2014年01月28日

Reverse508 第十五話

立て続けの事務仕事や任務の中でも、休息は大事だ。ここ最近慌ただしかったジューンリー班は、本日第三休憩室にて、珍しく全員で穏やかな休憩時間を過ごしていた。
「ツキ、お前また勝ちやがったな! いい加減にしろ、強運が!」
「褒めてくれてどうも。そもそもディアは捨て札が甘いんだよ。これとこれにしておけば次引いたときに役できたのに」
「今回は俺も良い役できましたよ! ……ブラックと同じなのは納得いかないけど」
「こっちこそお前と同じなんてごめんだ、バカイ。おい、たしかこれカードによっても強弱あったよな?」
「それでいくと君の負けになるよ、ブラック。それでいいの?」
……穏やかな休憩時間を、過ごしていた。
カードゲームで盛り上がる者あり、お喋りを楽しむ者あり、のんびりと茶を飲む者ありと、ジューンリー班の面々は自由だ。ただし、彼ら全員に茶を淹れるのはニアの役目である。
すっかり温かいお茶が美味しい季節になった。メリテェアが持ってきてくれた秋のフレーバーは、班員全員に好評だった。それを上手に淹れるために、ニアの腕前もあがっている。だが、一度にそう何杯も淹れられるわけもなく、出すのはどうしても順番になってしまう。カードゲーム組は白熱しているようなので後回しにして、のんびりしている人たちから。
「はい、おまたせ。ハルはちょっとだけミルク入れるのが好きなんだよね」
「覚えててくれたんだ! ニアさん、ありがとう!」
濃く淹れた紅茶に、ミルクをほんの少し。ハルの好きな紅茶の飲み方を、ニアはちゃんと覚えている。ハルだけではない。班員の好みはだいたい把握できていた。おかげで茶を出すのが遅れても、誰も文句を言わない。たとえ好みを把握していなくても、文句を言うような人間はここにはいないが。
「アーレイドは紅茶よりコーヒー派だよね。淹れようか?」
「いえ、紅茶でいいです。ニアさんの淹れる紅茶、濃い目で好きなので」
「それは光栄だね」
ちょうどハルに淹れた分が残っていたので、その濃い紅茶をアーレイドにも出す。
人数分の茶を淹れるのは大変だが、ニアにとっては心が安らぐ「仕事」だった。少なくとも、本業よりは。
本業のほうはというと、危険薬物取引が頻繁に行われている状態だ。ライズ村の事件以降多くはなっていたが、最近は急激に増えている。一日に何件もあることも珍しくなく、大多数の班が出動中という日もままある。
その異常な状況を、上層部も訝しんでいた。メリテェアも疲れているようで、紅茶を飲みながら溜息をついている。
「メリーちゃん、大丈夫? ここのところ会議ばかりだよね」
「ええ、大丈夫ですわ。わたくしはこれが仕事ですもの。……でも、今日は久しぶりにのんびりとした休憩で、正直に申し上げますと、ホッとしていますわ」
「メリテェアはいつも無理しすぎなのよ。もうちょっと自分が十六歳って自覚を持ちなさい」
しっかりした女子組が心配するほど、メリテェアは働いていた。彼女がまとめているのはジューンリー班だけではないので、仕事量は半端なものではない。それをクリアできるからこそ、彼女は准将という地位にいるわけだが。
「准将さんであんなに大変なんだから、大総統さんってもっと大変なんだろうね」
ハルが何気なく口にした言葉で、ニアは大総統ダリアウェイドの机を思い出す。たびたび訪れる大総統執務室の机は、いつも書類でいっぱいだった。たまには大総統にも茶を淹れてみようか、などと考えていたところへ。
『メリテェア・リルリア准将、至急第一会議室へ来るように。繰り返す、……』
放送で呼び出しがかかった。どうやら、准将の優雅なティータイムはここで終了らしい。
「あら、残念。ニアさん、また今度、お茶をお願いしますわね」
「はい。メリテェアさんの持ってきてくれる茶葉ですから、心を込めて淹れさせてもらいますよ。いってらっしゃい」
休憩室を出ていくメリテェアを見送りながら、ニアは彼女を心配に思う。はたしてきちんと休めた日があるのだろうか。仕事が佐官以下に下ろせるものならば、下ろしてほしい。
そんなことをぽつりと呟くと、クリスが呆れたように言った。
「ニアさん、それはあなたにも言えることですよ。本当に、仕事を抱えすぎる上司を持つと、こっちが気を遣わなければならないので大変です」
「そうそう。ちゃんとこっちに仕事ちょうだいよ、ニアさん」
アクトも笑いながら継ぐ。ニアはばつが悪そうに苦笑した。そう、人のことを言ってばかりいられないのだ。事務仕事の多いときは鬼と化す、とまで班員に言われるニアだが、実際に下ろしている仕事量はそれほど多くない。相対的に見て、の話だが。
そんな会話を楽しみながら和やかに時間は過ぎた。――その放送が入るまでは。

『司令部内にいる全兵に告ぐ。ただちに練兵場に集合せよ。繰り返す、……』

司令部全館にそれが鳴り響いたとき、第三休憩室も、しん、と静まり返った。
「……何かあったのか?」
グレンが不安げに呟く。するとラディアがその空気を壊そうとするように言った。
「きっと、何かのサプライズですよ! 大総統さんの誕生日とか!」
「あ、それなら楽しいですよね!」
「いや、そんな雰囲気じゃないでしょ……たしかにそれなら面白いけどさ」
シィレーネまでのろうとしたところに、クライスが笑いながら返すが、それはどこかひきつった笑顔だ。いつもならこのあたりで仕入れた情報を教えてくれる彼だが、何もないということは、急な事態なのだろう。
「と、とにかく行ってみない? ねえ、ニア大佐」
「そうだね、シェリアちゃんの言うとおりだ。行こう、みんな」
ただちに、というからには急がなければならないのだろう。第三休憩室に集まっていたメンバーは、全員練兵場へ向かった。

練兵場には中央司令部に属する軍人のほとんどが集まっており、がやがやと話し合っている。どうやら多くの者が、この緊急招集の意味を理解していないらしい。入隊したばかりの少年兵たちなどは、不安そうな表情をしている。
将官たちは練兵場の壁際に、まるで佐官以下の兵を取り囲むようにして立っていた。監視されているようで気味が悪いなと、ニアは率直に思う。
「諸君、静粛に!」
そのとき、突如鳴り響いた声で、その場は静まりかえった。ニアはこの声の主をよく知っている。大総統アレックス・ダリアウェイドだ。よく大総統室に行くので聞き慣れてはいるが、今日は何やら様子がおかしい。厳しさが格段に増しているようだ。
「今から、重要な報告をする。心して聞くように。……では、リルリア准将」
大総統はそれだけ言って、マイクをあろうことかメリテェアに渡してしまった。おそらくここに集まっている全員が「なぜ」「どうして」と問いたいだろうが、そうすると話が進まないので、口にはしない。
大総統からマイクを受け取ったメリテェアは、深呼吸をしたあと、語りだした。
「お集まりいただき感謝いたします。まず、みなさんに集まっていただいたのは、過去に全兵が動いたときのような、大きな事件が起きたからですわ」
その一言だけで、兵たちは息を呑む。ざわめきたい気持ちを抑え、メリテェアの言葉に耳を傾けた。
「先頃、危険薬物関連の事件が多発し、みなさんも出動されることが多くなっているかと思います。いつまでもこれでは、きりがない。わたくしたちはそう判断しました。……そこで今回、危険薬物取引を実行している組織を一気に壊滅させることにいたしました。わたくしたちのもとには、数日前にその組織に関する重要な情報が入っております」
十六歳の少女が放つ強い語気に、兵たちは圧倒される。危険薬物取引組織を壊滅させる。それはたしかに一大プロジェクトだ。軍総出で当たることも、なんらおかしくはない。だが、それを率いるのが准将とはいえ弱冠十六歳の少女だという事実は、衝撃だった。
「今回の任務の総指揮は、不肖、メリテェア・リルリアが執らせていただきます。准将以下の階級に属する皆さんは、わたくしの指示に従ってください。……と、言いたいところですが」
メリテェアは、ここでこほんと一つ咳ばらいをした。そして、こちらを見止めるとにこりと笑った。その時点でニアは察する。これは、大変なことになった。
「ニア・ジューンリー大佐、こちらへ!」
全兵がこちらへ一斉に注目する。ニアは戸惑うが、しかし無視するわけにはいかない。急いでメリテェアのもとへ行くと、小さな声で「すみません」と言われた。そして。
「わたくしの判断で、今回の実質的な指揮はジューンリー大佐にお任せいたします」
「え?!」
ほら、やっぱり。冷や汗を流すニアをちらりと見てから、メリテェアは続けた。
「わたくしは准将といえど、経験が足りません。ですから、わたくしよりも長く軍に在籍しております彼に、この立場を託したいと思います。もちろんわたくしが彼を補佐いたしますわ」
「で、でも、僕は……」
「大丈夫です、責任はわたくしがとりますから。それに、わたくしどもはあなたの実力を信じていますわ」
メリテェアが天使のように微笑む。だが、ニアはその裏に何か恐ろしいものがあるように感じてならない。
なぜ、自分が指揮官なのか。中央に来てまだ九カ月ほどの自分が、将官を差し置いて。だが、ここで断ってはいけない気がした。そう、親友がもし同じ立場になったなら、必ず引き受けるだろう。
「……わかりました。その命、お受けします」
「ご協力、感謝いたしますわ。……それでは、解散してくださって結構です。各班への指示は、のちほどあらためていたします。それともう一つ。今から呼ぶ方は、この場に残っていただきたいのです」
メリテェアはそうして、次々に名前を挙げていく。「以上ですわ」の言葉で呼ばれなかった者たちが練兵場から出ていったあとは、ごく少数の人間が残った。
ここにいるのは、ほぼ毎日顔を合わせているメンバーだ。グレン、リア、カイ、ラディア、アーレイド、クリス、ツキ、クライス、クレイン、ディア、アクト、アルベルト、ブラック、シェリア。――ハルとシィレーネを除いた、ジューンリー班のメンバーだった。
「……ちょっと待ってよ。シィは伍長だから任務にあんまり関われないのはわかるとして、なんでハルもいないわけ?」
真っ先に異を唱えたのはシェリアだった。ここまで班員が揃っていて、なぜこの二人だけがいないのか。アーレイドもそれに続いた。
「そうですよ。どう見てもいつものメンバーなのに……ハルは……」
ハルはここにはいない。もう練兵場から出たあとのようだ。だが、自分が呼ばれなかったことはきっと気にしているだろう。たとえ、シィレーネが一緒だったとしてもだ。
「メリテェアさん、どういうこと? 僕を司令にしたことといい、何か事情があるんでしょう?」
ニアが問い質すと、メリテェアは頷いた。その表情は、なぜか悲しげだった。
「……シィレーネさんに関しては、シェリアさんの言う通りですわ。階級的な問題です。ですが、ハル君は……特別な事情があって呼べません。みなさんも本人には内密にお願いします」
その悲しげな眼を真剣なものにし、メリテェアは告げた。
「この軍の情報を、敵方に送っている人物がいます。……裏切り者が、出てしまったのです」
「裏切り者?!」
「はい。容疑者は三名。ソフィア・ライアー、アーサー・ロジット、そして……ハル・スティーナです」
その名前に、メリテェア以外の全員が絶句した。この軍に、ハル・スティーナは一人しかいない。自分たちのよく知っている、あの少年だけだ。
「そんな……そんなはずないですよ! ハルが裏切り者だなんて! メリーさんはハルのことをそんなふうに思ってるんですか?!」
「アーレイドさん、お静かに。もちろんわたくしは、ハル君は無実だと信じています。ですから、彼の無実を証明するためにも、みなさんに動いてもらわなければなりません。上層部がわたくしを総指揮に指名したのも、わたくしがニアさんに指揮をお任せしたのも、全てはそのためです。みなさんには、危険薬物取引の取り締まりと同時に、スパイも捜してもらうことになりますわ」
メリテェアも焦っている。二つの仕事を同時進行することは難しい。実際のところは、危険薬物の取り締まりという大規模な作戦をメリテェアが、そしてスパイ捜索という細かで個人的ともいえる仕事をニアが引き受ける形になるのだろう。
それを把握できればいい。ニアのやることは決まった。
「その情報源は?」
「軍のコンピュータのアクセス記録からです。クレインにはこれからその信憑性を調べていただきますわ。改ざんされている可能性も当然視野に入れていますから。同時に裏組織の活動予測も、アクセス記録からとることができると思います。実働は、今回はいつもとは異なる班構成をとらせていただきますので、それぞれにお任せすることになります」
「わかった。……それじゃ、みんなでハルを助けるよ。いいね?!」
「はい!」
ジューンリー班の、仲間を救うための戦いが、始まった。

対危険薬物取引組織用の特別な班は、すでにメリテェアたち将官の間で決められていた。貼り出されると同時に、各自にもしっかりと伝えられていて、ニアたちが話を終えて戻ったときにはすでに大多数の者が自分の所属を把握していた。
普段とは異なる班構成をとったのは、容疑者三人にこちらの疑いを覚られることなく、彼らを監視するため。だが、ジューンリー班の目的は「ハルの無実を証明すること」でもある。そのため、みんながバラバラになるということはなかった。マルスダリカを捜査したときのように、人員はある程度固めてある。
ハルは、アーレイドと同じ班に組み込まれていた。せめてパートナーである彼がそばにいてやったほうがいいということなのだろう。あるいは、普段一番近くにいるアーレイドこそが、ハルを監視しやすいという判断だったのかもしれないが。
ニアは手元の資料で班構成を確認しながら、実働班をどう動かすか考えていた。いかにして容疑者たちを監視しながら、メインの仕事である「組織」の取り締まりを行なうか。彼らが動くために必要な情報を得ようとしたとき、情報担当の負担はどれほどになるのか。今回の件はマルスダリカのときよりずっと複雑で、指揮を執るのは困難だった。
だが、やらねばなるまい。なにしろ、仲間の人生がかかっているのだから。軍に入隊する以前からニアを慕ってくれていた、弟のようにも思えるハル。あどけない笑顔で、毎日懸命に仕事にかかっている彼に、軍を裏切るなんてことができるはずはない。
頭の中で今現在の情報と今後の動きを整理していると、ニアの耳に話し声が飛び込んできた。あれは、ハルとシィレーネの声だ。
「二人が一緒にいるなんて珍しいね?」
ニアはなんでもないように声をかける。先ほど呼ばれなかった二人が一緒にいることは容易に想像できたのだが、あえてそれを隠した。
「あ、ニア大佐。今、ハル軍曹と話してたんです」
「さっき、いつもの班でボクたちだけ呼ばれなかったから。上の人たちの話かなって」
班の中でも、この二人は低階級組だ。年齢でも最年少だが、クレインは同じ十五歳ながら中佐という地位にいるので、どうしても特別枠になる。ニアはしばらく、それを利用させてもらうことにした。
「そうなんだよ。ちょっとだけ複雑な話」
「うわあ、やっぱり難しい話なんですね」
「そっか、やっぱりそうなんだ。ニアさんが言うなら間違いないよね……」
ハルは自分に言い聞かせているようだった。何か自分が重要なことから外されるような、そんなことをしたのではないかと、気にしていたのは明らかだった。
ニアはいつもの笑顔で、二人の肩に手を置いた。
「大丈夫。今回の任務は、大掛かりだけど、そう難しいものじゃないから。ハルには実働の大事な仕事があるし、シィレーネちゃんにはもしものときの救護に当たってもらうことになってる。二人とも、一緒に頑張ろうね」
「はい!」
「頑張ります!」
二人とも、とても素直でまっすぐな返事をする。シィレーネはもちろん、ハルがスパイだなんてことはまずありえない。ありえないのに候補に挙がったのは、いったいなぜなのだろうか。
――軍のコンピュータのアクセス記録。それが情報源だというが、はたしてハルに軍の複雑なコンピュータセキュリティが扱えるものなのだろうか。
「ニアさん、どうかしましたか?」
「あ、ううん、なんでもないよ。指揮官は緊張するなって思ってただけ。……そうだ、シィレーネちゃんはすぐに救護班の集まりがあるから、医務室に行ってくれるかな?」
「はい、いってきます! 指揮官、頑張ってくださいね!」
シィレーネが走り去ったあと、ニアとハルは二人取り残される。ニアも今後の作戦を立てるために行かなければならないが、ハルはどうしてここに留まっているのだろう。
「僕、もう行くけど。ハルは?」
「ボクはここでアーレイドを待ってます。同じ班だって聞いたので」
そういえば、アーレイドはあの話のあと、何か考え事をしているようだった。じきに来るだろうから、ここにハル一人を残しても何も問題はない。
「そう。アーレイドはすぐ来ると思うよ」
「はい。ニアさん、指揮官頑張ってくださいね。……それから、ありがとうございます」
どこか寂しそうな笑顔が、ハルが何かに感づいていることを物語っていた。
申し訳なく思いながら、それを本当の笑顔に変えるのだと決心して、ニアは再び書類に目を落としながら進んだ。

