだ思い出せないというのか。紅茶を飲む彼の表情は、かつてお茶の時間を共にしていたときと同じだというのに。ニアは胸が締め付けられるような心地で、カスケードの様子を見守った。
すると突然、彼が髪を気にし始めた。それから頭をひっかきだす。頭皮が痒いのだろうか、眉を顰めだした。
「どうしたの?」
「染料が合わなかったみたいだ。洗い流したい」
「いいよ、お風呂を使って。お湯で落ちるものなの?」
「そのはず。じゃあ、風呂借りるな」
彼は迷わずに、部屋に備え付けの風呂場へ向かった。部屋の構造は、どうやら感覚に染みついているらしい。ニアの声を憶えていたのと、同じようなことなのだろう。彼が浴室に入ったのを確認し、ニアはそっとタオルを準備した。
しばらくして、彼は髪を拭きながら出てきた。その色はもう赤くはなく、ニアにとって親しみ深いダークブルーになっていた。コンタクトも外してしまったのか、瞳も海色になっている。やはり変装は、彼にとって面倒なものなのだろう。
「その恰好、帰りに目立たない?」
「髪を染め直して、コンタクトを入れ直せばいい。ちゃんと道具は持ってきてるんだ」
ズボンのポケットが膨らんでいたのはそのせいか。ニアは呆れながら、彼はたしかにカスケードなのだなと思った。変なところで用意周到なのは、裏にいようがなんだろうが、変わらないらしい。
「サンキュな、ニア。紅茶は美味いし、風呂も貸してくれる。軍人なのに優しいんだな」
「軍人なのにって……君だって軍人なんだよ。君はカスケード・インフェリア大尉だ。記憶を失う前の君は、たしかに軍人だったんだよ」
ニアが言うと、カスケードは困ったような顔をした。昔、こちらが難題を投げかけたときのような、何かを答えあぐねている表情だ。そうして、彼は、返事をした。
「軍人じゃない。そりゃあ、過去のことは憶えていないけれど。今の俺は軍人なんかじゃないんだ。軍のない、平和で豊かな世の中をつくるために、活動しているんだから」
その海色の眼が、「この言葉は本気だ」と言っている。ニアにはそれがわかってしまう。五年前まで、毎日一緒にいて、この瞳を見てきたのだから。
「……軍が、平和を維持しているんだよ。人を助けるために軍はあるんだ。僕らも約束したじゃないか、人を助ける軍人になろうって」
ニアはそれを口にする。何よりも大切で、これまでずっと胸に守り続けてきた、カスケードとの約束だった。けれども、当のカスケードは首を横に振った。
「軍じゃ人を助けることなんかできない。他国に介入して不安を与えたり、武力で人民を支配することが、平和の維持なのか? 俺は、そうは思わない」
真面目な表情で、ニアにそう告げる。それはいつか、ニアと議論を交わしていたときの彼と同じ貌だった。
「今のエルニーニャは軍がトップだ。軍の決定が国を動かしている。そうして、武力を正当化しているんだ。軍人になれば、たとえ人を殺しても、仕方のないこととされて、刑罰の対象にはならない。相手が凶悪犯だったから仕方なかったという理屈を作り上げ、自分たちの思い通りにことを運ぼうとする。それが正しいとは、俺には思えない」
「……それは」
ニアだって、人を殺すことは良くないと思っている。だからアルベルトとブラックのことも止めようと思っていたし、彼らが現在そうしてしまったことを罪だと思って悔いていることも知っている。ニア自身も、できる限り相手を殺すことのないよう努めてきた。そうして、今でも誰一人として命を奪うことなくやってきた。
武力を正当化しようだなんて思っていない。軍人として、国を、国をつくる民を、守り助けるために行動してきたつもりだ。これからもそうしようと思っている。そしてそれを、かつてのカスケードと約束していた。そのはずだった。
「この前のことだってそうだ。ノーザリア危機をエルニーニャ軍が回避したっていうけれど、あれは他国の問題だ。向こうが自力で解決すべきだったところを、どうしてエルニーニャがわざわざ介入しなくちゃならなかったんだ? ノーザリアのやろうとしていたことは侵攻で、エルニーニャのやったことはそうじゃないっていうのは、どこで判断できる? 実際、エルニーニャ軍が乗り込んだことで、ノーザリア側は『何かをすればいつでも他国からの口出しが入る』と認識した。その国に必要な政治が、他国のせいで出来なくなるんだ。これはおかしいことじゃないのか?」
「あれは、僕らの仲間が助けを求めてきたから動いたんだ。エルニーニャ軍の介入がなければ、ノーザリアは今頃、小国を攻め落としていたかもしれない。五ヶ国条約に基づく、国際平和のための重要な手段だったんだよ」
「エルニーニャ軍の行動は正義で、ノーザリアのすることは悪だと? それはエルニーニャ側の決めつけだ。片方の立場にしか立たない、おかしな言い分だと思うが」
海色の瞳が、これこそが真実だと訴えている。あのときはディアがノーザリアにいて、危険な状況にいたから、エルニーニャ軍を動かした。そうしなければ、ディアを帰してもらえなかったから。――たった一人のために、国が動いたのだ。それはあっていいことだったのだろうか。
「ノーザリアの今の政治は、日和見政治と言われて批判されている。それを一新するというのは、いけないことなのか? それも時代の流れじゃないのか? これじゃ、全てがエルニーニャの思い通りだ。他国は自由になれない。国内だって同じだ。軍が自分たちに有利な政策をしているから、一般市民は軍の機嫌を損ねないように暮らしている。元小国だった村や町は、中央政府のせいで独立したくてもできない。せっかく自分たちだけでやっていける資源があっても、それを中央にとられてしまう。軍中心の政治はよくない。武力での圧政は、不幸しか生まない」
「圧政って……大総統閣下は、そんなことはしていないよ」
「じゃあ、無意識なんだ。作られた『伝統』に則った、無意識の犯罪だ。国は民意で動くべきなんだ。中央の大総統にばかり権力を握らせ、都合の悪いことは武力でねじ伏せる。そんなことはあってはならない」
カスケードの言うことは、間違ってはいない。一個人の意見としては、持っていてもおかしくはないものだ。だが、その「犯罪」を故意にやった人物を、彼ら組織は抱えているではないか。
ニアはカスケードの目をしっかりと見て、反論した。
「カスケードこそ、物事を一方向からしか見ていないんじゃない? 危険薬物を流通させたり、邪魔なものや不要になった人間の命を簡単に奪うのは、正しいの? これは裏社会がやっていることだよ。君が関わってしまったものなんだ。ボトマージュは村を壊滅させ、ラインザー・ヘルゲインは殺人と危険薬物の密輸を繰り返した。これは悪いことじゃないの? 軍は、それを取り締まろうとしている。そうやって人を助けるのが、軍の本質だ」
「だったら、今の軍は本質から大きく外れていることになるな。ボトマージュのことなら俺だって知っているし、あの人のことはあまり好きじゃない。でも、あの人をあんな風にしたのは軍だ。あの行動がまかり通る環境だったからこそ、南方殲滅事件首謀者ボトマージュは生まれたんだ。それから、ヘルゲイン。あれは確かに凶悪犯だった。でも、殺す必要はあったのか? あの人を殺すことで『めでたし』といえるのなら、それはやっぱり殺人の正当化だ。軍だけが殺人を犯していいことになる。他にも“あの方”から聞いて、いろいろ知っている。探偵キース・オルヘスターを殺したのも軍人だ。殺さずに済む方法はなかったのか? やっぱりどう考えても、俺には軍というものが理解できない。自分たちの都合のいいように物事を解釈しているようにしか思えない」
「それは裏組織だってそうだろう?! 本当に平和で豊かな世の中を作ろうと思って、どうしてそこにビアンカちゃんのような犠牲が出るの? 彼女を殺す必要がどこにあった?」
「それは俺だって納得していない。でも、“あの方”が……」
ああ、また“あの方”か。カスケードはもともと「考えること」は不得手ではない。むしろこうして国や軍のあり方について思考を巡らせ、正しさというものについて様々なことを思うのは、彼の得意とするところだった。
それを“あの方”とやらが利用し、軍を潰す方向へ仕向けているのだ。
「“あの方”が全て正しいの? それはさっきカスケードが言った『軍中心の政治』と何が違うの? カスケードだって、“あの方”とやらを中心に動いている。その人の言う通りに動いて、考えて、軍を潰そうっていう結論に至っている。それは“あの方”の思う正義であって、カスケードの思う正義じゃないんじゃないの?」
「……でも、“あの方”は何もわからない俺に、たくさんのことを教えてくれたんだ。この国の歴史も、軍の問題点も」
「君自身のことは? 君の過去のことは、“あの方”は教えてくれたの?」
カスケードは言葉を詰まらせたようだった。話のすり替えにはなってしまうが、ここはそれを中心に説くしかない。
「結局、“あの方”だって、自分にとって都合のいいことしかカスケードに教えていないんじゃない? それは君の言う軍の圧政と一緒だよ。君は“あの方”の都合のいいように教育され、操られているだけだ。ビアンカちゃんの死に納得していないって言ったよね。どうして納得していないの? それは君が“あの方”のやり方に疑問を持っているからでしょう。君の言うことは間違っていないかもしれないけれど、正しくもない。それを認めてよ」
かつても、こんなふうに話をしたことがあった。カスケードの考えの根本は、どうやらあまり変わっていないようだ。軍にできることには限界があるし、人を助けるという道を外れてしまうこともある。凶悪犯の命を奪い、それを正当化していることも事実だ。それに関して、彼はずっと疑問を抱いていた。
カスケードは、カスケードのままだ。ただ、それを“あの方”に利用されているだけだ。ニアはそう確信していた。
「たしかに、軍にも足りないことは山ほどある。やりきれないことも、人を殺して済ませてしまうようなこともある。正しいなんて言えるはずがない。でも、だからこそ僕らは、せめて僕らだけでも人を助ける軍人を目指そうって、そう約束したじゃないか!」
それは幼い頃から抱き続けている、ニアの願いだった。かつて軍人になることに対して消極的だったカスケードにとって、希望になったはずだった。だが。
「……約束なんて、憶えてない。人を助ける軍人なんて、無理だ」
彼は、何もかも忘れてしまった。ニアが縋り続けてきたものを、手放してしまった。
「人を助けることなら、軍人じゃなくたってできる。軍人じゃない方がいい。だから俺は、ニアのところに来たんだ。ニアにも俺の思うことをわかってほしくて、一緒にそのための活動をしたくて、誘いに来たんだ」
今の彼は、裏組織のカスケードだ。“あの方”の言う通りに動き、“あの方”の理想を自らの目的とする人物だ。ニアと約束を交わし、軍人として前を向いていたカスケード・インフェリアは、ここにはいない。
「……その誘いには、乗れないよ。僕は軍人だ。エルニーニャ王国軍大佐、ニア・ジューンリーだ。裏組織の仲間にはなれない」
「……そっか。残念だ。ニアならわかってくれるんじゃないかって思ってたけど、それは俺の思い込みだったんだな」
カスケードは寂しそうに笑い、窓に向かった。そして窓枠に足をかけた。
「カスケード、何する気?」
「帰る。ニアが軍人であり続けるなら、俺たちはやっぱり敵同士だ。俺は軍を潰さなくちゃいけない。ニアは軍を守らなくちゃいけない。だから、次に会う時は、戦わなくちゃならない」
「違うよ! 敵なんかじゃない。だって、僕が助けたいのは、守りたいのは軍じゃなくて……っ」
ニアが言い終わる前に、カスケードは窓から飛び降りた。ダークブルーの髪に、海色の瞳のまま、外へ飛び出した。上手く下に生えていた木に降り、そこから塀へと飛び移る。そして、塀の向こうへと消えて行った。
にわかに塀の外側が騒がしくなった。見回りに見つかったのだろう。だが、そのすぐあとにうめき声があがって、再び外は静かになった。カスケードが見回りに当たっていた兵を気絶させたらしい。
ニアは急いで部屋を出て、見回りたちのもとに向かった。そこについた頃には、カスケードの姿はもうどこにもなかった。
見回りたちを介抱し、幸運にも寮生だった彼らをそれぞれの部屋に連れて行ったあと、ニアは再びカスケードを探しに外をまわった。もともと黒い服を着ていたので、闇には溶け込みやすかったのだろう。さっきまで会話をしていたはずの彼は、とっくに消えてしまっていた。せめて後を追うことができれば、裏組織の本拠地がわかったかもしれないが、それもかなわないようだった。
周囲の路地を一周し、諦めて寮のエントランスに戻ろうとしたニアを迎えたのは、さっきまではなかった軍用車だった。ナンバーを確認すると、どうやらアルベルトとブラックが乗っていったそれらしい。
「戻ってきたのかな……?」
用が済んだのなら、連絡くらいくれても良かったはずだ。不安にさいなまれつつ、ニアは寮のエントランスに向かった。するとそこには、人が倒れていた。
左肩に上着を巻かれているが、それは黒々とした何かで染まっている。その背格好と、髪の間から見えた顔は、よく知っているものだった。
「ブラック?! ねえ、ブラック、どうしたの?!」
なぜこんな傷を負ってきたのか。一緒に行ったアルベルトはどうしたのだろうか。周囲を見渡すが、他の人間の姿はない。
「とりあえず、軍病院に行かないと……」
車の鍵は差したままだ。このまま彼を軍病院まで連れて行ける。ニアはブラックを抱き起すと、その腕を肩にまわし、車まで引きずっていった。

幸いにも、ブラックの肩の傷は縫うだけで済んだ。神経などに影響はないらしい。だが疲労が溜まっているのか、そのまま眠り続けていた。ニアはそれをベッドの脇に座り、見守っていた。
傷を縫う時に脱がせた服が、サイドテーブルに畳んで置いてある。その上に、銀色のロザリオがあった。傷がついているが、電灯の明かりを受けて輝いている。行くときにはしていなかったものだから、おそらくは向こうで手に入れたのだろう。アルベルトからのプレゼントだろうか。
そのアルベルトは、寮の部屋にも戻っていないようだった。どうやらここまで、ブラック一人で帰ってきたらしい。アルベルトはいったいどこへ行ってしまったのか、それはブラックが目を覚ますまでわかりそうになかった。
そのままニアは軍病院で夜を明かし、出勤時間前に、支度をしに寮へ戻った。
だが、部屋の前でニアを待ち構えていた者があった。複数の将官が、ニアを見止めるなり、こちらへ走り寄ってくる。そしてニアが戸惑っている間に、素早く両脇から抑え込んだ。
「え、あの、何ですか?」
「とぼけるな。お前が一番わかっているだろう」
腕が無理やり後ろにまわされ、痛い。こんなことをされる覚えはない。眠らずに一晩を過ごした身には、声も痛みも酷く響いた。
混乱するニアに近づいてきたのは、顔見知りの中将だった。ニアの正面に立ち、こちらを見下ろす。その表情は、これまでに見たこともないほどに冷たかった。ぞくりと肌が粟立つのを感じながら、ニアは彼に尋ねた。
「あの、いったいどういうことですか?」
中将は重い声で答える。
「昨夜、軍施設内に侵入した者がいる。そして軍人数名を殴り倒して逃走した」
ニアの心臓が、大きな音をたてたような気がした。内側から、どんどんと叩かれているようだ。呼吸が満足にできなくなる。
「殴り倒された者たちの証言によると、彼は寮の一室の窓から出てきたという。確認した結果、お前の部屋だということが判明した。……それから侵入者の特徴だが、ダークブルーの髪に海色の瞳、黒い服を着ていたということだ。先日司令部に侵入した、カスケード・インフェリアの特徴と一致する」
そういえば、彼は髪を染めずに出ていった。見回りがちょうどその場にいたのなら、窓から出ていった瞬間も押さえられていただろう。だからこそ、今、ニアはこの状況にあるのだ。
中将は残念そうに、しかし冷酷に告げた。
「お前がインフェリアと親友だったという時点で、疑っておくべきだった。……軍に入り込んでいた裏のスパイは、お前だな。ジューンリー」
全身の血液が、どくり、と波打ったようだった。あの瞬間を見られていたのなら、疑われても仕方ない。でも。
「違います! 僕はスパイなんかじゃありません!」
「ではなぜインフェリアと会っていた? 情報交換をしていたんじゃないのか。そういえばお前は、大総統閣下とも頻繁に会っていたな。そうして仕入れた情報を、裏に流し続けていたんだろう。インフェリアを捜すふりをして、お前は軍の情報を集めていた。先日のキメラ襲撃も、たしかお前が一番に気づいたんだったな。本当はそれが起きると知っていたから、あんな行動がとれたんじゃないのか?」
行動の一つ一つが、ニアをスパイに仕立て上げるものに解釈されていく。「あれは直感だった」と言っても、信じてはもらえないだろう。証明する材料がないのだから。
それに、カスケードと会っていたことも事実だ。
彼と交わした会話や、キメラ襲撃の際に現れた裏組織の者と思われる人々の言葉も、ニアの耳で聞いたことをもとに報告されている。
さらにいえば、ビアンカがわざわざニアに会いに来たことも、ニアがスパイだから情報を仕入れに来たと考えることだってできるのだ。その時の怪我は、自分から疑いを逸らすための自作自演。ニアが退院して復帰した瞬間にキメラ襲撃事件が起こったというのも、ニアが指示したからだとすれば筋が通ってしまう。
その通りのことを言ったあと、中将は告げた。
「ニア・ジューンリー。お前を、裏社会組織のスパイとして活動していた容疑で拘束する。話は留置所でじっくり聞こう。……連れて行け」
中将の言葉に従って、ニアを押さえていた者たちが動き出す。ニアはそれに合わせて歩くしかなかった。振り返ると、中将の冷たいまなざしが見える。彼は完全に、ニアをスパイだと断定していた。
「違う……僕は……」
もう、何を言っても無駄だった。言葉を重ねれば重ねるほど、虚言に聞こえてしまう。

ニアが捕まったという情報は、朝一番で司令部中に伝わった。同時に、ブラックが傷を負って帰ってきて、アルベルトが行方不明だということも。
メリテェアがジューンリー班のメンバーに改めてそれを伝えると、場は騒然とした。
「そんな……メリーちゃん、嘘だよね? ニアさんが捕まるなんて、そんなはずないよね?」
リアが縋るように尋ねるが、メリテェアは首を横に振る。
「事実ですわ。先ほど、閣下からもお達しがありました。これまでのニアさんの行動なども踏まえてのことだそうです。……覆すには、分が悪すぎますわ」
そう語るメリテェアの拳に、力が入っていた。今回の事態は、彼女にとっても予想外で、悔しいものだ。
「ブラック君が負傷したというのも気になりますね。アルベルトさんの行方も……」
「そのことですが、ブラックさんから事情を聴かなければなりませんの。どなたか、お願いできませんか? クリスさんには、当分この班の代表として動いてもらわなければなりませんので、他の方に当たっていただきたいのです」
どうやらこの班は、ニアの疑いが晴れるまではエイゼル班となるらしい。実働担当の佐官がほとんどいない今、動けるのは尉官以下の者になる。
「俺が行こう。リア、カイ。今日俺にまわってきている書類だが、お前たちでもできるものだ。その処理を頼む」
グレンが言うと、指示をされた二人は「はい」と返事をした。その声はいつものようにキレのあるものではなかった。ショックが重なり、気合を入れるどころではないのだ。
「クレインとクライスさんは、ニアさんに関する情報の信憑性を確認してくださいますか。閣下によると、ニアさんは昨夜、カスケードさんと会っていたようなのです。それが決め手となって、今回の事態になったようですわ」
「わかったわ。それじゃ、私は寮と司令部周りの監視カメラの映像を確認するわね」
「オレはニア大佐を捕まえた中将たちと、大佐本人に話を聞いてくる」
ベルドルード兄妹が頷きあい、自身の役割を確認する。
「アーレイドさんとシェリアさんは、昨日に引き続き、ディアさんとアクトさんからの連絡を待ってくださいませ。もしかすると、ツキさんの方から報告があるかもしれません。今のところ、あちらからは、まだ何の情報も届いていないんですの。無事だといいのですが……」
「わかってます。シェリア、今日の予定は?」
「アタシは書類がちょっとだけ。十分電話や無線に張り付いていられるよ」
准尉組は未だに報告のない二人の情報を受け取ることになった。何か問題があれば、すぐにクリスに報告する手筈だ。
「ラディアさん、ハル君、シィレーネさんは、いつも通りにお仕事をなさってください。動揺されているでしょうが、今わたくしたちにできることは、それしかありません。わたくしはもう一度、閣下や他の将官たちに確認をとってみますわ」
「わかりました! ……ニアさん、絶対に無実だよ。ボクがそうだったみたいに、心細いはず。ボクたちが頑張らなくちゃね」
「私もなんとか頑張ります。ここはニアさんの居場所だもの、私たちで守らなくちゃ」
「いつも通りのお仕事組は、私がリーダーですね。ツキさんは電話番だし、ニアさんに直接会えるのはクライスさんだけってことになりますね」
人が減ったジューンリー班改めエイゼル班は、それぞれの分担を確認して仕事にあたることとなった。それぞれにできることをやるしかない。そうすることでしか、ニアの無実を証明できないのだから。

きっと、無実の罪をきせられたハルの心情はこうだったのだろう。いや、自分の方が大人なだけ、まだましかもしれない。勾留されているあいだ、ニアは完全に気が滅入っていた。
周りは敵ばかりだ。自分たちを信頼してくれていたようだった中将にスパイだと断定され、いつぞやにハルを侮辱した留置所の職員にはここぞとばかりに嘲笑された。
眼鏡をしているのに、周囲の景色がかすんで見える。そういえば、昨夜から薬を飲んでいなかった。ニアの精神力は、こうしてじっとしているあいだにもどんどん削られていく。
思い出す言葉はつらいものばかりだ。
――お前を、裏社会組織のスパイとして活動していた容疑で拘束する。
そんなことはしていないのに、中将は、そして多くの将官は、そう思いこんだだろう。ニアが捕まったことで、それまでの監視は緩められるかもしれない。
――ニアが軍人であり続けるなら、俺たちはやっぱり敵同士だ。
カスケードの声が、頭の中にこだまする。一番敵にしたくない相手に、そう言われてしまった。親友の口から出たこの言葉は、ニアの心に深い傷をつけた。しかし、こうなっては、もう彼と戦うことすらできないかもしれない。全てはニアの知らない場所で、勝手に終わったことにされていくのだ。
班のみんなは、今頃どうしているだろう。それぞれの仕事を、ちゃんとこなしているだろうか。ブラックは目を覚ましただろうか。アルベルトはどこに行ったのだろう。ディアとアクトは無事でいるのだろうか。
ああ、本当に、気が滅入る。絶望と心配事しかない。
そんなニアのもとへ、近づいてくる足音があった。
「ジューンリーさん」
その声に顔をあげる。話を聞きつけてきたのか、モンテスキューがここへ来てくれたらしい。しかし視界がぼやけて、その姿がはっきり見えない。
「あなたが捕まったと聞いて、驚きました。当然無実なんでしょう」
「……無実なのか、自分でもわからなくなりました。裏にいるはずの人物と部屋で会っていたことはたしかです。動きすぎて疑われる要素を増やしたのも、自分の責任です。僕はなるべくしてこうなったんですよ」
なげやりにニアが言うと、モンテスキューは小さく息を吐いた。呆れられたな、とニアが思っていると、突然声が響いた。
「しっかりなさい! ハル君は泣きながらも自分の無実を訴え続けていましたよ! スパイなんかではないのなら、もっと堂々としていなさい!」
穏やかなモンテスキューからは想像もできないほど、強い語気だった。その言葉に、ニアの全身が震えた。他の部屋に収監されている人々もざわめき始めたほどだ。
「モンテスキューさん……」
「声を荒げてしまい、すみません。ですが、そんなあなたは見ていられなかったもので。いつまでもそのままでは、うちの大切な姪を任せられませんからね」
モンテスキューは、ニアの無実を信じてくれていた。だからこそ「姪を任せる」という言葉が出てきたのだ。まだ、諦めるのは早い。早すぎる。
今この瞬間にも、できることがある。入院中にそうだったように。――そう、思い出すことだ。ニアにはまだ、思い出せていない重要なことがある。たしかに聞いた「何か」がある。それを考えるために、この時間を使える。
「ありがとうございます、モンテスキューさん。僕がこれじゃ駄目ですね。まだ、頑張っている部下たちがいるんだから……」
ハルのときにそうだったように、彼らはニアのこともきっと信じていてくれるだろう。ならばこちらも、それに応えなければ。堂々と、この状況に立ち向かおう。
「そうだ、声の違和感を探るんだ。僕の耳は、何を捉えたか……」
キメラ襲撃から、今日までを振り返る。聞こえたものの一つ一つを頭の中で繰り返す。誰かの一言から、喧騒まで。違和感の正体を突き止めろ。
――先日のキメラ襲撃も、たしかお前が一番に気づいたんだったな。本当はそれが起きると知っていたから、あんな行動がとれたんじゃないのか?
捕まるときに聞いた、中将の言葉が浮かぶ。そこにふと、引っ掛かりを覚えた。
「知っていたから、あんな……」
ちょっと待て。あのとき、あの人は何て言った? 随分と後方から、なぜあんなことがすぐにわかったのか。クリスでさえ「どういうことですか」と言ったのに。ニアは「敵襲」としか言っていないのに。
実際、あれは、巨大な獣だった。異常に巨大化させた、ただの獣だったのだ。それを、あの人はどうして「キメラだ」と断定できたのか。
そのあと、あの人がどこにいたのかはわからない。あれだけの乱戦だ、いなくなっても、誰も気づかなかっただろう。
「……まさか。でも、もしかして……」
ほんのささいなことかもしれない。経験上、そう断定したのかもしれない。だが、わずかな可能性でもかけてみなければ、ここからは出られない。

ブラックはまず、自分が病室にいることを数分かけて理解した。それから、自分に起こったことを思い返した。何度思い出しても、酷く嫌な気分になる。
そうして顔をしかめているところへ、グレンが入ってきた。
「……傷、痛むのか」
ブラックの表情を見て、そう判断したらしい。ブラックは首を横に振って、眉間のしわを緩めた。
「いや、違う。それより、なんでお前が?」
「ブラックが怪我をして帰ってきた、と聞いたものだから、事情を聴きに来た。アルベルトさんが帰ってきていないらしいな」
スツールに腰かけながらグレンが言うと、ブラックは言葉を詰まらせ、また顔をしかめた。その名前を出されると、思い出してしまう。いや、思い出して語らなければならないのだ。
「……アイツは、敵側に行った」
「は?!」
思った通りの反応だ。誰だってそう言うだろう。その場にいたブラックでさえ、そう思ったのだから。
ブラックとアルベルトを呼び出したのは、イリー・クライムドという男だった。彼はかつて東方で殺人事件を起こしたアリー・クライムドという男の弟であり、ブラックに恨みを持っていた。アリーは、ブラックがかつて斬り捨てた人間の一人だったのだ。
彼はやはり大量生産されていたラインザーのクローンを使い、二人に襲いかかってきた。そしてブラックに傷をつけつつ、アルベルトに取引を持ちかけた。
――このままブラックを死ぬまで追い回されるか、それとも組織に入るか。
ブラックにとっては何でもない傷も、アルベルトにとっては重大なものだった。しかも、ラインザーのクローンは途方もない数を用意しているらしい。このまましつこくブラックを狙われるくらいならと、彼は自分の身を差し出した。
止めようとしたブラックに、アルベルトは言い残していった。「もしかしたら、裏に入り込んで情報を得られるかもしれない」と。ただで自分を犠牲にするつもりはないようだった。アルベルトは、ブラックの兄は、そういう男だ。そのしたたかさで、かつてニアを利用し、ラインザーを追い詰めたのだ。
そうしてアルベルトは、なお止めようとするブラックを撃ってまで、敵方についた。その銃弾は、現場に向かう時にアルベルトがブラックに贈ったロザリオに跳ね返った。
「アイツの銃の腕も、敵の情報を何が何でも得ようとするしたたかさも、オレはわかってる。わかってて止められなかったのが、イラつくんだよ……!」
掛け布団を握りしめるブラックを、グレンはしばらく黙って見ていた。いや、何かを言うべきか言わずにいるべきか迷っているようだった。
ブラックがそれに気づいたとき、グレンはそれを口にする決意を固めていた。
「アルベルトさんが敵方についたのは最悪な報せだな。けれども、情報を得ようとして敵方についたのなら、必ず戻ってくるはずだ」
「……どうだか。こんな傷のせいで敵側につくようなヤツだぜ。死ねって言われたら死ぬんじゃないのか」
「アルベルトさんは死なない。死ぬような人じゃない」
「お前にアイツの何がわかるってんだよ」
「向こうにはスパイから情報が伝わっているはずだ。その情報をアルベルトさんが敵方で手に入れたなら、死のうなんて考えている場合じゃなくなる」
その言葉で、ブラックはようやく察する。こちらでも、何かが起こったのだ。でなければ、グレンがこんな言い方をするはずがない。
「……何があった」
「ニアさんがスパイ容疑をかけられて捕まった。当然ニアさんがスパイのはずはないから、本物の方からこちらの状況が敵方に伝わるはずだ。それを聞いたアルベルトさんなら、どうする? ブラックならわかるだろう?」
最初のひとことから、耳を疑った。ニアが、捕まった? なぜそんなことになった?
それをアルベルトが聞いたら、どう思う?
「おい、ニアが捕まったのはどうしてだ。アイツにスパイ容疑なんかかかるはずがないだろうが!」
「俺もそう思う。だが、ニアさんが昨夜、カスケードさんと会っていたらしいことが発覚したんだ。それで裏と連絡をとっているものと思われたらしい」
「ますますわかんねーよ。カスケードと会った? どうしてそんな状況に……」
きっとアルベルトなら、それを知ることができる。今敵方にいる彼ならば、真相を掴むことができる。問題は、それをどうやってこちらに伝えるかだ。下手をすれば、彼もまたスパイだったのだと結論付けられかねない。
「……胸糞悪いが、アルベルトにかけるしかねーのか。で、ニアの様子は?」
「あとでクライスが確認してくる。俺はお前から話を聞いて現状を把握し、ニアさんに伝えるための情報を集めているんだ」
「なるほどな。……ったく、厄介なことになってんな」
ブラックは深く溜息を吐く。だが、随分と冷静になっていた。班のリーダーであるニアが動けない以上、動くべきは自分たちなのだ。奇しくもアルベルトは、その先陣を切ることとなった。彼だけが、組織の本拠地を、その動きを、知ることができる。
「いずれヤツらは軍を潰しに来る。アルベルトはその時にでも、真実抱えて戻ってくるだろ」
「それでこそブラックだな。……俺たちは待っていよう。ニアさんを解放する手立てを考えながら、向こうからこっちに飛び込んでくるのを待とう」
病室の二人は、不敵な笑みを浮かべた。

午前のうちに、外部情報取扱係に一件の報告が入った。それは悪いニュースではあったが、ニアの準備しておいた策がきちんと機能していたことを示すものでもあった。
「アーレイド、シェリア。クリスはどこにいる?」
ツキは報告を受けてすぐに、事務室にやってきた。それを待っていたアーレイドとシェリアは、同時に立ち上がって彼のもとへ走り寄った。
「クリスさんはメリーと一緒に将官への聞き込みに行ってます。ヴィオラセントかアクトさんに、何かありました?」
シェリアの答えと問いを聞いて、ツキは頷いた。何かあったらこの二人に言うようにと、メリテェアから命ぜられている。
「アクトの方だ。ニアがどうやら、マルスダリカ町長の息子にアクトの護衛をするよう頼んだらしいな。アクトは怪我を負ったらしい。今日の夕方頃にはこっちに戻ってくるから、その時に何があったか確認しよう」
「アクトさんまで……。佐官がどんどんやられていますね」
アーレイドが眉を顰める。それから彼は、重要なことを思い出した。
「そのアクトさん、本物のアクトさんなんでしょうね」
「そういえばそっくりなのがいたんだよな。……たしかニアが、アクトとの間で合言葉を決めたって言ってた。それをマルスダリカ町長の息子に確認してもらおう。クライスがニアのところに行くときに、その合言葉が正しいかどうかも聞いてもらう」
ニアがここにいれば、すぐに確認が取れたものを。それが不可能なのが、今一番の痛手だった。
行方不明のアルベルトを除いて、連絡がないのはディアだけとなった。彼は今、どうしているのだろうか。それを確かめることも兼ねて、ツキはアクトについての報告をアーレイドたちに任せ、自分はもう一度マルスダリカ町長の息子と連絡を取ってから、ノーザリア中央司令部にも電話を繋ぐことにした。

将官たちの推理は筋が通っていて、覆すのは難しそうだった。なにしろニアがビアンカに呼び出されて以来、実地調査のほかは彼の証言だけで報告をしてきている。ニアがスパイだったとなれば、それらが全て偽りだったということになってしまう。そうなれば、本物のスパイや裏組織の得になるばかりだ。
「ニアさんを助けるのは難しそうですね。メリテェアさん、閣下は何と?」
クリスが問うと、メリテェアは困った表情で答えた。
「閣下は、ニアさんがそんなことをするはずはないと。けれども将官たちがニアさん犯人説を推しているので、簡単には覆せないと仰っていましたわ。閣下の立場も重要なのです。万が一、閣下がその地位を降ろされるようなことになってしまえば、たちまちニアさんもカスケードさんも悪人になってしまいます。それはわたくしたちの望む結末ではありません」
「その通りですね。……立場より部下を守れ、と言いたくても、立場を守らなければ部下を守れないという状況ならば、仕方がありません」
メリテェアもクリスも、それが悔しかった。将官たちの見解は強い権限を持っている。メリテェアは准将といえども若すぎるので、他の将官たちには甘く見られている。クリスはそもそも中佐だ。いつかのようにエスト准将に協力を求めようかとも考えたが、彼は将官に昇進して間もない。少将以上の人間にはとても対抗などできない。
ニアの顔見知りの中将が、本来ならばもっとも頼れる人間だった。だが、ニアをスパイだと断定し捕まえたのは、その彼だった。助けを求められるわけがない。
「メリテェア、クリス中佐。何か情報あったか?」
悩む二人のもとへ、クライスがやってきた。その後ろには、アーレイドとシェリアがついてきている。この二人がいるということは、ディアかアクトに何かあったということだ。
「こちらは残念ながら進展なしです。アーレイド君たちは?」
「アクトさんが怪我をしたそうです。夕方にはこっちに戻ると。合言葉で本人かどうか確認できるそうなので、クライスさんにお願いしています」
「わかりました。予想通り、あちこちで動いてますね」
「クレインはまだ調べ物をしているし、オレの方もろくな情報を得られていない。将官たちはこの件をニア大佐の仕業ってことにして片付けたいらしい。いろいろ都合があるんだろうけど、これじゃハル軍曹のときと全く同じだ。無駄な冤罪事件だよ」
クライスは溜息を吐く。だが、ニアへ報告することはあらかたまとまった。アクトの件と、将官たちが揃って口を噤んでいること。一旦、これだけでも伝えなければならない。
そこへちょうど、グレンが現れた。どうやらブラックから話を聞けたらしい。
「グレン君、ブラック君はどうでした?」
「思ったよりも傷はひどくないようです。ですが、アルベルトさんがどうやら単身で敵地に乗り込んでいるようですね。向こうがアルベルトさんの身柄を要求したようです。敵方につかなければ、ブラックの命を狙い続ける、と。そしてやはりラインザー・ヘルゲインのクローンは量産されていて、ブラックたちもそれと戦ったそうです」
簡単に、しかし要点を押さえて、グレンは報告をしてくれた。それだけのことがわかれば、ニアへの土産話としては十分だ。
「グレン大尉、ありがとうな! それじゃ、オレはニア大佐のところへ行ってくる。これまでのこと、まずは全部報告しなくちゃな」
ここまでの情報を、全て頭に叩き込んだらしい。クライスは即、ニアの待つ留置所に向かった。あそこにはシィレーネの叔父であるモンテスキュー氏がいる。きっと力になってくれるだろう。
「さて、ボクたちも聞き込みを続けましょう。根気よく尋ねれば、きっと将官の方々も粗を出してくれるでしょう」
クリスは笑みを見せていた。いくら断られても、しつこく食い下がるつもりだった。一つ粗を見つけたなら、それを徹底的に引きずり出す自信が、彼にはあった。そうしなければ、ニアを、仲間を、救えない。


ボトマージュはまだ北の隣国にいるらしい。カッサス親子も、ここへ戻ってくる途中だという。今この地下研究所にいるのは、三名だった。
一人はカスケードだ。昨夜出ていったことは黙っておくつもりだった。勝手な行動をとったことが知られると、また“あの方”から叱られてしまう。
一人はイリー・クライムド。昨夜のうちに目的を達成し、ここに戻ってきたばかりだ。その顔には達成感が見えた。
そしてもう一人は、新たにここに連れてこられた人物。アルベルト・リーガルだ。イリーに従い、彼はこの地下研究所にやってきた。この場所の設備などには、正直なところ驚いていた。こんな場所を軍が見つけられないなんて、ありえない。軍のトップに近い人間が、ここのことを隠そうとしているに違いなかった。スパイは確実に、軍内上層部にいる。
『イリーは目的を達成できたようだね。おめでとう』
会議室のスピーカーが声を発した。カスケードは一度だけびくりと肩を震わせ、イリーはただのスピーカーに向かって深々と礼をした。アルベルトは、その光景をただ眺めていた。――スピーカーの声の主が、ニアがカスケードから話を聞いたという“あの方”なのだろう。
「アルベルト・リーガルは手に入りました。しかし、彼に何をさせるというのです?」
『それは君の知るところではない。……それから、カスケード』
「はい」
カスケードの返事は、わずかに震えた。元来、隠し事や嘘は下手なのだ。記憶を失う前も、失ってからも。“あの方”は、全て知っていた。
『君はまた勝手な行動をとったね。一度きちんと罰を与えなければなるまい』
「……何のことですか」
『とぼけるな。ニア・ジューンリーに会いに行っただろう』
息を呑んだのはカスケードだけではなかった。アルベルトもまた驚いて、カスケードと呼ばれた彼を見た。冷や汗が浮かんでいる。当然だ、隠そうとしていた事実を指摘されてしまったのだから。
『そのおかげでジューンリーを留置所に放り込むことができたがね。君に会ったせいで、スパイだと思われたようだよ。……でも、私の命令を無視した罰は必要だ。君には今すぐできる、簡単な仕事をしてもらおう』
スピーカーの声は笑いを含んでいた。何が面白いのかはわからないが、声色が愉快そうに弾んでいた。
「仕事とは、何ですか」
『簡単だ。君が自分の銃の引き金を引けばいいだけだよ。……イリーの脳天に銃口を向けてね』
「……は?」
頓狂な声を発したのは、イリーだった。カスケードは目を丸くしてイリーを見、それから腰のホルスターに下げた銃を見た。会議室に来るときは必ず持って来るようにと言われていたので、今回もこうして所持していた。
「あの、どうして私に、銃口を? 脳って、死ぬじゃないですか」
イリーがスピーカーに向かって、恐怖の滲んだ薄笑いを浮かべながら言う。だが、声だけの存在は無情に告げた。
『アルベルト・リーガルを連れてきたのだから、君の役目はこれで終わりだ。安心して兄のもとへ逝くがいい。……さあ、カスケード、やりなさい』
カスケードは銃を取った。だが、その手は震えている。いずれは人を殺すことになると言われ続けてきたが、実際にそれをやったことはない。口では「殺す」と言えても、実行は難かった。
「……どうしても、やらなきゃ駄目なのか」
『それが君に対する罰だよ。やれ』
「やめろ! 私はまだ死にたくない! 撃つな、そのまま撃たずにいろ!」
叫ぶイリーに、カスケードは銃口を向けた。だが、スピーカーの向こうの人物にこちらの様子が見えるのだろうか。撃ったふりをして、イリーを殺さずに済ませられるのではないか。そう考えたが、それを見透かしたように、スピーカーの声は言った。
『撃ったふりをしてごまかそうとしても無駄だ。私は何度でも君に命じよう。イリーを殺せ。イリーを殺せ! イリーを殺せ!! どうせ軍の奴らを殺すんだ、ここで一人殺すのも同じだ!』
今回をごまかしても、きっと、ずっと、命令される。この地獄は、終わらない。イリーを殺そうと殺すまいと、決して楽にはなれない。
それが、勝手な行動をしたカスケードへの罰なのだから。そうしなければ、自分の居場所がなくなってしまうのだから。
「……ごめん。ごめんな、イリー」
「やめろ! 私は死にたくない! 死にたく」
生への執着を遮って、破裂音が響いた。
カスケードは涙を流しながら、額の真ん中に開いた穴から血を流すイリーを見つめていた。どうして自分が泣いているのか、わからなかった。




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posted by 外都ユウマ at 21:19| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年02月08日

Reverse508 第十九話

手にした眼鏡の銀のつるが、蛍光灯の光を反射する。なんて美しいのだろうと、思わず溜息をこぼす。
そうして納得のいかない気持ちを紛らわす。あれは必要なことだったのだと、自分に言い聞かせる。だって、それしかもう、縋れるものがないのだから。
世話をしてくれた女性はもういない。“あの方”の命令で、ボトマージュが撃ち殺した。
探していた声の主は、無くさなければならない軍の人間だった。会えたのだから、もう未練はない。……たぶん。
「……ニア。ニア・ジューンリー。俺は、この名前を呼んだことがあったっけ……?」
記憶を持たない自分が頼れるものは、何でも知っている人だけ。
ビアンカは「知っていた」。でも、思い出さなくていいといって教えてくれなかった。
“あの方”は「知っている」と思う。でも、きっとこれだけは教えてくれない。
カスケードが、いったい何者で、そもそもはどんな人物であったか。どんなことに興味をもち、どんなことをしていたのか。どうやって生きていたのか。知りたいことは、誰も、何も、教えてくれない。
その代わりに軍があるべきでない理由を教わった。だから、それしか標となるものがない。
「ニアなら、知ってるのかな……。俺のこと、教えてくれるのかな」
眼鏡の輝きを見ながら、あの緑髪の彼を思い出す。カスケードのことを知っているようだった。そして、カスケードに彼自身のことをわかってほしいようだった。
ああ、でも、潰さなければいけない。どうしよう。やっぱり全部聞き出してから、行動に移した方がいいのだろうか。でも、勝手に動けない。でも。
積み重なる「でも」で頭の中が埋まっていく。それをぼやけさせたくて、そっと銀のつるの眼鏡をかけようとしてみた。
カスケードには少し小さくて、レンズを覗くことしかできない。けれどもそれが良い具合に目の前の景色――寝転がっているので天井しか見えないが――を霞ませる。よく見ると、レンズはほんのりと緑色をしていた。たった今、それに気づいた。
「……なんか、落ち着く色だな。……そうだ、これ、ニアの色だ」
あの軍人の彼と自分の間に、何があったかは全くわからない。なのに、どうしてだろう。彼を思うと、こんなにもホッとする。ずっと近くにいてくれた気がするのだ。
「軍は潰すけど、ニアにはもう一度会えないかな」
そんな都合のいいことができるだろうか。できる方法は、あるだろうか。考えて、考えて、カスケードはひらめいた。
起き上がって、笑顔になる。
「……あ、そうだ。ニアを軍人じゃなくすればいいんだ。軍がどれだけ恐ろしいものか知ってもらえば、きっと軍人をやめてくれる」
たしか“あの方”が、軍人を一人こちらに引き入れると言っていた。ボトマージュも元軍人らしい。“あの方”の理念を、目指すところを、彼にも知ってもらえば、もしかしたら。
もっと彼と、話ができるかもしれない。


キメラ襲撃事件から一夜明けたその日は、練兵場に並べられたキメラの死体の調査と、何者かに殺害されたビアンカ・ミラジナの死体が本人であるかどうかの確認とで、丸一日を使った。調査結果を大総統に報告し、仕事が一旦終わった。
キメラの死体は調査が終わった順に片付けられた。サンプルとして体毛や皮膚組織などをとったが、その巨大な体はいずれも廃棄処分となった。ニアが戦ったあのキメラも含めてだ。
ビアンカの死体は、将官の許可が下りたので検分に回された。本来、外傷のある死体の検分は認められていないが、クローンの出現という先例があるために、彼女が本人であるかを確かめる必要があった。結果は、間違いなく本人だということだった。
つまり、ニアたちは重要な証言者を一人失ったことになる。
ビアンカにはもっとたくさん聞きたいことがあった。この五年、ずっとカスケードと一緒にいたのかどうか。なぜ彼の記憶がなくなったのか。彼女たちの裏にいるであろう黒幕はいったい何者なのか。そのいずれも、もう語られることはない。
今ここにある手掛かりは、監視カメラの記録映像に残る、彼女を「処分」した者たちの姿だけだ。
キメラの処分が終わった翌日、ニアはそれを、目が疲れるのも気にせずに何度も見た。――何度見ても、そこにいるのは親友だった。五年前までの全ての記憶をなくしたという、カスケード・インフェリアだ。
彼を取り戻さなくてはならない。そのために必要なのは、彼に全てを思いださせることと、彼らの言っていた“あの方”という黒幕の正体をはっきりさせ、捕まえることだ。
「……どうしてもカスケードばかりに目がいってしまうけれど、見るところはそこじゃないんだよね……」
繰り返し見ていたビデオを、ニアは一時停止させる。かけていた眼鏡を外し、目薬を点し、そのまましばらく天井を見ていた。
この映像で重要なのは、そこが練兵場であること。そして、侵入者たちの正体だ。カスケードが本人であることはわかっている。問題はフードを深くかぶったビアンカを殺した男と、アクトにそっくりな人物だ。
「どうして彼らが練兵場に入ってこられたか。夜勤がいたはずなのに……」
その答えはシンプルに想像が可能だ。誰もが寮を囲むように出現した大量のキメラに気をとられていたこと。そして、侵入者の一人がアクトにそっくりだったことだ。彼が夜勤に口利きをすれば、すんなりと施設内に入ることができただろう。
監視室にはクレインがいたが、外に注目していたために内部を見ていなかった。誰が入ってきても気が付かない状況だったのだ。
「あとから『黒髪黒目の男』として知られていたカスケードが入ってこられたのも、ほとんどの人間が外のキメラにかかっていたからだよね。それは仕方がないか。……あとは、彼らの正体だけど……」
映像には音声が入っていない。だが、ニアは自分の耳ではっきりと聞いている。フードの男は、ほぼ間違いなく脱獄に成功したヤークワイア・ボトマージュだ。そしてアクトにそっくりな青年は、これまでの例からクローンということも考えられる。
さらにボトマージュらしき人物がビアンカを撃った際に「こんな面倒な女、組織に入れなければ良かったんだ」と言ったことから、彼らは同一の組織の一員であると考えられる。
“あの方”という謎の人物がまとめる裏の組織に、カスケードたちは加入している。それだけは確かだ。彼らの目的は「軍を潰す」こと。――どうしてそんなことをしたいのかは、わからないが。そこに記憶を失っているとはいえ、あのカスケードが納得できるだけの理由があるはずなのだ。
「ニアさん、同じ映像ばかり見ていて飽きませんか?」
考え事をしていて、いつ近くに来たのか気づかなかった。クリスが、コーヒーカップを両手に一つずつ持って立っていた。片方をニアに差し出してくれたので、それを礼を言いながら受け取る。
「ありがとう。……何度も見てると新しい発見があって面白いよ、なんて返事ができればいいんだけどね。何もわかんないや」
「一日中視聴覚室に籠って、それですか。彼らの会話で、気になった点は?」
「同じ組織にいるんだなってことくらいだ。“あの方”って呼ばれている謎の人物が中心となって動かしていて、その人物はこちらの状況をきちんと把握している。僕が動かずとも向こうから来てくれたということは、軍に内通者がいるのはほぼ確定だよね。カスケードも『アクトのことは“あの方”から聞いていた』って言ってたし」
コーヒーを一口啜る。豆も淹れ方もちょうどいい具合だ。ニアは眼鏡を軍服の胸ポケットにひっかけ、ビデオを完全に停止させた。映像を映し出していた画面が暗くなる。
「向こうのアクトさんに似た方は何者なんでしょうね。やはりクローンの線が濃厚ですか」
「今のところは。本人に確認しても、兄弟なんかいるはずないって。記憶を継承して本人然と振る舞うことのできるクローンがいるくらいだから、今のところはそう思っていてもいいかも。……だとしたら、わざわざそれを作った目的は」
「軍への侵入と考えられます。アクトさんになりすまし、内部から軍を崩壊させる手筈を整える。……一介の中佐に成り済ましたところで、たかが知れてるでしょうに」
その仮説が正しければ、アクトは非常に危険な立場にいることになる。だが、ほぼ常時ディアと一緒にいるはずなので、過剰な心配はいらないだろう。どんなにそっくりでも、彼らがパートナーを間違えることはなさそうだ。
「一介の中佐、か。でも一度は大きな班の指揮を務めてるわけだし、そこに着目したって可能性もありじゃない?」
「だとしたら、製造されたのは例の大規模な薬物取締の後になりますね。クローンの製造にどの程度の時間がかかるのかはわかりませんが、あれからそんなに経っていません。あまりに早すぎませんか?」
「そうだね。それなら他の人、たとえばクリスでもよかっただろうし。……考えれば考えるほど、わからなくなるな」
ニアは大きく伸びをして、それから別のことへ思考を移してみた。ビアンカの検分の結果は、どうだっただろうか。彼女からは何も見つかっておらず、ただ頭を強力な銃で撃たれたということだけが判明している。銃弾を調べた結果、軍で支給されている銃を改造したものではないかという推測がなされた。
仮に彼女が生きていて、証言を得られたとすれば、もっと詳しいことがわかっただろうか。やはり彼女の死は惜しい。証拠云々よりも、純粋に生きていてほしかった。――せっかく、本来の彼女を取り戻せそうだったのに。
「……ビアンカちゃんの遺体、どうするんだっけ」
「彼女は幼い頃に両親を喪っています。彼女を置いて行方不明になったそうで、遺体を引き取ることのできる身内は見つかりませんでした。ですから、一般の共同墓地に埋葬されます」
「そう。……両親を喪ったのは僕と同じなのに、どうしてこうなったんだろうね。カスケードと出会って世界が変わったのだって、僕も彼女も同じだったのに」
苦手な相手だったが、ニアと彼女の境遇はよく似ていた。ただ、どちらがよりカスケードと一緒にいたかという差が悲劇を生んだのか、それとも他の何かの要素のためか。何にしろ、彼女がニアを殺そうと思わなければ、その要因がなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
「こうなってしまった以上、過去の『もしも』はいくら考えても無駄なことですよ、ニアさん」
「そうだね。僕らはもう、前に進むしかないか。……さて、裏組織調査はどうなっているかな」
残っていたコーヒーをぐっと飲み乾して、ニアはカップを持ったまま立ち上がる。そしてビデオをデッキから取り出すと、クリスと共に、視聴覚室を後にした。

裏組織に関しては、膨大な情報がある。裏社会には多数の組織が存在しており、どれも異なる目的や行動理念を持っている。中でも多いのは、危険薬物の取引等で金を稼ごうとするもの、そして反軍を掲げてテロなどを行なうもの。
しかし今回襲撃してきた者たちを特定するのは、この裏社会というものがあまりに大きすぎて、難航していた。反軍組織らしいことをうかがわせるような言動がカスケードたちからあったが、それだけでは情報が足りない。
「反軍のわりには、ボトマージュらしき人間やニアさんの親友さんを抱えてて、おかしな組織ですね」
「おまけにアクトさんに似た人もいるんですよね」
「そう、それがすごく迷惑。そのせいでおれに対する将官の監視が厳しくなってて、やりにくいったらないよ」
事務室に戻ったニアの耳に飛び込んできたのは、そんな会話だった。カイとリアが、アクトに今回の事件の話をしているらしい。彼らはこちらに気づくと、すぐに手元の書類を持ってきてくれた。
「ニアさん、『黒髪黒目の男』の目撃情報を改めて集めてみました。この組織の動き、結構手広いですね。裏社会の中枢っぽいって話は前からありましたけど、それをまとめている“あの方”とかいうのはここまですごい人なんでしょうか」
「たぶんね。この人物さえ捕まえることができたら、裏社会は一気に崩壊するかも。でももしこのまま取り逃せば、逆に軍が壊されるね」
カスケードの言っていたように、「軍を潰す」ことが目的だとするならば、それには多くの手駒が必要になるだろう。「何でも屋」のような動きをしていたのは、その手駒を増やすためというのもあったのかもしれない。
いよいよをもって“あの方”と接触を持っているらしい人物たちが出てきたということは、軍を崩壊させるための準備はほぼ整っている可能性がある。そもそも内部犯がいるというだけで、すでにこちらは後手にまわっている。
「ニアさんの方は? 何か見つかった?」
「いいや、何も。カスケードがたしかに本人であることくらい……」
そこで、ふと、一つの疑問が湧いた。カスケードがその正体をあらわにしたのは、消火用のスプリンクラーが作動したからだ。だが、あの場に火気はなかった。あったとすれば、フードの男が持っていた銃くらいだ。しかし練兵場のスプリンクラーがその程度で作動するようなものなら、そこで訓練などしていられない。あの施設には、あらゆるものに練兵場として正常に機能するような調整が施してある。
「スプリンクラーを作動させたのは誰?」
スプリンクラーの作動がなければ、『黒髪黒目の男』がカスケードであることを軍全体が知るということはなかった。そのはずだった。
「あのとき、クレインがニアさんの危険を放送で知らせてましたからね。誰かがニアさんを助けようとしてやったことかもしれませんよ」
「うん、僕もそう思いたいんだけど。……だからこれは下衆の勘繰りになるかもしれないんだけれど、軍内に『黒髪黒目の男』の正体をばらすことで、有利になる人物がいたとしたら? つまりは、最初から『黒髪黒目の男』がカスケードであることを知っている人物がいて、それをあの場で公開してやろうと思った……なんてことを考えたんだ」
目的はいろいろ考えられる。軍の権威や軍家であるインフェリア家を貶めるため、記憶がいつ戻るかもわからないカスケードを何があっても軍には戻さないようにするため。しかしいずれにしても、「黒髪黒目の男」がカスケードであるということを知っている人物でなければそんなことはしない。そのことを可能性として持っていたのはジューンリー班の人間と、大総統ダリアウェイドだ。そしてそれを事実として知っていたと思われるのは、軍内に潜む敵方のスパイ。
「ニアさんは、スプリンクラーを作動させた人がスパイだっていうんですか?」
「もう一度言うけど、下衆の勘繰りだよ。僕を助けてくれようとしたなら、感謝しなきゃいけないんだもの。お礼を言うためにも、疑いを晴らすためにも、それを行なった人物を知りたいんだ」
自分でも疑心暗鬼になっているということは承知している。承知の上で、ニアはその可能性にかけたかった。何でもいいから、彼につながる手掛かりがほしい。この思いだけは、今でも変わらない。
「ジューンリー班のメンバーはとにかく練兵場に行こうと思って行動していましたから、スプリンクラーの操作なんか無理です。クレインもあの放送の後、すぐに練兵場へ走ったようですし」
カイが言う通り、ジューンリー班の人間にはスプリンクラーの作動はできない。急なことで、誰もその判断ができなかった。
「カスケードさんの正体を暴こうとするなら、その行動を押さえていなきゃいけないですよね。タイミングよくスプリンクラーを作動させなければならないから、……ええと、クレインちゃんが放送のあとですぐに監視室を出ていったあと、入れ替わりで監視室に入って……スプリンクラーの管理も監視室でできるはずだから……」
リアが考えを口にしていくごとに、ニアの中で不安が募っていく。もしかして自分の「勘繰り」は、話をとんでもない方向に持って行くことになってしまったのではないか。
この内容が今も各部屋を見張っている将官に聞かれたら、真っ先に疑われるのは。
「その話の通りだと、スパイとして怪しいのはクレイン・ベルドルード中佐ということになるが?」
その声に、ニアは振り向く。今、この事務室を監視していたのは、セントグールズ・エスト准将だったようだ。いつもニアに嫌味を言ってくる人物だ。
「……だから、下衆の勘繰りですよ。それに、ベルドルード中佐は放送のあと、すぐに監視室を出ています。ですから彼女と入れ替わりに監視室に入った人物がいるという仮定です」
ニアが反論しても、エスト准将は動じない。それどころか、こちらを嘲笑しながら返す。
「それも本当かどうか怪しいものだ。すぐに場を離れたというのは彼女の自己申告ではないのか? ジューンリー班のメンバーは、どのタイミングで、どこで合流した?」
「それは、練兵場入口前で……タイミングは、スプリンクラーが作動してからしばらくたった後で……」
「ほらみろ、貴様の考えは彼女に疑いをかけるに十分値するものだ。しかもベルドルード中佐は情報処理担当、今現在最もスパイ容疑が濃厚な人材だ」
将官による見張りが強化されている今、うかつなことを言うべきではなかった。ニアは自分の発言をひどく後悔していた。だが。
「監視室に入った人物なら、それこそ監視カメラの映像で特定できるだろう。ベルドルード中佐があわてて監視室を出ていったのなら、記録映像は司令部の内側を映し出しているはずだ。貴様は視聴覚室にいながら、いったい何を見ていたんだ?」
エスト准将の言葉は、むしろ救いだった。ニアは練兵場の映像しか見ていない。なぜなら、侵入者たちがここへ入ってきたときには、監視カメラは施設外側を映しているものと思い込んでいたからだ。
練兵場を映しているときは、カメラは館内に向いていたはずだ。
「そうか、そのときの監視室付近の記録を見ればいいんだ! エスト准将、ありがとうございます! 意外といい人だったんですね」
「貴様が一つの物事にとらわれすぎているから、いらいらしただけだ。インフェリアばかり気にしているから、こういうことになる」
「そうですね、仰る通りです。ここの監視があなたで、本当に良かった」
ニアが笑みを浮かべて言うと、エスト准将は咳払いをしながら目を逸らした。柄にもなく照れているのだろうか、と思いながら、ニアが次にすべき行動を決めようとしているところへ。
「あの、だめですよ。監視室付近のカメラ、破壊されてますから。ベルドルード中佐が出た後の映像が残ってないんです」
同じ事務室にいて話を聞いていたらしい、他班の者がそう言った。
「貴様、なぜそれを早く言わない! 報告・連絡は軍における基本だろう!」
「す、すみません! みなさん知っているものかと……上にはすでに報告済みでしたので」
「報告済み? ではなぜそれが連絡されていない?」
「それは私にはわかりかねます……」
他班の彼がエスト准将の剣幕にたじろいでいる間、ニアはそれを止めようとしつつも、一つの考えを得ていた。
下衆の勘繰りと言ったこの推理が、実は当たっている可能性がある。あのときすでに、フードの男、アクトに酷似した青年が練兵場にいた。そしてカスケードがその近くにいた。
監視室付近のカメラを壊したのは他の人間だ。それもカメラの場所を熟知している人物だ。カメラに映らず、クレインにも覚られない方法で、それをやってのけたのだ。
「……ますます内部犯らしいね」
アクトの呟きが背後に聞こえた。