ハルの所属する班の司令官はクリスだ。主に潜入を担当しているが、スパイ容疑について知っている人員はちょっとした調査にもあたることになっているという。
「多くの人員には、即、任務についていただくことになっています。クリスさんがそう指示してくださるはずですわ。ハル君は……少し待機していただくことになりますわね」
ニアはメリテェアと二人、今回の任務の司令室にと指定された第一会議室にいた。二人でいるにはあまりに広いが、積まれた資料の数も膨大だった。なにしろ危険薬物取引とスパイ容疑の両方についてそろえてあるのだから。しかもこれからまだまだ増える予定になっている。
「ハルの待機ですけど、一人で? 可哀想だし、さすがに怪しまれない?」
「アーレイドさんについていてもらいますわ。いつものお二人ですもの、少しは自然に見えるでしょう」
少しは、と強調してメリテェアは言う。ハルは幼く見えるが賢い子だ。今回の動きが異常であることには、とうに気づいているだろう。
「そしてグレンさんたちにはクリスさんの指示に従って調べ物をしていただくことになっています。資料室にある個人データを見ていただきますわ」
クリスの班にはハルとアーレイドの他、グレン、リア、カイ、ラディア、シェリアがいる。彼らが資料の確認を行なうことになるのだろう。デスクワークが苦手な人員ばかりだが、クリスがリーダーなら問題ないはずだ。
「個人データは、スパイ容疑をかけられている人たちの?」
「ええ。だいたい察しはついていますけれど。……アーシャルコーポレーション捜査の際に、軍部内にも会社にいた経歴のある者がいることがわかっています。わたくしの記憶が正しければ、ハル君以外はアーシャルコーポレーションに所属していた経験があるはずですわ」
ニアは手元の資料を見る。ソフィア・ライアーとアーサー・ロジットの、簡易プロフィールだ。エルニーニャ軍には十歳から入隊が可能だが、二人ともそれをとうに過ぎてから軍に入っている。特にアーサーなどは、昇進が異様に早かったので気づかれにくいが、ごく最近入隊したようだ。だが、それ以前の経歴はここにはない。もっとも、この個人プロフィール自体も改ざんが疑われているのだが。
「……メリテェアさん。少し前に僕が相談した話、憶えてますか? 東方諸国連続殺人事件の際、僕らがイストラに行くタイミングを見計らったように、ラインザーがエルニーニャに来ている。アルベルトが国外に行くことを、明らかに予測した行動です。この情報を知るには、エルニーニャ軍内に、ラインザー本人か協力者だったオファーニと繋がりのある人物がいる可能性がある」
あれはイストラでの任務から帰ってきたあとのことだ。ニアはずっと、それまで国外で犯罪を犯していたラインザーがなぜエルニーニャに戻ってこられたのかを考えていた。しかも、アルベルトがエルニーニャを離れるそのタイミングを狙って。ニアでさえ、直前までいつ国外任務の許可が下りるのか予測できなかったにも関わらず、だ。
「そう言ってましたわね。アルベルトさんの行動を知り得るのは、上層部にいて軍人の動きを把握できる人物、あるいは情報担当かその関係に詳しい人物ですわ。……今回の件と、関わりがあると思いまして?」
「僕は疑っています。アーシャルコーポレーションと裏社会の関係性は、捜査からとっくに明らかになっています。……今回の件、僕らが思う以上に根深いものかもしれないですよ」
ニアの考えは、もちろん「よくある陰謀論」と括って捨ててしまうこともできるものだ。だが、ここ最近の薬物取引などの裏社会事情を考えると、簡単に否定してしまうこともできない。
メリテェアは短い時間で考えを巡らせていたようだが、一度息をつき、言った。
「たとえそうだとしても、今は目の前のことに集中すべきですわ。関係性は、当人を捕まえて聞き出せばいいことですもの」
「そうでしたね、ごめんなさい。……そうだ、アクトの班は? こっちは待機班ですよね」
取引は一か所で行われるとは限らない。それは最近の事例からも明らかだ。そこで予備の人員として、アクトも一班抱えている。こちらにはディア、アルベルト、ブラック、ツキが所属している。その他の人員も、軍有数の肉体派が多い。
「こちらは取引が複数発生したとき、必要に応じて活躍していただく班ですわ。速攻を重視しています。ただし、やみくもに動かれても困りますので、理性的なアクトさんに司令をお願いいたしました」
「うん、それは正解かも。一部のアクトを認めたがらない人たちも、ディアがいればおとなしくなるだろうし。こっちにはアーサー・ロジットがいるんですね」
「ええ。同様にクリスさんたちの班にはソフィア・ライアーを配属しています。できるだけ彼らを実働にし、情報の送受信ができるところから引き離したいというのが今回の狙いでもあります」
「……それは、ハルも同じ?」
「……そうですわね。将官見解としてはそうなりますわ」
容疑者たちはそれぞれの班に分散されている。スパイ容疑のことは、上層部と、ハルとシィレーネ以外のジューンリー班しか知らないことになっているので、自分たちの目の届くところに置いておかなければならない。監視という意味でも、守るという意味でも。
「さて、あとは情報担当だけど。ベルドルード兄妹は情報処理室?」
「クレインはそうですけれど、クライスさんは外に出てもらっていますわ。彼お得意の隠密行動です。連絡は随時二人の間でとってもらっています」
「それは助かるね。あの二人のコンビネーションは抜群だから」
ニアとメリテェアがそうして全員の動きを確認したところで、ちょうどクリスがやってきた。手には書類を持っている。彼らの調査の成果だろう。
「お疲れ様です、お二人とも。個人資料、ありましたよ。コピーで申し訳ありませんが。クレインさんにはこれから原本を渡しに行きます」
「ありがとう、クリス。……ああ、やっぱりハル以外はアーシャルコーポレーションにいたことがあるんだね」
ニアは資料を受け取り、すぐにそれを確認した。簡易プロフィールではわからなかった詳細な個人データが、そこにはあった。
「おや、このことはご存知で?」
「リアさんの件があった際に、わたくしが一度調べたんですの。記憶違いだといけませんので、この資料はいずれにしろ必要でしたわ。ありがとうございます」
二人が礼を言うと、クリスは微笑んで「どういたしまして」と返す。
「それではボクらは、夜まで一旦休憩をとらせていただきます。何か他の方に伝えることはありますか?」
「ありがとう、ご苦労様。この二言を。……ハルには、気をつけてあげてね」
「わかりました。……お二人は、根を詰めすぎないようにお願いしますよ。司令官が倒れては元も子もありませんから」
「お気遣いありがとうございます」
クリスはすぐに会議室を出ていった。休憩をとるとは言ったが、彼はまだ休まないだろう。班のために作戦を練って、それを遂行できるかどうか考えなければならない。しかし頭の良い彼ならば、問題ないだろう。
受け取った資料を広げながら、ニアは笑みを浮かべた。
「有能な部下を持つと、僕らは楽ですね」
「そうですわね。根を詰めすぎなくて済みますわ」
メリテェアもくすくすと笑う。しかし資料を見るときは真剣な目をしていた。
個人データをメインとしたその資料は、今後の流れを作るために重要な情報だった。それに一通り目を通し、メリテェアはニアに問う。
「この資料が改ざんされていない正しいものとしますと、今後はどういたしますの? アーシャルコーポレーションにいたからといって、裏の研究などに関わっていると断定はできません。ですが、見過ごせない事実ではありますわ」
「そうですね。……でも、作戦はこのまま進めたほうがいいと、僕は思います。たとえばハル以外の監視を強化したとして、それが原因で今回の任務の意味を覚られるとまずい。相手だって、全く気付かないようなことはないでしょう」
「ええ、わかりましたわ。それでは変更なしで進めましょう」
あとは、それが順調に進んでくれればいいのだが。作戦自体も気がかりだが、ハルのことも気になる。何としてでも、真のスパイを見つけ出さなければ。

実行の夜が訪れる。
『潜入班の者に告ぐ。大至急司令部入り口前に集合せよ。繰り返す、……』
合図の後、間もなくしてクリスたちが出動した。それを確認した頃、ニアのもとにクレインからの連絡があった。
「はい、ニアです。クレインちゃん、何かあった?」
『たった今わかった情報です。潜入班が行った東区画以外でも、もう一か所危険薬物を貯蔵しているところがあるみたい。クライスにも連絡して行ってもらおうと思いますけど、待機班をこの場所にまわしたほうが良いんじゃないかと思って』
この情報が入るということは、クレインはアクセス記録からうまく裏の情報を引き出せたということだ。やはり彼女の情報処理能力は頼りになる。
「やっぱり今回も複数あったんだね。場所は?」
『北区画の工場跡です』
「わかった、すぐにアクトに連絡するよ。ありがとう」
ニアは内線を切ると、すぐにアクトの無線へと繋いだ。北区画の工場跡なら、おそらくすぐに対応できるはずだ。
「アクト、情報が入った。北区画の工場跡に、危険薬物が貯蔵されてる」
『はい、了解。すぐ向かうよ』
これで待機班も出動したことになる。容疑者三人は全員、中央司令部を離れた。
「今のところ異常はないし、クレインちゃんのほうも順調そうだね。アクセス記録に入れたってことは、こっちは本物だと思っていい」
いつ鳴るかわからない電話機や無線受信機に注意を払いつつ、ニアは引き続きメリテェアとともに第一会議室にいる。現場の状況が伝え聞くことでしかわからないというのは、思った以上に恐ろしい。余計な想像が頭をかすめては消えていくので、状況が悪くないものであることを声に出して確かめる。
「アクセス記録が本物ということは、ますます真のスパイ以外の無実を証明しなければなりませんわね。容疑者の中の誰かが、確実に組織と繋がっているということになりましたから」
「そうですね。……でも、どうしてハルなんだろう? あの子に疑いをかけることで、いったいどんな得があるっていうんだ?」
ニアには、ハルが疑われることで得られるものなど思いつかない。それは仲間だからという贔屓目なしに、本当に存在しないように思われた。あの幼くも見える少年を罠にかけたところで、誰かが得をするとは考えられない。
「ハル君の何かが相手にとって不都合だった、という見方はいかがです? 得るのではなく、想定される不都合の回避だったのでは?」
「それにしても、僕にはわかりません。ハルが何か重要な情報を持っているなら、誰かそれを知っていてもいいはずです。それこそアーレイドとか。でもそんな気配は全くない。リアちゃんのときのように、その不都合が形のあるものならわかりやすかったのかもしれないけれど……」
どうしてハルに容疑がかけられなくてはならないのか。それは現時点での最大の謎だった。犯人にしか知り得ない情報なのかもしれない。だが、それを知ることができれば、ハルを守れるかもしれない。
しばらくメリテェアと話し合っていたが、いくら考えてもらちが明かない。時間ばかりが過ぎていく。
「……わからなくても、この分だと、予定通りに事が運びそうですわ。そうなってくれれば、真犯人から全てを聞き出すことができます」
「そうですね。……そうだといいけれど」
そう呟いたときだった。急に無線受信機がけたたましい音を立て、ニアはそちらへ飛びついた。発信元はアクトだ。
「アクト、どうしたの?」
『アーサー・ロジットがいなくなった。追いかけたいんだけど、ちょっとこっちも手一杯で……』
容疑者の一人が動き出した。ニアとメリテェアは一瞬だけ目を合わせ、頷きあった。それだけで十分だった。
「わかった。アーサーは僕たちに任せて、アクトたちはその場でできることに専念して」
『うん、お願い』
無線を切り、今度は電話へ。受話器をとり、情報処理室のクレインへと繋ぐ。彼女は待機していてくれたのか、すぐに応じてくれた。
『はい、何かありました?』
「アーサー・ロジットがいなくなったって情報があった。クライスに連絡して、捜してもらってくれない?」
『わかりました。すぐに連絡します』
すぐに受話器を戻し、メリテェアに向き直る。どこか不安げな彼女に、ニアはあえて笑顔で言った。
「予定通りにはいきませんでしたね。でも大丈夫。予定外も想定内です」
「そうですわね。……ええ、そうですとも」
これくらいのことで戸惑ってどうする。人が一人動いたくらいなら、まだ序の口だ。
ニアは再び席につき、続報を待った。それが良いものであることを祈って。

アクトは無線を切ると、すぐに迫っていた敵をナイフで斬り払った。ディアがこちらへ向かって来ようとしていたが、それに目線だけで「問題ない」と返す。
相手は四十人ほど。そう見積もっていたが、実際はそれよりも多かった。しかも応援を寄越してくる。どうやらこの場所は大当たりだったようだ。このまま倒していけば大量検挙になる。
「ったく、殴っても殴ってもかかって来やがる。楽しくて仕方ねぇな」
ディアが皮肉と本心の入り混じった台詞を吐く。それを聞いていたツキが苦笑した。
「そりゃ良かったな、喧嘩屋さん。俺は普段事務だから、こういう場は慣れてなくて……なっ!」
そう言いながらも、ツキは豪快に敵を蹴りとばしていた。軍人としての実戦経験は少ないが、賭け事に関わっていると、多少は手を出されることもある。これはそれに対する防御策だ。攻撃という名の、最大の防御。
「よくこんな状況で楽しんでられるな、あの喧嘩バカども。こっちは早く帰りたくて仕方ねーってのに」
ブラックは文句を言いながら、敵を気絶させていく。実に器用な峰打ちだった。動きが素早いので、本当に斬られたと思った相手が勝手にのびてくれることもあった。だが、手ごたえのない相手ばかりを何人も寄越されても、うんざりするだけだ。
「アクト君、アーサーの件はどうなりました?」
敵の足や腕、武器などに確実に銃弾を撃ち込みながら、アルベルトが尋ねる。攻撃の片手間に会話をするというよりも、会話のついでに攻撃もしておく、といった風だ。もう誰にも隠す必要のなくなった実力を、彼は存分に発揮していた。
「ニアさんたちがなんとかしてくれるって。今動ける人なら、たぶんクライスあたりじゃないかな。心配しなくてもいいと思うよ」
「それなら安心ですね」
いよいよ数が減ってきた敵を片付け、ついに最後の一人をディアが殴り倒した。起き上がってこようとする者は一人としていない。あとは軍に連絡し、彼らと危険薬物を運ぶだけだ。
「こっちはなんとかなったな。アクト、ニアに連絡してもいいんじゃないか?」
「そうだね。輸送のための車が必要って言わないと……」
アクトが無線を手に取ったときだった。向こうから、誰かのうめき声と、何かが落ちたような音が聞こえた。ふとそちらに目をやると、アクトたちとともに来ていた軍人たちが、たった一つの影に倒されていた。次々に、あっけなく。
「……誰、あれ」
逆光でよく見えないが、背の高い人物のようだった。近くにいた軍人から順に、いとも簡単に足を払ったり、胸のあたりを拳で叩いたりして、少しずつこちらへ近づいてくる。
おかしい。ジューンリー班以外の軍人たちも、その立場にいるからには戦えるはずだ。しかも、軍きっての肉体派がそろっているはずだった。だが、彼らはまるで何の力も失ってしまったかのように倒れていく。いったい、どうして。
「おい、お前! 何しやがる!」
我に返ったディアが真っ先にその人物へととびかかっていく。思い切り拳を振り上げ、その顔面に打ち付けようとした。だが。
「ちょっと振りが大きくないか? それじゃ見切られやすいぞ」
その人物は右手一つで、その拳を簡単に止めた。
ようやく慣れた目で、ディアは対峙した相手を見る。その眼は黒。髪も黒。黒いシャツに、黒いボトムス。肌以外の全身が真っ黒な男だった。背はツキよりも高いくらいだろうか。
――黒髪黒目の、大柄な男。その情報に、ディアは覚えがあった。
「お前、まさか……」
その一瞬のできごとだった。ディアの見る世界が、ぐるりと反転した。いや、違う。ディアが目の前の男にひっくり返されたのだ。
何が起こったのかわからないでいるディアを越えて、黒い男は進む。進もうとした。だが、その足をディアが掴んで引き留めた。
「……おい。まだ勝負はついてねぇぞ!」
足を掴んだその腕を思い切り引くと、男はバランスを崩して転んだ。その隙にアクト、ツキ、アルベルト、ブラックが男を取り囲む。
「いてて……あ、やばい。コンタクト落ちた……」
男は囲まれていることもかまわずに、片目を押さえて立ち上がった。ディアの手を蹴って払うと、それからなぜか、嬉しそうに笑った。
「まあいっか。初めて俺と勝負できそうな奴に会えたし」
男は目を押さえていた手を離すと、その手を握りしめ、拳をツキの腹に叩き込んだ。あっという間の出来事に、本人も周りも反応できなかった。
「ぐ……っ!」
「ツキさん!」
腹を押さえてうずくまるツキを、アルベルトが支えようとかがむ。だがその瞬間、頭を大きな手に掴まれ、そのまま放り投げられた。まるで人形でも扱うかのように。
「……っ」
「アルベルト! ……この野郎が!」
ブラックが刀に手を伸ばす。だがその手は柄に届く前に、男に掴まれ、捻られる。それから体が床へと叩きつけられた。
アクトは右手にナイフを、左手に無線を持っていた。そっとスイッチを入れて、送信状態にする。受信はしない。相手に無線のことを覚られてはいけない。
「あんたも組織の人間? 何が目的?」
男を睨みながら尋ねる。彼は首をかしげて、「うーん」とうなった。
「特に目的はないな。暇だから遊びに来ただけ。……でも、うん。やっぱり違うな。一瞬お前かと思ったけど、あの声はもうちょっと柔らかかった」
そして彼はアクトの右手を掴もうとした。だが、それは背後の人物によって止められた。
「そいつは俺のもんだ。手ぇ出すなよ、デカブツ」
「あ、立った」
男はディアを見て嬉しそうに笑うと、間髪を入れずに右手を拳に握り、ディアの腹に叩き込んだ。ディアはうめいて腹を押さえる。だが、倒れなかった。
「軽いな。ツキの奴、こんなのにやられたのかよ」
「……倒れないんだな、お前。びっくりだ」
軽いはずはない。むしろ、内臓どころか脳にまで響くくらい重い一撃だった。しかしディアは耐えてみせた。ここで自分に注意をひきつけておかなければ、アクトに矛先が向く。
「今度はこっちの番だぜ、デカブツよぉ!」
ディアが拳を振るう。今度は止められず、男の腹に打ち込まれた。男はうめいて咳き込んだが、なぜかあげた顔は笑っていた。
「いいな、その拳。軍人にしておくには惜しいよ。お前は殺さないでおいて、思いっきり喧嘩がしたい」
ディアの渾身の一撃を、この男はわざと受けたのだ。ただ、その力量を測るためだけに。ディアもアクトも、これにはぞっとした。男の嬉しそうな笑顔が、恐ろしかった。
殺さないでおいて、喧嘩がしたい? この男は、初めはディアを殺すつもりだったということか。ディアだけではない。ここにいる軍人全ての命を奪うつもりなのだろう。
しかし倒れた軍人たちは、まだ生きている。今回は殺さないでおいてくれるのだろうか。そうならありがたい。そう、心から思えた。
「あ、それ何?」
男が、ふと何かに目を留めた。アクトの左手だ。そこには無線が握られている。送信状態にした、無線が。
男の片目が興味深げに光った。とても美しい、海の色だった。

突然アクトから通信が入った。ニアが無線受信機に近づくと、アクトの声が聞こえた。
『あんたも組織の人間? 何が目的?』
こちらに呼びかける声ではない。少し離れたところから、他の誰かに呼びかけている。
「アクト? そこに誰がいるの?! ねえ!」
こちらから呼びかけても返事はない。どうやらこちらの音声を受信しないように設定しているらしい。
『特に……な。暇……。……でも、うん。……あの声はもうちょっと……』
誰かの声がする。アクトが話しかけていた相手だろうか。何を言っているのか、うまく聞き取れない。
だが、ニアはそのわずかな響きに、なぜか言いようのない懐かしさがこみあげてくるのを感じた。
『そいつ……だ。……、デカブツ』
『あ、……』
ディアらしき声がして、誰かがそれに反応したようだった。その直後、うめき声らしきものが聞こえた。ニアは耳をそばだてる。メリテェアは胸を押さえて、ニアの背中を見守っていた。
『……な。ツキ……、……やられた……』
『……倒れない……、……。びっくりだ』
ツキがやられた、と聞こえた。まさか、怪我でもしたのだろうか。
「アクト! アクトってば! ねえ、何が起こってるの?!」
ニアがどんなに叫んでも、向こうには届かない。だから、答えない。その代わり、ディアの叫びが聞こえた。
『今度はこっちの番だぜ、デカブツよぉ!』
おそらくはディアが反撃したのだろう。だが、そのあとは何が起こっているのか、よく聞き取れない。
『……、その……。軍人に……。……殺さないで……、……い』
相手が何か言っている。物騒な単語が聞こえたが、はっきりとはわからない。ただ、一つだけわかったのは、ディアが攻撃したのにそれが通用していないということだ。
『……、……何?』
誰かがそう言った直後、受信機がザザッと音をたてた。受信部に触れてしまったときに走るノイズ音だ。それから少しして、「誰か」の声がはっきり聞こえた。
『もしもーし、聞こえますかー? ……あれ、返事ないな。あ、これか』
何かのスイッチが入った音がした。向こうの受信ボタンが押されたらしい。ニアはとっさに叫んだ。
「アクト! ディア! 聞こえる?! 何があった?!」
だが、呼んだ者の返事はない。代わりに「誰か」が、声だけでもわかるくらい嬉しそうに言った。
『あ、この声! そうだ、音は悪いけど、絶対そうだ! なあ、お前の名前は?』
明るい声だった。昔よく聞いたような、懐かしくて、なぜか悲しくなる声だ。
「……君は、誰?」
ニアが問う。相手はしばらく沈黙していたが、やがて弾んだ声で言った。
『内緒』
それから、がしゃん、と音がした。無線が落ちたらしい。いや、落としたのか。
少し遠くから、細い声が聞こえた。
『ニア……さん、……っちは、大丈……』
「アクト?! どうしたの? 今のなんだったの?!」
ざり、と無線を手繰り寄せる音が聞こえた。アクトの声が、はっきりと聞こえるようになる。
『わかんない。突然現れて、今いなくなった。組織と関係あるかははっきりしなかったけど、軍人を狙っているみたいだ。……そいつに、ほとんどやられた』
「ほとんどって……ツキたちも?」
『ツキとアルベルト、ブラックも。でも意識はあるよ。ディアも殴られて痛がってはいるけど、たぶん大丈夫。こいつは無駄に頑丈だし。おれは突き飛ばされたけど、かすり傷で済んだ』
「そんな……相手はどんな奴?」
そのとき、電話機が呼び出し音を鳴らした。メリテェアがとり、話し出す。相手はクレインのようだった。メリテェアはしばらく相槌を打っていたが、次第にそこに焦りが混じり始める。もう一方も非常事態のようだった。
『ニアさん?』
「……あ、ごめん。なんだかこっちもあまり良くない状況みたいなんだ。そっちにはとりあえず、まだ待機している班と救護班を送る。さっきの人については、あとで改めて聞かせて」
『わかった。じゃあ、お願い』
ニアは無線を切って、メリテェアのほうを見た。ちょうど電話を終えた彼女は眉を顰め、悲しそうに、悔しそうに、言った。
「アーサー・ロジットがクリスさんたちの担当区域の路地裏で殺害されたそうです。そしてその容疑がハル君にかかり、クリスさんたちの判断で留置所に連れて行かれたそうですわ」
「そんな、どうして……こんなことばっかり次々に……」
だが、事態を憂えている場合ではない。ニアは他の班の無線に連絡をし、アクトたちのいる場所へ向かうよう伝えた。救護班にも待機していた班と合流するように指令を出し終えたところで、再び無線の呼び出し音が響いた。メリテェアが出ると、クリスの声が聞こえた。
『メリテェアさんですか? ボクです。クリスです』
「クリスさん、どうかしましたの? わざわざクライスさんの無線を使って……」
『ええ。実は、メリテェアさんに許可をいただきたくて。アーサー・ロジットの遺体を、検分させていただきたいのです。彼の身元について、疑わしい部分が多々ありますので、彼が本当にアーサー・ロジットという人間なのかどうかを確認したいのです』
メリテェアとニアは顔を見合わせた。本来、エルニーニャでは遺体に外傷がある場合や軍人が任務中に死亡した場合は、遺体の検分、つまり解剖ができないことになっている。ただ、将官以上の人間から特別な許可が下りた場合は別だ。二人は頷きあい、答えを決めた。
「わかりましたわ。特別に許可を出します」
『ありがとうございます』
アーサー・ロジットの遺体から、クリスが何かを見出してくれるかもしれない。ハルが助かるための手掛かりを掴んでくれることを祈りながら、ニアはドアに向かって歩き出した。
「ハル君のところに行くんですのね」
「はい。少しの間、お願いします。メリテェアさん」
「ええ、お気をつけて」
わからないことは多々あるが、そこはなんとかできる仲間に任せよう。ニアには、ニアにしかできないことがある。

留置所は、中央刑務所と併設してある。ニアが到着すると、すぐ近くにいた職員が、こちらの階級バッジを確認して声をかけた。
「これはこれは、大佐殿ではありませんか。何のご用件でしょうか?」
「さっき、ハル・スティーナって子が連れてこられたはずです。彼に会わせてください」
「ハル……? 聞いたことがありませんが」
どうやら彼は、ここに連れてこられた者の名前を把握していないらしい。ニアはやきもきしながら、ハルの外見を説明した。
「赤紫色の髪で、背はそんなに高くない、男の子の軍人です」
この国ではハルのような髪色の人間は珍しいので、こう言えばすぐにわかるはずだ。案の定、職員は納得したように言った。
「ああ、あの同僚殺しの件で連れてこられた少年ですか。あの少年なら留置所のB棟に連れて行かれましたよ。全く、あんな子供が殺しなんて、いったい何を考えているやら……」
職員が呆れたように、しかしどこか馬鹿にしたような笑みを浮かべて言った。その表情を見たとき、ニアの中で何かが切れた。もともと張りつめていた心の糸に、この職員の態度がとどめをさしたのだ。
ニアは職員の胸倉を掴み、その顔を見つめた。その眼は酷く冷たく、職員は表情を凍らせた。そこへ、冷気のような言葉を淡々と浴びせる。
「……君、あの子の何がわかるの? あの子は僕の部下だ。僕はあの子のことを、君なんかよりずっとずっとよく知っているよ。少なくとも、君にそんなふうに嗤われるような子じゃない。僕の部下を侮辱するような物言いはしないでいただきたい」
静かな怒りは、職員に恐怖と混乱を与えた。ただ、彼は懸命に謝り始めた。
「す……すみませんでした。もう言いませんので、どうか許してください……」
その言葉を聞いて、ニアは彼から手を離した。そして咳き込む彼に見向きもせず、施設内に入って行った。
B棟を進むと、すぐにすすり泣く小さな声が聞こえた。ニアは小走りでそこへ向かい、牢の中の小さな姿を見つけた。
「ハル」
呼びかけると、隅のほうで膝を抱えていた少年はびくりと肩を震わせた。そして恐る恐る顔をあげ、ニアの目を見た。
「ニアさん……?」
ずっと泣いていたのだろうか。頬に傷のできた顔も目も赤くなって、涙でくしゃくしゃになっている。ニアはふわりと微笑んで、ハルをまっすぐに見られるように屈んだ。
「大丈夫? 泣いてちゃ、顔の傷が痛いでしょう。はい、これ使って」
ニアがハンカチを差し出すと、ハルは躊躇いながらもこちらへやってきて、それを受け取った。「ありがとうございます」と小さく言うと、それで顔を拭いた。けれども涙は次々に溢れてくるようで、ハルはハンカチに顔をうずめたまま、嗚咽交じりに語った。
「ニアさん、助けてください。もう、ニアさんしか頼れないんです。誰も……誰もボクを、信じてくれないんです。クリスさんも、グレンさんも、みんな。ボクは……ボクは絶対にやってないのに……」
泣きじゃくるハルの頭に、ニアはそっと手を伸ばす。そしてその髪を優しく、丁寧に撫でながら、幼い子供に言い聞かせるような穏やかな声で言った。
「うん、辛いよね。苦しかったね。ハルはここまで、よく頑張った。僕が来るまで、一人で寂しいのに耐えたね。とても偉いよ。でもね、大丈夫。すぐにクリスやグレンが、君をここから出してくれるから」
ハルはそれを聞いて、ハンカチから顔をあげた。そして首をかしげる。
「グレンさんたちが? だって、ボクをここに入れたのに? ボクを……信じてくれなかったのに……」
ニアはゆっくりと首を横に振る。彼らの真意はわかっている。みんなが、同じ気持ちなのだから。
「ハル、そうじゃないんだよ。グレンたちが君をここに入れたのは、君がやってないって信じてるから。ここが君を守るのに、一番安全だからなんだ」
「どういう……ことですか?」
「ハルは殺してない。そんなのはみんなわかってるよ。真犯人は他の人だ。その人が、たとえば君がアーサーを殺したことを悔んで自殺したように見せかけて、君を殺してしまうかもしれない。それを防ぐために、君をここに逃がしたんだ。そうすれば、今後の捜査にも集中できるしね」
ニアがにこ、と笑うと、ハルはすがるように格子に手をかけた。そして、尋ねた。
「じゃあ、みんなボクを信じてくれてるの? ボクは……一人じゃないの?」
「もちろん。だから、安心して待ってて。すぐにここから出られるからね」
「……はい」
返事をしたハルは、もう笑みを取り戻していた。ニアはもう一度ハルの頭を撫で、それから力強く言った。
「よし、ハルも元気になったことだし、僕は戻るね。また、司令部で会おう」
しっかりと約束をして、ニアはその場をあとにした。
B棟を出ようとしたとき、前方に人が待っていた。シィレーネの叔父で施設の職員である、ケイアルス・モンテスキューだ。
「モンテスキューさん! どうしてここに?」
「ジューンリー大佐が来ていると聞いたので。……先ほどはうちの職員が失礼をしてしまったようで、申し訳ございませんでした」
モンテスキューが深く頭を下げるのを、ニアはあわてて止めた。
「僕も言いすぎたかもしれないので、もういいです。ハルに対する暴言だけ反省してくれれば、それで……」
「ハル……さっきここに来た、ハル・スティーナ君のことですね?」
さすがはモンテスキューだ。ここに来た者の名前は、しっかり把握していた。
「連れては来られたけれど……あの子は何もしていないのでは?」
「わかるんですか?」
「長年この仕事をしていますとね。……あの子に仲間を殺せるはずがない。あんなに小さいのに無実の罪をきせられて、可哀想に……」
モンテスキューは心の底からハルのことを心配してくれていた。ニアはそれがわかったから、彼にハルを託すことにした。
「大丈夫です。あの子は、ああ見えて強い子ですから。……でも、たしかにショックで参っているようなので、ここにいる間は彼をよろしくお願いします」
今度はニアが深く頭を下げる番だった。モンテスキューはニアに顔をあげさせ、しっかりと頷いてくれた。

倒した敵共を全員拘置所に送り、謎の人物に倒された軍人たちを救護班が手当てしている間に、アクトのもとにはクレインからの連絡が入っていた。
『……というわけで、ハル君は留置所に連れて行かれてしまいました』
「……そう」
先ほどの襲撃に加え、ハルが捕まってしまったという事実。二重のショックに、アクトの声も沈む。だが、次のクレインの言葉で復活せざるを得なくなった。
『そこで、アクトさんたちにお願いしたいことがあるんですけど』
「何?」
『アーシャルコーポレーションの近くの施設を調べてほしいんです。そこに、もしかしたら亡霊がいるかもしれないので』
「亡霊?」
尋ね返すと、クレインは詳細を教えてくれた。
アーサー・ロジットの遺体は本人ではなくクローンであった。彼はアーシャルコーポレーションに所属していた経歴があるので、もしかしたらその付近でまだ生きているかもしれないらしい。文書上では彼は行方不明になっているが、それが真実かどうかわからないので、本物のアーサーを捜して確かめてきてほしいとのことだった。
「ああ、わかった。すぐに向かうよ。何かわかったら連絡する」
『よろしくお願いしますね』
クレインには、こちらの状況は知らせていない。ニアやメリテェアからも聞かされていないようだ。それなら、平気なふりをして仕事をしよう。余計な心配はさせたくない。
「クレイン、何だって?」
手当てを受け終えたツキが尋ねる。アクトは無線をしまいながら答えた。
「うん、亡霊の確認をしてほしいって」
「何だよそれ」
「ここでは言えないから、詳しい説明は後。ツキ、動けそう?」
腹をやられていたが、内臓に影響はないだろうか。打ち身は大丈夫だろうか。心配事は色々とあったが、ツキは笑顔で答えた。
「もう全然平気。クレインの頼みとあらば、動かなくちゃな」
「そっか、じゃあ一緒に行けるな。ディアは? 動ける?」
少し離れた場所に呼びかけると、「なめんじゃねぇ」と返ってきた。問題なさそうだ。
「あとはアルベルトとブラックだけど……」
「あ、僕も平気です」
「本当かよ。……まあ、オレは問題ないけどな」
強がりな兄弟も、もちろん参加するつもりらしい。アクトは笑って、立ち上がった。
「それじゃ、頼まれごとをやってしまおうか。大事な話もあるんだ。つらいと思うけど、ちょっとだけ急ごう」
アクトの声に、状態を確認された四人も立ち上がる。救護班として来ていたシィレーネが、「本当はおとなしくしていてほしいんですけどね」と口を尖らせたので、「ごめんな」とだけ返しておいた。
移動する車の中でハルが留置所に入れられた件や、アーサー・ロジットの身元のことなどを話しながら、五人は夜の町を進んだ。
同時に、先ほどの戦いのことをニアにどう説明しようかということも、考えていた。
「あれ、中央刑務所に来たっていう黒髪黒目の男だよな。たぶん」
「間違いないだろ。……目はコンタクトレンズで色を変えてたみたいだけど」
「色、見たか?」
「……暗くて見えなかった、ってことにしたい」
見たものを、そのままニアに伝えるべきだろうか。伝えなければいけないはずなのだが、ごまかしたい思いもある。
あの海色の瞳は、ニアに見せてもらった写真で笑っていた人物と同じだった。髪なんて、染めればいくらでも色は変えられる。
「とにかく、クレインさんからの頼みごとが先でしょう。大佐への報告については、後で改めて考えましょうよ」
重苦しくて潰されてしまいそうな空気を、アルベルトが立ち直らせる。そう、今はそうするしかなかった。
そして調査の結果、やはりというべきか、アーサー・ロジットは生存していた。自分が軍に在籍していたことすら知らず、アーシャルコーポレーションでも表の仕事しかしていない。彼は本当に巻き込まれただけだった。
それをクレインに報告し、アクトたちも司令部へ戻ることとなった。ニアへの説明を、今度こそ考えながら。

ハルとの面会を終えて司令部に戻ってきたニアは、メリテェアに断りをいれると、いすにどっかりと腰かけた。深く息をつきながら、自分がいない間に起こったことをメリテェアから聞いた。
「アーサー・ロジットは、クリスさんによる検分の結果、クローンだということが判明いたしましたわ。アーシャルコーポレーションに在籍していましたから、彼のクローンを作ることは容易だったでしょう」
「なるほどね。本物は?」
「書類上は行方不明ということになっていましたわ。けれども、この書類の信憑性が疑われているので、クレインが調べてくれています」
「そう……」
ニアは点眼薬を取り出し、両目に点した。それから頓服薬を水を使わず飲み込み、最後に眼鏡を装着した。ことが重なり、一気に目に負担がかかっている。とくにアクトたちのもとに現れた「誰か」のことを考えると、目の前が暗くなるようだった。
あの声は、たしかに知っているものだ。求めてやまなかったものだ。だが、どうしてそこに現れたのか、どうして物騒な言葉を口にしたのか、……どうしてニアに「お前の名前は?」なんて訊いたのか、全くわからなかった。心のどこかに理解したくない自分がいた。
あれが彼だとしたら、なぜ軍人を攻撃したのか。彼は軍人のはずだ。軍人だったはずなのだ。ニアが最後に見た、あの瞬間までは。
電気がついているにもかかわらず、周囲がうす暗く見え始めた頃。無線受信機が鳴り響いた。ニアがふらりと立ち上がろうとするのをメリテェアが制し、代わりに連絡を受けた。
「こちらメリテェアですわ」
『クリスです。たった今、全てが終わりました。結論から言いますと、犯人はソフィア・ライアー。ただし今回の件は、被疑者死亡という結果に終わりました』
「死亡って……いったい何があったんですの?」
メリテェアとクリスのやり取りに、ニアは耳をそばだてる。どんなに疲れていても、悩んでいても、指揮官として事件の顛末は知らなければならない。

今回の事件の首謀者は、女性軍人ソフィア・ライアーだった。彼女はハルのクローンまでもを作りだし、アーレイドに重傷を負わせたという。
ハルをここまで貶めようとしたその理由は、ハルが軍にいることが、彼女らにとって都合の悪いことだったためだ。それが、なんとも信じがたいことなのだが――ハルが南の民サーリシェリア人の血をひく者であり、ソフィアたちは彼らの持つ「予知夢」の能力を恐れていたのだという。特殊能力を持つ者は、組織にとっていずれ邪魔になる存在だった。
そこで彼女はアーサー・ロジットのクローンを利用し、ハルに罪をきせた。アーレイドをハルのクローンに襲わせたのも、最後の一押しだったのだろう。全てはハルを軍から追放するための手段だったというわけだ。
アーサー・ロジットは、アクトたちが自分たちの怪我を気にせずに調べに行ったらしく、全く無関係であったことが発覚した。
そして最終的に、ソフィア・ライアーはこう言ったという。
「今回のことは私の単独行動だから、調べても何もわからないわよ。クローンにも、何の証拠も残していないわ。……これ以上組織について詮索されると困るから」
彼女はその言葉を残して、自らの手で命を絶った。
結局、彼女は今回の件にしか関わっていなかったのだろうか。それとも最後の言葉までも嘘で、本当は他の事件とも関わりがあったのだろうか。今となっては、もう何もわからない。
「……つまり、僕らがすぐにしなければならないのは、アーレイドのお見舞いか。無事だといいけれど」
「きっと大丈夫ですわ。アーレイドさんもお強いですから」
ニアは立ち上がり、メリテェアに支えられながら、病院へと向かった。

アーレイドの手術中、ハルがモンテスキューに連れられて病院へやってきた。もう無実が証明された彼は、自由に外を歩けるのだ。
「あの……アーレイドは?」
ハルがニアに尋ねる。ニアは眼鏡の奥で微笑んだ。
「大丈夫、命に別状はないよ。手術ももうじき終わる。……モンテスキューさん、ハルを連れてきてくれてありがとうございます」
「私は当然のことをしたまでです。それでは、お先に失礼いたします。彼の無事を祈っていますよ」
去って行くモンテスキューの背中を見送った後、手術室から医者が出てきた。アーレイドの手術は成功したということだが、背中を大きく斬られたおかげで、彼の長い髪は切らざるを得ないということだった。
それだけで済んで良かったと、みんなが安堵した。「よかった、よかった」と言いながら抱きついてくるハルを、ニアは優しく抱き返した。