ニアは念のためクレインと共に、監視室付近のカメラと、それが映していた最後の映像を確認した。
カメラはたしかに破壊されたようで、現在は撤去されている。残骸から、どうやら銃で破壊されたらしいということがわかっているそうだ。
そしてそれが映し出した映像は、クレインが完全に走り去った後で途切れていた。
「クレインちゃん、銃声は聞いた?」
「ごめんなさい、必死だったもので……聞こえていたとしても、外の喧騒と同じに思っていたかもしれません」
たしかに当時は、寮付近の大量のキメラを片付けている最中だったはずだ。銃声が聞こえていても、全くおかしくはない。
「映像を見る限り、付近の様子を確かめてもいないようだね」
「あのときは、とにかくニアさんを助けに行かなきゃって思って……」
「うん、そうだよね。ありがとう」
クレインがスパイであるはずがない。彼女にそんなことができるわけがない。
以前、ベルドルード兄妹から聞いたことがあった。自分たちは、ある人に誓って軍に入ったのだと。そうして努力し、この若さで中佐という立場に上り詰めた彼女が、卑怯な真似をするなど考えられない。
「あの騒ぎだ。誰かがあの場を離れても、誰も気づかない。……そもそも、あの大量のキメラたちを送り込んできた目的は何なんだ? ビアンカちゃんが僕を狙うなら、あんな大がかりなことをする必要はない。また呼び出せばいい。組織が軍を潰すため? だとしたら、もっと本気でかかってくるはずだ」
ビアンカの連れていたキメラはともかくとして、寮を襲った多くのキメラは、力こそあれど、強くはなかった。あのためだけに急ごしらえで用意したようなものだった。
組織の人間を軍施設内に侵入させるためだけに、あれだけのことをしたのか。それはビアンカの考えだったのか。それとも、“あの方”の思惑だったのか。
組織の人間はなぜ、軍内に侵入したのか。――ビアンカを、始末するためだけに?
スプリンクラーはなぜ作動したのか。――カスケードの姿を、軍にさらすために?
「……宣戦布告」
ぽつりとクレインが言う。ニアが彼女を見ると、彼女もまたニアを見つめていた。
「カスケードさんって人が、軍を潰すってはっきり言ったんですよね。ビアンカ・ミラジナもそう言った。わざわざそれを言いに来るってことは、あちらは相当な自信があるんじゃないですか? これから確実に潰しに行く、どんな対策をしても無駄だ、と。カスケードさんの姿をさらしたのも、その一つ。大総統閣下も認めるほどの実力を持った人間を、敵側が抱えているのだという証明。……そして」
静かに語っていたクレインは、目を伏せ、言葉を切った。言ってもいいのかどうか、迷っているふうだった。だが、彼女は、俯いたままそれを口にした。
「ビアンカ・ミラジナは、そのために組織に利用された」
「……そんな」
「殺されたということは、彼女はすでに用済みだったということです。組織にとって、彼女の果たすべき役割は終わったんです。そういうことにはなりませんか?」
ニアの脳裏に、ビアンカに作られたキメラの最期がよみがえる。それから、ビアンカの最期も。彼女らは同じだったというのか。利用されるために生かされ、用が済んだら消されてしまう。そんな悲しい命だったというのか。
「あの行動の全てが組織の存在を知らせるためのものなのだとしたら、彼らはまた来ます。目的は軍を潰すことなんですから」
「……僕らは、それを待つことしかできないの?」
「いいえ、先に彼らの拠点を見つけることさえできれば、こちらが有利に立てます。あれだけのキメラを、近隣住民に気取られることなく用意してきたんですから、そのための巨大な施設が近くにあるはずなんです。可能性があるとしたら、……アーシャルコーポレーションで利用していた研究施設が妥当じゃないかしら」
アーシャルコーポレーションの裏の研究施設は、すでに調査終了とされ、立ち入ることが許されていない。内部犯がいるとすれば、軍を立ち入らせずにそこを使うことは可能だ。
すると内部犯は、それほどまでに大きな力を持った人間ということになる。
「将官。あるいは、……あまり考えたくないですが、大総統閣下。私が怪しいと考えるのは、彼ら」
「……閣下は、違う。そう思いたい。将官の誰かが怪しいんじゃないか……」
そこまで言って、ニアは何かを思い出しかけた。何か、重要なことを。けれども、それが何なのか思い出せない。それが手掛かりになるかもしれないのに。
「……っ」
目がかすむ。思い出そうとするほどに、景色がぼやけていく。
「ニアさん?! 大丈夫ですか? 薬は……」
「持ってる。クレインちゃん、申し訳ないんだけれど、水を持ってきてくれる?」
「わかりました」
クレインが走り去る音が聞こえる。……そうだ、聞いたんだ。何かを聞いたはずだ。そしてそれに、違和感を持ったはずだ。何を奇妙に思ったのか、それがどうしても思い出せない。
ああ、視界が、暗くなる。
「ニアさん、水!」
「ありがとう。僕の胸ポケットに、丸薬が入った袋があるんだ。そこから一粒取り出して、僕の手にのせて」
クレインは言う通りにしてくれた。ニアのポケットから何かを抜き取り、かさり、という音の後に、手のひらに小さな何かがのった。ニアはそれを口に運び、クレインから水を受け取る。この薬だけは、相変わらず水がないと飲めなかった。
「……ありがとう。これで、もう少しすれば見えるはずだから」
「無理しないで。あんな事件があったから私たちも忘れてましたけれど、ニアさんはまだ復帰して三日目よ」
「僕も忘れてたよ。……だめだな。カスケードのことが絡むと、いろんなことを忘れたり、蔑ろにしたりしてしまう。僕は、それほど彼に執着してるんだろうね」
目の前の闇が、少しずつ晴れてくる。クレインの心配そうな表情が見えた。彼女に疑いをかけてしまいそうだったことも、こんな表情をさせてしまったことも、全てを含めてニアは「ごめんね」と言った。

その日の晩、ニアは早めに就寝しようと思い、部屋の風呂を使っていた。浴槽に浸かると、長い髪が湯に揺れる。それを眺めながら、どうしても思い出せない「聞こえたもの」のことを考える。
音か、声か。……声だ。誰かがおかしなことを言ったんだ。けれども違和感は一瞬で、すぐに忘れてしまっていた。もしかすると、大したことがないのかもしれない。でも。
「でも、……こればっかりだな、僕は」
確信が持てないことと、確信を持ちたくないことばかりだ。いつも「でも」を重ねている。はっきりさせなくてはならないことまで、自らぼやけさせている。
「これだもの、目も見えなくなるよ。僕はあの日から、目を背けたがっていたんだ」
そもそも、カスケードがいなくなったということから、「でも」は始まっていた。彼が自分を残していなくなるはずがないと。実際、どんな理由があるのかはわからないが、彼は記憶を失うことでニアの前から姿を消していた。ニアのことをきれいに忘れてしまっていた。
「……ううん、きれいに、じゃない。声だけは憶えていてくれた」
今縋れる、唯一のものがそれだった。声を憶えていてくれたのなら、他のことも思い出してくれるのではないか。そうしてここに戻ってきてくれるのではないか。それだけが、ニアの支えになっていた。そのことに、依存していた。
彼が「聴いたもの」を憶えていてくれたように、自分も「聞いたもの」を思い出せ。あの違和感の正体を掴め。ニアは目を閉じ、再び思いだそうとした。しかし。
「ニアさん、いる?」
「おーい、いるなら返事しやがれ」
その声で引き戻された。部屋の前に、ディアとアクトだろうか、彼らが来ている。ニアは急いで浴槽から出ると、「ちょっと待って」と叫んだ。急いで体と髪を拭き、服を来て彼らを迎え入れる。
「あ、もしかして風呂だった? ごめん」
「ううん、気にしないで。部屋着でごめんね」
「いや、押しかけて悪かった。ちょっと急ぎの用でな」
そう言ってディアが差し出したのは、開封済みの封筒だった。アクトに宛てたものらしい。
「これは?」
「今日、アクトに届いた手紙だ。消印から、エルニーニャ西部の町で出されたものだってことがわかる」
二人を座らせ、ニアはまず封筒をテーブルに置いた。湯を沸かしている間に、アクトに了解をとって、封筒の中身を確認する。手紙と、写真が入っていた。
「……この写真」
穏やかそうな男性と、アクトによく似た美しい女性、そして彼女に抱かれた子供。どうやら、家族写真のようだった。
「おれの親。その赤ん坊は、たぶんおれ」
アクトが言う。しかし、なぜこんなものが、封筒に入っているのか。アクトの両親は、彼が幼い頃に亡くなっているはずだ。
「手紙、読んでみてよ。そうしたらわかると思うけど、どうやら父さんの親友って人が送ってくれたらしい。……おれに話があるから、会いたいって」
断りを入れて手紙を読んでみると、たしかにそうあった。差出人はオレガノ・カッサスという人物で、アクトの父リヒテル・ロストートとは旧知の仲らしい。その彼が、アクトの居場所を突き止め、こうして手紙を送ってきたようだ。
「こんなときになんだけれど、会って来ようかと思って。もちろん細心の注意は払うよ。おれの偽物も出てることだし」
「うん、それはかまわないけれど……ちょっと待って、お茶を淹れてくるから」
いつもは眠る前に淹れているハーブティーを、三人分淹れる。そうしながら、ニアはあの手紙が本物かどうかを考える。送り主は本当に、アクトの父の友人なのだろうか。写真を一緒に入れてきたところを見ると、信憑性は高いが。
「はい、おまたせ。……いつ会いに行くの?」
「明日仕事の引継ぎをして、明後日に行こうかなって。ディアも」
「一緒に行くの?」
ニアが三人分のカップを置き、席についてから尋ねると、ディアは首を横に振った。
「同じところにいくわけじゃねぇんだ。オヤジ……ノーザリアのゼグラータ大将から連絡があってな。俺の身内を名乗る人間がノーザリア中央司令部を訪ねてきたらしい」
「身内って、ディアの身内は確か……」
ニアは言葉を濁したが、ディアははっきりと頷く。彼の身内は、全員とうにこの世を去っているはずだった。だからこそディアはノーザリア軍に入隊し、ゼグラータ大将に育てられたのだ。
「どうやら兄貴と姉貴らしい。二人とも俺自身が死体を見てるから、生きているはずはねぇ。……だが、リアの件もある。クローンの可能性を考えて、調べに行きたい」
「一人で? 危険じゃない?」
「向こうにはオヤジがいるし、問題ねぇだろ」
しかしゼグラータ大将は、先日軍を引退した。今では名誉大将という称号を貰い、第一線からは退いているはずだった。
ニアが答えに迷っていると、部屋の戸をノックする音がした。返事をして席をたち、客人を確認する。
「アルベルト、ブラック。どうしたの?」
「大佐、お話が。……あれ、ディア君にアクト君も?」
「なんだよ、お前らもいるのか」
アルベルトは一瞬の真面目な表情を驚きに変え、ブラックは呆れたように眉を寄せた。今日は「話がある」客人の多い日だ。
「その話、彼らがいても大丈夫なこと?」
「むしろ好都合です。ディア君には、ラインザーのクローンの存在を教えてもらいましたし」
ここのところ、アルベルトとブラックは、ニアが襲われた場所にあった残骸から発見された「ラインザー・ヘルゲインの体の一部」について調べていた。その近くの倉庫跡からも同じものが発見されたことから、ラインザーのクローンが作られているのではないかという疑いが浮上していたのだ。たしかにラインザーを殺してしまったはずの二人にとって、それはあまりにひどい仮説だった。
「好都合って? ラインザーのクローンについて、何かわかったの?」
二人を招き入れ、ハーブティーを追加で淹れる。その間にも、アルベルトの説明は続いていた。
「クローンについては何も。けれど、それを使っておびき出されました。……あの人が本当に死んだのかどうか、知りたければ指定した場所へ来いという手紙が来たんです」
「手紙?」
カップをアルベルトたちの前に置いて、代わりのようにニアは手紙を受け取った。そこにはたしかに、そんな内容の文章が書かれていた。
「指定された場所、……旧ダスクタイト家になってるけれど」
「ええ。手紙の宛名は僕になっていますが、ブラックがいなければ辿り着けない仕組みになっているんです。つまりこれは、僕ら兄弟を両方呼び出しているんですよ」
本当は僕一人で調べていくつもりだったんですけどね、などとアルベルトが言うので、ニアはブラックと一緒に彼を睨んだ。こんな怪しい手紙、彼一人に応じさせるわけにはいかない。
しかし、それをいうとアクトもだ。何とかして、アクト一人にならないようにする方法はないものか。
「偶然にしてはできすぎているね。今、アクトとディアも不審な呼び出しを受けて、そっちに行く話をしていたところなんだ」
「そうですか。では、例の組織とやらが関わっている可能性は大いにありますね」
「……やっぱり、おれのもそうなんだろうか。父さんの親友だっていうから、信じたいけれど……」
ディア、アクト、アルベルトとブラックへそれぞれ来た呼び出し。ディアには向こうに味方がいて、アルベルトとブラックは二人で現場に向かうが、アクトは……。
「万が一、アクトがいない間によく似た人が来ても区別がつくように、合言葉でも決めておこうか」
「ニアさん、結構古典的だね。いいよ、何にする?」
「ディアがいない間に一緒に見た映画から抜粋しよう。あんなスプラッタ、めったに観る人いなさそうだし」
誰かに聞かれていれば、こんなもの成立しない。ただの気休めだ。わかってはいるが、今はそれしか思いつかなかった。他の考えが邪魔をして、いいアイディアが出ない。
アルベルトたちも、出発は明後日ということになった。明日すぐというわけにはいかない。念のため、手紙自体を鑑定してから行かせることにした。
一部の人員が別々の場所に行く。それだけで、どうしてこんなに不安なのだろう。まだ、軍にも仲間たちが残っているというのに。
「それから、俺たちがいない間のニアのことだけどよ」
「僕?」
ディアの言葉に、ニアは首をかしげる。そんなに心配されるようなことがあっただろうか。
「クリスに任せればいいんじゃない? メリテェアは忙しそうだし」
「それが妥当だろうね。いつものことですけど」
「変な無茶するんじゃねーぞ。また見えなくなったら厄介だろうが」
なるほど、自分は常に彼らに心配をかけていたらしい。思えば、復帰して三日目だった。クレインにも心配されたばかりだというのに、とニアは苦笑した。
「大丈夫、無理はしないよ。仕事の引継ぎはちゃんとしていってね。たぶん僕とクリスで片付けることになると思うから。ブラックはグレンとリアちゃん、それとカイにもちゃんと頼んでいくこと」
「げ、カイにもかよ……階級並んでるとめんどくせーな。あいつ降格しねーかな……」
明日は引継ぎで忙しくなりそうだ。面倒な事態が起きなければいいが。だが、先日のような襲撃はまだないだろう。向こうも軍内の様子を見て、警戒しているはずだ。

翌日丸一日かけて、仕事の引継ぎが行われた。この機会に新しい仕事に挑戦することとなった者もいれば、いつもの仕事が増えただけの者もいる。佐官が一気に席を外すこととなるので、その仕事を下ろされた尉官たちには緊張が走った。
「俺が下級兵指導ですか?」
ディアの仕事を下ろされたグレンは、あからさまに不安そうな顔をした。だが、これも仕方ない。クリスはニアと共にアクトとアルベルトの残していく仕事にあたらなければならず、手が離せないのだ。少佐はこの班にはアルベルトとクライスしかいない。クライスは諜報担当としての仕事があるので、自動的に大尉であるグレンへとこの仕事が下りてくる。
「相手は入隊三年から五年の伍長、軍曹、曹長階級だから、グレンにもできると思うんだ。危険なことをしないかどうか見ているだけの、簡単な仕事だよ」
「でも、俺が指導なんて……」
「大丈夫ですよ、私がいますから」
戸惑うグレンの肩を、ラディアがポンと叩いた。入隊三年の曹長なので、彼女はこの指導対象に該当する。向こうから「ボクもです」とハルの声が聞こえた。こちらは入隊五年の軍曹である。
「……余計不安になった」
「えー、酷いですよグレンさん!」
「ボクも不安?! 頑張るので不安にならないでください!」
そのやり取りを見ながら、ニアはひたすらにこにこと微笑んでいた。もちろん不安がないわけではないが、彼らがいればグレンの緊張はほぐれるだろう。ただし、彼らの場合危険行為がないと言いきれないので、それなりに大変にはなるだろうが。なにしろ三十人斬りのラディアと怪力の持ち主ハルだ。ちょっとしたことでも注意を払わなければならない。
それでも誰かがやらなければならないので、そのまま頼んでしまうことにする。
「じゃあ、任せたね。次は……ブラックの仕事だけど、書類がいくつかと市中見回りがあるね。これ、リアちゃんとカイにやってもらっていい?」
「私たちはかまいませんよ。ね、カイ君」
「俺はブラックの仕事までやるの嫌ですけど。でもニアさんのいうことなら仕方ないのでききます」
このあたりは尉官によくまわってくる仕事なので、問題ないだろう。詳細はブラックから聞いてもらえればいい。
仕事の分担は、順調に進んでいった。片付かなければ班員全員で協力すればいいことだ。
「なんだか、みんなには申し訳ないな。おれなんて、本当に個人的なことなのに」
「いいんじゃない、他の人にもいい機会になるよ。それに、ディアがいないから始末書もなくてちょっと楽になる」
「俺の扱い酷ぇな」
仕事をそれぞれに振り分けながら、ニアはまだアクトの身を守るための手段を考えていた。せめて現地に確実な味方が一人でもいればいいのだが、身内の誰かを送るわけにはいかない。まずアクトが断るだろう。それに、彼の過去にも関わってくることだ。
そこでふと傍らの書類に目がいった。「無法地帯」と称されるギャンブルの町、マルスダリカについての報告書だった。以前、軍を大きく動かして、この町の調査にあたったことがある。そのとき危険薬物が仕組まれたとはいえ大量に見つかったので、残留分はないか度々確認に行っているのだという。
件の指揮がニアだったので、まだこちらにその書類がまわってくるのだ。そのたびに報告内容を読んでは、確認印を押して将官へ渡すということを繰り返している。
「……ん? マルスダリカ町長の息子って、けっこう各地に知り合いがいるんだ。まあ、ギャンブルの町だから、そういうのが好きな人は来るか……」
危険薬物が残っていて、勝手に流通させられては困る。なので、町民の交友関係なども調査の対象になっていた。その中に見えた住所に、ニアは目を留めた。
「エルニーニャ西部……この町は……」
昨日読んだ手紙の中に、近い住所があった。これはもしかすると、使えるかもしれない。
ニアはすぐさま電話をしに向かった。もしものときにアクトを守る手立てになるかもしれない。そんな希望を持って。
「こちらはエルニーニャ王国軍中央司令部大佐、ニア・ジューンリーです。……ええ、先頃は大変失礼いたしました。ヤージェイルさんに折り入ってお願いが……」
マルスダリカ町長の息子ヤージェイルには、エルニーニャ西部に親しい知り合いがいた。しかも、アクトが呼び出されている場所の付近に。そこへ行って、アクトに何かあったときに連絡をしてくれないだろうか。ニアは彼に、そう頼んだ。
『……ああ、いいっすよ。何かあったら軍に連絡すればいいんすよね。人の周りうろちょろ調べんのやめてくれたら、やってやるよ』
「わかりました、マルスダリカの調査は終わりにします。あなたたちは潔白がすでに証明されていますから、すぐにやめるよう伝えます」
これで頼れるものができた。あとは、このヤージェイルという男を信じるしかない。

翌日、彼らは司令部を離れた。そして、それぞれの相手に、立ち向かうこととなる。


エルニーニャ王国首都レジーナの地下にある、裏組織の研究施設兼居住地。そこが突然、空になった。
ボトマージュは北の隣国へ行ったということだ。大きな荷物を先に送り、旧型記憶継承クローンと呼ばれていた二人を引き連れて。
オレガノ・カッサスとアクト・カッサスはエルニーニャ西部へ向かった。元はそこを拠点としていたらしい。
イリー・クライムドは首都郊外にある、ある家に向かうと言っていた。彼に課せられた使命を果たすために。
そしてカスケードは、一人取り残される。“あの方”から何の指示も受けていない彼には、すべきことが何もなかった。
会議室にはスピーカーがあるばかり。誰かが見ているという感じはない。“あの方”は勝手なことをするなと言っていたが、今なら何でもできそうだ。
みんな出払っている。だったら自分も、ここを出ていいのではないか。
「……そうだ、説得しに行こう。イリーだって、軍人を仲間にしに行くんだ。俺がやっても問題ないよな」
黒髪黒目はもう目立ってしまうらしい。それなら、他の変装をすればいいだろう。このダークブルーの髪と海色の瞳を隠すことができれば、なんでもいいはずだ。
幸い、ここは研究所を兼ねている。髪色などを変えるための材料はそろっているということを、カスケードはオレガノから教わっていた。それをどう使えばいいのかも。それは近いうちに軍を襲撃する準備だったのだが、今この瞬間にも十分利用できた。
カスケードは塗料を持ち出し、部屋の風呂場でそれを頭からかぶった。あっという間に、髪の毛は赤くなった。その姿を鏡で確認し、満足そうに笑う。
次は目だ。カラーコンタクトも研究所にあった。オレガノが作りたてのクローンに装着させていたのを、カスケードはちゃんと憶えていた。それをつけると、目は鳶色になった。
「これで別人っぽいだろ。……あ、でもニアに会ったとき、わかってもらえるかな。名乗れば通じるか」
一人だけじっと待機するだなんて、そんなのはつまらない。行動しなければ、「理想の国」はできない気がする。
軍がなくなり、誰もが平和を感じられる、理想の国。“あの方”が目指すと言っていた国。記憶を失い何もわからなくなったカスケードが希望を持った、国の形。それを彼にもわかってもらいたい。
自分のことを知っているらしい青年、ニア・ジューンリーに。


四人も欠けたジューンリー班は、忙しいにもかかわらず、実に静かなものだった。事務仕事も淡々と進み、昼休みまで何の問題もなく過ぎた。
昼休みは静かなものだった。いつもの負け役がいないカードゲームは物足りない。以前にもディアがいないことはあった。アクトがいないことも。さらにアルベルトとブラックまでいないという状況は、退屈なものだった。
「カイ、今日は静かだね?」
「いつも通りですよ。しいて言うなら、あのまっくろくろすけがいないので平穏です」
その返事を聞いて、ニアは微笑んだ。普段は喧嘩ばかりしているが、それはやはり互いを気にしているからなのだ。カイとブラックは、そういう関係らしい。
「……静かだね」
ニアはもう一度そう言って、茶を淹れた。いつもより数の少ないカップに、少しずつ。
「今頃、みんなどこで何してるんだろうな。連絡がないってことは、無事ってことでいいんだろうけれど」
ツキが茶の入ったカップを受け取って言う。そう、今はきっと、まだ何も起こっていない。まだ移動中だからかもしれない。何が起こるのか予測できない今は、不安がただ募るばかりだ。
「どうしてみんな一斉に呼び出されたんだろう? これも裏が関係しているのかな」
「可能性は十分にありますね。ラインザーのクローンが少なくとも複数作られているかもしれないという事実、アクトさんによく似た人物の存在、脱獄を成功させたと思われるボトマージュ。それぞれが彼らに関わっていますから」
クリスが至極冷静に答える。それはニアにもわかっていたことだ。全員、今回動いている裏社会の組織に関係していると思われるもの。よく考えずとも明らかだ。
「呼び出してどうするんだろうね。一人一人、相手をするつもりなんだろうか」
「向こうの目的は軍を潰すことでしょう。それなら先日のように、一気に襲撃した方が手っ取り早いんじゃ……」
グレンに対し、クリスは首を横に振る。
「それは先日やってしまいましたからね。当分は同じ方法をとることはできません。軍が厳戒態勢をとっていることは、こちらに入り込んでいるスパイから知り得ているでしょうから」
「そうですわね。侵入対策は厳重ですから、前回のようにはいきません」
こんな話が第三休憩室で堂々とできるのも、今日の監視がメリテェアだからだ。本当は以前にも来たニアの知り合いの中将だったらしいが、「ここまで俺が見張る必要はないだろう」とメリテェアと交代したらしい。こちらを信じてくれているのか、彼はあれ以来、第三休憩室の監視には来ていない。
ディアたち四人が欠け、その間のことを相談したい今、中将のこの行動はありがたかった。
「こうして一人一人を相手にするようなことをしたのは、ボトマージュ氏、アクトさんにそっくりな方、そしてラインザーのクローンが、組織の重要な位置にいるからでしょう。彼らにとって一番厄介な人間から手にかけていこうとしているのかもしれません」
「なるほど。……やっぱり、あの場に現れた人は組織の要人。ビアンカちゃんを殺したのは、彼らの用が済んだからか。ディアたちに何もなく“あの方”についての情報を得られればいいけれど……」
ビアンカの死の瞬間が、ニアの脳裏をよぎっていく。彼女のように仲間が喪われることが、どうかありませんように。行った彼らを信じ、そう願うしかない。ニアにはそれ以外、何もできない。
その晩までは、そう思っていた。

「おーい」

彼が、現れるまでは。





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2014年01月31日

Reverse508 第十八話

大総統ダリアウェイドからの通達で、将官は現在、軍全体の人間の動向を探っている。裏社会との繋がりを持っている人物がいる可能性がある以上は、自分の担当班員であろうと、それ以外の人員であろうと、全てを疑わなくてはならない。
そして将官は、大総統からの疑いにさらされている。これは大総統本人が言ったことだ。「君たちは私によって常に疑われているのだ」と、彼ははっきりと宣言した。
だが、大総統一人で将官全てをチェックできるかといえば、そのはずもない。一人一人簡易な面談を行なってはいるが、それだけで敵か味方かを判別することは困難だ。敵は巧妙に軍に溶け込んでいる。かつてのソフィア・ライアーのように。
よって将官同士も、互いに疑いの目を向けている。そんな中で現在取り扱っている捜査に協力するというのは、監視も含んでいるということを考慮しても、ありがたいことだった。自分のやっていることが正しいという自信があれば、恐れる必要は何もないのだから。
「先頃の捜査へのご協力、感謝いたしますわ。エスト准将」
メリテェアは素直に彼に礼を述べた。彼がニアの怪我に関する一連の事件と同時に起こった倉庫爆破事件について情報をくれなければ、この件は行き詰っていたかもしれない。
「軍では情報の共有が基本だ。これくらい、礼を言われるようなことではない」
「そうは仰いますが。あなた、ジューンリー大佐のことをいつも気にかけていらっしゃるようですわ。今回情報をくださったのも、そのためではありませんこと?」
セントグールズ・エストはよくニアに意地の悪い言葉をかけにくる。わざわざ彼に近づいて。それをメリテェアは見逃していなかった。
「そ、そんなことはない! ……ただ、あやつがカスケード・インフェリアの友人であり、奴を捜索していると聞いている。インフェリアがいなければ、かつて建国三英雄と呼ばれた家で残るのは、我がエスト家のみになる。それでは困るのだ。だから少しばかり手を貸してやっただけだ!」
「その言葉、ジューンリー大佐が聞いたら、きっと喜びますわ。今度は素直にお話してあげてくださいね」
微笑むメリテェアから、エスト准将は目を逸らし、去って行く。その耳は真っ赤だった。

軍病院では、ニアが新しく出来上がってきた眼鏡に喜んでいた。見た目には前のものとほとんど変わらないが、それがまた嬉しい。これまで使っていたものを随分気に入っていたため、そのほうがいいのだ。
「やっぱり眼鏡があったほうが楽に見えるね。これで安心して仕事に戻れるよ」
実は目はもうほとんど回復している。現場再調査の報告から数日経って、眼鏡なしでも周りが見え、文字が読めるようになっていた。それはつまり、ニアのストレスが順調に解消されているということでもある。
だが、やはり眼鏡があると安心感が違うらしい。手元に置いておくだけでも、「何かあっても大丈夫」というお守りになる。それが今度はニアの状態に合わせて使えるよう、二種類用意してあった。
「でも無理はしないこと。疲れたら目をちゃんと休ませてね。薬もちゃんと飲んで、よく寝て、それから……」
「わかったよ、サクラちゃん。もう大丈夫だから、心配しないで」
ニアがにっこり笑うと、サクラは呆れたように、しかしどこかホッとしたように息を吐いた。それからまとめた荷物を持つと、ニアと、彼を囲んでいたその仲間たちに頭を下げた。
「それでは、私は一旦北に戻ります。ニアさんとうちのお兄ちゃんのこと、どうかよろしくお願いします」
「もちろん、お任せください」
「ニアさんが無茶しないよう、しっかり見張ってるから」
「もう、みんなしてそういうことを……。それはともかく、カスケードのことは任せて。きっと今度はいい報せを届けるようにするから」
「ええ、期待してるわ」
ふっと微笑んで、サクラは病室を後にした。中央の仲間たちのことを、心の底から信頼したからこそ、あとを任せられる。ニアのことも、兄のことも、全部。どんな結果になっても、それが彼らの出したものならば、納得しようと決めていた。
サクラが帰り、ニアの退院が決まり、いよいよ本格的に裏社会の組織の捜査が始まろうとしていた。これまでジューンリー班のメンバーは一丸となってやってきた。危険薬物の取引があればその詳細な情報をもらい、すでに収監されている者からも何度も話を聞いてきた。
そうして中央司令部の事務室に帰ってきたニアのもとには、たくさんの資料が揃えられていた。仲間たちがこれまで頑張ってくれた成果だ。
「他の件での『黒髪黒目の男』の目撃証言もあるんだね。こんなに動くってことは、やっぱり彼は裏でも中枢に近いところにいるんだろうな」
「少なくとも、一組織の中心ではあるでしょう。アクトさんたちの前に姿を現したときは、目的は特になかったということですね?」
「本人はそう言ってた。あのとき捕まえた奴らも知らないって言ってたし、あれは独断での行動だったのかも」
「たとえ組織にいても、カスケードなら勝手に動きそうだ。僕でもたまに驚かされるようなことがあったからね。……ただ、独断で軍を襲うような人物ではないはずなんだ。彼がそうなってしまった理由を、きっとビアンカちゃんが知っている」
ビアンカ・ミラジナの行方さえわかれば、捜査は一気に進むはずだ。だが、その直接的な手掛かりは出てこなかった。しかし、それをあぶりだす方法ならある。
「ビアンカちゃんは僕に対して殺意を持っていた。もしかしたら僕がキメラから受けた傷で死んだものと思っているかもしれない。これまでのことを教えてくれたとき、冥途の土産って言ってたからね。……僕が生きていることを知れば、また現れるかも」
「生きていることをどうやって知らせるんだよ」
「いつも通りに仕事をする。それで彼女が改めて僕を殺しに来たら、彼女は何らかの方法で僕の様子を知ることができているってことになる。軍にまだスパイが潜んでいるかどうかも見極められるかもね」
まだ数日は様子を見ていいだろう。何もなければ、外での任務に参加して、人目に触れるようにしていく。ニアの体調を考えても、それがベストな方法だった。
幸い、資料は山ほどある。他の仕事だって、遅れを取り戻さなければならない。ニアにはやることがたくさんあった。
「さあ、仕事を始めようか。僕らの日常を過ごそう」
入院生活の間、ずっと待ち望んでいた「日常」が、作戦にもなる。ニアに「何もしないで休む」という選択肢はなかった。

ニアが入院する前と変わらず、レジーナ近辺では事件が起きる。それに裏が関わっているにしろいないにしろ、軍には要請が来る。それを以前と同じように、一つずつこなしていく。
少し変わったのは、それらが将官の監視付きで行なわれるようになったということだ。ジューンリー班はメリテェアの管理下にあるが、彼女以外の将官も様子を見に来ている。軍内にスパイがいないかどうか、それを確認するためのものだ。
少しでも怪しい動きをすれば、たちまちに将官がやってきて、説明を求める。机の下に物を落としたのを拾おうとしただけでも、「どうした?」と尋ねながらやってくる。仕事がしにくくて仕方がないが、これも「第二のソフィア」がいないことを確認するための策だ。だが、やりすぎは「第二のハル」を生むことになる。将官たちはそこに気を遣いながら動いているようだったが、一部はやはり神経質になりすぎたり、権力を振りかざしたりして、顰蹙をかっていた。
「ヴィオラセント、いつも暴れている貴様が怪しい。将官にたてつくのは、貴様が裏と関係しているからではないのか?」
ニアがその声を聞いたのは、久しぶりに第三休憩室へ向かう途中だった。廊下で将官がディアをねめつけながら、その台詞を吐いていた。いつだったか、アクトに絡んでディアに掴みかかられていた、あの少将だ。
ニアは奇妙な懐かしさを感じながら、そちらへ向かった。
「ただの私怨で俺を疑ってんじゃねぇのか? 上に立つ奴としてどうかと思うぜ」
「将官に対しその口のきき方はなんだ、佐官風情が! 貴様のようなやつがいるから、軍の風紀が乱れるのだ!」
「いつだか自分で風紀乱そうとしてた奴がよくそんなこと言えるな」
「はい、そこまで! こんなところでつまらない言い争いはやめてください!」
睨み合う二人の間に、ニアが割り込む。そしてディアをかばうように少将の正面に立ち、つとめて冷静に言った。
「少将、疑いを前面に出すと、万が一本当に裏と関係している人がいた場合に、うまく隠れられてしまう恐れがあります。そのような物言いはやめていただきたい。それから、ヴィオラセント中佐は真の軍人ですよ。彼が裏と繋がっていることはあり得ません」
「ジューンリー大佐、君は奴の管理が甘くはないか? もう少し部下の躾をきちんとしたまえ」
少将は鼻で笑いながら去って行った。どうやら本当に、ディアに文句をつけたかっただけらしい。ああいう輩が出ないようにしてくれと大総統には頼んだが、大総統もわざわざ全ての人員に対し注意できるほど暇ではない。ニアは深く溜息をついてから、振り向いてディアの顔を見上げた。
「大丈夫だった?」
「……ほっといてくれても良かったのによ。お前はどこまでも世話焼きだな」
「部下があんなに言われて、見てみぬふりできるわけがないでしょう。あの人、きっとアクトを見かけたら同じように声をかけるだろうから、注意しておかなくちゃ」
腰に手を当てて憤慨するニアに対し、ディアは一瞬ぽかんとしたあと、盛大にふきだした。それからここが廊下であることも忘れて笑い出したので、ニアはあわてた。
「ちょっと、何で笑うの?! 僕、笑われるようなこと言ってないよ!」
「いや、お前って本当に部下思いだなって。……それに、よく憶えてたな。あいつがアクトに手ぇ出そうとしてたこと」
「だって、僕らが初めて話したのってあのときでしょう。忘れられないよ」
「そういうところが面白ぇ」
ディアはまだクックッと声を漏らしている。それを見て、憶えてるのはそっちもじゃないか、とニアは思う。互いに、出会ったときのことはちゃんと憶えていたようだ。
彼との縁も不思議なものだ。ニアにとっての恩人に育てられた彼が、こうして一緒に働くようになるなんて。これもまた、運命というものなのだろうか。
「休憩室入ろうぜ。久しぶりにポーカーでもやるか」
「じゃあ、早くお茶を淹れなくちゃね」
第三休憩室のドアを開けると、すでに一部のメンバーは集まっていた。外でのやり取りを聞いていたようで、「お疲れ」「さすがニアさんですね」などと声をかけてくる。ディアに対しては「日頃からの行いってやつですよ」とヤジが飛んだ。当人は「うるせぇ」とひとこと返して、いすに乱暴に座った。
「さて、お茶を淹れようか。あ、種類が変わってる」
「メリテェアが冬の茶葉を仕入れてくれたの。ニアさんが淹れてくれるのは久しぶりだから、私も手伝うわ」
「ありがとう、クレインちゃん」
和やかな時間を過ごせることが嬉しい。久しぶりの紅茶の香りが、みんなの声が、日常に戻ってきたことを教えてくれる。
だが、やはりここにも監視は入るようだった。
「失礼する。ジューンリー、元気になったか?」
「あ、中将。おかげさまで」
ビアンカが来たときに、彼女のもとへ案内した中将が休憩室に入ってくる。「一応全部屋に将官が入るんだ」と彼は苦笑しながら言った。将官には、休み時間がないらしい。
「このあいだは悪かったな。俺がもっと早くミラジナの様子に気づいていれば……」
「いいえ、中将は僕らの仲が良かったと記憶していたんですから、仕方がないですよ。僕だって、あんなことになるなんて思っていませんでしたし。あ、お茶飲みます?」
「ありがとう、いただくよ」
お茶を淹れながらクレインが説明してくれたことによると、ニアが入院した頃から、こうして将官が交代で休憩室の監視を行なっているようだ。初めのうちこそ気になって、カードゲームもできなかったが、次第に気にならなくなってきたという。悪いことなど何一つしていないのだから、気にしなくてもいいのだ。ただ、カードゲームをすることで、ディアの負け癖はおそらく司令部中に広まったという。
「相変わらずのバカの川流れよ」
「ははは……こんな状況でも、みんな楽しそうでなによりだ」
丁寧に淹れた温かい紅茶を、まずは中将に振る舞う。感動した様子で「美味い!」と言ってくれた。どうやらブランクがあっても腕は落ちていないらしいことを確認して、ニアは次の一杯を淹れた。
休憩室にはだんだんと人が増えていく。戸口に立つ中将に挨拶をしてから、自分の好きな位置につき、紅茶を飲んだりお喋りをしたり、カードゲームで負けたり勝ったり。監視されているというのに、堂々としたものだ。
途中から紅茶はアクトに任せて、ニアもカードゲームに参加した。すると、久しぶりなので女神が微笑んでくれたのか、良い役がまわってきた。
「やった、一発! 僕はこれで変更なし」
「よほど良いのが来たんだな。これは初めてニアに負けるかもなー」
「とか言って、結局ツキが勝ちを攫ってくんだろ。いつものパターンだよ、いつもの」
どうかこの楽しい時が続いてほしい。そう願わずにはいられない。けれども、ここにただ浸っているだけでは何も変わらない。変えられない。それがわかっているから、こうして休息を楽しめるのだ。
ゲームはいつも通りに、ツキが最高役、ディアが役なし。パターン化されたものすら面白い。ニアにとっては、この一秒一秒が愛おしい。一度死にかけたからだろうか、以前よりももっと、「生きている」ということを実感できる。
「ジューンリー、楽しそうだな。インフェリアがいた時みたいな顔してる」
中将にそう言われ、そうかもしれないな、と思う。嬉しい、楽しいという感情が溢れて、他の人にも伝わっているのだろう。
「中将もやりますか?」
「俺は監視役なのでできません。……でも、もうここは監視しなくて良さそうだな。お前たちが怪しいなんて、少しも思えない。というわけで俺は出てくよ。紅茶ごちそうさま」
「今度は監視じゃなくて、遊びに来てください。また紅茶淹れますから」
「ああ、またな」
ばたん、と戸が閉まる。さっきの少将とは全く異なる、あんな将官だっているのだ。まだまだエルニーニャ軍人も捨てたものではない。ニアはそう思いながら、次のゲームに加わった。
久方ぶりの楽しい時間を過ごしたあとは、午後の仕事へ。新しくきた書類の処理の合間に、これまで調べてもらったことを確認する。眼鏡を通したほうが書類を読みやすいので、仕事中はずっと装着していた。
その間にもちくちくと刺さる将官の視線。これに慣れるまで、ニアにはもう少し時間が必要らしかった。

その日の仕事が終わった後、ニアはメリテェアに呼び止められ、事務室に残った。他のメンバーや他班の人間が出ていくのを見送って、二人きりになってから、彼女はやっと切り出した。
「今日一日過ごされて、いかがでした?」
「監視がきついね。自分で内部犯の可能性を提示しておいてなんだけれど、将官たちはかなり厳しく見ている印象だった。たまに勘違いしてるのもいたけれど」
「ええ。閣下が号令をかけてからというもの、みなさん必死になっていますわ。多くの方は本当に真面目にしているのですが、一部は自分の見栄のためだったり、裏社会に知られたくない個人的な悩みを抱えている方もいるようですわね」
弱みを握られれば、相手が誰であろうと従わざるを得なくなる。そんな状況が予想される者ほど、今回の件に敏感になっているらしい。たとえば、長く在籍している者で、我が子を軍に入隊させた者がいる。自分の名誉のために子供を不正に昇進させているという噂がもともとあったが、その彼が誰よりも目を光らせているのを見て、噂は本当だったのだと確信したと誰かが言っていた。そんなに極端な例でなくても、誰だって人に知られたくない秘密を抱えている。つけこまれるとなす術のない弱みがあるのは、しかたのないことだ。
問題はその考えのために冤罪を生まないかどうかということだ。以前のハルのように、不当につらい思いをする人間が出てはいけない。
「閣下も心配されていましたわ。このやり方で冤罪が出てしまわないか、将官が偉ぶってしまわないかと。閣下がお一人で将官全員を管理することは難しいですし、補佐の方だって将官です。度が過ぎれば、軍内は疑心暗鬼に染まってしまいますわ」
ノーザリア危機でのマインドコントロールも、誰が前王派かわからないという疑心暗鬼を利用したものだった。この中央司令部内が、同じ状況になりかけていることは、意識しなければならない。裏社会の者たちはそこを狙ってくるかもしれないのだから。
「メリテェアさんも、今日は誰かを監視してたんですか?」
「ええ、わたくしは最も疑いのかかっている情報処理担当を。一日中情報処理室にいましたので、だんだんクレインたちに申し訳なくなってきましたわ」
「見てるほうもつらいよね。誰かを疑わなくちゃならないっていうのは、本当に心苦しい」
そうしみじみと言ったニアに、メリテェアは俯きながら返した。
「……ニアさんも、同じ気持ちなのでしょう。カスケードさんに対して、疑念を抱いているのですから」
「僕の場合はほとんど確信になっちゃったから、あとは彼を問い質すだけでいい。でも、メリテェアさんたちは何の罪もない一生懸命仕事に取り組んでいる人たちをも疑わなくちゃならない。これはとても苦しいことだと、僕は思う」
こんな状態がいつまで続くのだろうか。たった一日でこんなにも疲れてしまうのに、ニア以外の人々はこれをもう何日も続けているのだ。早く解放してあげたいと思う。そのために、真実を明らかにしなければ。
「将官同士も監視を?」
「ええ。できれば佐官以下の方々の意見もいただきたいところですわ。ニアさんは、今日は怪しい人を見まして?」
「裏と関係がありそうな人は、わからなかったな。あまりに間抜けすぎるのはいたけど」
「そういう方々には、別の意味で注意しなければなりませんわね。……さて、わたくしたちもそろそろ帰りましょうか。引き留めて申し訳ございませんでした」
「いいえ、メリテェアさんと話せてよかったです。またよろしくお願いします」
メリテェアも将官として、この行動は心苦しかったに違いない。彼女の話を聞くことで、それを少しでも和らげることができたなら、ニアにとってこれ以上のことはない。

そうしてニアの復帰一日目が、無事に終わるはずだった。ほんの少しの緊張感の中で、平和に過ぎていくはずだった。
しかし、獣の目は夜に光る。獲物が油断している隙に、その肉を貪ろうと狙いを定めるのだ。

日付が変わる頃、ニアはふと目を覚ました。早く就寝しすぎたのだろうか、妙に目がさえてしまった。体を起こし、カフェインの入っていないハーブティーでも淹れようかと、床に足をつけたときだった。
つま先から、ぴりりとした感覚が走る。一瞬、何か踏んだのかと思ったが、何もない。違う、これは物理的なものではなく、本能的なものだ。
いつか感じたことがある。そのときは目が見えなかったけれど、たしかに感じていた。外に大きな何かが来て、親友がそれと対峙しているという光景を、頭に思い浮かべることができた。そのときと同じ感覚だ。
ニアは胸騒ぎを覚え、眼鏡をかけた。そして急いで髪を結いあげると、大剣を持って部屋を出た。廊下は真っ暗だ。当たり前だろう、寮の消灯時間はとっくに過ぎているのだ。多くの者はすでに就寝しているか、そろそろ寝ておいたほうが良いかと判断している頃だった。窓から射し込んでくる月の光を頼りに進み、エレベーターを使って寮のエントランスまで降りる。
外は息を呑むほど美しい満月に照らされていた。冷たい空気の中、妖しい光が黒々とした影を浮かび上がらせている。
ニアは周囲をぐるりと見回し、それから寮の敷地内を歩いた。寮の敷地、とはいうが、実際はここも軍の管理下にある土地だ。本来ならば、簡単に侵入者を許すはずがない。しかし、ここに明らかに異質なものがあるということを、ニアは肌で感じていた。
はたして、それは「いた」。その重みで草は倒れ、ざくりという音を静けさの中に響かせる。それがいくつもいくつも、寮の周りを取り囲んでいた。闇の中に双眸が光っている。いったい何対あるのだろう。相手は、何体の獣を用意してきたというのだろう。
やむを得ない。ニアはこちらの気配を覚られないよう静かにエントランスに戻ると、そこに備え付けてある緊急招集のボタンを押した。
たちまち、寮内にけたたましい音が響く。ここで生活をしている全ての軍人を眠りから叩き起こす、緊急事態を知らせるアラームだ。その音に反応して、相手も一斉に動き出す。獣だから大きな音に驚いて逃げる、などという一般常識は通用しなかった。むしろそれこそが獲物を狩る好機と見て、寮に向かって飛び込んでくる。何体もの巨大な生物が、こちらへ向かって跳びかかってきた。
ニアだけでは一体しか相手ができない。だが、常に緊急事態に備えている者たちが即座に駆けつけてくれる。その中には、ニアの仲間たちの姿もあった。
「ニアさん?! これはどういうことですか?!」
ざわめくたくさんの声たちの中から、ニアはその声を聞き取る。どうやらクリスがこちらを見つけてくれたらしい。
「さあね、わからない。でも、敵襲ってことはたしかじゃないの?」
叫ぶようにしてその問いに答える。向こうには聞こえただろうか。なにしろ答えながら獣の一体を斬り払ったところだったので、こちらの声は喧騒と獣の倒れるどう、という音にかき消されてしまったかもしれない。
だが、その心配は無用だった。ここに集まったのは軍人なのだ。「敵襲」と聞けば反射的に次の行動を決められる。
「伍長以下、十五歳未満の者は部屋に戻って待機だ! そこのお前、司令部の夜勤担当に連絡し、寮生以外の者へ招集をかけさせろ! 相手はキメラだ!」
上官の中でも現場慣れしている者なのだろう。ニアにはそれが、知り合いの中将の声に聞こえた。
現場からしばらく離れていた将官たちは、寮を囲むほどの数のキメラに恐れ戦いている。彼らも今は、使い物にならなさそうだ。ここは普段から現場に出ていて「怪物退治」経験もある、准将以下の者があたるしかない。
「援護をお願いします! 今一体倒しましたが、個々の力は大したことがありません。銃などの飛び道具を使用している方々は後方を、剣など接近攻撃のできる方は前方を固めてください!」
ニアがありったけの声で叫ぶと、動ける者たちは即、キメラの対処に当たり始めた。キメラといえども、合成動物ではなく、特殊な処理を施して異常に巨大化させた大型獣のようだ。身体能力が体の大きさに見合わず、動きが鈍い。しかしそのパワーは地面をえぐるほどなので、侮っていては怪我をするだろう。
「剣は前衛、銃は後衛ですね。俺たちの得意技じゃないですか」
「センヴィーナでリアの立ててくれた作戦をそのまま使えるな。行くぞ、カイ」
グレンとカイが一体を相手にする。同じくコンビを組もうとしているのは、リアとラディアだ。
「私がキメラの足を払うから、ラディアちゃんが斬りつけて。仕留められそうになかったら、近くの人に頼もうね」
「了解ですっ!」
だが、短剣では確実にキメラを止めるには難しい。人間ならまだしも、皮の厚い巨大な獣相手には、ラディアの踊るように斬りつけるという戦法は通用しにくい。少々苦戦する二人を助けたのは、突如飛んできてキメラの後ろ足を地面に縫い留めた投げナイフと、思わず上体を起こした獣の胸を袈裟懸けに斬り裂いた巨大な鎌だった。
「飛び道具と刃系なら、オレたちもそうですよ」
「ボクたちもなかなかやるでしょ?」
アーレイドとハルのコンビネーションで、こちらも一体を倒した。
クリスは一人で獣と睨み合っていた。彼にとっては、キメラは因縁の相手だ。それがどんなものであっても。
「この棍で、キメラを倒せるとは光栄ですね。ボクはあの人を超えられるでしょうか」
棍での有効な攻撃は、頭部を殴って昏倒させることだろう。相手の大きさを考えると、これで骨を砕くには時間がかかりそうだ。そこは確実に仕留められそうな人に任せればいい。今のクリスには仲間がいる。一人で戦ってしまった、かつての上司とは違う。緻密な計算のもと、クリスはキメラに向かっていった。
銃は後方を固めろとニアは言ったが、それは威力度外視の、攻撃可能距離のみを考えた指示だ。遠距離からでも高威力の弾丸を放てば、その一発でキメラは仕留められる。問題は、ターゲットがおとなしくしてくれているかどうかだけだ。だから足止め役をアクトが、攻撃をディアが担う。アクトがナイフを振いつつキメラをその場に留め、視線で合図を送る。それに合わせてディアが引き金を引けば、改造されたライフルから獣の厚い体をも貫く弾が放たれる。それは真っ直ぐに獣の心臓に突き刺さり、息の根を止めた。気持ちの良いものではないが、仕方がない。なにしろ数が多すぎる。気絶させるだけではきりがないのだ。
「アクト、次だ!」
「わかってる! シェリアちゃん、そいつはおれたちで片付ける!」
「はい、お願いします! 本当はヴィオラセントに任せるのは嫌なんですけどね」
シェリアが弾丸を撃ち込んでいたキメラは、最後のあがきなのか、無茶苦茶に暴れまわっていた。その腱を切って動きを止められれば、仕留めることができる。
「ブラック、その刀でキメラを斬れる?」
「動物の急所がどこなのかわかんねー。首のあたりでもいっとくか」
アルベルトとブラックも、コンビを組んでいた。アルベルトが銃で獣の動きを封じ、ブラックが斬るという、ニアの指示通りの動きだ。刀では重さが足りないように思われるが、切れ味は一般的な剣よりも鋭い。確実に狙いをつけることができれば、巨大な獣にも対応できる。頸動脈にあたりをつけて、一太刀で勝負を決めた。
その頃、遅れて駆けつけた寮生ではない人員が到着し始めた。キメラに囲まれた寮を見るや否や、クライスは槍を手に獣の背中を狙いに行った。
メリテェアはそばにいた将官に状況を確認し、少し考えてから右手にレイピアを、左手に鉄扇を持って、周囲を見回した。そして、先ほど跳びあがっていったクライスへ声をかける。
「クライスさん、聞こえます?! キメラの背に乗れば、周囲が見渡せますわね? このキメラの集団を送り込んだ人物が、そう遠くない場所にいると思われますわ!」
「そいつを捜しながら戦えってことだな。了解!」
返事を確認した後、メリテェアは隣にいたクレインに目配せした。情報処理担当で実戦向きではない彼女には、それ相応の仕事がある。
「クレイン、あなたは……」
「わかってる。軍施設内の監視カメラのコントロールね。夜勤に頼んで、監視室を貸してもらえばいいんでしょう?」
「話が早くて助かりますわ。よろしくお願いします」
クレインが司令部に向かったあと、ツキが現場に到着した。メリテェアの姿を見つけ、状況を尋ねる。
「今、どんな具合になってる?」
「ほとんどのキメラは、寮生のみなさんで倒していただけたようですわ。それでもまだ残っているようなので、援護をよろしくお願いいたします」
「任せろ」
ツキはナイフを手に、キメラと軍の戦いの輪の中へ飛び込んでいった。メリテェアもその後を追う。
待機組になったシィレーネは、他の伍長や戦い慣れていない将官たちとともに、救護の準備をしていた。願わくば、誰も世話することのないようにと思いながら。
「どうか……どうかみんなが無事で、この事態を収められますように」
そう祈り、年下の子たちを励ましながら、彼女もまた奮闘していた。
誰もがこの事態に立ち向かっている。誰もがこの「たくさんのキメラ」に目を奪われている。その中でただ一人、ニアはその姿を見つけた。いや、導かれた。キメラたちの後ろを通り過ぎていく、赤毛の女性に。
「ビアンカちゃん……?」
ある程度は予測できていた。彼女がニアの生存を知れば、必ずキメラを再び仕掛けてくると。予想外だったのはここまで大きな事件を起こしたことくらいだ。狙うなら、ニアだけを狙ってくるものとばかり思っていた。
だが、実際そうなのだろう。わざわざこうして誘いをかけているということは、彼女はニアと戦いたがっているのだ。おそらくは、こんな見かけだけの獣ではなく、あのキメラで再戦したいのだろう。彼女を追いかければ、それがいるはずだ。
ニアは目の前のキメラを斬り払うと、急いでその場を離れた。