今回の任務はこれでひとまず解決と相成った。メインであった危険薬物取引組織の壊滅も、大方は果たせたと思われる。少なくとも大きな組が二つ壊滅したのは間違いない。
アーレイドも無事目を覚まし、ハルと共に語り合ったという。
被疑者死亡のためにスパイについての詳細な情報は得られなかった。それはまた別の方面から調査しなければならないだろう。
何にせよ、メリテェアとニアの指揮官としての役目も、これで終わりだ。
「ニアさん、お疲れ様でした。……まだ、眼鏡は外せませんの?」
事件の晩が明けた日の夕方、ひとまずの報告書をまとめ終えたニアに、メリテェアが尋ねた。
「うん、まだちょっと気になることがあってね」
「……例の、アクトさんたちのところに現れた人物ですわね」
任務の報告が片付いた今、ニアにはアクトたちに確認しなければならないことがある。あの無線から響いた声の主は、いったい誰だったのか。
いつも手帳に入れている親友の写真を手に、ニアはアクトのもとへ向かった。
「……あ、ニアさん」
「アクト。……それに、ディアとツキ、アルベルトにブラックまで」
その途中で、こちらへ向かってくる彼らと鉢合わせた。向こうも同じことを考えていたらしい。六人は第三休憩室に入り、机を囲んだ。
ニアがどう切り出したものかと思っていると、先にアクトが言ってくれた。
「ニアさん、おれたちが会った奴のことだけど。……黒髪黒目の大柄な男。中央刑務所に来た人物で間違いないと思う」
初めに彼が目撃されたのは、中央刑務所だった。軍の大尉の格好をして、南方殲滅事件首謀者ボトマージュに面会に来たのだ。
その後、彼はライズ村の長の娘クオレの送迎をしている。そのとき、彼が髪を染めていることが判明した。地毛の色は、ダークブルーだ。
三度目はアーシャルコーポレーション事件のとき。レスター・マクラミーに軍を訪れることを進言したというのも、黒髪黒目の男だった。
それからぱたりと見なくなったかと思えば、今回の四度目だ。あまりにも堂々とした登場だった。
ニアは目の前にいる五人に、知りうる限りの「黒髪黒目の男」の情報を話した。本当はもっと早くに、全員に言うべきだった。
「……そう、地毛はダークブルー、ね」
アクトがぽつりと、その情報を呟く。そして、躊躇いがちに言った。
「ニアさん、申し訳ないんだけど……カスケードさんって人の写真、持ってるよね。見せてくれない?」
ニアは息を呑む。そして、写真を手帳から取り出す前に、眼鏡を外した。自分の目で、これから起こることを確かめたかった。
「……はい、どうぞ」
写真を差し出すと、アクトたちはそれをじっと見つめた。そして、顔を見合わせた。言うべきか、言わざるべきか、迷っているようだった。
しばらくして口を開いたのは、ディアだった。
「正直、顔まではわかんねぇ。よく見えなかったし、化粧で変えてたかもしれねぇ。……でも、これだけははっきりしてる。強く印象に残ってるんだ」
直接対峙したディアの脳裏には、鮮明に残っていた。
その鮮やかな、海色の瞳が。
ああ、これで。ダークブルーの髪に、海色の瞳が、そろってしまった。
「……そう。彼は、こんなに近くにいたんだね」
ニアはそっと写真を撫でた。あんなに捜していたのに、会いたいと思っていたのに、彼が存在していることがわかった途端に苦しくなるのはなぜだろう。
「どうしてだよ……一緒に、人を助ける軍人になろうって……そう言ったじゃないか……!」
間違いないのは、彼――カスケード・インフェリアと思われる人物が、軍人を殺そうとしていること。それも、脅威的な強さを持って。


鼻歌まで歌って、どうやら非常に機嫌がいいらしいカスケードに、ビアンカはつい尋ねてしまった。
「どうしたの? 何か良いことあった?」
「ああ、すごく良いことだ! いつも夢の中で聞いていた声が、現実にあったんだ!」
夢の中の声。カスケードがよく言っている、彼の名を呼ぶ優しく柔らかな声。それにビアンカは、心当たりがあった。だからこそこれまで、それを明かさずにきた。
それなのに彼は、とうとう探し当ててしまったのだ。
「……会ったの? その、声の主に」
「いいや、無線で聞いただけ。やっぱり軍にいたんだな」
「そう、軍に。……軍にいるなら、殺さなきゃ、だよね」
「そうなんだよな。それがすごく残念だ。……せめて本物に会って、俺の手でやりたいな。あ、そうそう。喧嘩がすごく強い、面白い奴もいてさ……」
カスケードがどこで何をしてきたのか、ビアンカは知らない。ずっと研究室にこもっていて、彼が勝手に外出したことさえ知らなかった。変装はしていたようだから、正体はばれてはいないはずだ。
だが、彼は会いたがっている。絶対に会わせてはいけない人間に。すでに声を聞いてしまった。実在すると知ってしまった。
それがきっかけで、彼の記憶が戻ったら? 今までのことはすべて無駄になり、ビアンカは彼と離れなければならなくなる。
そんなのは駄目だ。そうなる前に、かたをつけなければ。
「……ねえ、カスケード。もしもその声の主が、カスケードが手を出す前に死んじゃってたら、諦める?」
ビアンカの問いに、カスケードは首をかしげて答える。
「? そりゃあ、諦めるしかないよな」
「そうよね……」
それしか、方法はない。自分が先にやってしまおう。
ニア・ジューンリーを、消してしまおう。





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posted by 外都ユウマ at 21:49| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年01月27日

Reverse508 第十四話

再びあの不快な人物に関わらなくてはならないなんて。そう思うと、憂鬱で仕方がない。だが、そうしなければならないのだ。それが“あの方”の命令なら。
カスケードはいつもの変装をし、彼と合流した。黒髪にライトグリーンの目をした男は、相変わらず人を見下すような態度をしていた。こちらのほうが背はずっと高いのにだ。
「君は取引のときにいたな。まさか君が出迎えてくれるとは思わなかったよ」
国境付近の町で出会った彼からは、血のにおいがした。どんなに香水などでごまかしていても、カスケードにはなぜか彼が殺人を犯してきたということがわかってしまった。
「誰か殺したんですか」
率直に尋ねると、相手は目を丸くした。しかしそれから声をあげて笑った。
「そうだね、誰かを殺したよ。誰なのかはいちいち憶えていないけれどね。……ああ、でも、やはり若い女はいいな。肉が柔らかくて、刃を入れるたびにぷつりぷつりと健康な血がわいてくる。そういう女が、僕の欲をかきたててくれるんだ」
聞いてほしくて仕方ない、というように、彼は語り続けた。カスケードはそれを右から左へと流す。
「君も一度体験してみるといい。組織の者なら、機会はいくらでもあるだろう」
「あいにく、まだ人を殺したことはありません。いずれ殺すための準備はしていますが」
「それならそのいずれの機会にやってみるといい。死んだばかりのまだ温かさが残る女は、抱くのには最高だ」
下卑た話は好きではない。性的なことには、あまり関心がない。ビアンカすら、五年前に数回抱いただけだ。向こうから、半ば強制的に誘われて。
――早く終わらせたいな、この仕事。
彼を首都に連れて行くまで、まだかなりの時間がかかりそうだった。


ノーザリア危機を越え、ジューンリー班の地位もそれなりには認められてきた。問題行動の多い人間の集まりだと揶揄されていたこともあったが、今では将官からも一目置かれるようになっていた。
そのおかげで、ようやく待ちに待った「特例措置」がとられた。他に例を見ない、佐官をリーダーとしての国外任務。皮肉にもノーザリア危機でのディアの「報告」やニアの活躍が、それを支えることとなった。
「さて、これから会議を始めるよ」
ニアはこれまでの記録をまとめたファイルと、大総統からの命令書を、並べて机の上に置いた。これからこの第三会議室で始まるのは、異例の作戦の会議だ。
「東方諸国連続殺人事件の、捜査協力要請がついに僕らにきた。心してかかるように」
東方諸国連続殺人事件とは、東の小国で国境をまたいで行われていた殺人事件だ。しばらくは各国で一件か二件ずつ行われていたものが、二カ月ほど前から一か所で何件も続けてなされるようになった。しかし犯人の手掛かりが掴めず、また過去にエルニーニャ中央部で似た事件が起こっていることから、こちらに協力要請が来ていたのだった。
しかし、国外の事件に関わることができるのは、原則将官以上ということになっている。大佐であるニアが指揮を執る許可を得るまで、そしてそれが実行できるまで、長い時間をかけてしまった。
その間に事件も悪い方向に進展していた。連続殺人は、別の国で起きるようになっていたのだ。犯人はターゲットを変えたのである。
そこで、今回捜査するのはもと殺人事件が多発していたユィーガではなく、最近になって連続殺人が起きたイストラになった。どれも手口は同じなので、同一犯と見てほぼ間違いない。外れてもかなりマニアックな模倣犯だ。真犯人とつながっている可能性は高い。
この任務に参加するのは、ニア以外に四名。ディアとアクト、アルベルトと、そして唯一の尉官であるブラック。リーダーはニアだが、捜査の主軸はアルベルトとブラックだ。これは、彼らの事件なのだから。
だが、ディアとアクトはそれを知らない。案の定、質問が上がった。
「将官の仕事なら、将官に任せとけばいいじゃねぇか。俺たちがここまでする理由が見えねぇな」
「おれもわからない。どうしてこの任務が佐官に下りてきたのか、それから、どうして中尉であるブラックまで一緒なのか」
アクトがブラックに視線を向けると、ブラックはそれを睨み返した。それをニアが諌める前に、アルベルトが発言した。
「ディア君とアクト君には、話しておかなくてはなりませんね。実は、この事件とよく似た事件が十七年前にレジーナ郊外で起こっているんです。その被害者が、ブラックのお母さんなんですよ」
「お前、また勝手に……」
ブラックは舌打ちこそしたが、アルベルトの説明をやめさせることはなかった。それで、ディアとアクトもようやく理解した。この件には、ブラックが関わらなければならないのだと。
「そっか、その事件ともし同一犯だったら、ブラックはお母さんの仇をとらなくちゃならないのか」
「そう。それで今回は特別に連れていくことになったんだ。それだけじゃなく、この事件はさらに根深くて、二十五年前にもある小国で同じ手口の事件が起こっている。こっちは犯人は入水自殺したってことで一旦片付けられたんだけど、もし生きているとしたらとんでもないことになる。二十五年もの間、ずっと殺人犯が野放しになっていたってことだからね。それを詳しく調査してくれたのが、アルベルトだった」
「はあ?!」
あまりに意外だったのか、ディアが驚愕の声をあげる。しかしアルベルトは落ち着いて頷いた。このことは任務に参加する者には話すべきだと思っていた。
「ずっと追っていました。僕も、ブラックも。……この一連の事件の犯人は、ラインザー・ヘルゲインという男です。彼はリーストックという偽名を使って、リーガル家の婿となって一子を得、さらに他の女性との間にも子供を作りました。それが、僕らです」
「……本当に?」
「マジかよ……」
ディアとアクトが、頭を抱える。こんな事実、あってほしくなかった。だが、それがなければアルベルトとブラックはここにいない。
「本当は、僕ら二人でけじめをつけるつもりでした。しかし東方諸国連続殺人事件として公になってしまった以上、そうもいきません。そこで大佐に協力を依頼し、リルリア准将を通じて、僕らに仕事として下ろしてもらうようにしたんです。……ですよね、大佐」
アルベルトの説明に、ニアは頷く。ここまで来るのには大変な苦労をしたし、大総統やメリテェアにも手間をかけさせた。たくさんの助けがあってここにある以上は、絶対に犯人であるラインザーの手掛かりを得なければならない。捕まえられれば、もっといい。
「責任、指揮は僕が執る。でも、その場の行動選択はアルベルトとブラックに一任しようと思う。今回の任務は、そういうものだ」
ついに、このときがきた。追いかけてきたものに、手が届く瞬間が。

エルニーニャ王国とその東西南北にある大国の隙間を埋めるように、小国は存在する。そのうちの一つが、東方に位置するイストラ国だ。治めているのは女王で、軍は国防大臣の指揮の下で動く。
女王に謁見したあと、ニアたちはイストラ軍の施設を見てまわった。エルニーニャのものよりも規模は小さいが、設備は十分に整っている。周囲を確認しながら寝泊りに使わせてもらえるという施設へ向かっていた、その途中のことだった。
「貴様らだな、エルニーニャから来たという若造は」
年齢は三十代か四十代といったところだろうか。ディアよりも大柄の男が、こちらに声をかけてきた。
「はい、これから数日、お世話になります。エルニーニャ王国軍中央司令部大佐、ニア・ジューンリーと申します。そしてこちらが……」
ニアが名乗り、引き続き部下たちを紹介しようとしたときだった。男はニアの頭を掴み、そのまま壁に叩きつけた。ゴンッ、という鈍い音が響く。
「ニアさん!」
「ニア!」
とっさにディアとアクトが駆け寄るが、男はそれを睨むだけで足止めした。その気迫に、二人は立ち止まるしかなった。
男はニアを壁に押し付けたまま怒鳴った。
「大佐、だと? ユィーガには将官を寄越したくせに、うちには佐官か。随分となめられたものだな!」
「……けっして、イストラを蔑ろにしているわけではありません。今回は責任者である僕が、無理を言って引き受けてきたんです」
痛みをこらえながら、ニアは言う。それを聞いた男は、ニアの頭から手を離すと、再びこちらを睨み付けた。
「俺は大将のジョグ・モールズ。貴様らが手を付けるという連続殺人事件の捜査指揮だ。貴様らにこの件は任せておけん。とっとと偉い大国にでも帰るんだな」
「お言葉ですが大将殿、我々は全身全霊をかけて、この任務に臨んでいます。そちらの持っている情報とこちらの持っている情報を合わせれば、必ずや手掛かりが得られると確信しています!」
ニアは怯まずに返すが、モールズ大将は鼻で笑った。
「どうだかな。……案外、貴様らも犯人の仲間かもしれん。疑いのある者は徹底的に疑わなければ、今回の事件は解決できん」
「……っ!」
犯人の仲間、という言葉に反応し、ブラックが自分の刀に手をかけようとする。それをアルベルトが止めたが、モールズ大将にはしっかりと見られていた。彼はブラックをねめつけると、その髪を鷲掴み、顔を近づけた。
「貴様、今刀を抜こうとしたな? エルニーニャ王国のバッジの色は知っているぞ、貴様は尉官じゃないか。なぜ尉官なんぞがここに来た。なぜ刀を抜こうとした」
「やめてください! ブラックはそんなつもりでは」
「黙っていろ、貴様が一番軟弱に見える!」
アルベルトが止めようとするが、それも空しく、モールズ大将はブラックに罵声を浴びせ続ける。
「やはり貴様も犯人の仲間ではないのか? あの忌々しい殺人鬼の!」
「……一緒にするんじゃねーよ……!」
「ほう、目上の者に対してそのような口のきき方をするのか、貴様は……」
モールズ大将は、ブラックの髪を掴む手に力を込めた。ブラックの表情が、痛みと怒りに歪む。
「やめてください! 彼は僕の部下です、発言の責任は僕がとります!」
ニアが止めに入って、ブラックはやっと解放された。モールズ大将はこちらに背を向けながら、「若造が……」と呟いていた。
「ブラック、大丈夫?」
ニアはブラックの身を案じて頭に触れようとするが、その手は弾かれた。
「触るな。……お前こそ、頭打っただろ」
「僕は平気。あんなの十三年も軍人やってれば慣れっこだし。……それにしても、厄介な人がトップにいるみたいだね」
情報は仕入れられるのだろうか。捜査は進展するのだろうか。手荒い歓迎に、ニアたちは不安と怒りを覚えていた。

宿泊施設は質素なもので、打ちっぱなしのコンクリートの壁がどこか拘置所のような雰囲気を漂わせていた。借りた部屋は三部屋で、ニアは奥から二番目の部屋を一人で使うこととなった。
荷物を置いてすぐに、長距離用の特殊無線を手に取る。メリテェアたち中央司令部の人間との連絡用だ。
「メリテェアさん、今いいですか?」
声をかけると、常に待機してくれているのか、すぐに返事があった。
『はい、メリテェアですわ。そちらの様子はいかが?』
「今のところ異常は……まあ、かなりこっちがピリピリしてますね。担当の大将は特に苛ついているみたいです。ブラックが危うく暴力を振るわれそうになりました」
『まあ……。お気をつけくださいね、お怪我などなさらないことを祈っておりますわ』
「ありがとうございます」
通信が切れると、部屋は静かになる。いや、両隣からそれぞれの話し声がわずかに聞こえていた。どちらも先ほどのモールズ大将の行動に苛立っているらしい。
後ろ頭をさすりながら、ニアはこれまでの事件についての資料を広げた。昔――正確には二十五年前だと判明した――小国で起こった連続一家殺人事件、十七年前に起きたブルニエ・ダスクタイト殺害事件、そしてその後の連続殺人事件。その全てがわかりやすく、かつ詳しくまとめられている。アルベルトとブラックの執念が込められたものだ。危険薬物についてはニアが提供した資料もあるが、これにもさらに様々な情報が加えられていた。
国外任務が決まったと告げたとき、アルベルトは複雑な表情をしていた。悲願の実現への期待と不安が入り混じっていたのだろう。ブラックはそんな彼を心配しているように見えたが、きっとそれを言うと必死に否定するのだろう。彼は照れ屋だから。
やはり、二人は兄弟だった。たとえ彼らを繋ぐ血が凶悪殺人犯のものでも、彼らはごく普通の兄弟になれるはずだと、ニアは思っていた。彼らは互いに、想いあっている。
皮肉なものだ。ラインザーがいなければ、彼ら兄弟は生まれてすらいなかったのかもしれないのだから。
資料を読みながら考えを巡らせていると、ドアをノックする音が響いた。ニアが戸を開けると、そこには一人の青年が立っていた。年の頃は同じくらいだろうか。
「こんばんは、ジューンリー大佐。私はイストラ軍大佐を務めております、オファーニ・ルークと申します」
「こんばんは。ニア・ジューンリーです。どうぞよろしくお願いします」
人の良さそうな青年だった。常に笑顔を浮かべている。握手を交わし、ニアは彼を部屋に入れた。
「今回の任務、ご苦労様です。わざわざ遠いところから来てくださるなんて」
「いいえ、とんでもないです。ここにきてすぐに、大将殿に叱られてしまいましたから」
ずきり、と後ろ頭が痛む。だがそれを隠すように、ニアは無理やり笑みを浮かべた。オファーニは「大将」と聞いて、すぐにその人物がわかったようだった。
「モールズ大将ですね。……あの人は短気ですから、気にしなくていいですよ」
「でも、今回の事件の責任者なのでは」
「実質的に動いているのは私です。あの人のは単なる執念ですよ。それよりジューンリー大佐」
ニアは「執念」という言葉が気になったが、オファーニが流すので、それを問えない。ただ、彼の話を聞いていた。
「あなたはこの事件についてどのような感想を抱いていますか? たとえば、残酷だ、とか、人間の仕業とは思えない、とか」
こんな言葉を、目の前の彼は笑顔で問う。ニアは一種の気味悪さを感じながら答えた。
「酷いとは思いますよ。手口も悪質ですし」
「……そうですか」
余計なことは言えないと思い、ありきたりな言葉でごまかした。だが、オファーニは納得がいかないような顔をして、立ち上がった。
「ジューンリー大佐、明日はこちらの資料を見ていただきます。モールズ大将のことはどうぞお気になさらずに。それではおやすみなさい」
流れるような動作で、オファーニはさっさと部屋を出ていってしまった。ニアはただ茫然と、閉まるドアを見ていた。
イストラ軍には、奇妙な人ばかりがいるようだ。

素早く支度を終え、イストラ軍へ改めて挨拶に行き、これまでの事件資料を見せてもらう。それが今日の予定だったのだが、そう簡単にはいかない。イストラ軍には、この男がいるのだ。
「若造ども、止まれ!」
「……おはようございます、モールズ大将」
つとめてにこやかに挨拶をしたニアに対し、モールズ大将は鋭くこちらを睨み付ける。
「おはようございます、か。就業まであと三十分しかないのに、とんだ時差ボケだな」
馬鹿にしたように鼻で笑い、ついでにアルベルトを突き飛ばすと、彼は去って行った。よほどこちらが気に入らないらしい。
「大丈夫か?」
よろけた体をディアに支えてもらい、アルベルトは体勢を立て直す。
「はい、すみません……」
「お前のせいじゃねぇよ。……あいつ、マジで嫌な奴だな」
ディアは以降機嫌をすっかり損ね、歩き方も乱暴になった。アクトにたしなめられても直らないところを見ると、よほど苛ついているのだろう。彼以外は気を取り直して事務室へ向かい、挨拶をした。
「おはようございます。今回お世話になります、エルニーニャ王国軍中央司令部大佐ニア・ジューンリーと申します。そして……」
「ジューンリー大佐!」
部下の紹介をしようとしたところへ、にこやかな表情の人物がやってくる。まぎれもなくオファーニだ。挨拶はいったん中断せざるを得なくなった。
「ルーク大佐、おはようございます」
「オファーニで構いません。そちらが部下の方ですね」
オファーニはニアの後方にいた四人を一通り見る。「これから紹介しようと思っていたんです」とニアが言うと、「お願いします」と返ってきた。
「こちらからディア・ヴィオラセント中佐、アクト・ロストート中佐、アルベルト・リーガル少佐、ブラック・ダスクタイト中尉です」
ごく自然に紹介したつもりだったが、ある時点でオファーニの目つきが変わったようだった。気づいたのはニアだけではなく、その変化のきっかけとなった本人も息を呑んだ。だが、それを追及する間も与えずに、オファーニは言った。
「ありがとうございます。私はここの大佐のオファーニ・ルークです。みなさん、どうぞよろしくお願いします。それではさっそく、こちらでお話しましょう」
オファーニは事務室の奥のドアへ進み、ピアノを弾くように軽やかに指を動かすと、そのロックを解いた。どうやらパスワード式の鍵がついているらしい。それを思わず感心しながら見ていると、オファーニは大仰な仕草と共に言った。
「さあ、ジューンリー……いえ、ニアさん。私と二人きりで話しましょう。他の方はこちらのココノエ大尉がご案内しますので、応接室へどうぞ」
ニアは他の四人に目配せし、部屋の中に入った。アルベルトたちは女性大尉に連れられ、応接室へと連れて行かれた。

厳重なドアの向こうにあったのは、いたって普通の部屋だった。本棚には本が隙間なく並び、部屋の中央にはテーブルとソファがある。しかしながらどうにも落ち着かない感覚に襲われつつ、ニアは勧められるままにソファに腰かけた。
「さて、ニアさん。なぜあなたとお話がしたかったかというと、あなたの部下に気になる方がいたからです」
オファーニは笑みを崩さずに、ニアの真正面に座った。そして、何でもないことを言うようにそれを口にした。
「あのアルベルトという少佐、ラインザー・ヘルゲインの息子ですね」
「!」
ニアは言葉を失う。なぜオファーニがそれを知っているのか。いや、そもそも二十五年前に死んだことになっているラインザーが生きていると、なぜ彼は知っていたのか。疑問は尽きないが、ひとまず落ち着いて尋ね返す。
「どうしてそう思うんですか?」
「二十五年前の連続一家惨殺事件、これに私はとても興味を持っていました。そうして調べていくうちに、その犯人ラインザーは生きているという結論に至ったのです。これは私以外誰も知らないはずの情報なのですが、ラインザーは顔と名前を変えてエルニーニャに渡り、エルニーニャ王国の運輸会社リーガル社の娘と結婚しました。アルベルトという名の子もできたと聞いています。さらにあの髪と眼。ラインザーと全く同じ色ですね。ここまで揃えば完璧に、彼がラインザーの実子だといえるでしょう」
得意げにオファーニは語る。だが、その発言はおかしい。ニアはオファーニを見つめ返すと、その発言に潜む奇妙な点を一つ一つ暴くことにした。
「なぜラインザーが生きているという結論に至ったんですか?」
「ここ最近の事件ですよ。手口が酷似している。模倣犯にしては正確すぎる。これは本人にしかできないことでしょう。東方諸国連続殺人事件が、彼の生存を証明したのです!」
弁に熱が入っている。しかしニアはそれに引きずられない。
「あなた以外知らないはずのその情報は、どうやって手に入れたんですか? ラインザーの見た目に関しては?」
「ですから独自に調べたのですよ。見た目は写真があればわかります」
「独自に、とはどのような方法で? そこまで詳しい情報ならば、情報源もたしかなものなのでしょう。いったい誰がそんなことを言ったのですか?」
「誰がって……資料を紐解いて調べれば、」
「あなたはたしかにラインザーに子供ができたと“聞いています”と仰いましたよ。誰かから聞いた情報でなければ、そんなふうには言わないと思いますが」
オファーニの笑みがひきつった。ニアはすでに、目の前の大佐と名乗る男に疑いを持っていた。彼がここまで詳細な情報を持っている理由を考えるとすれば、答えは一つ。彼が本人に直接あるいは間接的に接触したからだ。
「あなたはラインザーという人物に会ったんですか?」
ニアが問い質すと、オファーニは笑顔で答えた。
「いいえ」
感情の読みにくい表情だ。ニアは舌打ちしたいのを抑えて、もう一度問おうとした。
「あなたはどうやってそれらの情報を」
「ところでニアさん、あなたは部下が大切ですか?」
だが、突然の質問で打ち切られる。これ以上は何も触れるなというように。それがますます怪しかったが、ニアはその問いに答えることにした。
「当然大切ですよ。僕は部下に助けられてばかりですし、みんな良い部下ですから」
「“良い部下”ですか……」
オファーニはニアの言葉を繰り返すが、その言い方には馬鹿にしているような感さえある。ニアが眉を顰めると、オファーニは相変わらずの笑顔で言った。
「あなたは幸せですね。“良い部下”と言い切れるんですから」
そう言って彼は立ち上がり、ドアのロックを解除した。もう話は終わりらしい。これ以上追及されたくなかったのだろうと、ニアは思った。

オファーニのあとについてやってきた応接室では、先に来ていた四人と、イストラ軍の女性大尉が談笑していた。しかし彼女はオファーニが来ると、すぐに立って敬礼をした。
「お待ちしておりました、両大佐」
「ええ、お待たせしました。……ニアさん、彼女はナナツ・ココノエ大尉です。本件を担当する一員です」
「よろしくお願いします、ジューンリー大佐」
黒髪を結った、きびきびとした態度の女性だった。ニアの知っている女性たちとは、また違う魅力がある。
「さて、さっそく資料を見てもらいましょうか。ココノエ大尉、お願いします」
オファーニの指示で、ナナツが資料の公開を始めた。被害者の状況や遺留品など、一つ一つ丁寧に説明してくれる。その中に、ニアは気になる名前を発見した。
モールズ。被害者女性の一人の、ファミリーネームだ。顔写真を見ると、そこにはわずかながら、あのモールズ大将の面影があった。
「……彼女、モールズ大将と何か関係が?」
ニアが訪ねると、ナナツは俯いた。代わりにアクトが答える。
「さっき聞いたんだけど、その人、モールズ大将の娘さんらしいよ。あの人、娘さんを守れなかったことをかなり悔やんでるらしい」
そうか、と気づく。モールズ大将の「執念」とは、このことだったのだ。娘を守れなかった悔しさが、彼を厳しくしているのだ。その想いを、他人にぶつけてしまうのだ。なんとしても解決したい事件なのに、ユィーガのときと違って佐官が来るという状況は、たしかに彼にとっては良くないことだったのかもしれない。
「大将のことはもう良いでしょう。あの人は娘さんにこだわるあまり、周りが見えていません。こちらで冷静に対処したほうがいい」
オファーニはそう言って、資料に話を戻す。だが、ニアも、仲間たちも、モールズ大将のことが気になっていた。

事件は、その矢先のことだった。その夜、部屋に届いた一報に、ニアは愕然とした。現場に辿り着いたときには、もう何も言葉が出なかった。
「……んだよ、コレ……」
「惨いな……」
ディアとアクトが呟くのが聞こえた。本当に、そうとしか言えない状況だった。
廊下は液体で真っ赤に染まり、イストラ軍がその処理にあたっている。その隙間から、カバーをかぶせられている、倒れた人間が見えた。話によると、あれがモールズ大将の亡骸だという。
「……大将が、そんな。どうして……」
震える声は、ナナツのものだった。両手で顔を覆う彼女の背を、アクトが優しく支える。彼女はモールズ大将を尊敬していたらしく、彼の娘とも親友だったそうだ。ニアがオファーニと話していたあいだ、他の四人は彼女とそんな会話をしていたらしい。
「ナナツさん、戻ったほうがいい。これ以上ここにいるのは、辛いと思う」
ナナツはアクトに頷き、ふらふらと戻っていった。イストラ兵が一人、彼女に付き添っていった。
それと入れ替わりに、オファーニがやってきた。大将の亡骸に近づくと、少しも躊躇せずにかけてあったカバーを捲った。……ナナツが去った後で、本当によかった。遺体は切り刻まれ、内臓も外に引きずり出され、酷い有様になっていた。
「……一連の事件と同じですね。大将まで被害者になるとは思いませんでした」
こちらを振り返ったオファーニの顔は、笑っていた。
「……どうして笑えるんですか、こんな状況で」
「すみません、これが地顔なもので」
ニアにさらりと答えると、彼は周囲の者に命じて、モールズ大将の遺体を片付けさせようとした。しかしその大柄な体を運ぶのは難しく、移動がままならない。
「困りましたね……手伝ってくれますか? ニアさんと、その部下の方々」
ニアたちはすぐに遺体に歩み寄り、カバーの上から倒れた体に手をかけた。悲しい重みが腕にかかる。遺体は軍施設内の医療施設へ運ばれた。
アルベルトとブラックは、遺体を運び終えた後で合流した。そのとき、すでに現場はイストラ軍によって処理された後で、血液もサンプルを採り写真を撮ってから、拭き取られていた。
「大佐、モールズ大将は……」
「今は会えない。明日にはきれいな状態で会えるって」
ニアが首を横に振ると、アルベルトは掴みかかるように言った。
「それじゃ意味がない! 僕は、僕は……!」
真剣な眼差しを、ニアは止めることができなかった。そんなことができるはずはなかった。
「……かなり酷い状態だったよ。耐えられる?」
「僕は殺人事件担当の軍人だったんですよ。それに、大将の痛みに比べたら何でもないです」
「そうだね……うん、行こうか。大将はさっき、僕らが医療施設に運んだ。これから検分が始まると思う」
アルベルトとブラックを連れて、ニアは来た道を戻った。一度ここに来たのは、何か手がかりが残っていないか確認するためだったのだが、何も見つからなかった。
それを二人に報告すると、彼らも話してくれた。モールズ大将に最後に会ったのは、おそらく自分たちであること。そして、大将が娘を救えなかったことを悔んでいたことを。
「大将は言っていました。軍人のくせに、一般市民としてのあの子も守れなかった。父親のくせに、あの子が死んだ後にしか会えなかったと。……自分も、殺人犯と同じだと」
「オレたちがもう少しあの場に留まっていれば、大将は殺されずに済んだかもしれねーんだ。だからこれは、オレたちが解決する。絶対に」
二人の強い意志が、ニアに伝わってくる。――伝えてくれるようになったのだ。ニアのことを、以前よりもずっと信じてくれるようになった。それならば、こちらも協力を惜しまない。
「どうしたんだ、ニア? 現場見に行ったんじゃねぇのかよ」
医療施設の前に、ディアがいた。部屋に戻ろうとしていたらしい。アクトはモールズ大将の遺体を検分する、その補助を頼まれたのだという。おそらく、この奥にいるはずだった。
「アルベルトとブラックが、大将に会いたいって。これから検分に参加できないかな」
「ブラックはともかく……アルベルトはやめといたほうがいいんじゃねぇか?」
「平気です」
たったひとことだけ、はっきりと返して、アルベルトは奥に進んだ。ブラックがそれを追いかける。
それを見ていたディアは、怪訝な表情をしていた。
「ニア、アルベルトの奴、雰囲気違うよな?」
「あれもアルベルトだよ。オロオロしてても、真剣な表情をしてても、彼は彼だ」
そうしてニアも、奥へ進んだ。
ニアたち三人が手術着に身を包み、作業中の室内に入ると、先に中にいたアクトはひどく驚いたようだった。
「ブラックはともかくとして……。アルベルト、来て大丈夫なの?」
「はい。……僕、もともと西方で殺人事件担当だったので。遺体は見慣れています」
「ああ、そう……」
初めて見る雰囲気のアルベルトに、アクトも戸惑っていた。だがすぐにイストラの軍医と軍人たちに話をつけ、遺体を見られるようにしてくれた。
ニアはアルベルトとブラックとともに、モールズ大将の死に顔を見た。今にも怒鳴りだしそうなのに、実際、それは二度とかなわないのだ。
「……ブラック、あの人のやり方は覚えてるね?」
「当たり前だ」
二人が検分に臨むのを見届け、ニアはそこを離れた。
「アクト、二人を頼んだよ。僕はエルニーニャに連絡をしなくちゃ。終わったら一緒に戻ってきて」
「……わかった」
頷くアクトと、アルベルトとブラックを残し、ニアは手術室を出た。装備を外して廊下に出ると、ディアはまだそこにいた。どうやら戻るのをやめ、アクトたちが出てくるのを待つことにしたらしい。
彼に後を任せて、ニアは部屋に戻った。すると、ちかちかと光るものがあった。無線が、信号を発している。向こうからの連絡を受信していたらしい。
エルニーニャとイストラは、若干の時差がある。向こうは今、真夜中のはずだ。
「……はい、こちらジューンリー」
怪訝に思いながら無線をとると、切羽詰った声が聞こえた。
『ニアさん! 何やってたんですか?!』
カイだ。なぜかひどく焦っているようだ。何かあったのだろうか。
「ごめん、こっちも立て込んでて。どうしたの?」
『殺人事件なんです! 一家全員、無残な姿で発見されました。メリーに言われて連絡したんですけど……』
メリテェアの指示で連絡が来る殺人事件。それはつまり、こちらとの関係性が疑われているということだ。ニアはもしや、と思う。
「犯行手口、わかる?」
『かなり惨いです。俺も見ましたけど、体中ぼろぼろで……』
脳裏に、モールズ大将の遺体の姿がよみがえる。鮮明な脳内の映像を、口にする。
「体中切り裂かれて、腹が割られている?」
『そうです、その通りなんです。でも、どうしてそれをニアさんが?』
できれば聞きたくない肯定だった。同じ事件が遠く離れた二か所で起こっているなんて。何が起こっているのかわからないのが、最も恐ろしい。
『俺たちはこれからまた現場です。ニアさんに連絡を取るために、一度戻ったんです』
「そう、ありがとう。ついでで申し訳ないんだけど、一つだけ頼んでいい?」
『何ですか?』
「女の子には、あまり現場を見せないでほしい。リアちゃんとかは、きっと嫌なことを思い出してしまうから」
『……わかりました』
通信はそこで切れる。ニアは急いで部屋を出て、来た道を戻った。無線は念のため握りしめたままだ。向こうでも、いつ何が起こるかわからない。
「ディア、まだ終わってないみたい?!」
ニアの切迫した表情に、ディアは驚いていた。壁に寄り掛かっていたのだが、すぐにこちらに駆け寄ってくる。
「終わってねぇけど……何かあったのか?」
「検分の結果にもよるけれど、……僕たちは、とんでもない罠に嵌ったかもしれない」
「罠だと?!」
アクトたちが戻ってきたのは、その声と同時だった。どうやら検分は終わったらしい。アルベルトとブラックの表情は真っ青だった。
「二人とも、大丈夫? やっぱり具合が悪くなった?」
「違います。……そうじゃないんです」
ニアの問いに、アルベルトは首を横に振った。彼の顔から血の気が引いていたのは、死体を見ていたからではなかった。
「あれは、あの人の殺し方じゃありませんでした。モールズ大将を殺したのは、模倣犯です」
「何だって?! それってつまり、犯人はお前らが追ってる奴じゃねぇってことか?!」
ディアは驚きをあらわにする。しかしニアは無線を握りしめ、静かに問いかけた。
「その違いは?」
「ラインザーは殺し方にこだわりがある。遺体の傷つけ方の順番から、内臓の引きずり出し方まで、法則を持ってるんだ」
答えたのはブラックだった。その殺し方をかつて目の前で見た彼は、声を絞り出すように説明した。
「あの男は首を最初に、腕、手首、背、足と下がってきて、最後に腹を割って内臓を引きずり出す。腸だけでなく、臓器全てを取り出し、並べる。……だが、大将の死体は傷つけ方もめちゃくちゃ、内臓の出し方も中途半端。あれは奴の仕業じゃない」
ニアはその言葉をしっかりと記憶する。想像するだにおぞましいが、しっかりと憶え、確認しなければならない。医療施設から少し離れ、無線をエルニーニャに繋いだ。
「こちらジューンリーです」
『ニアか? ツキだ。メリテェアに代わろうか?』
「ううん、現場の、というか、遺体の状況がわかる人にお願い」
『あ、ちょうどグレンがいる。ちょっと待ってろ』
こちらで起こっていることが模倣犯なら、あちらはどうなのだろうか。一刻も早く確かめなければならない。それによって、行動は大きく変わることとなる。
『ニアさん、グレンです』
「グレン、遺体の状況わかる? 斬られた順番とか、内臓はどうなってたかとか」
『内臓は俺が直に見たのでわかります。体の中は空っぽになっていて、全ての臓器が遺体の近くに並べられていました。斬られた順番は、クリスさんによるとこうです。首を最初に、腕、手首、背、足、そして最後に腹を割られたと思われます。それから、薬物反応も見られると。こちらはこれからカイが詳しく調べます』
ああ、やっぱり。こちらが罠だったのだ。そもそも数人が殺されてから、やっとエルニーニャに要請が来たことがおかしかったのだ。隣国ユィーガや近隣諸国ですでに同様の事件が起こっているのに、すぐに連絡が来なかったこと自体を疑うべきだった。
「……そうか、ありがとう。すぐにそっちに二人ほど戻す。それまで現場周辺に注意して待機しているように」
無線を切ったところで、背後にアルベルトとブラックがいたことに気づいた。話は全て聞こえていたらしく、彼らの目つきは厳しいものになっていた。
「聞いてたよね。こっちの事件は……」
「囮、だったんですね。あの人が、エルニーニャに戻るための」
そもそもラインザーが国境の向こう側で殺人を行なっていたのは、自分を追っている人間から離れるためだった。その人間が、現地を離れるような状況を作りだせるとしたら。こちら側に協力者を用意することができるとしたら。
「いち早く戻るには、空を飛んだほうがいいね。イストラ軍のヘリを借りて、二人でエルニーニャに戻って。アルベルトは西で操縦してたから、できるよね?」
「しばらくやってないから、上手くできるかはわかりませんが。この際、仕方ありませんね」
「墜落させるなよ、馬鹿」
「馬鹿って言わないでよ、ブラック。……さ、行こうか」
アルベルトとブラックが走っていくのを見送ってから、ニアはディアとアクトを見る。二人が「本物」と決着をつけに行ったのなら、こちらは「偽物」を捕まえなければ。
「軍施設内で起きた事件だ。模倣犯は内部にいる。……容疑者の目星もついている」
「事件のことをよくわかっている人間だから、担当者の誰かだよね。だいたい予想はつくけど」
「よっしゃ、暴れてやるか!」
ディアが拳を叩いたのが、ちょうどいい合図になった。三人はまず、連続殺人事件を担当している彼女のもとに向かった。