軍の敷地内で、特に広く設定されているのが練兵場だ。何人が、いつどんな状況でも戦うための準備ができるように、他のどの司令部よりも大きなつくりになっている。この練兵場を使うためだけに、地方からやってくる者もいるほどだ。
彼女は、そこにいた。施設内に入り込むのは容易だっただろう。夜勤も含めて全て、あの多数のキメラにかかっているのだから。
あれだけ大きなキメラを多数用意しておけば、一匹くらい司令部内に紛れ込んでも、気づくものはいない。結局は少数よりも多数が、印象のより強いほうが、その場の目を奪うのだ。
ただ、ニアにとって印象が強かったのが彼女だというだけ。彼女もそれをわかっていて、ニアの前に姿を現した。ニアを呼ぶためだけに、この大騒ぎを引き起こした。
「死んだかと思ってたわ。死んだと確信してた。なのに、どうして生きているの?」
グリフィン型のキメラを伴って、彼女はニアに語りかける。その眼には変わらぬ憎しみが込められていた。
「死ぬわけにはいかないからだよ。僕は、カスケードに会うまで死なない。ビアンカちゃんは、彼の居場所を知っているんでしょう?」
ビアンカの表情が歪む。憎悪がニアの胸に突き刺さる。大剣の柄を握るその手に、思わず力が入った。心が、体が、この恐怖に耐えようとしていた。
「知っていたとしても、教えないわよ。あんたと会わせるわけにはいかないの。絶対にね」
ビアンカはそう言うと、キメラの胴を軽く叩いた。それが出撃の合図だった。彼女の命じたとおりに、キメラはニアに跳びかかってきた。見上げると、ニアがつけた傷がまだ残っているのが見える。塞がってはいるが、あの場所は弱点になっているはずだ。
ただ、心臓を一突きしたところで、やはりあれは死なないのだろう。もっと確実に倒さなければならない。前回の二の舞は避けなければ。
ニアはキメラの着地点を見極め、そこから素早く離れると、大剣を構えた。そしてキメラが地面に着くと同時に、横薙ぎに振り切った。刃はキメラの左前脚に、がっつり食い込んだ。骨を断ちたかったが、それはどうやら難しいらしい。ニアの力も足りないのだろう。
だが、キメラは動かせる足を一本失った。膝を狙ったのだ、足を持ち上げることも苦しいだろう。無理やり大剣を引き抜くと、キメラは痛みに悲鳴をあげた。
「ごめん……ごめんね」
相手が生きている以上、心は痛む。謝罪を呟きながら、しかし全力で、ニアはキメラに再び斬りかかる。今度は右前脚だ。キメラが痛みに喘いでいるうちに、そちらにも厚い刃を叩き込んだ。叫び声が練兵場に響く。壁にぶつかって反響し、頭に音を残していく。動物の命を奪おうとするニアを責めるように。
しかし、これで前脚は封じた。キメラはその場に蹲るようにして、動かない。前回ニアを貫いた爪は、前足が体の内側に折りたたまれているので使えない。そのはずだった。
だが、キメラはなお戦いをやめようとしなかった。前足で立てなければ、後ろ足のみで体を起こせばいいとでもいうように、上体を持ち上げた。前脚はだらりとぶら下がり、後ろ足でバランスをとるように立つその姿は、巨大な人間のようにも見えた。
「ある程度の知能はつけてあるわ。痛みも感じる。苦しい、つらいといった感情もある。でもね、優先される行動はあたしの命令に従うことなの。どんなに傷ついても、この子は戦い続けるわよ」
ビアンカが無表情で告げる。どうしてそんなことを言えるのだろう。自分で作りだしたものに、どうしてそんなに残酷な目を向けられるのだろう。
「君は、この子を何だと思ってるんだ?」
ニアが震える声で問うと、彼女ははっきりと言い放った。
「あんたを殺すための兵器よ。五年前から、ずっとね!」
巨大な影は、そのぼろぼろになってしまった前脚を、肩の力で振り上げる。長い爪が届けば、ニアをまた傷つけることができるだろう。それが済んだら、他の人々を傷つけるか、使い物にならなくなったと判断されれば処分されてしまうのだろう。
ニアを殺すためだけに、ビアンカはこの生き物を作った。そんなことのためだけに、このキメラは生きている。それではあまりにも、悲しすぎやしないだろうか。
「……そんな役目、終わらせてあげるよ。もう戦わなくていいようにしてあげる。僕の傲慢な行動だ。君を救えるわけじゃない」
ニアは大剣の柄を両手でしっかりと握った。そして、振り下ろされたキメラの前足に向かって、思い切り振った。
刃が当たった前脚は、すでに断たれかけていた骨が折れ、肉がちぎれた。大きな爪のついた左前脚が、練兵場の地面にぼとりと落ちた。血がぼたぼたと流れ、ニアの身体も染めた。
左が駄目なら今度は右だと、キメラはビアンカの命令通りに動く。この悲しい生き物には、それしかできないのだ。自らの身を守ることはできず、ただひたすらに戦うことしかできない。そんなことが、あってたまるか。殺すために、死ぬために、命は生み出されるのではないはずだ。
ニアは襲いくる右前脚を大剣の面で弾き、キメラの懐に飛び込んだ。そして大剣の柄を短く持ち替え、頭の上に振り上げると、キメラの胸から腹にかけて思いきり刃を走らせた。キメラが悲鳴を上げる。だが、これくらいでは死ねないはずだ。この生き物は、そういうふうに作られてしまった。
だから確実に命を絶つには、きっとこの方法しかない。仰向けに倒れたキメラがもがこうとするのを、ニアは大剣の刃で止めた。右前脚に刃が食い込み、それを外せば血が噴き出る。それを浴びながら、もう一度同じ場所に刃を叩きつけた。二度目で骨が折れ、肉が落ちる。これでキメラには、戦う方法がなくなった。暴れるたびに背中の翼は羽を落とし、傷ついていく。叫ぶくちばしが痛々しい。早く終わらせてやろうと、ニアは再び大剣を振り上げ、キメラの首に向かって刃を落とした。悲鳴にならない悲鳴を聞きながら、何度も、何度も。
ビアンカから見れば、いや、他の人から見ても、ニアが狂ったように見えるだろう。ただひたすらに、泣きながら、キメラの首を切り離そうとしているのだから。
やがて、キメラは動かなくなった。もう悲鳴もあがらない。ニアを殺すために作られた命は、ニアによって絶たれてしまった。
その顔も体も赤黒く染めて、ニアは大きく肩で息をしていた。流れる涙にも、浴びた赤が混じる。
「……あんた、なんで泣くの」
ぽつりとビアンカが言った。
「悲しいから、泣くんだよ。君は泣かないの?」
ニアは血に染まった眼鏡を通して、ビアンカを見つめる。
「泣く必要、ないでしょ。あんたがこんなに残酷だったことには、驚いているけれど」
「君が生み出したものなのに、この子が死んでも泣かないの? こんなに酷い殺され方をしたのに、何とも思わないの? ……ねえ、この子はどうしたら報われたの?」
ビアンカはニアから目を逸らし、戸惑った様子で答えた。
「あんたを殺したら、軍を潰すはずだった。軍を潰したら、もう用はなくなる。データを残して、処分するつもりだった。そしてまた新しいキメラを作って」
「作ってどうするんだよ! 僕を殺したら軍を潰す? そんなことばっかりさせるの? この子は、キメラたちは、いったい何のために生まれてくるんだ?!」
ただ人の思うままに生きるだけなら、彼らの生とは何なのだろう。このキメラと戦っていて、ニアにはそんな疑問が生まれていた。殺さずに済む方法があるなら、そうしたいと一瞬思った。けれども、「ニアを殺せ」とだけ命じられてきたこのキメラには、それ以外の道がなかったのだ。ビアンカが、そう言ってしまった。
「君は何のために、キメラを作ろうと思ったの?」
「あたし……は、」
ビアンカはたじろぎ、俯いた。ニアのほうを見たら、その眼光に負けてしまう。そう直感していた。
「あたしは、神話生物に憧れていた。自分で作る方法があると知って、軍の科学部に入って研究をしていた。……そうしたら、あんたが、あんたとカスケードが現れたのよ。ええ、そうだわ。あんたが現れなかったら、あたしは……っ」
声が震えた。彼女の頬から、しずくが落ちた。ぽたり、ぽたりと、いくつも。
「あたしは、ただキメラが、神話生物が好きな、女の子でいられたのに……」
どうしてこうなっちゃったんだろう。きっと誰もが、人生のどこかでそう思う。それは些細なことかもしれないし、大きな転機かもしれない。けれども、誰にでもありうることなのだ。ビアンカは、それがきっと、今だった。ニアが両親を喪ったときや、親友と離れたときに感じたことを、今ビアンカは思っている。
ニアは眼鏡を外し、血を拭き取って、胸ポケットに入れた。ビアンカの、かつてキメラを作ることに夢を見ていた女性の、その顔を自分の目でしっかりと見るために。
「ビアンカちゃん、その頃に戻れないかな。君が純粋に神話生物を好きだった頃に。僕は、できると思うんだ」
近づいて、彼女に手を伸ばす。手の甲は血まみれだったけれど、手のひらはずっと大剣を握っていたせいで、汚れていなかった。
「もう、やめよう? 人を殺したり、軍を潰すなんてことを考えるのは」
涙を流す彼女に、笑いかける。血まみれの顔で笑顔を向けても、怖いかもしれないけれど。それでもそうしたかった。たとえ苦手な相手でも、人生があり、夢があるのは、他のどんな人とも同じだ。ニアにはそれを受け入れたいと思う気持ちがあった。
「……無理よ」
しかし、ビアンカはぽつりと呟いた。
「だって、あたし、またあんたを殺せなかったもの」
その瞬間、パン、と軽い音がした。ニアの目の前で、ビアンカの頭が弾けた。

クレインは司令部外の監視カメラで、キメラを操っている人物がいないか確認していた。だが、それらしき人物は見当たらない。彼女がカメラをチェックし始めたときには、もう内部に侵入していたからだ。
その可能性に気づいて、司令部内の監視カメラに画面を切り替えたときには、もう遅かった。練兵場を映し出すその画面には、地面に転がっている大きな獣と一人の女と、立ち竦んでいるニアがいた。それから、練兵場入口のところに、数人の人影が見えた。
クレインは即座に敷地内全体へ聞こえるようにマイクのスイッチを入れ、叫んだ。
「お願い、誰か練兵場に行って! 急いで! ニアさんが危ない!」
その声はキメラを片付け終えた軍人たちの耳に届く。最後の言葉を聞いたとき、真っ先に走り出したのは、ジューンリー班のメンバーたちだった。

無残な姿で倒れているビアンカを、ニアは茫然と見ていた。どうして、なぜ、こんなことになった。人間が突然こんなふうに死ぬなんて、ありえない。
第三者がそうしようとしなければ、こんな事態にはならないはずだ。
「全く、後始末をする側の身になってほしいものだ。こんな面倒な女、組織に入れなければ良かったんだ」
忌々しげな男の声がした。ニアはそちら、練兵場の入口のほうへ目を向けた。そこには、拳銃を持った男が立っていた。深くフードをかぶっていて、その顔は見えない。
だが、その後ろに立っている背の低い青年の姿は、見覚えのあるものだった。金髪と、一見女性と見紛うほどの美しい顔。
「……アクト?」
その名を呟くと、彼は反応した。しかしこちらを見て、首をかしげていた。
「……? まあいいか。ボトマージュさん、とりあえずあれ片付けないと、カスケードに見つかったらうるさくない?」
金髪の青年は覚えのある名前を二つ口にする。一つはかの大犯罪者の名前。もう一つは、求めてやまなかった親友の名前。
「名前を言うな。これだから貴様は……」
「あ、まずいこと言っちゃった? でも出てきた時点でばれるでしょ、どうせ」
あの二人は何を言っているんだろう。フードの男と、仲間によく似た青年は、いったい何者なんだろう。
考えているところへ、誰かが走ってくるような音が聞こえた。それはどうやら練兵場入口の向こうから近づいてくるようで、それに振り返ったフードの男と金髪の青年は、嫌そうな反応を示した。
「ほら、もたもたしてるから来ちゃったじゃん」
「うるさい、貴様にとやかく言われる必要はない。それにいずれわかることだ」
彼らが何やら言い争っている間に、全館放送が鳴り響いた。クレインの声だ。
『お願い、誰か練兵場に行って! 急いで! ニアさんが危ない!』
ニアはそれでハッとする。そうだ、ぼうっとしている場合ではない。今入口にいる彼らがビアンカを撃ったのは間違いないのだ。金髪の彼はともかく、フードの男は明らかに軍人ではない。この騒ぎに乗じて侵入したのだろう。
「君たち、いったい何者?!」
大剣を構え、彼らを見やる。彼らもこちらを見たが、それが確認できたのは一瞬だった。すぐに視界に、もう一人の人間が飛び込んできた。
背中へ伸びた黒髪に黒い瞳、大尉のバッジのついた軍服を着た、大柄な男が。
間違いなく、これまでに目撃されてきた、あの男だった。そしてニアには、それが誰だか一目でわかってしまった。髪や眼の色が違っても、彼は間違いなく、あの「彼」だ。
「おい、あれ、ビアンカ? 殺したのか?」
ビアンカの死体を見て、彼は言った。その声も、知っている。五年前のあの日まで毎日聞いていて、つい先日無線を通して話をした、あの声だ。
「だって、彼女にはもうこれ以上何もできないよ。“あの方”からも、作戦が失敗したら速やかに処分するようにって言われてたんだ」
「……そうか、そうだったんだな。“あの方”が言うなら、しかたないか……」
消沈した声も、聞いたことがある。ふらふらとビアンカの死体に近づいてくるその歩き方も、記憶の中の「彼」と変わっていない。
そのとき、突然天井から大量の水が降ってきた。消火用のスプリンクラーを、誰かが作動させたらしい。シャワーのように撒かれた水に、ニアは、そして歩いてきた彼は、思わず手をかざした。けれどもそれで水が避けられるはずもない。びしょ濡れになりながら、ニアは「彼」を見た。水のせいで髪を染めていた塗料が流れ、その本当の髪色をあらわにした彼を。彼は目に水が入ったのか、手で目をこすり、「あ、コンタクト」と呟いた。
体に付着した血を洗い流されながら、ニアはその名を呼んだ。
「……カスケード?」
「彼」はその名前に反応し、こちらを向いた。コンタクトレンズは両目とも外れてしまったらしい。本当の彼の瞳の色が、はっきりと見えた。眼鏡をかけていなくても、その姿は鮮明にニアの目に映った。
ずっと捜していた、ダークブルーの髪、海色の瞳。背丈は少し伸びて、大人っぽくなったかもしれない。五年も経つのだから、それくらいの変化はあるだろう。軍服はよく見ると、継ぎの跡がある。体に合わせて仕立て直したらしい。
「……その声」
「彼」はニアを見て、目を丸くした。それから、近くにビアンカの死体があることも忘れたかのように笑顔になって、言った。
「この前の声の奴だよな。どうして俺の名前、知ってるんだ? お前、名前は?」
まるで、ニアに初めて会ったかのように、カスケード・インフェリアはそう言ったのだ。
「名前は、って」
ニアもあれから風貌が変わった。背も髪も伸び、しかも今は洗い流されているとはいえ血まみれだ。一目ではわからないかもしれない。
「僕、ニアだよ。ニア・ジューンリー。君は、カスケードだよね?」
恐る恐る、ニアは自分の名を告げる。だが、返ってきたのは。
「ああ、俺はカスケードだけど。でも、どうしてそれをお前が知ってるんだ、ええと、ニア?」
どうにも不思議な答えだった。カスケードは自分の名前を認識しているのに、ニアのことはわからないらしい。名前を告げても。
「僕がわからないの? どうして?」
「どうしてって……あ、でも声はわかるぞ。俺、お前の声をいつも夢の中で聞いてたんだ。だからたぶん、五年前に会ってるんだろうなって思ってた。そうなのか?」
聞きたいのはこっちだ。ニアは他の存在などまるで忘れて、カスケードに向かって叫んだ。
「そうだよ! 君は五年前の春に行方不明になった! 僕の前から消えたんだ!」
「へえ、そうなんだ。ごめん、俺、その前の記憶ないんだ」
その言葉の意味をニアが理解する前に、大勢の足音が聞こえた。入口にいたフードの男と、金髪の青年が舌打ちした。
「ほら、来ちゃった。カスケード、帰るよ」
「その女を始末したら引き揚げろと“あの方”が言っていた。行くぞ」
「え、でも……」
カスケードがニアを見る。ニアもカスケードを見ていた。見つめあう二人の間に、声が割り込んできた。
「ニア、無事か?!」
ツキの声だ。だが、こちらを心配するその声は、練兵場に入ってきた途端に驚愕に変わった。
「え、なんでアクトがここに?!」
「はあ?! だって、アクトは俺と一緒にいるぜ?」
「え、おれ?」
ディアと、なぜかアクトの声もする。いや、こっちがニアの知っているアクトの声だ。だとすると、このアクトにそっくりな金髪の青年は、何者なのか。
「ほら、見つかった」
ビアンカの死体のそばにはカスケード。入口には二人のアクト。もうどこに目をやっていいのかわからなくなって、ニアは混乱していた。
「うわ、そっくりだな。アクトは軍にもう一人いるって“あの方”が言ってたけど、本当だったんだ」
カスケードは感心したように言う。彼は事情がわかっているようだ。“あの方”とやらのおかげで。
「カスケード、“あの方”って誰? どうしてアクトが二人いるの? 君はこの状況が理解できているの?」
ニアが問うと、カスケードは頭を掻きながら言った。
「“あの方”は“あの方”。それしかわからないんだ。アクトのことは“あの方”に聞いただけで、二人並んだのは初めて見た。状況は、まあ、しかたないんだなっていう理解をしている」
ニアにはとても理解できない説明をすると、カスケードはにっこり笑った。
「そんなことより、俺はお前に会えて良かった。声の主の顔が確認できて、満足だ。これでもう、軍に思い残すことはないな」
「どういうこと?」
尋ねたニアに、カスケードはその表情を全く崩さずに答えた。
「潰してもいいな、ってこと」
五年前までの彼なら、絶対に言わないであろうことを、いとも簡単に口にしてみせた。
言葉を返せないままのニアの前で、カスケードは踵を返し、フードと金髪の二人組のもとへ向かった。そして練兵場入口に集まっていた者たちを見、「お前らとの喧嘩の続きはまた今度な」と言って、ポケットから何かを落とした。
途端に目が灼けるような光が走って、おそらくはニアも含めた、その場にいた全員が目を閉じた。次に目を開けたとき、カスケードと、もう一人のアクトと、フードの男はもういなかった。
あとには、練兵場に転がるキメラとビアンカの死体だけが残っていた。

真夜中のキメラ騒動は、全てを倒したことで幕を下ろした。キメラたちの死骸はビアンカたちとともに練兵場に並べられ、検分は翌朝行なわれることとなった。
全員が一旦解散し、翌朝に備えることとなったが、ニアはそこから動けなかった。ツキに連れられ、ようやく寮の部屋に戻ることができた。
しかし、眠れるはずもなく、ただぼんやりと見た光景を頭の中で繰り返していた。

ニア・ジューンリー殺害未遂及び軍施設襲撃の犯人の一人とされたビアンカ・ミラジナは、あとから現れた何者かによって殺された。そのうちの一人はアクトと似通ってはいたが、本人ではないことが周囲の証言からわかっている。
また、一人は「黒髪黒目の男」、ではなく「ダークブルーの髪に海色の瞳の男」――行方不明だったカスケード・インフェリアであることが、証言と監視カメラの映像から判明した。
フードの男は身元不明だが、ニアが「ボトマージュ」という名を聞いている。そのことから、彼は南方殲滅事件首謀者ヤークワイア・ボトマージュである可能性が高く、現在刑務所に収監されているのは偽物ではないかという容疑が浮上している。
夜に寮を襲撃しようとしていたキメラは全て同型であり、巨大化されたライオンであることが判明した。また、ビアンカが連れていたキメラは先頃採取したサンプルと比較したところ、前回ニアを襲ったキメラと同じものであることが明らかになった。
軍では引き続き、行方をくらませた三人組を追うことにする。
以上が今回の顛末だ。事実だけを見れば、たったそれだけのことだ。
しかしたったそれだけが、軍にとっては大問題だった。施設がキメラを操る集団に襲われたことも、その集団の中に行方不明だった軍人カスケード・インフェリアがいたことも、軍全体に波紋を呼んだ。
緘口令が布かれているものの、いつどんな形でメディアに露出するかわからない。そうすると、南方の件以来徐々に回復させてきた軍のイメージは再び地に落ちる。インフェリア家の人間も、レジーナでは暮らしていけなくなるかもしれない。
「彼を呼び戻す気でいたが、難しいかもしれんな。何とかして再び軍人として迎えたかったが……」
大総統は、今の今まで、どんなことがあってもカスケードを再び迎え入れるつもりだったらしい。しかし今回の件で彼が裏に加担していることが露見してしまったので、それは難しくなってしまった。軍に戻そうとすれば、軍内の反対が必ず出る。
彼はすでに、それだけことをしてしまった。
「ジューンリー大佐、すまなかったな。これまでずっと彼を戻そうと頑張ってくれたのに」
「……いいえ」
ニアは俯いたまま答えた。しかし、その真意は「かまいません」でも「仕方ないことです」でもない。
まだだ。まだ、彼を引き戻すことのできる可能性がある。
「閣下、彼は五年前に行方不明になった際、記憶を失っています。本人がそう言っていました」
「記憶を? ……だから戻ってこられなかったのか」
「はい。彼が記憶を失ったのをいいことに、利用している者が裏にいます。この件が解決し、彼が軍人としての記憶を取り戻せば、きっと戻ってくるはずです。……彼の居場所はここです。どんなに反対されても、彼を迎える人がいる限り、彼の居場所はここなんです」
たとえ、軍人として迎え入れることが難しくなったとしても、裏からは必ず取り戻す。軍人でなくてもいい。親友としてのカスケード・インフェリアが帰ってきてくれれば、ニアはそれでいいのだ。彼を受け入れてくれる味方もたくさんつくったのだから、諦める必要なんかない。
「彼を弁護する材料はあります。あとは彼に思い出させるだけなんです。僕は彼の親友だ。絶対に彼を、カスケードを裏組織から取り返します」
声だけは憶えてくれていた。きっと他にも、思い出してくれる要素があるはずだ。大切な人だから、何が何でも取り戻してみせる。
カスケード・インフェリア奪還作戦の、始まりだ。


首都の地下では、とある裏組織が生活と研究をしている。司令は会議室のスピーカーから流れてくる。各人には部屋が与えられ、無駄な馴れ合いは不要だとされている。
ビアンカ・ミラジナが用済みとして処分された今、ここにいるのは五人だ。
元南方司令部長であり、南方殲滅事件首謀者ヤークワイア・ボトマージュ。
アーシャルコーポレーションの裏側の研究員であった、オレガノ・カッサスとその息子アクト・カッサス。
軍に恨みを持つ男、イリー・クライムド。
そして、記憶をなくした元軍人カスケード。
他にも軍内に協力者がいると、“あの方”と呼ばれているスピーカーの声は言う。
『ビアンカ・ミラジナは失敗した。彼女のようなことにならないよう、気をつけて行動することだ』
スピーカーの声は言う。この組織はこの声が全てだ。
『さて、軍に正体が知れたそうだな、カスケード。こうなれば、即軍に攻め込むしかないが……向こうも警戒している。少し時間をおこう』
「すみません。なんか水が降ってきたもので」
「貴様がビアンカ・ミラジナの死体になんか近づくからだ。あんなもの、放っておけばよかったものを」
「でも、ビアンカは一応今まで俺の世話をしてくれたから……放っておくのも、忍びなくて」
吐き捨てるボトマージュに、カスケードは本気で困っている。自分を牢から出した男ではあるが情けない奴だというのが、ボトマージュのカスケードに対する感想だ。ただ、軍人をも一瞬にして倒すことのできる彼の実力はかっていた。逆らいたくないと思うくらいには。
「僕も見られちゃったんだけど。これ、アクト・ロストートとの入れ替わり、成功するかな」
スピーカーに向かって発言したのは、アクト・カッサスだ。彼の見た目は軍に在籍しているアクト・ロストートに非常によく似ている。
『実際に軍施設に入り込むことができたのだから、成功するだろう。安心してアクト・ロストートを演じ、軍の人員を潰していけ』
「はーい。父さん、それでいいよね」
「……気をつけて仕事をしなさい、アクト」
オレガノはそれだけを息子に告げた。するとスピーカーの声は、今度は彼に問う。
『オレガノ・カッサス。クローンとキメラの開発状況はどうだ』
「キメラはもう使用できないかと。ミラジナの行動によって、軍が警戒しているでしょうから。ヘルゲイン型の大量生産は続けております。同時に、ボトマージュより提供を受けた死肉からの人体復活実験が進んでおります。あなたから提供のあった01型、02型は起動実験に入ります」
『01及び02は旧型の記憶保持クローンだが、おそらくは使えるだろう。これはボトマージュが使うといい。ヴィオラセントに会わせてやりたいだろう』
「はっ、ありがとうございます。必ずや軍を殲滅させて見せましょう」
オレガノはクローン研究を担当し、それを実際に使用するのがボトマージュとイリー・クライムドだ。イリーは兄を軍人に殺された経験があり、軍を激しく憎んでいた。
「私にはどのクローンを?」
『イリー・クライムド、君にはしばらくヘルゲイン型を使用してもらう。そして、軍から一人協力者を連れてくるんだ。……君が憎むブラック・ダスクタイトの兄、アルベルト・リーガルを』
「リーガル? ……かまいませんが、なぜ」
『命令は絶対だ。速やかにかかるように』
そして最後にスピーカーの声は、再びカスケードに語りかけた。
『カスケード。君は私たちの計画の最重要部分にいる。私の指示に従って行動するように』
「……指示に、って言いますが。俺にはビアンカを殺す必要があったのかどうかわかりません」
「貴様、まだそれを言うか! 不要なものは排除する方針なんだ!」
ボトマージュが怒鳴るが、カスケードはそれを無視してスピーカーの声を待つ。声はほんの少しの沈黙のあと、告げた。
『彼女の仕事は終わった。五年前にはもう終わっていたのを、ここまで引き延ばしていたに過ぎない』
そしてスピーカーは、ぶつりと切れた。
カスケードは納得のいかないまま、部屋に戻るしかなかった。
軍の必要ない、平和な世界を創るのだと、そのために自分たちは動いているのだと、カスケードは“あの方”から聞かされてきた。スピーカーを通して。時には歴史書を読まされて。
そこで軍を排除する行動に出るのはわかる。だが、そこにビアンカの犠牲は必要だったのだろうか。彼女の仕事が五年前に終わっているとは、どういう意味なのだろうか。
「ずっと研究してきたのに……あれ、そういえば、ビアンカはどうしてキメラの研究をしてたんだ?」
彼は知らない。自分の記憶を奪ったのが、ビアンカの作ったキメラの最期のあがきだったことを。瀕死のキメラが力を振り絞って彼の頭を殴ったことによって、五年前までの記憶が消されてしまったことを。
ビアンカが死んでしまった今、その事実を知る者は、もういない。




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posted by 外都ユウマ at 22:13| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年01月30日

Reverse508 第十七話

首都の地下には、かつてアーシャルコーポレーションが作り上げた巨大な研究施設がある。当然のことながらここも社長逮捕の際に調査が入ったが、すでに調べつくしたあとで、今は空っぽの状態だった。
だからもう、ここに軍が来ることはない。いや、“あの方”が軍を入れないようにしているのかもしれない。とにかくここは、今や秘密の研究にはちょうどいい場所となっていた。
そこに巨大なキメラの入った培養カプセルが運び込まれたあと、他にも様々なものが持ち込まれた。機械やその他の道具だけでなく、製造途中のクローンたちまで。ありとあらゆるものが揃った、裏組織による新たな研究施設が、ここに用意されようとしていた。
それとは別に、何部屋かの居住スペースも作られている。ビアンカとカスケードは、そのうちの一つを割り当てられた。他の部屋にも住人が入るらしい。
「なるほど、組織の人員をひとまとめにするってわけ。いよいよ本格的に、軍を潰す作戦が始まったってことね」
ビアンカが呟くのを聞いて、カスケードは頷いた。
「俺もそう聞いた。“あの方”に呼び出されたとき、俺が重要なメンバーだからって、他の人も紹介されたぞ」
「叱られに行ったんじゃなかったの?」
「もちろん叱られたけど、そのあとで。今後は勝手に行動せずに、そのメンバーと折り合いをつけながら動けって」
ビアンカはその話に納得がいかなかった。そんな話までされて、人員まで紹介されたというのなら、なぜ自分は呼ばれなかったのだろうか。おかげでニアを始末することはできたが、自分がその「重要なメンバー」とやらに数えられなかったということには不満を覚える。
「……じゃあ、ここに来る人のことは、カスケードはもう知っているのね」
「ああ。そのうち一人は、前に俺が刑務所に迎えに行った人。あとはなんとかって会社で研究員してたとか、軍に恨みを持ってる人とか。でも“あの方”には会えなかったな、相変わらずスピーカーから声だけ出てた」
カスケードのその言葉で、ビアンカは少しだけ安心した。自分は“あの方”に直接会っている。真っ黒なフードマントをかぶり、声は変声機か何かで変えていたので、性別も顔もわからない。だが、本人に会ったというだけで、自分にはアドバンテージがあるはずだ。
自分は使い捨てられるようなことにはならない。イストラのオファーニ・ルークや、自死を免れなかったソフィア・ライアーのようにはなりたくない。
自分は優秀なキメラ研究者であり、カスケードの恋人なのだ。他の奴らとは違う。ビアンカはそう心の中で呟いた。