応接室の四隅には観葉植物が置いてある。その大きな鉢の覆いは、異様に大きなものだった。鉢を除けてみれば、案の定そこには異物があった。真っ白な粉と有色の粉が、それぞれパックされた袋だ。
「白いほうはイリュージョニア、有色のものがウィルドフェンス。……そうだよね、ナナツさん?」
アクトの問いに、ナナツはくちびるを噛みながら頷いた。
犯人は内部の人間、しかも殺人事件について詳しい、担当の者。そこで真っ先にあがったのが、彼女だった。
ナナツが昼間用意した資料とその説明の中に、「殺害の手順」についてのものはなかった。これまでの被害者の検分結果から「殺害の手順」が判明していたことは、軍医に確認をとっている。しかし、なぜそれが公開されなかったのか。
ナナツに直接問い質したところ、彼女は白状した。自分が隠していたのだ、と。
「どうして隠していたの? 僕らにそれを知られると、何か不都合なことが? ……たとえば、大将を殺すときの邪魔になるとか」
「……そう、です」
ニアの言葉を彼女は肯定した。俯いて、震えながら。その彼女に、ニアははっきりと言った。
「でも君は犯人じゃないよね。犯行時刻、君が軍人寮にいたのを目撃している人物が多数いる。だとしたら、君は犯人をかばっているんだ。その計画を知ってしまったために、せめて彼が捕まらないようにと資料を隠したんだ。……まさか僕らの中に、『殺害の手順』を知っている者がいるなんて思わなかったんだろうね」
彼女は黙っていた。だが、それは今や肯定にしかなり得なかった。彼女はもう、自分が代わって犯人となる術さえも失ったのだ。
「ナナツ・ココノエ大尉。……君はどうやって、オファーニ・ルーク大佐が連続殺人の真犯人と関わっているということを知ったの?」
ニアが問い詰めると、彼女は震える声で語りだした。もう、観念するしかなかった。
「私……聞いてしまったから……」

ナナツはオファーニの部下として、彼のことを誰よりも信頼し、周りにもそれを求めてきた。彼女は実に優秀で、素直な人物だったのだ。
しかし、二カ月ほど前から何かが変わってきた。事務室の奥にあるオファーニの仕事部屋に、パスワード式の鍵がついたことから、全てが狂い始めた。
オファーニは大切な客人が来るから用意したと言って、長いときは一日中その部屋に籠るようになった。客人などいつ来ているのか全く分からないが、とにかく周りの者を一切その部屋に入れなかった。
客が来るなら茶を、と思って戸を叩いたナナツでさえも、そこに足を踏み入れることは許されなかった。
しかしあるとき、鍵に不具合が起きていたのか、中の様子を窺い知ることができる状況ができた。事務室にはナナツ一人で、戸の向こうからは二人分の声が聞こえる。ナナツは気になって、その声にそっと耳を澄ませた。
「……ですから先日も申し上げましたが、ユィーガからこちらに来られては? ここなら私が情報操作をすることも可能ですし、エルニーニャには知り合いがいますから、あちらの状況もわかります」
オファーニの声だ。それに、もう一人が答える。初老の男性のようだった。それほど低くはない、あっさりした調子だ。
「もうしばらくかかるが、じきに移ろう。向こうではそろそろ殺しすぎたかとおもっていたところだ。……で、薬の件はどうなった?」
「応接室の観葉植物に隠しています。灯台下暗し、というやつでしてね。案外気づかれないものですよ」
不審な会話はしばらく続き、初老の男性の声が止んでから、オファーニが部屋から出てきた。とっさに事務室を出たナナツは、オファーニには気づかれていないはずだった。しかし、不安は大きくなる一方だった。
殺しすぎたとはどういうことか。薬とは何のことか。応接室の植物がどうしたのか。ユィーガ、エルニーニャという国名の組み合わせは、最近取りざたされていたものではなかったか。
オファーニの目を盗んでこっそり調べた結果、ナナツは大量の危険薬物を発見した。これは誰かに言うべきだろうか。いや、そんなことをすれば自分は消されるだろう。誰かを殺してきたらしい、あの初老の男性に。
誰にも言えずに過ごしてきた結果、ついに連続殺人事件がイストラで起こってしまった。この国の三人目の被害者が、ナナツの友人でありモールズ大将の娘である女性だった。
一人目の被害者のときから、遺体検分の結果はオファーニに見せないようにしていた。他の書類にも少しずつ手を加え、オファーニには嘘の報告をしていた。いつかはばれるだろうと恐れながらの行動だったが、結局気づかなかったところを見ると、最近は「客人」と会っていなかったのだろう。
そうしているうちにこの国の四人目、五人目の被害者が出て、オファーニはようやくエルニーニャへの協力要請を出した。その頃には、「客人」はもうこの地で人を殺すのに飽きていたのかもしれない。
最後にモールズ大将が殺されたとき、ナナツは直感でオファーニがやったのだと思った。「客人」の仕業の報告を、彼はどこか楽しそうに見ていた。きっと自分でもやってみたくなったのだ。
本当は信じたくなかった。まだどこかで、ナナツはオファーニを信じていた。しかし、それは無情にも砕かれたのだった。

「ジューンリー大佐。オファーニ大佐はどうなるんですか?」
ナナツは声を震わせて尋ねた。ニアは淡々と答える。
「まず、軍にはもういられない。ラインザーの共犯だとすれば終身刑か、もしくは……」
この先は言わなかったが、彼女は当然イストラの制度を知っているだろう。それを考えれば、想像は容易だ。泣き崩れるナナツを、ニアはそっとかがんで、抱きしめた。信じていたものが崩れるというのは、本当につらいことなのだ。――それをニアも、経験するかもしれない。親友の行方によっては、近いうちに。
「……ココノエ大尉のおかげで、真実がはっきりしたよ。ありがとう。つらかっただろうに、ここまでよく頑張った」
時間もかなり経っていた。この分だと、今頃はアルベルトとブラックもエルニーニャに到着しているだろう。
だが、彼らのことを気にしている場合ではない。こちらもどうやら、戦わなくてはならないときが来たようだ。
「ニアさん、おれたちも最終決戦みたいだよ」
「やってやろうぜ、ニア。俺はずっとあの大佐野郎が気に食わなかったんだ」
「僕も大佐なんだけど。……でも、そうだね」
廊下から足音が聞こえ、ドアの前で止まった。きっと向こうも、こちらを捜していただろう。
「信じてくれていた部下を裏切るような人は、僕も許せないかな」
ニアが言うと同時に、扉が開いた。そこにいたのは、笑顔を浮かべたオファーニ・ルーク。だが、今やそれも醜悪に見える。
「こんなところで何をしているんですか? ココノエ大尉、みなさんも」
「そんなの自分の胸に聞いてみやがれ」
ディアが真っ先に口を開く。「野蛮ですねえ」とオファーニが呟いた。それに反応したのはアクトだ。
「野蛮なのはどっち? モールズ大将をあんな殺し方しておいて」
「大将を? 私がですか? なぜそんなことを?」
口元の歪んだ笑顔が、オファーニの顔に張り付いている。ニアはそれを見据えながら、ナナツをかばうように立ち、前に出た。そしてこちらも不敵に笑ってみせた。
「エルニーニャとの連絡とたった今得た証言で、あなたのしたことは全て明らかになっています。オファーニ・ルーク。あなたはラインザー・ヘルゲインの指示で、モールズ大将を殺害した。二カ月の間、綿密な計画を立ててね」
オファーニは笑みを崩さなかった。全く表情を変えずに、いけしゃあしゃあと答えた。
「たしかにラインザー氏の指示で、私は大将を殺害しました。私にとっても都合が良かったんです。また出世できるんですから。それをあなたがたはこんなふうに邪魔をして……ココノエ大尉などは初めから私を疑っていたようですし」
「違います! 初めは信じていました! でも……」
ナナツは叫ぶが、それはもうオファーニには届かなかった。いや、最初から聞く耳など持ち合わせていなかった。
「もう良いんですよ。……楽になってしまいなさい、ナナツ・ココノエ。それとニアさんとお仲間も」
オファーニは短剣を二本、懐から取り出した。こちらを嘲笑しながら、それを構える。それに対し、ディアとアクトは溜息をついた。
「おいおい、俺たちはその他大勢かよ」
「おまけ扱いって、あんまりいい気はしないよね」
ディアは拳を握りしめ、アクトは服の下に隠し持っていたナイフを取り出す。そしてニアはナナツをかばったまま、そっとその場を離れた。
「おや、ニアさんは戦わないんですか?」
「今はね。……ディア、アクト。任せたよ!」
ニアはとっさにナナツを抱きかかえると、オファーニを避けて部屋を出ていった。目指すは、宿泊している部屋だ。
「逃がしませんよ、ニア・ジューンリー!」
オファーニはそれを追おうとして、ディアとアクトに背中を見せた。それを好機と見て、ディアは拳を、アクトはナイフを振り上げる。だが、オファーニはそれを俊敏にかわした。どうやら速さには自信があるようだ。
「アクト、お前のほうが速ぇだろ」
「はいはい」
だが、アクトも速さなら負けてはいない。壁沿いに走り、素早くオファーニの前に回り込んだ。前面にはアクト、後ろにはディアがいる。オファーニの逃げ場は、この廊下のどこにもないはずだった。
しかし、
「これで捕えたつもりですか?! 愚かなことですね!」
オファーニは跳んだ。高く跳躍し、アクトを越えて廊下の先へと進んだ。走り続けるオファーニを、しかしアクトは再び追い越し、立ちはだかる。
「その攻撃は効かないとわからないんですか?」
オファーニは馬鹿にしたような笑みを浮かべ、再び跳びあがる。しかし、ディアとアクトはニヤリと笑う。
「わからねぇのは」
「そっちだろ!」
ディアは銃を取り出し構え、アクトはナイフを上に向け、一斉にオファーニに放つ。それは見事にオファーニの両足を封じ、廊下に倒れこませた。
「ぐぁ……っ?!」
情けない声を出しながら見上げた先には、不敵な笑みを浮かべるエルニーニャの軍人二人。ただのおまけだと思っていたのに、そうでもないらしい。だが。
「これでやったと思うなよ……!」
オファーニは笑顔を歪め、その足で立ち上がった。そしてアクトを突き飛ばすと、傷を気にせず走り出した。
「私に勝とうなど百年早いんですよ、雑魚共が!」
だが、ディアもアクトも、もう彼を追わなかった。オファーニの行く先には、彼がいる。あとは我らが大佐が、きっちりしめてくれるだろう。
宿泊施設で、ニアはナナツを守るようにして立っていた。これまでの廊下でのやりとりも、全て聞こえていた。目は悪いが、耳はいいのだ。
部屋から持ってきた大剣を右手に、オファーニを迎える。
「ニア・ジューンリー、女をこちらに渡せ! さもなくばお前を殺す!」
オファーニが叫ぶ。その顔にはもう、笑顔はなかった。
「化けの皮が完全にはがれた状態だね。そうそう、僕は君のその表情を待っていた。やっぱり勝負は本気でなくちゃね?」
ニアはにっこりと笑う。大剣を持ち上げ、その切っ先をオファーニの鼻先に突きつける。……なるほど、これはいい距離だった。少し前に進めば、顔に傷がつく。オファーニはこれ以上、ニアに近づくことができない。
「どうしたの? 向かっておいでよ。……笑って来てみろよ、偽物がっ!」
オファーニは「ひっ」と短い悲鳴を上げると、その場にへなへなとへたりこんだ。そこへディアとアクトがゆっくりと追いつき、銃口とナイフの切っ先を向ける。
「勝てもしない喧嘩は売らないほうが身のためだぜ?」
「この状況で笑っていられたら、少しは感心してやったのに」
もうどこにも逃げ場はない。オファーニは恐怖に歪んだ顔のまま、その場に固まった。

あとの処分はイストラ側に任せ、ニアたちは朝を待ってイストラを発った。ディアとアクトは仮眠をとったが、ニアは寝ていない。一晩を、エルニーニャとの連絡に費やした。
向こうでは捜査の途中、リアがいなくなって一時混乱したという。どうやら予想通りエルニーニャにいたラインザーに捕まり、危うく殺されかけたという。
「それで、大丈夫だったの?」
『はい、無事助かりました。アルベルトさんが駆け付けてくれたので』
ヘリは間に合い、アルベルトが窮地にいたリアを救った。だがそれは、宿敵との対峙でもあったはずだ。ニアは息を呑み、それから尋ねた。
「……それで、犯人は?」
『死亡しました。アルベルトさんに撃たれて虫の息だったところを、ブラックが首を刎ねてとどめをさしたんです』
「……そう」
ニアが一緒に行っていれば、親殺しというこの後味の悪い結末を変えられただろうか。いや、無理かもしれない。彼らはラインザーを、親だと思っていなかった。ひたすらに仇だと思い、追い詰めたのだ。
ブラックが彼の首を刎ねたのは、せめてもの慈悲だったのかもしれない。それ以上苦しむことなく、一気に死なせてやろうという。
「……でも、こんなのって……」
ニアは顔を覆い、俯いた。これまでに、歪だった親子関係が修復された例をいくつか見てきた。グレンしかり、リアしかり。二人とも最終的には親と和解することができた。
だが、アルベルトとブラックは状況が違う。彼らは、親であるはずの男を許せなかった。親を守りたくて離れたグレンや、疎ましく思われてもなお親を愛したリアとは、初めからなにもかもが違うのだ。
それでも、思う。二人に、別の道はなかったのかと。人を殺させずに済む方法はなかったのかと。
「本当に……軍人って、嫌な職業だな……」
それでもニアは、ニアたちは、軍人なのだ。その道を選んでしまって、二度と後戻りはできないのだ。

エルニーニャに到着したニアを待っていたのは、アルベルトからの衝撃の一言だった。
「大佐、僕はこれで軍を辞めます」
なんともあっさりした口調だった。これまでのアルベルトとは、まるで違った。ニアにはいつも一線引いた態度をとっていたのが、もうすっかりなくなっていた。
「……なんで?」
「僕が軍にいたのは、初めは父から身を守るため、のちに父を追うためになりました。父がいなくなった今、僕に軍にいる理由はなくなりましたから」
そうかもしれない。目的がないのだからここにいる必要はないというのは、尤もだ。でも、ニアは納得できなかった。
「理由なんて、また探せばいいじゃない。それに、ほら、リアちゃんもいるし」
「大佐、僕はマクラミーさんの前で人を撃ったんですよ。僕だって、彼女の過去のことは知っています。お母様を銃で亡くされた彼女の前で、僕は明らかな殺意を持って銃を使いました。彼女に顔向けできるわけがありません」
「だって、それはリアちゃんを守ろうとしたんでしょう?」
「殺意を持って彼女の前で銃を使った。それだけで僕が彼女から離れる理由には十分です」
ニアがどんなに言っても、アルベルトはきかなかった。ただ、いつかのようにかわしもしなかった。
「大佐。僕ら、初めから険悪でしたよね。互いの要求を突きつけあって、条件付きで仲間になって。……それがこんなに話せるようになるなんて、思っていませんでした」
「僕もだよ。君とこんなに話せるなんて、思ってなかった。君がこんなふうに思いを言ってくれるなんて、夢でも見ているみたいだ」
「夢じゃないです、現実です。……それでは、僕は辞めるので、これをお願いします」
いつから用意していたのだろうか。少しだけ褪せた退職願を押し付けられて、ニアはそれを受け取った。これを大総統に渡してしまえば、全てが終わる。
アルベルトとの付き合いも、ここまでだ。
「ブラックには、言ったの?」
「これから言います。やっぱり、先に上司に相談するべきかと思いまして」
アルベルトは朗らかに笑った。けれどもやはり、どこか寂しそうだった。
そうして彼は数日後、軍を出ていった。

――それから、数週間後。十月も末日になったその日、エルニーニャ王国軍中央司令部の軍人寮に、一人の青年がやってきた。
「ブラック、荷物運ぶの手伝ってー」
「自分でやれ、馬鹿! ……ったく、なんでコイツが同室になるんだよ!」
いったいどんな心境の変化があったのか、アルベルトは軍に復帰した。周囲は呆れるやら喜ぶやらで、大騒ぎだった。
この数週間、ニアはずっとアルベルトの退職願を自分の手もとにおいていた。アルベルトがいなかった分は都合で休みを取っていることにして、彼を辞めさせなかった。
なんとなく、だが。戻ってくる気がしていたのだ。
「だって、僕たち似てるしね。……僕だったら、大切な人がいたら心残りで、絶対に戻ってくる」
荷物を運びながらわいわいやっている部下たちを見ながら、ニアは呟いた。
「それに、僕の頼みはまだ聞いてもらってないものね。……カスケードの捜索、本気で手伝ってもらわなくちゃ」
そのためには、ニアの考えを明かさなければならない。黒髪黒目の男が、求めている人物である可能性を話さなくてはならない。アルベルトとブラックだって、自分たちの抱えている事情を明らかにしたのだ。ニアがそのままにしているわけにはいかない。
「ニアさーん! アルベルトの荷物多いんだ、手伝ってー!」
「お願いします、大佐ー!」
「はいはい。今行くよー!」
逃げずに戦わなければ、先へ進めない。それは自分で、よくわかっている。
仲間たちから、学んでいるのだから。