軍病院の一室で、ニアはクリスからの報告を聞いていた。彼にはニアが倒れていた村の周辺を捜査してもらっていたのだ。当然、あの森の中も対象になっている。
「結論から言いますと、依頼者ビアンカ・ミラジナは発見できませんでした。森の中に家だったものの残骸はありましたが」
「残骸? 僕はたしかに家そのものを見たはずなんだけど」
「では、そのあとで破壊されたのでしょうね。現場に残っていた瓦礫の状態や硝煙反応から、ごく最近に爆破されたことがわかっています。近くの村の方も地鳴りのような音と揺れを感じたと言っていますし」
「じゃあ間違いないね。……ごめんね、読み上げさせちゃって」
「いいえ、見えないのだから仕方がないでしょう。全てが片付いたら、別の職に就くことをおすすめしたいくらいです」
クリスは手元に報告書を持っていたが、ニアが「ぼやけて読めない」というので、内容をかいつまんで教えてくれたのだった。どうせ証拠が破壊されていて、ほぼ成果の得られなかった捜査だ。報告書は見せなくともいいだろうとまで考えていた。
「ボクからの報告は以上です。これにニアさん、あなた自身の証言を加えなければならないのですが」
「どこから話せばいいのか、自分でまとまってないんだ。ビアンカちゃんのことはできれば自分で調べたいし……」
「その目で何を言っているんですか。断片的でも話が飛んでもいいので、とにかく話してください。こっちで整理してまとめます」
完全に呆れているクリスに、ニアは苦笑を返した。これが彼の心配のしかたであり、上司を傷つけられたことへの怒りの表れであることはわかっている。気持ちはありがたいのだが、ニアは自分のことなので自分で何とかしたいと考えていた。
しかしながら、現状では何ともできないことも事実だ。だからこそクリスは、ニアの代わりにこうして頑張ってくれているのだ。
「ええと、とりあえず今回の件に関係あることを話せばいいかな」
「関係ないことがあるんですか? できれば全てお聞かせ願いたいんですけれど」
ぐいぐいと追及してくるクリスに、ニアがたじろいでいたときだった。部屋の戸が開いて、サクラとメリテェアが入ってきた。もっとも、ニアには姿がぼやけて見えている。しかし誰かが来てくれたことであからさまに「助かった」という表情をしてしまい、クリスに深い溜息を吐かれた。
「ニアさん、具合はいかがです?」
「メリテェアさんだね。うん、目は相変わらずだけど元気だよ」
「目が相変わらずってことは元気じゃないってことよ、ニアさん」
「サクラちゃん、ごめん……」
サクラはすでにジューンリー班全員への挨拶を済ませていた。しっかり北方名物の菓子折り付きで。特にクリスとは見解も気も医学知識の面も合ったようで、こうして顔を合わせると二言目から事件の話を始めた。
「ニアさんを本気で殺そうとしたのなら、建物と一緒に破壊しちゃえば良かったのにね。それをしなかった理由はなんだったのかしら」
「それを知りたいので、当人の話を聞こうとしていたところです。もったいぶってなかなかお話してくれないんですけれどね」
二人は何やら恐ろしいことを言いながら、ニアから証言を引き出すために結託しようとしている。ニアは視線でメリテェアに助けを求めるが、笑顔で首を横に振られた。観念しろということらしい。
「さあ、ニアさん」
「話しなさい、ニアさん」
「……わかりました。わかったからちょっと待ってよ」
有能な仲間を持つと、大変だ。ニアはそれをひしひしと感じていた。
しぶしぶ話した内容は、次の通りだ。まず、ビアンカから「研究の成果を見てほしい」という依頼を受けた。これはクリスたちも知っている。ニアが出かける前に、仕事の引継ぎをしながら言い残していったことだ。
それから時間をかけて例の村へ行き、さらに森へと向かった。村がかつてカスケードが行方不明になった場所であることは、クリスたちも把握している。その頃、周囲はすでに深い闇に包まれていた。
森の中には一軒の家があり、ビアンカはその場所に車を停めた。この時点で、家はまだその形で存在していた。彼女はその家に入ると、一体のキメラを伴って再び出てきた。
「なるほど、キメラですか。あの場所にあった動物の毛らしきものは、そのキメラのものである可能性がありますね。採取したサンプルをもう少し詳しく調べてもらいましょう」
クリスは報告書にさらさらとニアの証言を書き加えていく。これを改めてまとめなければならないのだから、彼の仕事は大変なものになるだろう。
そんなことを考えながら黙っていたら、続きを促されたので、ニアは再び話し始めた。
ニアはキメラと戦い、確実にその心臓を突いたと思った。しかしビアンカの「改良」によって、キメラはその程度では死なないようにできていた。油断したニアの背から腹にかけて、キメラの大きな爪が貫通し、重傷に至った。
「改良? 彼女はその前にもキメラを作っているんですか?」
「うん。サクラちゃんにはつらい話になるけれど、そのキメラは五年前にカスケードが倒したとされるものと同型だったんだ。どちらもビアンカちゃんが、僕を殺すために作ったものらしい」
――本当はあのとき、あんたを殺すはずだったのに!
ビアンカの叫びが、頭の中にぐわんと響く。五年前の事件も、今回のことも、全ては彼女の思惑だった。カスケードを自分のものにするために、ニアをこの世から消してしまう手筈だった。しかし皮肉にも、五年前はそれが、カスケードを行方不明にするという事態に繋がった。殺されるはずだったニアは、今もこうして生き延びている。
「……それはおかしいですよ、ニアさん」
クリスが眉を顰めた。何か矛盾点でもあっただろうか。
「おかしいって、何が?」
「五年前のキメラも彼女の作だというのなら、どうしてカスケードさんは行方不明になったのでしょう? 五年前のキメラはカスケードさんによって倒されたと、ビアンカ・ミラジナが言ったのであれば、それは真実かもしれません。では、そのあとカスケードさんはいったいどこに? なぜニアさんのところに帰ってこなかったのでしょうか?」
それは五年前からの謎だった。キメラの死体だけがそこにあり、カスケードの姿だけが忽然と消えた。その理由を、ニアはずっと追い求めてきた。だが、どうしてもわからなかった。
「今回のことで、五年前の件にもビアンカ・ミラジナが関わっていることが判明しました。そこから導き出される仮説として、彼女がカスケードさんを連れ去ったということがあげられます」
「そうか……! ビアンカちゃんがカスケードのその後を知っているかもしれないんだ!」
「彼女にとって、あなたが生き延びたのは想定外だった。それならそれで、何も知らないふりをして、またキメラでも作ってあなたを殺しにかかればいい。しかしそれをせずにカスケードさんを連れ去ったとすれば、そうせざるを得ない事態が起こっていたのかもしれませんね。彼女にとっての、もう一つの想定外が」
それこそが、カスケードが行方不明となった理由。そして今、彼が裏と関わりを持っている可能性へとつながる道。
「ビアンカ・ミラジナは裏社会に属する人間である可能性が非常に高い。彼女を捕まえることができれば、様々なことが明らかになりそうですね」
しかし、今やビアンカの行方すらもわからなくなっている。彼女がいったいどこに消えたのか、それを再び捜査する必要がある。物的な手掛かりは破壊されたが、ヒントはある。
「さて、ここでボクがさっきおかしいと思ったことをもう一つ。今回のキメラはいったいどこへ消えたのか、という問題です」
「家と一緒に爆破されたんじゃないの?」
「いいえ、家の残骸からはキメラの血液らしき成分は見つかっていません。外にはニアさんと、そうでないものの血液が見つかっていますけれど。その血液を流したものがキメラだとして、ニアさんに一度倒されてからは、自分で動いた形跡はありません。その場から家以外の場所に運ばれたと思われます。おそらくそこが、ビアンカ・ミラジナの新しい拠点でしょう」
ニアはキメラの大きさを思い出す。あれだけ巨大なものを運ぶとしたら、相応の機械や輸送車が必要だ。だとすれば、現場にそのタイヤ痕などが残ってはいないだろうか。
「クリス、タイヤの」
「ちなみにタイヤ痕などは消されたと思われます。さすがに周到ですね」
「……そうか」
「しかし、だからこそ得られるヒントもあります。それだけのことをするのには、人手がいります。速さも必要ですから、動員された人間はすぐに駆けつけてこられる者でしょう。村の人は調べた結果、どうやらシロのようですね。それ以外の近隣住民で、最近様子がおかしい者、姿を消した者などを調べてみましょう」
手掛かりはけっしてゼロになったわけではない。わずかな可能性にも賭けてみる。それは捜査の基本だ。無駄なことなど何一つないのだ。クリスは自らそれを証明する気でいるようだった。
ここまでくれば、もはや執念だ。上司がキメラに襲われたというそれだけのことが、クリスを突き動かしていた。過去の後悔をもう二度と繰り返さないという強い思いが、彼にはあった。
「ニアさんがわざわざ村まで運ばれた理由も考えなくてはなりませんね。森の中に放置しておくことで生じる不都合が、ビアンカ・ミラジナにはあったはずです」
「さっきの話ね。彼女のせめてもの情けだったとか?」
「そのために村人に自分も見つかるかもしれないリスクを、彼女が背負うとは思えません。あれだけ周到に証拠を消しておいて、自分が捕まっては意味がないでしょう。ご丁寧に大剣まで添えてくれたんですよ。……おや、眼鏡はどこに消えたんでしょうね?」
まだ疑問は残るが、それを解消するための捜査がこれから始まる。ニアの証言によって、推理は大きく進展したはずだ。それを裏付ける証拠を、これから捜すのだ。ビアンカの行方とともに。
「クリス、ありがとう。こんなに考えてくれるなんて……」
「ボクのプライドもかかってますから。キメラで人を殺すなんてことが、そう何度もあってたまるものですか」
ニアはここでやっと、自分は生きていて良かったと思った。もしも今回のことで命を落としていたら、クリスは再び上司を喪うという経験をすることになっていた。その後の捜査でニアの死がキメラによるものだと知ったら、よりつらい思いをすることになるだろう。
一瞬でも、自分が死ぬべきだったと思ったことを恥じる。五年前だって、ニアが死んでいれば、きっとカスケードは苦しんだだろう。彼はそういう人間だ。
「僕も早く復帰したいな。クリスたちばっかりに任せてられないよ」
「そうそう、そのための話をしに来たんだったわ」
ニアの言葉で、サクラはここに来た本来の目的を思い出す。今の彼女は、ニア専属の医者だった。北方には他にも軍医がいるので、しばらくは彼らに現場を任せ、自分は中央に留まるつもりだという。実家がレジーナにあるので、滞在は全く問題ない。そうしてニアの目の検査や、新しい眼鏡の用意をしてくれることになっていた。
「目のことだけど、検査の結果があまりにも酷かったから、一から新しい眼鏡と薬を用意させてもらうことになったからね。もう少し時間をちょうだい」
「うん、ほとんど見えてないからね。そうだろうなとは思ってた」
復帰まではまだ時間がかかりそうだ。これまでは休めば回復していたのに、今回はそれがない。そのためにニアは焦っていた。下手をしたら、冗談ではなく軍人生活がここで終了してしまう。
そんなニアの気持ちを完全に見抜いて、サクラは言った。
「焦るのも良くないのよ。他の人がやってくれてるから大丈夫、くらいにかまえてないと。実際、ニアさんの部下の方々は非常に優秀で、捜査も随分進んでるからね」
「その通りだ。そうだね、もう少し楽に考えるよ」
とはいうものの、そう簡単に気を楽にできたら苦労はしない。ニアがそういう性格だったなら、そもそもこんなに症状は酷くなっていないはずだった。
サクラは挨拶がてら、ニアの目について、ジューンリー班の全員に説明していた。彼の目の異常は、もちろん五年前の事件に原因がある。たった今、それもビアンカの仕業であったことが判明した。
だが、それが今まで続いているのは、精神的な原因が大きかった。視力もたしかに弱くなったが、五年前の事件以前との差は実はそれほどない。目を近づけても遠ざけても書類を読むことができないなどといった症状は、ニアの心の疲弊に関係している。
眼鏡も、わずかに度は入っているが、主に目の疲れを軽減させる役割を担っている。レンズに少し見ただけではわからないような色が入っていて、それが目の負担を和らげているのだ。点眼薬も疲れ目対策にすぎない。
頓服薬は、精神安定剤だ。実のところ、ニアの持つ症状に最も効果を示しているのは、この薬だった。そういう意味でいうと、眼鏡や点眼薬も、これさえあれば大丈夫というおまじないのようなものなのだ。
今のニアには、様々な不安がのしかかっている。ビアンカのこと、カスケードのこと、そして自分自身のこと。強い憎しみをぶつけられ、捜し求めていた者は追うほどに知っている者とは遠ざかり、自分自身はこの目のせいで、軍人としての立場が危うい。かつての願いも、親友との希望も、何もかもが砕けて壊れてしまうかもしれないという恐れの中にいる。そんな状態で、精神力が回復するはずはなかった。
もともとニアはそう強くはない。両親を火事で喪ってからは、炎を恐れるようになった。親友が行方不明になってからは、またものを見ることができなくなるかもしれないという恐怖を常に抱えるようになった。守れないことが、助けられないことが、失ってしまうことが、とても怖いのだ。
「……さて、クリスさんは報告終わり?」
「ええ。証言も取れましたから、また報告書を作成して、捜査に繋げます。サクラさんの用はお済みですか?」
「だいたいは。そうだ、ニアさん。今日からはこの薬を必ず飲んでね。そしてぐっすり眠ること」
「わたくしもせめてお休みの役に立てればと思いまして、リラックス効果のあるアロマオイルを持ってきましたの。こちら、セットして置いておきますわね」
「みんな、ありがとう。薬はちゃんと飲むし、睡眠もとるよ。それしか今はできないからね。せめて目が回復すれば、本が読めるんだけどな」
「どうせ本より報告書になるでしょうから、もう少し見えないままでいいですよ。それではボクは失礼します」
「私も。まだまだ眼鏡や薬の打ち合わせがあるからね」
クリスとサクラが部屋を出ていき、病室は急に静かになった。メリテェアがアロマオイルを小さくきれいな細工の皿に垂らして、焚いてくれた。ほのかな香りが、心なしか気持ちを落ち着かせてくれるような気がする。
ニアはふっと微笑んで、メリテェアに尋ねた。
「メリテェアさん、いつまでいられるの?」
「わたくしもお仕事があるので、もう少しで行かなくてはなりませんわ。でも、すぐに他のどなたかがここに来るでしょう。みなさん、ニアさんに会いたがっていますから」
「そうか。嬉しいな、仲間がいるって。誰かがそばにいてくれるって、本当に幸せだ」
中央に戻ってきたばかりの頃の、心細さが嘘のようだ。今はとても賑やかで、温かな日々を送っている。大切なものが、随分と増えた。増やしてしまった。
どれも手放したくなくて、取り返したいものまである。ニアは我儘で、欲張りだ。けれどもそんな自分が、今はそれほど嫌いではない。みんなが好いていてくれるからだ。
だからこそ、ビアンカからぶつけられた嫌悪は痛かった。キメラから受けた傷よりも、深くて重かった。その彼女がカスケードを連れ去ったかもしれないという可能性は、酷くつらいものだった。カスケードが帰ってこないのは、彼女のように、ニアのことを嫌いになったからではないのか。そんな考えが、先ほどから頭にこびりついて離れないのだ。
「……ごめん、メリテェアさん。他のみんなには内緒にして。……年下の君の前で泣くなんて、情けないから」
「何を言っているんですの。わたくしはあなたの上司でしてよ。いくらでも泣いてくださって結構ですわ」
我儘で、欲張りで、意地っ張りで。そんな自分に向けられる好意がどれだけ幸せなものか、それを失ってしまうことがどんなに容易く恐ろしいことであるか、ニアは知っている。嬉しくて、怖い。幸福とは、そういうものだ。そのバランスをうまく保っていくことが、今のニアには難しい。あちらこちらに傾いて、たくさんのものをこぼしてしまいそうになる。
本当はこんな涙だって、こぼしたくはなかった。もっと強がっていたかった。だのに、もうそれすらもできない。一度決壊すると、もう止められない。
昔、とても怖い思いをしたときに手を握ってくれた親友は、そばにいない。でも、彼を捜すために集まってくれたたくさんの仲間たちが、見えない手でしっかりと支えてくれる。何が正しい道だったのか、あまりに幸福でわからなくなる。わからないから、怖くて、泣く。
「僕は、……これで、良かったのかな」
「良かったと思うことができれば、良いことなんじゃありませんの?」
「生きてて良かったなとは、思ったんです。ついさっき」
「そうですわね。わたくしたちも、同じ気持ちですわ。ずっと前から、これからも」
優しい香りが、病室に広がっていく。それを思い切り吸い込むように、ニアは深呼吸をした。落ちるしずくは、そのままにして。

翌日、アルベルトとブラックが病室を訪れた。アルベルトは、手に小さな保冷箱を持っていた。どうやらサクラから情報を仕入れたらしい。
「アイスクリームがお好きだと聞きまして。ブラックと並びました」
「と、じゃねーだろ。オレが並んだんだろうが」
「わあ! ここのアイス、久しぶりだなあ! 今年の夏は仕事仕事で食べられなかったし、ずっと恋しかったんだよ」
八年程前だっただろうか。街に新しいアイスクリーム店ができて、親友と一緒にそこのアイスクリームを食べたことがあった。以来、ニアの好物はその店のアイスクリームになった。アルベルトたちの持ってきたそれは、まさしくそのアイスクリームだった。
「そうそう、この味! 五年前の春に食べたきりだったから、すごく懐かしい。中央に帰ったら絶対食べようって思ってたのに、今の今まで忘れてた」
「本当に美味しそうに食べますね。大佐のそんな顔、初めて見ましたよ」
そう言って微笑むアルベルトの表情も、ニアにとってはレアものだ。なにしろ似た者同士なものだから、お互い真面目な顔ばかり見ていて、こんなに和やかな雰囲気になることすら珍しい。二人が衝突しないことで、ブラックも心なしか安心しているように見える。
「でも、冬が近いのに並ぶんだね。まだ人気あるんだ、あの店」
「レジーナのグルメガイドにはいつも掲載されている店だって、マクラミーさんが言っていました。僕もブラックも今年来たばかりなので、知りませんでしたけれど」
そういえばそうだった。彼らもニアと同じく、今年地方からやってきたのだ。それなのに、今や完全に中央の空気に溶け込んでいる。東方諸国連続殺人事件の後は、特にそうだ。憑き物が落ちた二人は、どこにでもいるごく普通の軍人になった。
「……そうだ、ずっと二人には謝らなきゃいけないなって思ってたんだ。ラインザーを殺させないようにするって言ったのに、結局それができなかった。ごめんね」
アイスクリームを食べ終わって、ふと思い出した。彼らをあの事件に関わらせると決めたとき、そう誓ったのに、できなかった。それをずっと謝りたかったのに、ずっとその機会を逃していたのだった。
突然の謝罪に、アルベルトとブラックはきょとんとしていた。けれども二人ともみるみるうちに眉を寄せると、ニアに詰め寄った。
「違うでしょう、大佐。人に物をもらったときは何て言うんですか? ものを食べ終わったときの挨拶は? 子供でもそれくらいわかりますよ」
「そんなこと言われるために見舞いに来てんじゃねーんだよ。もう二度と買って来ねーぞ」
「わ、ごめん! そうだね、違うよね! ……ありがとう。それと、ごちそうさま」
ニアがやっとその言葉を口にすると、二人は満足そうに頷いた。そのタイミングがぴったりで、やはりこの二人は兄弟なんだな、とニアは思った。
「……ところで大佐、目の調子はいかがですか? アイスクリームの箱はわかったようですが」
「あ、うん。どうしてかな、これはすぐにそうだってわかったんだ」
「好物だからじゃねーの?」
「だったら、みんなの顔だってもっとはっきり見えてもいいと思うんだ。現に二人の顔も、あんまり見えてない」
「面倒な症状ですね」
アイスクリームの箱は比較的すぐに判別がついた。ずっと箱のデザインが変わっていなかったことも幸いしてか、記憶で補正がかかったのかもしれない。このアイスクリーム店は、親友との最も楽しい思い出の一つだ。だからはっきりと憶えている。
五年前にサクラが初めて自分を診断したときの通り、目の異常は精神的なものに起因するのだろう。だからものによって、見え方が違うのかもしれない。
「症状といえば、バカイから伝言預かってきてる。新しい薬作るから、苦いのが平気かどうか確認したいってよ。自分で聞きに来いっての」
「君たちなんだかんだ言って仲良さそうだよね。苦いのは平気だよ。徹夜必至のときはどろどろの苦いコーヒーで乗り切ってるし」
どうやら新しい薬は、サクラの協力のもとで、カイが作っているらしい。サクラに毎日飲むようにと言われた薬も、おそらくはカイが調合してくれたものだろう。彼のような技能持ちがいると、本当に助かる。
「では、思いっきり苦いのでも平気そうだって伝えますね」
「アルベルト、僕は平気だっていうだけで好きだとは言ってないからね。薬は飲みやすいに越したことはないんだから」
その新薬がよく効いてくれるものであることを切に願う。早く復帰したいという気持ちは変わっていない。焦りもあるが、もとの輪の中に戻りたいという思いも強いのだ。また事務室で大騒ぎしながらデスクワークをこなして、第三休憩室で楽しい昼休みを過ごしたい。練兵場で大剣の訓練をして、体力を取り戻したい。ベッドの中は退屈で、動き回りたくて仕方なかった。
「あーあ、働きたいなあ」
「働きすぎのつけがまわってこうなってるんですよ」
「何もしてないと逆に荒むよ。メリテェアさんがアロマオイル焚いてくれなかったら、つらかっただろうな」
「そういえばなんか匂うと思った。これ、アロマオイルの匂いか」
美味しいものを食べて、何気ない会話をして、愚痴を吐いて。こんなやりとりがこの二人とできるようになるなんて、少し前は思っていなかった。彼らとのやりとりが、もしかするとどんな薬よりもよく効く気がして、けれどもそれではサクラやカイに申し訳ない気もして、どうしたらいいのかわからない。この場合は、わからなくても怖くない。ニアもうまく説明はできないが、安心できるわからなさだ。

薬の注文を即受け付けたのか、その日の夕方にはカイとサクラが新薬とやらを持って訪れた。見た目は(ぼやけてはいるが)どこにでもありそうな丸薬だ。だが。
「水で一気に流し込んだ方がいいと思います」
「……カイ、一応聞いていいかな。これ、原料は?」
「先に聞いたら飲みにくくなりませんか? ええとですね、枝タバコって知ってます? すごくまずい木の枝を乾燥させたもので、それに直接火をつけて煙草のように吸う場合もあれば、粉にして鎮静剤などの材料として使うこともあります。今回は後者のパターンですね」
「つまりまずいんだね。アルベルトめ、あれ本当に言ったんじゃないだろうな……」
説明を受けて、少しだけ覚悟をする。それから一気に丸薬を口に放り込み、水を飲んだ。それでもこの薬は、十分にまずいものだった。
「……きつい。これ、枝を直接吸う人って本当にいるの?」
「いますよ。ディアさんなんかは経験者で、でもよほどのことがない限りはそんなまずいものごめんだって言ってました」
「それを使ったんだね。ありがとう、まずかった」
だが効果のほどはたしかなようで、そう経たないうちに気分が落ち着いてきた。ほんの少しだが、視界のぼやけも和らいだようだ。カイとサクラの顔が並んでいるのが判別できる。
「効くことは効くみたい」
「良かった。じゃあ、これでいきましょうか」
「そうですね」
「うう、これからまずいのに耐え続けなくちゃならないのか……」
「少しは飲みやすくなるようにします。今こそ、俺が師匠から受け継いだ技が役に立つときですからね」
こうして薬を作るのも、素材の組み合わせやバランスなどをよく考えなければならないはずだ。それだけのことを、カイはこの数日でやろうというのだ。サクラと相談しながら、ニアにとって一番いい薬を作ってくれようとしている。
「これ作るのにどれくらいかかるの? 仕事のほうは大丈夫?」
「グレンさんが、しばらくはこっちに専念していいって。作るのもそんなにかからないんですよ。効率のいい作り方も覚えましたし、乾燥方法とかも工夫してます」
「カイさんの技術には恐れ入ったわ。師匠も本人の腕も良いのね」
カイは自分よりも、師匠を褒められたときのほうが嬉しそうだった。そんなふうに誇れる人を、彼も喪ってしまった。けれどもそれがなければ、今ここにいることもないかもしれないという。たとえ軍に入っていたとしても、現在のように過ごしてはいないかもしれないと。
痛みを乗り越えた先にあったのが、彼の現在なのだ。ニアがここにいることと同じように。
「それから眼鏡だけど、明後日には第一便が届く予定になってるわ」
「思ったより早いね」
「誰かさんが動きたくてうずうずしてるようだから」
こんなふうに自分を思ってくれる味方ができたのも、それまでに積み重ねてきた過去があるからだ。それが、どんなにつらく、苦しくても。