新聞や週刊誌には、『今明らかに! 東方諸国連続殺人事件の真相』という見出しが踊っている。それとともに、ラインザー・ヘルゲインという男の顔写真も出回っていた。
「この前運んだ人、死んだのか」
口に出しては見たものの、実感は薄い。まあ悪は滅びるものなんだろうな、と思って、新聞と雑誌をごみに出した。
「……世の中は軍が正義。でも俺たちにとって軍は悪、か。……どっちが正解なんだろうな」
悪が滅びるものならば、自分はいったいどちらだろう。カスケードはぼんやりと考えながら、窓の外を眺めていた。
と、そのときだった。スピーカーからいつもの声が聞こえてきた。
『知っていると思うが、オファーニ・ルークが捕まった』
「……それ、誰でしたっけ」
『東方イストラ軍の大佐だ。こちらからエルニーニャの事情を流してやっていたのだが、その扱いに失敗したようだ』
「それはそれは」
カスケードにとってはあまり興味のない話だ。自分の仕事に関すること以外は、聞いても仕方がない。
『おかげで薬物流通のルートが一つなくなってしまった。また開拓しなければなるまい。そこでどのルートが最も扱いやすいか、実験をしてみることにした。取引回数を激増させる。軍に所属させている同胞に働いてもらってな』
「それ、俺もやらなきゃ駄目ですか?」
『前線に立つ必要はないが、今まで通り裏方として動いてもらう。売人たちを送り届けたり、……そうだな、クローンの運搬もしてもらおうか』
「結構忙しくなるんですねーっと。わかりました、やりますよ」
『期待しているよ、カスケード』
そこで通信はぶつりと切れる。“あの方”はいつも一方的だ。それでもカスケードは言うとおりにする。それしかすることがないからだ。
「俺もたまには大立ち回りとかしてみたいよな。せっかく銃もあるんだし」
独り言を呟きながら、記憶をなくした頃からずっと持っている銃を見る。あらためて眺めてみると、本当に自分はこれを使えたのだろうか、と思う。
グリップに国章がある、四十五口径リボルバー。これを見ていると、何かを思い出せそうで、やはり何も思い出せない。
ただ、頭の中に声が響くのだ。誰かがやわらかな響きで「カスケード」と呼ぶ声が。
「……取引、こっそり参加しちゃ駄目かな」
もしかしたら軍と衝突して、あの声の主を捜せるかもしれない。どうせいつかは消す相手だが、顔が気になって仕方がない。
カスケードは思い付きで、“あの方”の命令以外のことをしてみようと思い立った。




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posted by 外都ユウマ at 20:20| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年01月26日

Reverse508 第十三話

エルニーニャ東部のとある場所で、軍の目をすり抜け、ある取引が行われていた。危険薬物の密輸である。黒髪黒目の男に変装したカスケードは、その様子を眺めていた。
取引に参加している人間は、ごく普通の運輸業の人間に見える。カスケードが仕事で街をうろついているときにもよく見るトラックは、しかし、その中に大量の危険薬物を積んでいた。
「ご苦労だったね。……ここから先はこちらで運ぼう。これは今回の礼金だ」
一人の男が、危険薬物を運んできた者たちに金を渡した。ただ見ているだけだったカスケードにも。そのとき見た男の髪は黒く、目はライトグリーンだった。
「最近薬物の量が増えましたね。行動も派手になって。これじゃいつ足がつくかわかりませんよ?」
ある男が言うと、その黒髪緑目の男は嘲笑った。
「いやあ、また昔のようにたくさん殺したくなってね。マイブームってやつかな。でも大丈夫、足はつかないよ。現地軍に味方を作っておけば、証拠はいくらでも隠滅できる。誰だって、金と快楽には抗えない。それが人間の宿命というものだからな」
カスケードには男の言っている意味が分からない。金をもらっても使いどころは生活費だし、大抵の買い物はビアンカがしてくれる。何が自分にとって快楽だったのかも、憶えていない。
このヘルゲインという男は、興味深いが、しかし不快な人物だと思った。
自分もいずれは軍の人間を消さなければならないだろうが、彼のように楽しむことはないだろうなと、考えながら取引の光景を見ていた。


他国要請から数週間が経ったが、ニアたちにはまだ声がかからない。国外任務をメリテェアにまわすだけでも、大総統はかなりの気を遣わなければならないらしかった。
なにしろ、将官は他にもたくさんいる。彼らだけでなく、軍全体の利益を常に考えていなければならないのが大総統という立場だ。
それを理解しているから、ニアもそのときが来るのをじっとして待っていた。
その間、「黒髪黒目の男」の情報も集めようとしていた。しかし、こちらはなぜかぱたりと途絶えていた。ねぐらを変えたのか、それともまた別の姿をしているのか。目立った行動がないから、誰も気づいていないだけなのか。
「将官の間でも、しばらく忘れ去られていたようですわ。今は専ら他国要請の件が中心で、報道もそちらに偏っていますから」
「そうですか。……やっぱり、大きなことの前では小さなことは忘れられてしまうんですね」
そう感じるたびに、ニアは寂しくなる。だがメリテェアが、ふっと微笑んで言った。
「大丈夫ですわ。少なくともわたくしはこのことを忘れていません。あなたの親友の方だって、わたくしたちは捜し続けています。けっして蔑ろにはいたしませんわ」
「……はい。ありがとうございます、メリテェアさん」
寂しくても、希望は捨ててはいけない。黒髪黒目の男がカスケードかもしれないという、恐れを抱きながらでも。

大陸中に衝撃を与えた事件が起きたのは、そんな折だった。
それは各国の首脳に行き渡り、エルニーニャではまず大総統の元に報せが届いた。それから将官たちが招集され、その事実が伝えられた。
「……あの男にも、言うべきか」
「いずれ知ることとなる。育ての親のことでもあるし、すぐに知らせたほうがいいのではないだろうか?」
「全く、東方で騒ぎがあったと思ったら、今度はこれか……」
彼らが頭を抱えるその事件は、北の大国ノーザリアで起こった。ノーザリアは国王に軍の統帥権があり、軍のトップにはたった一人の大将がいる。現大将である人物は、かつてエルニーニャの中央部にやってきたとき、火事から子供を救いだしたという逸話も持っている。中央と北を結ぶ要の存在であるといっても過言ではない。
その人物が――フィリシクラム・ゼグラータが、暗殺未遂にあったというのだ。
将官に呼ばれてしぶしぶと向かったはずのディアが、緊迫した表情で戻ってきてそのことを明かしたとき、ニアとアクトは息を呑んだ。
「ゼグラータ大将が……そんな、いったい誰が?!」
「それはわかんねぇってよ。向こうの王様が一時的に俺の国外追放を解除してくれたから、オヤジのところに行ってくる。いつ戻るかはわからねぇ」
「……そうか、わかった」
ニアは唇を噛みながら、隣国へ向かう準備をしに寮へ戻るディアの背中を見送った。ニアにとっても、ゼグラータ大将は火事から救ってくれた命の恩人だ。その人がまさか、暗殺されかけるなんて。とても信じられない。
アクトも沈痛な面持ちだ。ディアがどれだけ育ての親であるゼグラータ大将を慕っているのか、彼はよく知っていた。
「……アクト、ディアのところに行ったら? きっと不安に思ってるよ」
「うん、そうする。ありがとう、ニアさん」
アクトがディアの後を追って走る。――本当はニアだって行きたい。ディアも心配だが、フィリシクラム・ゼグラータという人物に再び会いたかった。だが、それは無理だ。国外任務は特例が認められない以上、将官のものなのだから。
ディアはゼグラータ大将の息子であるために、向こうから呼ばれたのだ。だから、遠い北の地にも行くことができる。
「無事だと、いいな……」
ニアにはここで、祈ることしかできない。

しばらくして、ノーザリア大将フィリシクラム・ゼグラータの暗殺未遂事件は司令部中に広まった。容体の詳細も、ここでやっと明かされることとなった。銃で撃たれ、今も意識不明だという。
ディアはすぐに少将に連れられてノーザリアへ向かったという。戻ってきたアクトが、ニアにそう話した。
「このことが知れるのは、たぶん明日になってからだ。どうしてディアが、って訊かれたら、おれはディアのことをみんなに話してもいいのかな……」
「班内なら、ディアもいいって言うと思うよ。少なくとも、僕と将官であるメリテェアさんは知ってるわけだし。黙っていても、いずれ知れることじゃないかな」
ディアがノーザリア出身だということは、本人もわざわざ言わないので、知らないものも多い。ただ、個人データを見る機会の多くなる将官や、彼が移籍してきた当時からここにいる上層部の人間は、このことを知っていた。
ジューンリー班の人員は皆若く、ディア本人が話していないはずなので、ほとんどがその事実を知らない。知っているのは、ゼグラータ大将本人から助けられた経験のあるニアと、ディアの相方であるアクト、そして将官であるメリテェアだ。もしかすると情報担当であるクレインやクライスも知っているかもしれないが、それを本人に確認するようなことはなかったはずだ。
「ディアがしばらくいないことは、僕から話すよ。仕事にも影響があるからね」
「わかった。……あいつ、戻ってくるかな」
あまりにも不安げにアクトが呟くので、ニアは「大丈夫」と笑顔でその背を叩いた。
「あのディアが、さすがにアクトをおいては行かないと思うけど?」
「そうかな。……でもフィリシクラムさんはディアの親代わりだし……」
「きっと大将もすぐに回復して、ディアに戻れって言うよ。追放解除も一時的なもののようだし、ずっと向こうにいることはないんじゃない?」
普段からディアとアクトは一緒にいる時間が長い。離れていることがあれば珍しいと言われるほどだ。いつもそばにいる人がいないという不安で落ち着かない気持ちを、アクトは今感じているのだ。
それはきっと、ニアが親友と離れてしまったばかりの頃に似た感覚だ。だが、ディアの居場所はちゃんとわかっている。だからきっと大丈夫と、ニアはアクトを励ませる。
「寂しかったら僕の部屋来るといいよ。どうせこっちは一人だし」
「うん、そうだね。……あ、映画持って行ってもいい? スプラッタなんだけど」
「……いいよ」
ディアの代わりには絶対になれないけれど、せめてニアができることをしていよう。そうしてアクトの助けになれればいいと、ニアは思っていた。

翌日の朝、ニアは全班員を集めて、ディアの不在について説明した。
「みんなも知っている通り、ディアは今ノーザリアにいる。彼は今回暗殺未遂に遭ったノーザリア王国軍大将フィリシクラム・ゼグラータ氏と深い関わりがあるために、おそらくは氏の容体が快復するまで向こうにいることと思われる。その間、彼の仕事は分担して行なうからね」
俯くアクトを横目に、状況を簡単に告げる。初めこそみんな「まさかディアさんが関わっていたなんて」「ノーザリア出身ってことすら初めて聞きました」などと言い合っていたが、しばらくすると話題は変わってきた。
「でも、ディアさんの仕事って尉官以下の教練指導と始末書ばっかりですよね」
「教練指導はともかく、あとは仕事がむしろ減るんじゃ……」
こういうときに、日ごろの行いが出てくるというものだ。ニアとアクトは思わず苦笑した。――アクトに笑顔が出たことは、ニアにとってはホッとすることだった。
さて、その日の仕事は全く滞りなく進行した。皮肉なことに、ディアがいないとまず物が壊されることがないので、ニアがお詫び行脚をしなくて済む。始末書も当然のことながらない。教練指導も、ディアがやると厳しすぎる、これはただの虐めだ、と苦情が入るところを、クリスに任せると文句ひとつ出なかった。……これはクリスが言わせなかったからかもしれないが。なにしろ彼の毒舌は的確すぎるので、誰も反論できないのだ。
ディアがいないことを、わざわざ揶揄しに来る者もいた。
「ジューンリー、今日はヴィオラセントがいないからか大層楽そうじゃないか。よかったな、厄介者が一人いなくなって」
だが、こんな言い方をされるとさすがのニアも気分を害する。にっこり笑って、こう返してやった。
「そういうエスト大佐もお暇そうですね。……あ、先日准将に昇進なさったんでしたっけ? そんなに性格が悪くても昇進できるということがわかって、僕にも望みはあるなと思い、ホッとしました」
「……貴様」
売り言葉に買い言葉の応酬をしてしまってから、「カスケードならもっとうまくいなしたんだろうけれど」と後悔して、ニアは仕事を続けた。こういうやり取りはあまり得意ではないのだ。だが、ディアならもっと乱暴に返していたかもしれない。まあ穏便に済ませられたほうだろう。
そうしてその日の業務が終わる頃、ニアはメリテェアのところへ行った。ノーザリア側から何か情報を得られていないか確認するためだ。
「どう? 何か連絡はあったみたい?」
「少将より連絡がありましたわ。ゼグラータ大将の容体は変わらず意識不明。ディアさんは皇太子殿下とお話をなさっていたそうです」
「皇太子……って、前王の子供だったよね。今王位についているのは、前王の弟だったはずだ」
ノーザリアの王宮事情は複雑だ。六年ほど前に、前王が他国に侵攻を企んだが、軍側と国民から大きな反対が起こって阻止された。結局前王はそれがきっかけで、王位を剥奪されることとなった。
現王は、その弟である。兄とは性格がまるで違い、牧歌的で文化的なものを愛する、穏やかな人物だと有名だ。おかげでノーザリアは、現在他の国との摩擦もなく、平和なものである。だが、その暢気とも思われる性格のためか、国交はともかくとして、内政は良いといいきれないところがあった。何か問題が起こっても、策をじっくりと考えてしまうため、どうしても後手後手にまわってしまう部分があるらしい。軍を統率する力も弱いという。前王派と呼ばれる人々は、それを「平和ボケ政治」と呼んで批判しているそうだ。
どの政治も、一長一短あるのだろう。
寮に戻ってきてから、ニアがそんな報告を簡単にすると、アクトは頷きながら言った。
「ディアは昔皇太子を助けたことがあるんだって。だから皇太子は、ディアに恩があるはず」
「あ、そうなんだ。ディアって結構すごいんだね」
「ただ、前王がね……。ディア、前王殴って国外追放になったから。もしかすると、そのあたりで皇太子の考えが変わった可能性も」
「……難しいところだね」
アクトは鍋をかき混ぜている。今日は簡単にスープとパンにおかずが何品からしいが、いくらなんでも作りすぎではないだろうか。おそらく、ディアがいないという感覚が抜けているのだろう。
「作りすぎてない?」
「あ、……どうしよう。ディアがいないこと、すっかり忘れてた」
「まだ食堂行ってない人がいるかも。ちょっと連絡してみるよ」
やはりアクトにはディアがいなければ駄目なようだ。どうか早く帰ってきますようにと願いながら、ニアはアクトの部屋に人を呼んだ。

ディアが出かけてから、今日で三日目。ノーザリアからの連絡は、今日はまだないらしい。グレンが気にしてニアに尋ねてきたが、「わからない」としか言いようがない。
「連絡がないってことは、ゼグラータ大将の容体は変わらず、暗殺犯の捜査にも進展がないってことだ。ニュースにもなってないし、まだしばらくはかかるかもしれないね」
とはいえ、ゼグラータ大将の容体はともかく、捜査の進捗具合が全く入ってこないのはおかしい。これだけの大事件なのだから、少しでも情報があればこちらへも届くはずだ。まるで何かに妨害されているような気さえして、ニアは不安を覚えた。
そこへ、クライスがやってきた。事務室内をきょろきょろと見回し、目的の姿を見つけると手招きして呼んだ。
「アクト中佐、クレインが呼んでる。なんかせっぱつまってるみたいだったから、早めに行ってやって」
「クレインが? わかった、今行く」
アクトが出ていくのを見送って、ニアはふと手元にあった資料に目を落とした。タイトルは「南方殲滅事件報」――あれから半年経つのに、まだこの件は続いていたらしい。捲ってみると、南方の復興活動などについて記されていた。どうやら村を再びよみがえらせようという活動をするらしい。……だがよく読んでみると、それはまだ計画の段階であり、実際には何も進んでいないようだった。
「南方も根深いからな……軍への批判は大きいよね」
「人員は入れ替わりましたけど、軍自体が危険視されているんでしょうか。……人を必死で守ろうとしている軍人だっているのに」
「そうだね。僕たちはそうであろうね、グレン」
にこ、とニアが微笑むと、グレンは力強く頷いてくれた。――いつか親友とも、こんな話をしたなと思い出す。人を助ける軍人になろうという約束は、ニア個人では、果たせていない。今でもそう思っている。
書類をそろえて片付けていると、アクトが戻ってきた。なぜかうつろな目をして、俯きながら。ニアはすぐに駆け寄って、彼の肩を掴んだ。
「どうしたの、何かあった?」
「……ああ、ニアさん。おれ、南方司令部に異動するみたいです」
「え?」
聞き違いかと思った。目だけではなく、耳まで悪くなってしまったのかと思った。だが、グレンの言葉で確信する。
「南方に異動って……どういうことですか?!」
それが事実だということを。
「おれ、南方殲滅事件の関係者だからさ。春のうちに異動にならなかったのがおかしかったんだ、きっと」
「それなら、ディアは? ディアもいたんだから、扱いは同じじゃないの?」
ニアが尋ねると、アクトはゆっくりと首を横に振った。俯いたままの、低い答えが返ってくる。
「ディアの名前はなかった。……ニアさん、これって、ディアはもうノーザリアから帰ってこないからじゃないのかな」
その辞令は、夕方になって正式に下った。アクトは大総統室でそれを受け入れ、明日には南方司令部へ行くこととなった。荷物は徐々に運ぶらしい。いくらなんでも急すぎる。
アクト自身は「やっと来たかという感じだからそんなに驚いていない」と言うが、ニアたちは納得がいかない。
「僕、ちょっと閣下のところに行ってくる。どうしてこんなことになるのか、確認しないと……」
そう言って席をたったニアを、アクトが腕を掴んで止めた。もういい、というよりは、頼むからやめてほしい、という目で訴える。
「決まったことだから。……ニアさん、今までありがとう」
寂しげな微笑みが、ニアの胸に突き刺さる。どうしてこうも、別ればかりなのだろう。親友も、部下も、遠くに行ってしまう。せっかく出会えたのに。日々を共にしたのに。
その日は、アクトの送迎会をした。ディアのいない、物足りない集まりだった。
そのあとニアだけがアクトの部屋に残り、二人で最後の茶を飲んだ。ニアは目を伏せて、どうしてこんなことになったのか、なぜディアはまだ戻ってこないのか、考えていた。
アクトの言うように、もう彼はノーザリアから戻らないのだろうか。いや、追放解除は一時的なもののはずだ。だが、もしも王が「刑は終わった」と言ったのなら――ディアはずっと、育て親のそばにいてやれるのだ。彼がどちらの生活を選ぶのか、ニアには推し量ることができなかった。
「本当に、行くの?」
ニアの問いに、アクトは頷く。
「行くよ。南方司令部からわざわざ呼んでくれたんだ、行かなきゃ失礼だよ」
口調はいつものアクトだ。だが、表情は仕事中の真剣なものだった。
「……そう。元気でね」
これ以上引き留めては、またディアの話になる。そうすれば、アクトは大きな寂しさを抱えたまま南方に行くことになる。今は、ぎりぎりの状態なのだ。そう、コップ一杯に水を注いだときのような。ちょっとしたことでこぼれてしまうと、もう元には戻らない。
翌日、彼は旅立って行った。ほんの少しの荷物を持って。他のものはもう南へ送る手配を済ませているという。
最後まで彼は手際が良かった。