次の日の午前中は、リアとラディア、クレインの女の子三人組が来てくれた。私服であるところを見ると、今日は休みなのだろう。外は寒いのか、少し厚着をしているようだった。
「せっかくのお休みなのに、来てくれてありがとう」
「お休みだから来たんですよ。時間がたっぷりあるので、思う存分遊べます」
そう言ってリアが鞄から取り出したのは、櫛にヘアゴム。そしてたくさんの種類の髪飾りだった。道理で鞄が大きいと思った、などと暢気なことを考えながら、ニアは問う。
「……それ、どうするの?」
「もちろん、ニアさんの髪をいじらせてもらおうと思いまして」
リアの顔はわくわくしている。彼女は人の髪をいじるのが好きなのだ。女の子はもちろんのこと、男性陣の髪も扱いたがる。腕は確かなので、散髪を彼女に任せる者も多い。
スパイ捜査の際にアーレイドが長かった髪を切ってしまうことになったので、以来、リアは十分な長さのあるニアの髪をいじりたくてたまらないらしかった。髪を下ろしているニアを見て、さらにその思いが強くなったようだ。
「私もそれを見に来たんです。リアさんがどんなふうにニアさんをいじってくれるのか、楽しみで!」
「私もです。リアさんとラディアさんに誘われて、これは見なくてはと思って」
「……お好きにどうぞ」
ニアがそう言ってしまったら、あとはもう彼女らのなすがままだ。髪を梳かして、結って、何やら飾りをつけられている。鏡で確認してもぼやけて見えないので、いったい何がどうなっているのかわからない。
ただ、リアたちはとても楽しそうだった。軍人などしているとは思えない、普通の女の子たちがそこにいた。
「リアさん……っ、それは、ちょっと……!」
「ツインテール可愛いですー! でもすっごく面白いです!」
「もうちょっと凝ってみてもいいですか? おだんごとかもしてみたいな」
必死で笑いを堪えるクレインと、素直に感想を口にするラディア。そして、優しい手つきでどうやらとんでもない作品を創り出しているらしいリア。司令部ではなかなかない光景だ。そうしょっちゅうあっても困るが。
「今は病院の人が洗ってくれてるんですよね? シャンプーが合ってないのかな、ちょっと傷んでるかも」
「そう? 自分ではわからないからな。結構やられてる?」
「うーん……それほどでもないんですけれど、私的にはちょっと残念かな? こんなにきれいなんだから、良い状態を保ってあげたいです」
「きれいって。リアちゃんたちほどじゃないよ」
こうしていると、第三休憩室での時間を思い出す。騒がしくて、温かい、あの時間。あの中に親友がいたらもっと楽しいだろうと、何度も思った。みんなの好みに合わせて、丁寧に茶を淹れるのが好きだった。親友にも飲んでもらいたいと思った。
「今、休憩中ってどうしてるの?」
「いつもとあんまり変わらないです。お茶を淹れるのがアクトさんになったくらいで。……でも、みんなニアさんの話ばっかり。あとどれくらいで戻ってこられるかな、とか、お見舞いに何を持って行こうか、とか」
「昨日、リーガル少佐たちがアイスクリーム持ってきませんでした? あれも、そんな話の中で決まったんです」
ニアがいつも考えていたことと同じようなことを、彼女らも思ってくれているのかもしれない。ニアがいたら、ということを、よく話しあってくれているようだ。そこにいなくても、存在を認められているというのは、とても嬉しいことだった。
「あとは、捜査の話ね。またニアさんが倒れていた村の周辺や、屋敷跡らしい残骸を詳しく調べているの。メリテェアとクリスさんが主導になって、交代で見に行っているわ。近いうちに結果が報告できそう」
「みんな頑張ってくれてるんだね」
「そんな中でお休み貰うのはどうかなって思ったんですけど、私たちが倒れちゃったら捜査を進められないので。今日は思いっきり遊んじゃうことにしたんです」
「僕で、ね」
ニアの髪型はツインテールやおだんご、サイドテールに三つ編みなどの過程を経て、最終的にはいつもの結い方に落ち着いた。頭の上のほうで一つにまとめた、簡単なものだ。
「うん、いつものが一番ね」
「ちゃんと結ったの何日ぶりかな。この頭にすると、さあ頑張ろうって気になるんだ。親友がよくこうやってまとめてたのを真似てるんだよ」
「そうだったんですかー。それがニアさんの気合いだったんですね」
そう、毎朝の儀式のようなものだった。今日も一日頑張って、親友に近づこうという気持ちになるための髪型だった。そこに今、やっと戻ってきた。
「リアちゃん、このままにしておいてくれるかな。今日はこれで過ごすよ」
「はい。じゃあ櫛とヘアゴムも置いていきますね。見えなくても、感覚でできるでしょうから」
また今日から、それを始めてみよう。一日一日を、彼に近づくための日にする。それがどんな結果になるとしても。
そういうわけで午後に来たクライスとフォークには、「いつものニア」を見せることとなった。フォークが持ってきてくれたブルーベリージャムのパイを食べながら、現在の捜査の進展状況を聞いた。
「オレも裏関係のほうから探ってるけど、まだビアンカって人に辿り着けない。裏社会のルールってやつのせいで、誰と誰が繋がりを持っていたかはわからないようになってるんだ。アーシャルコーポレーションの社員だった人や、これまでに捕まえた奴らからも話を聞いてるけれど、有用な情報はないかな」
「フォークの前で堂々と話せるんだから、特別なことは今のところないんだろうね。……裏といえば、『黒髪黒目の男』は? 何かわかった?」
「身元ははっきりしないけど、裏社会のなんでも屋みたいなもんなんじゃないかって。ただ、それができるくらいだから相当高い能力を持っているのは間違いないって、みんな言う。カスケードさんって器用だった?」
「そうだね、わりと器用だったかな。考えるのは苦手だっていってたけど、それは計算とか活字を読むとかそういうのが苦手だって意味で、彼はよく面白い考えを聞かせてくれた」
思えば、哲学的なことも話していた気がする。軍は必要か、とか、人を助けることの限界はどこにあるか、とか。ちょっとしたことから、一晩中議論をしていたこともある。「考えること」は、彼はけっして不得手ではなかった。
「裏社会の中にも思想による派閥みたいなものがあってさ。もしかしたら、考え方が近いところに所属してるかもしれない」
クライスのいうことが合っていれば、彼がどのように裏に関わっているのかを知ることができるかもしれない。ニアは過去の話をできるかぎり思い出して、書きつけてみることにした。手元に常にペンとメモを置くようにし、親友とのやりとりを憶えているだけ書き込んだ。まともな字が書けているかはわからない。あのまずい薬の力も借りながら、ほぼ感覚だけでそれを行なった。

新しい眼鏡は予定通りに届いた。ただ、これは調子を確認するためのサンプルであり、これから実際に使えるようにするには、まだ調整と検査が必要だった。
「……うん、薬と眼鏡で、だいぶ見えるようになった。これ、このまま使えない?」
「まだよ。これから検査して、どの程度矯正できたか確認するから。昨夜はよく眠ったわね?」
「ばっちり」
髪を結いあげ、ずっと書き物をしていたら、自然と良い睡眠がとれた。目が見えなくても仕事と決めたことをするだけで、ニアの調子は良くなっていた。
検査中の状態も、前回よりかなり良くなっていた。いや、前回が酷すぎたのだ。ようやく調子を取り戻せてきたという感じがする。
検査結果が出るまで、訪ねてきていたアクト、アーレイド、ハルと話をする。かけているのはサンプルの眼鏡ではあるが、声を聴かずともすぐに病室に入ってきた人物が誰だかわかるようになっていた。
「調子戻ってきたんだ! ニアさん、もうすぐ戻ってこられる?」
ハルが喜んでニアに飛びつこうとすると、それをアーレイドが小突いて言う。
「こら、あんまり焦らせるな。休んでていいですからね。オレたちでなんとかやってますから」
「うん、聞いてるよ。みんながいろいろと頑張ってくれていること。……だけどね、僕はやっぱり、働いているほうが性に合ってるんだ。何かしてないと落ち着かないんだよ。昔のことをいろいろ書いてたら、改めてそう思った」
メモを見直すと、罫線を無視してひたすらに書き連ねられた文字が並んでいた。憶えていることを思いつく端から書いていったので、内容もめちゃくちゃだ。だが、これはたしかにニアの記憶の中にある親友のことだった。彼の言葉、彼の仕草、好きなもの、苦手なもの。彼と過ごした時間が、このメモに詰め込まれていた。
「書いてて、やっぱり会いたいと思った。彼の話を聞かなくちゃ、戻ってこない理由がわからないよ。……彼が人を傷つけるわけが、僕には思い当たらないんだ」
そのためには、やはり戻らなくてはならない。それも、最高のコンディションで。自分の目でものを見られるように、眼鏡を通さず彼と目を合わせられるように。
「ニアさん。おれたちが会ったあの人がカスケードさんだったとして、ニアさんの声を聞いて『誰だ』って言ったのはどうしてだろうね。あの人は、ニアさんの声を知っているようだった。声を聞いて喜んでいた。それなのに相手が誰なのかわからないって、どういう状況なんだろう?」
アクトはずっと疑問に思っていたことを口にする。それは、ニアが「黒髪黒目の男」がカスケードであるかどうかを疑う最後の鍵だった。彼がなぜニアの声を知っているのにわからなかったのか。その理由として、考えられるものがあるとすれば。
「彼にビアンカちゃんが関わっているのなら、何か……そう、たとえばノーザリア危機で利用されたようなマインドコントロールが施されているとかは考えられないかな。彼がそうして、裏に操られているんじゃないか?」
「操られている……か。その線だと、黒幕はビアンカって人?」
「いや、もっと大きな組織があるんじゃないかな。クライスは『黒髪黒目の男』は裏社会の何でも屋みたいな組織にいるんじゃないかって言っていた。彼を縛っているものがあるなら、それはビアンカちゃん一人じゃないと思う。……そもそも、『黒髪黒目の男』の活動がビアンカちゃんにどう有利に働いていたのかわからないからね」
ビアンカとカスケード。「黒髪黒目の男」と裏社会の組織。「黒髪黒目の男」はカスケードである可能性。これらは自動的に、ビアンカが裏社会に属していることを導き出す。それはクリスが提示した可能性が正しいことを示す。
方向は合っている。目指す場所にいったい何があるのか、それが少しでもわかれば、しるべになるのに。
「ビアンカちゃんは絶対にカスケードと関わっているはずなんだ。彼女は僕に、もう二度と僕とカスケードを一緒になんかしないって言った。カスケードの現状を、必ず彼女は知っている」
書き出して思い出したことだ。朦朧とするニアに、彼女ははっきりそう告げた。
「二人の行方を調べるなら、やっぱり裏社会の組織からのほうが近いかもしれない」
「わかった。おれもクライスのほうを手伝ってみるよ。ビアンカからの調査はクリスとディア、グレンが主にやってる。明日には報告があがってくるはず」
「ボクもニアさんを助けるよ! みんながボクを助けてくれたみたいに!」
「オレとハルは裏社会のほうを調べていました。ソフィア・ライアーの件もあったので、そこからのほうが当たりやすいかと思って」
「そうだね。例のアクセス記録の履歴が残ってるはずだから、詳しいことはクレインちゃんに訊いてみるといいよ」
みんな自分にできることをしている。だからニアは、自分にできることを、思い出すということをしている。それが親友に辿り着く手掛かりになると信じて。
そうして話しているうちに、サクラが検査の簡易的な結果を出してくれた。
「詳細はもう少しかかるけど、やっぱり回復はしてるわね。眼鏡はもう少し調整が必要かも。第二便でもう一つのサンプルが来るはずだから、そっちも試してみましょう。薬は効いているようだから、同じものをカイさんに作ってもらうわ」
「このまま順調に行くと、どの程度回復するかな」
「どうでしょうね。目指すは裸眼での活動だけど、しばらくは無理しないほうがいいでしょうし。医者としてこの言葉は使うべきじゃないのかもしれないけれど、ニアさん次第ってところ」
「それで十分。……やっぱり僕のすべきことは、これで正しいみたいだ」
動くことこそ、自分の回復方法だ。ニアはそう確信していた。
明日には詳細な検査結果を出し、再び眼鏡を調整に出すという。ニアはそれを待ち、病室を出ていくアクトたちを見送った。
彼女たちが来たのは、それとほぼ入れ違いだった。
「ニア大佐。今、大丈夫?」
「シェリアちゃん。……と、シィレーネちゃんも」
シェリアと、その後ろに隠れるように立つシィレーネ。眼鏡は返してしまったので、視界ははっきりしないが、そのシルエットと声で判別できる。何かあったのか、真剣な声色だ。
「どうしたの? 緊急事態?」
「シィが、話したいって。……この子、伍長だからできる仕事がみんなより少ないって、落ち込んでて」
「……」
表情は見えないが、たぶん、シェリアが言った通りの顔をしているのだろう。班で一番階級の低いシィレーネは、見ることのできる資料も、知ることのできる情報も少ない。そのことが彼女を自己嫌悪に陥らせているのだろう。
ニアはふわりと微笑みかけて、「おいで」と言った。
「話そう、シィレーネちゃん」
「……はい」
シィレーネはそっとシェリアから離れ、ニアのベッドのそばにあったスツールに座った。そのとき、彼女の俯いた表情が見えた。やけに、はっきりと。
「……あ、見える」
呟いたとき、シィレーネはぱっと顔をあげた。驚いたような、嬉しそうな、そんな表情がニアの目に見える。
「見える? 本当に? ニア大佐、治ったんですか?!」
「あ、ええと……どうしてだろう。シィレーネちゃんだけ、ちゃんと見えるんだ」
不思議な現象に、ニアは首をかしげる。だが、今はそれよりも目の前の彼女だ。せっかく見えるのだから、ちゃんと目を合わせて話したい。顔も上げてくれたことだし、このまま話そうと思った。
「ねえ、シィレーネちゃん。仕事が少ないのが嫌なの?」
尋ねると、シィレーネはまた俯いてしまった。初めて会ったときの人見知りだった彼女よりも、もう少しだけ暗い表情をしている。
「……仕事が少ないのが、嫌なんじゃないんです。みんなニア大佐のために、たくさんのことができるのに、私は全然だめで……。一つしか階級が違わないのに、ハル軍曹だってあんなに頑張ってる。シェリーさんはもちろん准尉だから、毎日いろいろな資料を見て、アクト中佐やクリス中佐に報告してます。それに比べて私は……」
シィレーネがきゅっと膝に置いた手を握る。ニアは少し体を前に倒し、その手に自分の手を重ねた。シィレーネが目を丸くして、その手を見る。
「シィレーネちゃんは、とても大事な仕事をしてくれたよ」
「大事? ……そんなこと、してないです」
「したよ。僕に、カスケードがちゃんと生きて、近くにいるってことを教えてくれた」
全く手掛かりのなかったところへ、シィレーネが情報をくれた。だからこそ、ニアはここまで進んでこられたのだ。親友が生きているという確証が持てたから、現在持っているたくさんの手掛かりに辿り着くことができた。
ニアはそのことを、シィレーネにとても感謝していた。それを伝えたい。見えるうちに、彼女の目を見て。
「今みんながこうして動けているのはね、君がカスケードのことを教えてくれたからだよ。カスケードは君のことを助けてくれたんでしょう。僕はそれを聞いて、彼は変わらずいてくれたんだって思えた。たくさんの情報が集まっている今でも、君のくれた彼の姿が支えになっているんだ。彼がどんなに恐ろしいことに関わっていても、きっとその本質は変わっていないはずだって、信じさせてくれている。君の果たした役割はとても大きいんだ」
「でも、あれは偶然で」
「僕にそのことを話してくれたのは、君の意思でしょう」
顔をあげた彼女の目は、初めて見たときと同じ、不思議な赤色をしていた。それが涙に揺れて、しずくをこぼす。
「私、……役に立ててましたか?」
「今だって大役をつとめてるんだよ。僕はとても寂しがり屋だから、誰かがここにいてくれるだけでとても嬉しいんだ」
「……私と、同じですね」
泣きながら、彼女は笑った。ニアと笑顔で向き合ってくれた。
「同じだよ。……僕と一緒に、いてくれる? カスケードがここに帰ってくるまで。そして彼がここに帰ってきてからは、彼と一緒にいてほしい」
「はい。……そうします。一緒にいます。私でよければ、いつまでも」
その様子を見ていたシェリアも、きっと笑って、こう言った。
「いるに決まってるよね。だって、ここはシィの居場所なんだから」
「シェリーさんもでしょう?」
「当然」
ニアはこれまで、カスケードの居場所を作るために仲間を集めてきた。けれどもそれが同時に、他の誰かにとっても大切な居場所になってくれていた。これまでやってきたことは、やはり間違っていなかった。彼らに出会って、班になって、本当に良かった。シィレーネのおかげで、それを実感できた。
彼女もニアに救われたかもしれない。けれども、やっぱりニアが、彼女らに救われていた。

翌日のニアの目は、眼鏡がなくても薬だけで、誰が来たか判別できるほどに回復していた。
髪を結いあげ、体を起こし、彼らを迎えた。再調査の結果を報告してくれる、彼らを。
「それでは、現地再調査結果をご報告いたします」
クリスが書類を手にし、その開始を告げた。
「うん、お願い」
今度はニアも同じものを持っている。自分で読むことは難しいが、できなくはない。見えるようになったらすぐに読めるよう、コピーをしてきてもらった。
「まず、現地で採取した動物の毛の分析結果から。グレン君」
「はい。これはどうやらネコ科の大型動物、おそらくはライオンのものという結果が出ました。ニアさんの証言から、キメラは神話動物のグリフィン型であることが判っているので、その胴及び足の体毛かと思われます。付着していた血液は地面から採取した動物の血液と同じものだったので、キメラ本体のもので間違いありません」
体毛も血液も、サンプルをとってある。念のため、科学部に一組、こちらで一組とってある。万が一外部から手を加えられても、すぐに判るようにだ。キメラが持ち去られたのなら、今後再び現れることも考えられる。サンプルはそのときの照合材料になるだろう。
「次に周辺の聞き込みですが、こちらは成果が得られませんでした。近隣の住民は全てシロ、目撃証言や姿を消した住民もいませんでした。……ただし」
クリスがディアへ視線を送る。これはどうやら、ディアの担当だったらしい。いや、偶然その担当になったのだという。
「ニア、お前が見つかった夜に、もう一件倉庫の爆破事件が起きてたんだよ。保管していたものに引火したんだろうっていうことだったんだが、その保管していたブツが何だったのかはっきりしてねぇ。しかもその倉庫ってのが、あの森からそんなに離れていない場所にある。何かあるなって思って、そっちも調べた」
「……それに気づいたの、他班まとめてた将官ですけどね」
グレンがぼそりと呟く。どうやら他班や将官たちも、この件には協力してくれているらしい。軍の者が大怪我をして引き取られてきたという事態そのものが大問題なのだ、ジューンリー班だけで片付けられるものではない。
「あー、まあ、そういうわけだ。他のとこやフリーの奴らにも手伝わせて、その倉庫跡と、例の屋敷跡を調べなおした。そうしたら、人体の一部らしきものが両方から見つかった」
「人体?! ……まさか、屋敷跡のってビアンカちゃんじゃ」
「違う。これもサンプル採って科学部で調べた。性別は男だ。軍にすでに同じサンプルがあったから、すぐにわかった」
「過去に犯罪歴があったの?」
「ああ、直近の事件だ。東方諸国連続殺人事件の犯人、ラインザー・ヘルゲインのデータとほぼ一致した」
ニアは言葉が出なかった。そんなはずはない。ラインザー・ヘルゲインはすでに死んでいる。アルベルトとブラックによって、彼は倒されたはずだ。
「この結果が出たのが昨日の晩。アルベルトたちにも確認してもらった。たしかにあの事件で奴は死んだ。首を落とされて生きている奴なんかいねぇ。しかもこの人体の一部ってのが、屋敷跡と倉庫跡の両方から見つかっている。全く同じものだった」
「……そんなのって、」
「あり得るんですよ、ニアさん。アーシャルコーポレーション事件で判明し、スパイ事件でも利用された、あの技術を使えばね」
その二つの事件に共通するもの。それは、クローンだ。九年前にレスター・マクラミーが自らの身代わりとして利用し、スパイ事件ではアーサー・ロジットとハルのクローンが使われた。ラインザーのクローンも、すでに裏の者によって作られていたとしたら。
「建物とともに爆破されたということは、捨て駒として大量生産されている可能性がありますね。それを言ったら、アルベルトさんとブラック君は相当怒ってらっしゃるようでした」
「当たり前だよ。……つまり、ラインザーのクローンが倉庫に保管されていて、ビアンカちゃんの逃走に利用されたかもしれないんだね」
「ええ、これで彼女が裏と関わりがあることが明確になりました。ラインザーのクローンがいつから製造され始めたものなのかはわかりません。裏の技術は未知数ですから」
死者が都合のいい駒として利用されている可能性。どこまでも裏は残酷だ。ラインザーのクローンは全ての痕跡を消して、屋敷及び倉庫と共に消される運命にあった。敵対していた人物だったとはいえ、悲しすぎる。ニアは布団をぎゅっと握りしめた。
「……調査、お疲れ様。これからは裏に焦点を絞って調査をしていけば、ビアンカちゃんに、そしてカスケードに近づくはずだ」
「この報告の間に、アルベルトとブラックがイストラと連絡を取ってるはずだぜ。オファーニから証言を取り直して、ラインザーのクローンを作る手伝いをしたかどうか確認するらしい」
ディアはそれから、一呼吸おいて、言葉を継いだ。
「俺も、ボトマージュに会いに行った。メリテェアから許可をもらってな」
「会ったの?」
「一応『黒髪黒目の男』と接触してるからな。だが、奴はもう奴じゃなかった。刑務所の職員によると、『黒髪黒目の男』と会って以来、廃人状態らしいな」
「……うん、僕はそれを知ってた。黙っててごめん」
「その職員に聞いたぜ。あの人、ハルのときも世話んなったらしいな。でもってシィレーネの叔父だとか。いつの間にあんなにでっかい後ろ盾作ったんだ、お前? ……で、そのときにボトマージュが脱獄に成功した可能性ってのも教えてもらった。クローンの存在も明らかになったしな、かなり信憑性があると俺は思う」
ボトマージュとそのクローンが入れ替わったかもしれないという仮定と、「黒髪黒目の男」がカスケードであるというほぼ間違いのない推理。
カスケードはやはり、裏社会の中枢組織の一員であり、これまでかなり大胆な行動をとってきたことになる。その彼を、軍に戻すことはほぼ不可能だ。これだけのことをした人間が、その罪を償わずに生きられるはずがない。
ニアはその事実を受け止めなければならない。仲間たちとともに彼を迎えるという当初の目的は、もう果たせなくなってしまう。
しかし、それでも彼を迎えに行こうという決心が揺らぐことはない。迎えに行かなければならない。この手で、ニア自身と彼の全てに決着をつけなければならないのだ。
「……この目で軍人を続けていくのも、難しいし。本当にこれを最後の仕事にするのもいいかもね」
「ニア、お前」
「そのつもりで行くってことだよ。全力を尽くす。そして、再び彼に会い、話をするんだ。このメモに書き留めたこと以上のことを、たくさん……」
手元に置いておいたメモを、そっと撫でる。どんなことになったって、きっと結んだ絆は解けない。だから安心して、前へ進める。たとえ、この先で道を分かつことになったとしても。別れた親友とはもう一度巡り会えそうなのだから、きっと大丈夫だ。
「目も回復してきたし。大丈夫、僕にはみんながいてくれる。だから、きっと良い結末を迎えられると思うんだ」
ニアはいつもの笑顔で、確信を告げた。
仲間たちはそれに、たしかに頷いてくれた。


『ニア・ジューンリーは生きているよ。現在、軍病院で治療中だ』
ビアンカの「ニアを倒した」という報告に、スピーカーの声はそう返した。
そんなはずはない。あの傷で、あの出血量で、放置してきた。生きているはずがない。ビアンカは混乱する頭で、言葉を継ごうとした。しかし。
『君がとどめをさすのを怠ったから、こうなった。けじめはきちんとつけなくては』
「……すみません。あたしがもう一度殺してきます。キメラもじき回復します。だから」
『いや、もう君には無理だ。一人に狙いを絞るより、軍全体を一気に潰してしまったほうが手っ取り早い。……たしかに、ニア・ジューンリーは厄介な人物ではあるが、彼にはさすがに敵わないだろう』
この話の流れで「彼」といえば、一人しかいない。その力で、軍の精鋭たちを倒したという「彼」。しかし、それではビアンカには都合が悪いのだ。
「待ってください。彼を……カスケードをニアに会わせるのは危険です。彼が軍人時代を思い出してしまって、こちらの敵になる可能性も」
『そうならないための“教育”だったんだよ。あれだけ軍の醜さ、危険さを叩き込んだんだ。それで軍側につくとは思えないがね』
スピーカーの声がせせら笑う。だが、ビアンカには、認めたくないがわかっていた。もしもカスケードがニアのことを思い出せば、彼は必ずニアの味方をする。軍がどうこうではない。彼はいつだって、ニアのそばにいた。
だから、会わせたくない。だから、殺したはずだった。それなのに失敗した。完全にビアンカのミスだ。
「……もう一度だけ、あたしにチャンスを。軍を壊滅させたいというなら、あたしがやってきます。あたしのキメラで!」
スピーカーはしばらく無音だった。ビアンカの心臓の音だけが、うるさく響いているようだった。やがて、大きな溜息が聞こえた。
『君に与えるチャンスはあと一度きりだ。もう二度と失敗は許されない。使えない道具は処分しなければ、維持するための労力がもったいない』
ビアンカの元拠点の処理をしたクローンたちのことが頭をよぎる。彼らはその役目を終えた後、速やかに処分された。家と共に爆破させたものもあれば、こちらに機材などを運んだ後に、アリでも潰すかのようにあっけなく殺されていったものたちもある。
ビアンカは息を呑み、しかし、与えられた時間に感謝した。そうせざるを得なかった。
「……ありがとうございます。必ず、軍を潰します」
歪んだ笑みで、彼女は答えた。




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posted by 外都ユウマ at 22:57| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年01月29日

Reverse508 第十六話

危険薬物取引組織の大量検挙から、数日後。ニアのもとに一件の報告が届いた。イストラ国軍の大尉、ナナツ・ココノエからのものだった。彼女は東方諸国連続殺人事件の関係者であるオファーニ・ルークから証言を得て、それをまとめてくれたのだった。
それによると、オファーニはたしかにエルニーニャ軍に存在していたスパイと連絡を取っていたという。ただ、やり取りをする相手が誰であるのかは、互いにわからないようにしていたらしい。それが裏社会のルールなのだという。
つまり、先日のハルへの冤罪を仕掛けた首謀者であり、すでに死亡したソフィア・ライアーが、オファーニと繋がっていたかどうかは不明瞭のままだった。軍の中に、まだスパイが潜んでいるという可能性も否めないというわけだ。
それをメリテェアへ報告すると、彼女は頷きながら言った。
「引き続き、軍内の人間の行動には注意したほうが良さそうですわね。この件、閣下には報告済みですの?」
「これからです。……でも、あんまり閣下に会いたくないんですよね」
ニアが弱々しく笑って言うと、メリテェアは深く溜息をついた。彼女もよくわかっているのだ。ニアが大総統に会えば、必ず「彼」の話になるということは。そもそも「彼」の捜索に携わるために、メリテェアはニアの上に立つことになったのだから。
先日の危険薬物取引組織の大量検挙の際に、アクトの率いる班をたった一人で全滅に追い込もうとした人物がいた。彼が先頃よりいくつかの犯罪に関わっている疑いのある「黒髪黒目の男」であり、その正体がニアのずっと捜し求めていた「彼」である可能性は、すでにジューンリー班の全員に知らされていた。
そのとき、シィレーネが一度「彼」に会っていることも、やっと班員に明かされた。「彼」が軍人を助けたことをまるで良くないことのように言っていた理由も、推測できるようになったからだ。
シィレーネはショックを受けていた。自分を助けてくれた人が上司の親友であり、それなのに敵かもしれないだなんて、と。当然の反応だろう。だがニアの内心はそれ以上の衝撃と混乱に襲われていた。そしてそれを、誰もが感じていた。
「……でも、そうですね。軍の内部にまだ脅威が潜んでいる可能性があるのなら、閣下に報告しないと。いってきますね」
「ニアさん、待ってください。わたくしが報告して参りますので、あなたは……」
メリテェアはいすから立ち上がろうとするニアを止めようと、手を伸ばした。しかし。
「ココノエ大尉は僕に宛てて報告してくれたんです。だから、僕が行かなきゃ」
ニアは眼鏡の奥で微笑んで、その手を避けた。

大総統ダリアウェイドは、東方諸国連続殺人事件と冤罪事件の関係性についての説明に納得したようだった。ソフィア・ライアーが両方に関わっていたのだとすれば、脅威は去ったことになる。だが、彼女以外にもスパイが潜んでいるのだとすれば、軍内は疑心暗鬼に包まれることとなる。
誰が敵で誰が味方か、今のところは全く区別がつかないのだ。ソフィアやクローンであったアーサー・ロジットが、この軍という集団の中にうまくとけこんでいたように。
「裏社会に軍の情報を流すことのできる人物か。まずは情報処理担当や諜報担当から調べてみたほうがいいかもしれんな」
「やはりそこから疑いますか。……そうですね、各班でそれぞれ調査をしてみたほうが」
「いや、班単位で動くと厄介なことになる。君のように自分の班員を無条件で信じる者もいれば、班員を疑うことで人間関係をうまく保てなくなるものもいる。ここは将官にまかせてはくれまいか。将官が怪しいというなら、私が自ら調べよう」
大総統の言うことはもっともだった。たしかに班員同士の関係が悪い方向に変わってしまったり、逆に班員を守ろうとすることで容疑者を隠すことになったりすることは、避けたいところだ。
憎まれ役は上の人間がかおう。大総統は、そこに自分を含めて、そう言っているのだ。
「……わかりました。この件はよろしくお願いいたします。ただ、このことを利用して部下に圧力をかけるようなことだけはやめていただきたいです」
「それはもちろん、私から厳しく言いおくつもりだ。あまり酷い行動をして、こちらが信頼を失ってしまうのも困る」
あくまで軍人を含めた国民の損得を第一に。それが大総統の信条だ。彼ならそれを通してくれるだろうと、ニアは信じている。九カ月の間、話をしていて、そのことは十分に伝わってきていた。
だからこそ、「彼」の話はしたくなかった。大総統が下す判断を恐れていた。しかし、手掛かりがあったのなら言わねばなるまい。いずれは耳に入ることだ。
「……閣下、もう一つお話があります。黒髪黒目の男についてです」
「先の任務に現れたそうだな。精鋭たちを簡単に倒すとは、侮れん男だ」
「その男の正体について、詳細な情報を持っています。……これまで隠していてすみませんでした。しかし、今こそお話したいと思います」
ニアは眼鏡を通して、大総統を見た。驚きと訝しみの入り混じった表情が、よく見える。それを見たくないわけではない。ただ、何も通さないそのままの情報を明かしたくて、ニアは眼鏡を外した。
「彼がマルスダリカの捜査や、アーシャルコーポレーション事件の関係者にも接触していることはご存知の通りです。数回人々の前に姿を現した結果、実は彼の姿が仮のものであることが判明していました。黒い髪は染められたもの、黒い瞳はコンタクトレンズで色を変えたものであることを、僕たちは知ったのです」
大総統は無言で相槌を打った。そして、目で「続けなさい」と言った。心臓が握りつぶされそうな思いで、ニアはその先を口にした。
「……彼は、黒髪黒目なんかではありません。暗青色の髪に、海色の瞳をしています。顔は化粧などで変えているのでしょうし、五年も経てば変わっているのかもしれません。……彼は、僕らが捜し求めていた、カスケード・インフェリアである可能性が高いです」
沈黙が訪れる。ニアは、本当は目を逸らして、すぐにでもここから立ち去りたかった。だが、それはしないと決めたのだ。大総統の判断を聞くまでは、この場所から離れないと。
「……では、わが軍の精鋭たちを襲ったのは、カスケード・インフェリアであると?」
しばしの静寂の後、大総統は無表情で尋ねた。
ニアは肯定したくなかった。今でも信じたくないし、信じなくてもいい要素は残っている。できることなら、それに縋りたい。
「あくまで可能性です。僕にも、彼が軍人を攻撃するとは考えにくいので」
「いや、私はその話で、君が確実に真実に近づいたと思った」
だが、大総統はその「可能性」を受け止めた。思わず目を見開いたニアに、彼は表情を少しも変えることなく続けた。
「彼はインフェリアの人間らしく、素晴らしい体力とたしかな技術を持っていた。彼の仕業だというならば、刑務所職員や軍人たちが倒れるのも仕方のないことだ。この五年で力をさらに伸ばしたとなれば、なおさらだ」
「でも、それが彼だというなら、なぜ人を襲うような真似を?! なぜこれまで軍に戻って来なかったんですか?! 彼は軍人です! エルニーニャ王国軍大尉カスケード・インフェリアなんですよ?!」
「落ち着きなさい、ジューンリー大佐」
思わず大総統に詰め寄ったニアを、大総統は至って静かに制した。勢いで立ち上がったままのニアに、大総統はそのまま言葉を継いだ。
「彼が姿を消した原因が明らかになれば、行動の理由がわかるかもしれん。あるいはその逆もありうる。軍に入隊するにあたって、彼は軍人であった父に反発していた経緯があるからな。突然軍が嫌になることもあるだろう」
突然軍が嫌になるだなんて、そんなことはあり得ない。だって、ニアと彼は約束したのだ。二人で、人を助ける軍人になろうと。そのために二人で歩んでいこうと。だから、彼が、カスケードがニアを置いて消えてしまうということ自体が、本来ならあり得ないことだった。そのはずだったのだ。
「……僕には、そうは思えません」
小さな声で、絞り出すように口にしたニアの言葉に、大総統は先より強い語気で返した。
「ならば捜しなさい。彼に会いなさい。そして、真実を聞きなさい」
それしか方法はないのだと、大総統は言う。ニアにもそれはわかっていた。近くにいるのなら何としてでも会って、彼と話をしなければ。
……もし、あの無線に自分が名乗っていたら、彼と話ができたのだろうか。いや、彼ならこちらの声を聞いて、すぐにニアだとわかったはずだ。あんなやり取りをしなくても、話ができたはずだ。
『お前の名前は?』
あの台詞が引っかかって、彼をカスケードだと思えない。同じ声なのに、違う誰かのような気がする。
真実を掴まなければ。あの日何があって、今に至ることになったのか。

その思いがまるで神にでも届いたかのように、全てが動き出す。

翌日、第三休憩室で茶を淹れていたニアのもとに、一人の将官がやってきた。
「ジューンリー大佐、客人だ」
「僕にですか?」
「ああ、君も知っている人物だよ」
呼びに来た将官は、ニアのことを入隊当時から知っている人物だった。当然、ニアがカスケードと仲が良かったことや、そのほかの交友関係なども知っている。その彼がいう「知っている人物」なら、限られてくる。
――まさか、彼が。
そんな思いが頭をよぎったが、それならもっと騒ぎになっているはずだと思い、打ち消す。ニアは茶器を置き、あとを他の者に任せると、将官の後についていった。
「誰なんです? その、客人って」
ニアが尋ねると、彼はにこやかに言った。
「お前がインフェリアとよく一緒にいたとき、あとをついてまわってた女の子がいただろ。科学部の、赤毛の」
その特徴で、ニアは思い出す。彼女だ。親友に思いを寄せていて、いつも彼のそばにいたがっていた少女がいたのだ。
「お前たち三人で、よく遊んでいただろ?」
「……ええ、まあ」
将官の彼にはそう見えていたのかもしれないが、実際のところは違う。彼女は非常に嫉妬深く、いつもニアを邪険にしていた。親友のいないところで、彼女はニアによくこう言っていた。
「あんたさえいなければ、カスケードはあたしのものになるのに」
嫉妬の言葉を直に受けていたニアは、できることなら彼女にはもう会いたくなかった。彼女は五年前に親友が姿を消した直後に、その後を追うように軍を辞めた。それで関係は終わりになるはずだった。
しかし、彼女は五年前よりもさらに美しくなって、応接室にいた。
「……お待たせしました」
「待っていたわ、ニア。眼鏡なんてかけるようになったのね」
赤い唇が、三日月のように細く笑みを作る。その眼は全く笑っていないのに。ニアは彼女――ビアンカ・ミラジナが、そういうところも含めて苦手だった。
将官が去った後、二人きりになった応接室で改めて向かい合う。ニアは彼女の顔をまともに見られなかったが、彼女がこちらを品定めでもするような視線で見つめていることはよくわかった。
「久しぶりよね。北方にいたんですって?」
「……君こそ、軍を辞めたって聞いたけど」
「趣味の研究に打ち込みたくてね。彼もいなくなっちゃったし。……あんたのせいで」
彼女は相変わらずのようだった。ニアが憎くて仕方がないのだ。好きな人の隣に常に居座り、ついには彼を行方知れずにした、ニアのことが。
「まあ、いいわ。彼のことは許してあげる。今日はあんたに任務の依頼に来たの」
「任務?」
ニアは怪訝な顔をして、ビアンカを見やった。彼女はこちらを蔑むような目で眺めながら、依頼を告げた。
「趣味の研究が、軍に通用するものかどうかを確認してほしいの。ほら、アーシャルコーポレーションの事件があったでしょう? あれで、軍で利用できそうな研究結果が大量に見つかったってきいたから。あたしの研究はどうなのかしらって思って」
たしかに報道によって、アーシャルコーポレーションで行なわれていた研究の一部は公になっていた。それが軍の管理下におかれることになったことも。
だが、それを見て自分の研究を売り込んでくるような人間は初めてだった。
「趣味の研究って、何をしているの?」
「それは見るまで内緒。ねえ、引き受けるわよね? あたしの頼みを断るなんてこと、あんたにはできないはずよね? だってあんたは、あたしのカスケードを」
彼女が全て言い終わる前に、ニアはテーブルを叩いた。彼女は以前から少しも変わっていない。ニアを邪険にするか、利用するかしかしないのだ。
「……行けばいいんだろう。僕が君の言う通りにすれば、それで満足?」
「もちろん。それなりに報酬もあげるつもりよ」
ビアンカはにっこりと笑った。ニアの心臓を握り潰すような笑顔だった。
すぐにでかけるというビアンカに従わなければならず、ニアは急いでこの後の仕事の引継ぎを行なった。大方はクリスとアクトが引き受けてくれたので、本日中に片付けなければならないものはなんとかなりそうだった。
「でも、ニアさん。目の調子悪いんでしょう? 大丈夫なの?」
「ボクも心配ですね。薬はちゃんと持ちましたか?」
「大丈夫。眼鏡もかけてるし、薬も持った。任務地までは依頼人の車で行くから、運転は彼女がしてくれる」
何度「大丈夫」を繰り返しても、部下たちはしつこく尋ねてくる。そんなに心配しなくてもいいのに、と思いながら、ふと手洗い場の鏡を見ると、そこには酷い顔をしたニアが映っていた。
顔面は蒼白で、笑顔を作っていたつもりだったのに、ひきつっていて不自然だ。これでは心配されるのも当然だ。
「……ああ、そっか。僕、思った以上にあの人が苦手なんだ」
親友のことが好きだったビアンカ。そのためにニアを邪魔だといい、親友から引き離そうとしてきたビアンカ。そんな彼女に対して、ニアもまた思っていたのだ。親友をとらないでほしい、と。
結局親友は、いつもニアを優先してくれた。先にニアとの約束があればそちらを必ず守ってくれたし、ビアンカよりもニアの近くにいてくれることが多かった。だから彼女は余計に、ニアのことを嫌っていったのだろう。
その彼女と二人で過ごさなければならない。その不安が、そのまま顔に出ていたのだ。
「……だめだ。これは任務。僕は軍人。公のために働かなくちゃ」
ぱん、と両手で自分の頬を打つ。そして自分が軍人の顔になったことを確かめると、ニアは彼女のもとへ向かった。
「遅いわよ。それじゃ、乗って。助手席は駄目よ、後部座席にお願い。……ていうか、なんで武器持ってるわけ? あたしは研究を見ろって言ったのよ」
横柄な態度をとる彼女に、ニアは軍人の笑顔で答える。
「自分の得物は常に手元に置いておくのが、実働担当の基本ですから。もしものときのためにということで、お許しください」
彼女はただの依頼人だ。そう扱えばいい。そう割り切ったニアを、ビアンカは面白くなさそうに睨むと、車に乗り込んだ。

車が進んでいくにつれて、ニアは目がだんだんとぼやけていくような気がしていた。その道に既視感がある。いや、確実にこの道を知っている。胸を締め付けられるような思いで辿り着いたその場所には、いつか見た光景が広がっていた。
広い畑と、ぽつぽつと並ぶ小さな家。どこにでもありそうな、ごく普通の村だ。
しかしここは五年前に、怪物の脅威にあっていた。夜な夜な現れる巨大な怪物に、畑を荒らされ、人もいつ襲われてしまうかわからない。村の人々はそんな恐怖に怯えて暮らしていたのだ。
いつまでもそのままにしておくわけにはいかず、人々は軍に助けを求めた。その依頼に応えてやってきたのが、当時大尉だった二人の軍人だった。
そう、ニアと、親友カスケードだ。
「……ここは」
「憶えてる? 憶えてなきゃおかしいわよね。ここは五年前、カスケードが消えた村。彼は一人で巨大な獣と戦い、倒した。……それなのに、姿を消してしまった」
ビアンカの言葉がニアに刺さる。そう、親友はここで、たった一人で戦ったのだ。目に異常をきたして戦えなくなったニアを安全な場所に残し、村を襲っていた脅威に立ち向かった。そしてそのあと、忽然と消えてしまったのだ。
「あんたが戦っていれば、カスケードは消えなかったかもしれないのに。……あんたがいなくなれば良かったのにって、あたしは何度も思った」
それはあの日以来、ニアが自分を呪った言葉と同じもの。自分が無理にでも戦いに出ていたら、カスケードはいなくならずに済んだかもしれないという激しい後悔。それを改めてビアンカに突きつけられる。
「そう……だね。僕が戦っていれば、カスケードの楯くらいにはなれたかもしれない」
「自覚あるのね。本当に、その通りだわ」
ビアンカはそう言って、再び車を走らせた。真の目的地は、どうやらこの先にある森の中らしい。そこに、ビアンカの研究所があるのだという。
森は思った以上に深く、日が沈んだことも相まって真っ暗だった。ヘッドライトが一軒の家を照らしだしたところで、車は停まった。
「ここがあたしの家兼研究所。ここであんたには、あたしの研究の成果を見てもらう」
「……いったい何の研究なのか、もう教えてくれてもいいんじゃないですか?」
「直接見た方が早いわ。待ってなさい、すぐに連れてくるから」
そう言ってビアンカは車を降りると、家の裏手へと行ってしまった。ニアも大剣を持って車を降り、あたりを見回した。
暗く、静かな森だった。普通、こういう場所には生き物の気配があるものだが、それすらも感じられない。ここはどういうわけか、何もかもが死んでいるような場所だった。
そこへ、人の気配がした。一緒に、何かの息遣いが聞こえた。この草木以外の命のない場所に、たった二つだけ、ニア以外の生命があった。
一つはビアンカ。赤い髪をした、昔なじみの女性。
もう一つはビアンカの隣にあった。鳥の頭部と翼を持った、四足歩行の巨大な獣。生きているそれを見るのは初めてだった。
死体なら見たことがある。そう、五年前に。
「……どうして、キメラが?」
ニアが尋ねると、ビアンカはあの三日月のような口で言った。
「だから言ったでしょう、あたしの研究成果よ」
そうか、「連れてくる」とはこういうことだったのか。ニアはようやく理解した。彼女の研究は、キメラの生成だったのだ。そして。
「この子が軍に通用するか、試させてもらうわ。……さあ、行きなさい」
軍に通用するものかどうか。その言葉の意図は、軍で利用できるかどうかということではない。それが軍人を倒せるかということ。
ニアは手にしていた大剣を振ろうとした。だが、そのまえにキメラは高く跳びあがり、こちらへ急降下してきた。とっさに転がって避けたが、キメラの着地点を見てぞっとする。その生き物は地に足をつけるだけで、着地部分を大きくえぐることができるらしい。踏みつぶされていたら大怪我をするところだった。最悪の場合、あの一撃で死んでいた。
キメラはニアの姿を見止めると、前足を持ちあげた。鋭い爪が視界に入る。
「こん……のっ!」
ニアは大剣を振り、その宙に浮いた足を斬りつけた。ギャアアッとキメラが声をあげる。その響きが森を震わせた。
片方の前足だけとはいえ、大剣で斬りつけたのだから、相当な深手になっているはずだ。だがキメラは悲鳴こそあげたものの、その前足を地面に再び下ろし、もう片方の前足でニアを襲った。ニアは大剣でそれを受け止め、払う。そしてキメラの腹の下に入ると、その左胸を狙って思い切り大剣を突きあげた。剣は深くキメラの身体におさまり、キメラはさらに大きな声をあげた。そして、ずしんという重い音を立てて横に倒れた。
「……どう? 軍には通用しないみたいだけど」
ニアは大剣の柄を握り直し、キメラの身体から引き抜きながら、ビアンカに言った。獣の肉から刃物を抜き取る感触は、気持ちの良いものではなかった。
「そうね、思ったよりあっさりだったわ。……ここまでは」
ビアンカはキメラが倒れても平気な顔をしていた。むしろ、ニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。
「仮にも神話生物を作ってるのよ。心臓を一突きしたくらいで、死ぬわけないわ」
大剣を完全に抜き取った瞬間だった。ニアの背中に、ずん、と重い衝撃があった。振り返ると、獣の前足。その爪は、ニアの背に深く突き刺さっていた。ふと自分の腹に目をやると、そこからとがったものが突き出ている。この爪はこんなにも大きかったのか、と思った。そんなことが考えられるくらい、何が起こったのかわからなかった。
「……あ」
声を出そうとすると、口から血があふれた。内臓から上がってきたらしい。ごぼ、と音をたてている。
「五年前、その子と同型の子が一回殺されちゃったのよ、カスケードに。だからそれじゃ駄目だと思って改良したの。心臓が動かなくなっても、少しなら生き延びられるようにしてあげたのよ。そうじゃないと、当初の目的が果たせないでしょう?」
ずるり、と爪が背中から抜けていく。それと同時に、腹からも血があふれ出した。ニアの紺色の軍服は、血の色が重なって真っ黒になっていた。足を崩してうずくまると、眼鏡が外れて地面に落ちた。そこにビアンカの声が降ってくる。
「カスケードは心臓を狙って何発も銃を撃っていた。だからそれでも死なないように、あんたの大剣にも耐えられるように、作り直したの。どう? このできばえ。ちゃんとあんたに通用したじゃない!」
気が遠くなっていく。だが、まだ意識を手放すわけにはいかない。ビアンカから、その言葉の真意を聞かなければ。
「……なんで」
「あら、まだ喋れるの。すごいわね」
「なんで、五年、前の、こと……」
液体に空気が入る音がする。だが、なんとか声は出せた。けれども限界は近いようだ。
「なんでって、わからない? あんた、頭良くなかったっけ? ……だから、五年前も今も、そのキメラはあたしが作ったのよ。五年前は焦ってたから、中途半端なものができちゃったけれど。それでも視力を奪ったあんたを殺すには十分だと思ってた。キメラに村を歩かせて、あんたたちに仕事をまわして、あんたの食事に薬を盛って。準備は万端だった。なのに、あのときは失敗した。カスケードが一人で戦うなんて、予想してなかったのよ!」
ビアンカが拳を握るのが見えた。その悔しそうな表情が目に入った。
「本当はあのとき、あんたを殺すはずだったのに!」
その言葉が、耳に入った。
「僕……?」
「そうよ、あんたが死ぬはずだったの。目が見えないまま任務に出て、キメラに引き裂かれて死ぬはずだった! それなのにどうしてかカスケードが一人で戦って、怪我をした! こんなの計算外だった。あたしのせいであんなことになるなんて、思ってなかった。……だからね、やり直すの。もう二度と、あんたとカスケードを一緒になんかしない。……以上、報酬の、冥途の土産よ」

ああ、やっぱり。本当は、僕がいなくなるのが正しかったんだ。

目が覚めると、辺りの景色はすっかりぼやけてしまっていた。けれどもそこが、どうやらベッドの上らしいことはわかった。やわらかな布団が、痛む腹に優しかった。
でも、どうしてこんなところにいるのかはわからなかった。自分はたしか、森の中でキメラに殺されたのではなかったか。
「……生きてる?」
そっと腕を持ち上げて、手を握っては開く。首を動かして横を見ると、壁に大剣が立てかけてあるらしいことがわかった。
「あ、ニアさん起きた! 良かった、心配したんだよ!」
アクトの声だ。ここはいったい、どこなのだろう。
「……ごめん、アクト。僕は今、どこにいるの?」
ぼやけてはっきりと見えない姿に問う。すると、優しい声の返事があった。
「軍病院。ある村の人から、軍人が大怪我をして倒れてるって、電話番に連絡があったんだ。嫌な予感がしたからグレンとラディアに行ってもらったら、案の定ニアさんだったってわけ。傷は塞ぎきれなかったみたいだから、こっちに戻って急いで手術して、それから半日経ったところかな」
こちらが順を追って訊かなければならなかったこと全てを、アクトは説明してくれた。森の中にいたはずなのに、村の人間に助けられたということは、ビアンカがそこまで運んだのだろうか。いったい、何のために。
「ニアさんと知り合いだっていう中将の人から、ニアさんに任務を依頼した人の身元は教えてもらった。その人の行方を、クリスたちが追ってる」
「そう……」
ビアンカの声が、頭の中によみがえってくる。五年前のあの日、いなくなるべきだったのはニアだった。だが、親友がニアを留め置いてくれたおかげで、今もこうして生きている。
「そうか、あの子はまた、僕を殺しそこなったのか」
「殺し……ってことは、やっぱりその傷、依頼人が?!」
アクトが即座に反応するが、ニアは首を横に振った。この傷をつけたのは彼女ではない。彼女の意図ではあったが、実行したのはキメラだ。だがそのキメラを作ったのは……。
「アクト、ちょっと調べたいことがあるんだ。僕の眼鏡をとってくれる?」
「調べたいことって……その体じゃ無理だよ。それから眼鏡だけど、どこにもなかった。ニアさんが発見されたときにはもうかけていなかったらしいし、近くにも落ちていなかったみたいだよ」
「……そう。参ったなあ……」
この調子では、体も目も当分回復しそうにない。せめて眼鏡があれば、資料を読んだり、人の顔を確認したりすることができるのに。
「目薬と、いつも飲んでる薬ならあるよ。これだけじゃ駄目?」
「あ、ありがとう。試してみる」
アクトからなんとか目薬を受け取り、目に点してみる。それから頓服薬を一錠、口に放り込み、飲み込んだ。……だが、やはり視界はぼやけたままだった。
「眼鏡、たぶんやられたときに落としたんだと思う。見つかる可能性は低いな。……仕方ない、彼女に頼もう」
こんなときに連絡するのは、彼女にとても申し訳ないのだけれど。それしかもう方法はなさそうだった。
ついでに、彼女の兄について報せよう。全く良いニュースはなく、むしろ悪いことだらけだけれど、彼女ならそれを受け入れて次の策を考えてくれるはずだ。


キメラを入れた巨大なカプセルは、組織の人員を借りて運んでもらった。必要な道具なども簡単にまとめ、すぐにこの家を出る準備はできている。
あとは組織に呼ばれて出ていったカスケードが帰ってくるのを待つだけだ。
先日、カスケードは首都に行って暴れたそうだ。「良いことがあった」と言って帰ってきたときのことだ。その勝手な行動がビアンカと組織の人間に知られ、きついお叱りを受けることになったのだった。
一晩は帰ってこないというので、ビアンカはその間にニア・ジューンリーの殺害を決行することにした。キメラを使ってニアに重傷を負わせ、カスケードの目にその遺体が触れぬよう、動かなくなった彼を森の外の村に捨てた。大剣も、持っているとカスケードに見つかる恐れがあるので、一緒に置いてきた。
あれだけの傷を負ったのだ、放っておけば死ぬだろう。
そう考えながら、すぐに森に戻り、この場所を出る支度を始めた。ニアが死んだことが軍の知るところとなれば、原因として真っ先に疑われるのはビアンカだ。軍に見つかる前に、別の場所へ移動する必要があった。
“あの方”に拠点の移動を願い出ると、すぐに次の場所を用意してくれた。そこにカスケードと一緒に移り住むのだ。ちょっとした引っ越しだと思えばいい。彼にもそう説明すればいい。
「ただいまー。……あれ? なんかさっぱりしたな」
「あ、おかえり。今から引っ越そうと思って。“あの方”が新しい家を用意してくれたの」
「へえ、そうなのか。今度はもっと首都に近いといいな。仕事がしやすいから」
カスケードはあっさりとそれを受け入れてくれた。だが、首都の近くはビアンカにとっては都合が悪い。軍に見つかれば、捕まる恐れがある。
「……あ、ちょうど“あの方”から地図が届いたわよ。……。良かったわね、カスケード。今度の拠点は首都の地下だそうよ」
ビアンカには都合が悪いが、仕方がない。全ては“あの方”の意思なのだから。
五年前、キメラに大怪我を負わされたカスケードを保護したとき、助けてくれたのは“あの方”だった。その正体はわからないが、ビアンカがキメラの研究をしているということをどこかから聞きつけていて、五年前のあの日に現れ、その援助を約束してくれた。
カスケードがビアンカのもとにいて、しかも怪我のせいで記憶を失っていると知ったとき、“あの方”はなぜだかひどく喜んでいた。そしてこれまで、さらに今回も、力を貸してくれることとなった。
その人には逆らえない。恩義もあるし、この先の協力だってまだまだ必要だ。ビアンカがカスケードと一緒にいるために。キメラ研究を続けるために。
「首都か。じゃあ、会えるかな。あの声の主に」
「きっと無理よ。軍人なんて、いつ死ぬかわからないもの」
わくわくするカスケードに、ビアンカはそう返した。そう、無理なはずだ。その人物は死んだのだから。
「それじゃ、行きましょう。急がないと邪魔者が……」
そう言って振り向いたビアンカの目に飛び込んできたのは、カスケードの手だった。正確には、その手にあったものだ。
それは、眼鏡だった。リムのないレンズに、銀色のブリッジとつるがついた、細いフォルムの眼鏡だ。たしかそれは、ニアがかけていたものだ。五年前にはそんなものは使っていなかったから気づかずに、処分し忘れたらしい。
「それ、どうしたの?」
「そこで拾った。なんかきれいだから、持ってようと思って」
五年前には関係のない品だ。持っていても、彼の記憶をよみがえらせることはないだろう。ビアンカは躊躇いながらも、それを許した。


北方から首都レジーナの駅に、列車が到着した。電話を受けてすぐに行動しても、やはり来るまでに丸一日はかかってしまった。
首都に降り立った彼女は、ダークブルーの髪を冬の近い冷えた空気にさらりと流し、海色の瞳によく似合う眼鏡をかけている。見る人が見れば、すぐにわかる。彼女はあのインフェリア家の娘なのだと。
彼女はその足で軍病院に向かい、ニア・ジューンリーの病室を訪ねた。戸を開けると、そこには茶髪の男と、ベッドに体を横たえるニアの姿があった。
「ニアさん……」
「あ、サクラちゃん? 来てくれたんだ。ありがとう」
こんな状態でも、ニアはふわりと笑う。なんでもないよとでも言うような笑顔で、こちらに手を振る。
彼女――サクラ・インフェリアは、ここが病院であることも忘れ、叫んだ。
「ばかっ! こんなときに何笑ってるのよ!」
ニアは一瞬面食らったが、すぐに困ったような笑みで「ごめん」と言った。
「そうだよね、カスケードのことがわかったのに、ずっとまともな連絡をしてなくて……」
「そうじゃないでしょう?! 大怪我したのにへらへらしてるなんて信じられないって言ってるの! もう、こっちは電話を受けてどれだけ心配したか……!」
まくしたてるサクラを、茶髪の男、すなわちツキが、どうどうと抑える。
「サクラさん、だっけ? とりあえず落ち着いて。他の部屋にも患者さんいるから」
「あ、すみません。私も軍医なのに、取り乱しちゃって……」
サクラは北方司令部の軍医だ。かつてニアが北方で仕事をしていたとき、その目の調子を診たり、薬を処方したりしていたのは彼女だった。ニアの親友カスケードの実妹ということもあり、その捜索にも携わった。結局北方では、何も進展がなかったのだが。
とにかく、あらゆる面から見て、サクラはニアの元パートナーであった。そんな彼女としては、今回の件は驚くやら呆れるやら心配するやらで、平静を保つのが大変だったのだ。それが今、爆発したらしい。
「ええと……あなたはニアさんの同僚の方?」
ひとまず落ち着きを取り戻したサクラは、ツキに尋ねた。
「俺はツキ・キルアウェート。中央の外部情報取扱係所属の曹長で、ニアの年上の部下」
「そうですか。はじめまして、ツキさん。私はニアさんの元仕事仲間で、北方司令部軍医のサクラ・インフェリアです」
「カスケードの妹さんだよ」
ニアが補足すると、また再燃しだしたのか、サクラはニアに向かってぽんぽんと説教を始めた。
「暢気に口を挟んでいる場合じゃないでしょう。全く、久しぶりに電話をしてきたと思ったら『眼鏡をなくしたから軍病院に来てほしい』ですって? いったいどれほどの怪我をしたのか心配で、ナースステーションで聞いてきちゃったわよ。背中からお腹にかけて何かが貫通したみたいって、すごく深刻そうに話してたから、どれほど具合が悪いのかと思ったら! まあ、ニアさんって前からそういう人だけどね。わかってたわよ、心配が無駄だってことくらい!」
「無駄じゃないよ。ありがたいよ」
「そうやってすぐ人にお礼を言う! 自分が不利益を被っても言うんだから! それと眼鏡、新しく作り直すのに時間かかるわよ。また検査するところから始めなくちゃいけないんだから。そうだ、眼科に機材を借りられるかどうか確認しなくちゃ……」
よくもまあ、そんなに言葉が出てくるものだ。ニアとツキは苦笑しながらサクラを見ていた。それに気づいた彼女は「またへらへらして!」と言う。
ツキはこっそりとニアに尋ねた。
「カスケードもこんな感じなのか? 俺がそれらしき奴に会ったときは、こんなんじゃなかったけど」
「全然違うよ。サクラちゃんはすごくしっかり者で、腕のいい軍医なんだ。僕の目もちゃんと診てくれたし、カスケードを捜すのにも一生懸命。すごくいい子だよ」
まずは彼女の力を借りて、目を治さなければ。カスケードを捜すのも、ビアンカにもう一度話をしに行くのも、それからだ。




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posted by 外都ユウマ at 19:26| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする
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