ノーザリアからゼグラータ大将が目覚めたという報告があったのは、アクトがすでに寮を出た後だった。
ゼグラータ大将が無事でよかったという安心感が半分、アクトがもう一本列車を送らせたのなら、この報告をともに喜べたかもしれないのにという残念な気持ちが半分。ニアは複雑な心境だった。
だが、これでディアは戻ってくるのではないか。ゼグラータ大将の無事が確認できたのだから、彼は安心してエルニーニャへ戻れるはずだ。ただ、ここにもうアクトはいないけれど。
「ゼグラータ大将の容体が良くなってホッとしたよ。……それで、メリテェアさん。暗殺犯の捜査のほうはどうなってるんですか?」
「それが、そちらに関しては全く情報がありませんの。ノーザリア軍に問い合わせても、話すことはありませんと……」
それはおかしい。これだけ大陸中を騒がせておいて、捜査については全くの非公開とは。犯人を警戒してのことなのかもしれないが、こちらも軍だ。国は違うが、働きが同じ者同士なら、情報を共有してもよさそうなものだ。
「話せませんではなく、話すことはありませんと言われたんですか?」
「ええ。思えば、奇妙な言い回しでしたわ」
ニアは考える。こちらの人間を呼んでおいて、軍には「話すことがない」とはどういうことなのか。せめて、ディアの動きだけでも知りたい。いったいノーザリアで何が起こっているのか、情報がほしい。
不穏さを感じながら過ごしたその日の夕方、ノーザリアから軍用ヘリが到着した。その一報を受けニアは駆けつけたのだが、そこにいたのは、少将のみだった。一緒に行ったはずの男は、影も形もなかった。
「少将、お疲れ様でした。あの、ヴィオラセント中佐は……」
「ジューンリー大佐か。ちょうどよかった、これを奴から預かっている。ロストート中佐に渡しておいてくれ」
渡しておいてくれ、と言われても、彼はもう中央にはいない。それに、いくらなんでも一方的すぎる。ニアは行ってしまおうとする少将の肩を掴み、止めた。
「待ってください! なぜヴィオラセント中佐は戻らないのですか?! 説明をお願いします!」
「佐官なぞに言うことではない。放しなさい」
その手を振り払って、少将は去って行ってしまった。何の説明もなしに、手紙だけをニアに押し付けて。
仕方なく封筒を見ると、そこには「ロストート中佐へ」と書かれている。相変わらずの乱暴な字だが、どこか不自然だ。
ディアがアクトに宛てて書いたものならば、「ロストート中佐」などという他人行儀な書き方はしない。それに、手紙というのも妙だ。何か言いたいことがあるのなら、電話で連絡してくればよかったのに。
それに加え、メリテェアのあの言葉。暗殺犯の捜査について尋ねたとき、彼女はこう言った。
――全く情報がありませんの。ノーザリア軍に問い合わせても、話すことはありませんと。
もしやと思い、ニアはその封を切った。妙に分厚かった封筒には、中にさらに二つの封筒が入っていた。一通には「アクトへ」とディアらしい文字で、もう一通には「ニアへ」と、少しだけ丁寧に書こうとしたあとがあった。
自分宛ての封筒の封を切ると、いつも以上に乱暴な文字があった。切羽詰っているような字が、その内容がとんでもないことであることをすでに報せていた。
読み進め、それを確認すると、ニアは走り出した。向かうは大総統室だ。これが今回の事件の、唯一の「報告書」なのだから。
「閣下! お話があります!」
「ジューンリー大佐か。どうした?」
「ノーザリアから、これが届きました。ヴィオラセント中佐からの報告書です。少々読みにくいかもしれませんが、お目通しお願いいたします」
それは全く公開されることのなかった、暗殺犯の捜査についてだった。
ゼグラータ大将は大将執務室の見える建物の屋上から狙われ、撃たれた。しかし、その建物は特別で、王宮関係者の許可がなければ入れない。屋上などもってのほかだ。
しかし、そこにたどり着き、ゼグラータ大将を撃った人物がいる。王宮関係者の許可を得た誰かか、あるいは、その当人か。
――俺を呼び出したのは、王ではなく、皇太子だった。
手紙のそのひとことに、ニアは、大総統は、戦慄した。ディアがノーザリアに来るよう仕向けたのは皇太子であり、その理由としてゼグラータ大将は利用されたのだ。
事件の首謀者は皇太子イース・イルセンティア・ガーディアム。目的は大将暗殺ではなく、ディア・ヴィオラセントをノーザリアに呼び戻すこと。
皇太子の父は王の座から降ろされた。そのきっかけを作ったのはディアだったが、彼はディアを恨んでいるわけではないらしい。むしろその力を利用できると考えた。
現ノーザリア王を廃し、自らが新王となり、再び他国へ侵攻することに。
「……ノーザリア危機か」
大総統が呟く。六年前、ディアが国外追放されたきっかけであるノーザリアの他国侵攻計画は「ノーザリア危機」と呼ばれている。それが再び起ころうとしているのだ。
「……他国の政治が立ち行かなくなる可能性が出てきた場合、一国の独断で他国に介入することができる。これは五ヶ国条約の一節だ」
五ヶ国条約とは、エルニーニャ、ノーザリア、サーリシェリア、イリア、ウィスタリアの大陸五大国の間で結ばれている条約だ。その中には、たしかにそう明記されていた。国同士が助け合うために作られた条項だった。
「五ヶ国条約に基づき、全軍出動だ。他の司令部にも通達しろ。『第二次ノーザリア危機発生、中央総出で戦争になるのを阻止する』と!」

エルニーニャ軍に限らず、大国の軍はさまざまな「専用機」を持っている。ニアたちが乗り込んだ軍用小型ジェットもその一つだ。大陸中央部では移動に関することがどうしてもネックになってくるので、空を飛ぶ技術は急激に発達していた。
そのおかげで今、中央司令部の軍人たちはノーザリアに向かうことができている。
「それにしても、皇太子自ら企てるなんて考えもしなかった。しかも、ディアを呼ぶためだけに……」
ニアは眉を顰める。そのそばでカイが、自分の知っている情報をぶつぶつと呟く。
「ディアさんは大将と親子関係にあって、ディアさんが無理にノーザリアを出ると大将の命が再び狙われる。でも出なければ、ディアさん自身が危ない……ややこしい事件ですね」
皇太子イースは、かつて軍を動かして他国に侵攻しようとした父を真似てノーザリア危機を起こそうとしている。しかし、まだ皇太子であり、悪王とされてしまった前王の子である彼が、そんな大それたことをできるだろうか。
その疑問も、ディアからの手紙に全て書いてあった。「マインドコントロール」――人の心を操って、思いのままにする技。それをノーザリア軍に施しているという。だから、エルニーニャ側からどんなに捜査状況を聞いても、答えてはもらえなかった。すでに皇太子の洗脳作戦は始まっていたのだ。おそらくは、前王派の人々を味方につけて。あるいは彼らに唆されて。
「大勢の人間にマインドコントロールを施すことは可能なのか?」
「実際に成功例はあるそうです。今回どのようにしているのかはわかりませんが、ノーザリア軍が情報を寄越さなかったことを考えるとうまくいっているようですね」
グレンの問いに、答えたのはクリスだった。医学知識を持つ彼は、心理学関係にまで手を広げているようだ。
理屈はともかくとして、その知識や技術を戦争に使おうという神経は理解しがたい。ディアもきっとそんな思いで、この手紙を書いたのだろう。
軍人は戦うものかもしれない。しかし、それはただの殺戮ではない。大切なものを守るための戦いだ。守るものが、信念があるから、誰も傷つけないように戦う。それが本来の軍人像であり、目的であるはずだと、ニアは考える。
「ボク、戦争は嫌です。……守るのは名誉じゃなく、命がいいです」
そう言ったハルの頭を、隣にいたアーレイドがそっと撫でる。
「そうだな、守りたいな。だから、今回のことは絶対に止めなくちゃいけない」
ニアの部下たちには、それぞれ守るものがある。大切なものを持っていて、それを必死で守ろうとしている。
「もしカスケードなら……同じように思っただろうね」
彼らがいてくれればきっと大丈夫。ディアを、ゼグラータ大将を、助けることができるはずだ。
「見えてきましたね、ノーザリア……」
ラディアの言葉に、ふと窓の外を見る。上空から、王宮がひときわ立派に見えた。

到着してすぐに、将官が大佐階級に指示を出した。各班にどこを守らせるか、彼らは移動中に話し合っていたらしい。
「ジューンリー班のみなさんは王宮周辺を固めてください。ゼグラータ大将が王宮へ来る手はずになっておりますので、合流したら即国王とともに保護してくださいませ」
メリテェアの指示で、各自王宮の守りに入る。外と中それぞれに人員を配備し、襲いくるノーザリア兵たちを迎え討つ。彼らはマインドコントロールを施されているので、できるかぎり怪我を避けるようにしなければならない。
「ニアさんは、王宮内で国王の保護をお願いいたします。ゼグラータ大将がいらっしゃいましたら、彼のこともお願いしますわね」
「わかりました。……今こそ、恩を返すときですね」
ニアは大剣を握りしめ、王宮内に突入した。そこではすでに国王の命を狙うノーザリア兵がいて、エルニーニャ軍と戦いを繰り広げていた。
「ツキ! 大丈夫?」
「何とかなる。しかし事務まで駆り出すとは、大総統も無茶なことするな……っと!」
同じく王宮内での戦いに身を投じていたツキと背中合わせになり、ニアは大剣を構える。背後の敵はツキがナイフで撃退してくれる。ならば自分は、目の前の相手を叩くのみ。大剣の柄を長めに握り、勢いに任せて横薙ぎに振る。刃ではなく、その幅広い金属を叩きつけるのが、この剣の、ニア流の正しい使い方だ。
バタバタと倒れていくノーザリア兵の声に混ざって、ツキが手にしている無線の音が耳に届く。どうやらベルドルード兄妹がノーザリア軍内に入り込み、マインドコントロールに関わっていると思われる周波発生器の破壊に成功したらしい。
「……今の聞こえただろ、ニア。俺も余裕だから、国王のところに行ったら?」
「ありがとう、任せた」
ニアが頷いて走りだそうとしたところへ、ちょうど高い声が響いた。
「ニアさん、待ってください!」
リアとラディアだ。彼女らは外で戦っていたはずだが、と思ったが、そばにいる人物を見て納得した。
「ゼグラータ大将、保護しました!」
二人が連れてきた灰色の髪を持つ初老男性を確認すると、ニアはすぐにそちらへ駆け寄った。どうやら彼には傷一つなく、全くの無事らしい。
「お疲れ様、二人とも。あとは僕に任せて、持ち場に戻って」
「はい!」
リアとラディアを見送り、ニアはあらためてゼグラータ大将と顔を合わせた。以前会ったとき、ニアはまだ九歳で、しかも火事のために意識が朦朧としていた。だが、この人のことは確かに知っている。彼に憧れて、軍人になったのだから。
「大丈夫ですか? ゼグラータ大将」
声をかけると、彼は若々しい笑顔で言った。
「ああ、まるで全盛期に戻ったようだよ」
「それは良かった。それでは、国王のもとへ行きましょうか」
そして再び、走り出す。途中何度も襲いくる敵は、大剣を振って薙ぎ払う。それをゼグラータ大将は感心したように見ていた。
「そんな大剣で、よく急所を外して攻撃できますな」
「一応、大佐ですから」
ニアが少し笑って返すと、ゼグラータ大将は「そうか」と思い出したように言った。
「君がディアの言っていた、あのときの……そうか、こんなに大きくなったか」
嬉しそうに目を細める彼に、ニアは頷く。十四年分の感謝を込めて。
「はい、あなたに救われた命です。ですから今度は、僕があなたを助けます!」
次々と道を切り開く。ゼグラータ大将を守りながら、前へ、前へ。気絶するノーザリア兵には申し訳ないが、今はせめて傷つけないように叩くことしかできない。
そうして王の間にたどり着いた二人は、ここを守っていた将官と交代した。王は無事で、ゼグラータ大将の姿を見て喜んだ。
しかしこの事態を起こしたのが皇太子だという事実には、やはりショックを受けていて、大喜びとまではいかないようだった。
「まさか、イースがこんなことを計画していたなんて……私が、日和見主義だったからいけなかったのか……」
「陛下、自分を責めるのはどうかおやめください。殿下は必ず、私の息子が説得します」
そう、あとはディアに任せるしかない。ニアに課せられたのは、この場を何としてでも守ることだ。
「ディア……ご子息は無事なんですか?」
「ああ、おそらくはな。あいつは途中でやることがあると言って、お嬢さん方に私を預けて行ってしまった。きっと殿下と話をしに行ったのだろう」
第二次ノーザリア危機の中心人物、イース・イルセンティア・ダウトガーディアム。はたして彼に、ディアの言葉は届くのだろうか。ここまでのことを起こすのだ、よほどの覚悟があったはずだ。かなりの準備期間があったはずだ。それで簡単に、こちらの話を聞いてくれるだろうか。
「……ディアなら、きっとできますよね。話をつけて……帰ってきますよね」
ニアが祈るように言った、その直後だった。無線からアルベルトの声が聞こえてきた。
『大佐、ノーザリア兵に退却命令が出たそうです』
「本当?! じゃあ、ディアの説得は成功したんだね!」
ノーザリア兵を統率していたのは皇太子だ。彼らの退却は、皇太子の降伏を意味する。ニアの、そしてゼグラータ大将と国王の表情が明るくなる。
しかし、
『説得には成功したようですが、……ディア君は倒れたと、連絡が入っています。フォース君とマクラミーさんが、現場へ向かいました』
喜びは束の間のものに終わった。やはり皇太子は、一筋縄ではいかなかった。
「そんな……ディアの傷の具合は?!」
「今、僕の部下が確認に向かっています。続報を待ちましょう」
取り乱しそうになるゼグラータ大将を抑えてはいるが、ニアも許されることなら叫びたかった。どうしてこんなことになったんだ、と。思い切りわめきたかった。
――ああ、南方にいるアクトに、何て説明したらいいだろう。
傷の程度が浅いことを願うばかりだ。

だが、思うさま傷は深かった。ディアは昏睡し、ラディアが治癒を施しても目を覚まさなかった。
エルニーニャ軍はそのままノーザリアから撤退した。
ノーザリア兵たちのマインドコントロールは、前王派の人間が近くにいて自分を監視しているのではないかという疑心暗鬼の深まったもので、そこへ脳に影響を与える周波を加えていたらしいことがあとで判明した。周波が届かなくなった彼らは、気絶から目を覚ましたときには、すでにコントロールが解けていた。
皇太子はそのまま、軍に拘束されることとなった。父王と同じように。

それから一週間が経過しようとしていた。
その間、ニアは南方と連絡を取り、ノーザリア危機の終焉とディアの容体を伝えていた。
アクトと直接話してはいない。全て、南方大佐のマーシャ・スクロドフスカを通した。彼女は話によると、アクトの従姉らしい。幼少期に別れた彼らは、奇跡的に南方で再会したのだという。
「今日もアクトは沈んでたって。……せめて、ディアが目を覚ませばな」
ディアはまだ目を覚ましていない。飲まず食わずで生きていられるはずはないので、点滴で栄養を与えている状態だ。病院嫌いの彼のために、わざわざ軍の医務室で。
「目を覚ましたところで、アクトのことはどう説明するんだ? 南方に行ったなんて知ったら、絶対また寝込むぞ」
ツキの言う通りだった。たとえディアが目を覚ましたとしても、彼のパートナーであるアクトはもう中央にはいないのだ。その理由を、どう説明すればいいのか。
「そうだなあ……とりあえず、正直に話すしかないよね。たとえディアがそれで寝込んだとしても、事実は事実だ。受け入れてもらわないと困る」
「……一応、南方行の切符でも用意しとこうか?」
ツキの笑えない、笑わせるつもりもない冗談に、ニアはとりあえずの苦笑を返しておいた。そして入り浸っていた外部情報取扱係の部屋を出ると、医務室に向かった。
今は交代で、ディアの様子を見ることになっている。起きたときに混乱するだろうから、絶対に説明役は必要だ。
ニアが医務室に入ると、まだディアは目を閉じていた。
「愚息をよろしくお願いします」――ゼグラータ大将はそう言って、彼を再びエルニーニャに預けてくれた。王はもう、ディアの追放を完全に解く気でいたのに。エルニーニャに彼の大切な人ができたことを、ゼグラータ大将は知り、尊重したのだった。
「でも、肝心の本人が起きないんじゃね……」
ニアが呟いてディアの頬をつつく。すると、ピクリ、と瞼が動いた。「あ」と声をあげたニアの前で、彼の瞳は完全に開かれた。
「……ニア?」
「ディア、目が覚めたんだね! 良かった!」
思わず点滴の針が刺さっているほうの手を取ると、痛がられた。「ごめん」とひとこと言ってから、ニアはディアの様子を眺めた。
彼は体を起こし、周りをゆっくりと見回してから、ベッドを下りた。そして窓の外を見て、信じられないというような顔をして振り返った。
「ここ、エルニーニャか?」
「そう。中央司令部の医務室だよ。……君、もう立てるんだね。一週間も眠っていたのに」
やっぱり強いな、とニアが笑うと、ディアはばつが悪そうな表情をしていた。
「あ、待っててね。みんな呼んでくるから」
「いや、いい。仕事中だろ? リアよりは長くは寝てなかったみてぇだし、大したことない。それより、俺、帰ってこられたんだな……」
彼はもう一度窓の外の光景を眺め、ここに戻ってきたことを噛み締めているようだった。今、彼は何を思っているのだろう。ゼグラータ大将のことか、ノーザリアでの事件のことか、皇太子の処遇か。……それとも、彼のことだろうか。
「ノーザリアはどうなった? 解決したんだろ?」
「うん。残念ながら、皇太子は拘束されることになったけれど。今は後始末を進めているみたいだよ。ゼグラータ大将は、ディアのことを頼むって言ってたよ」
「そうか。じゃあ、俺はまだまだエルニーニャの軍人でいられるってわけだ」
点滴を気にせず、ディアは思い切り伸びをした。栄養が十分ではなかったので、少しばかり立ちくらんだようだったが、すぐに体勢を立て直して笑って見せた。
「そうだ、アクトは? 俺がノーザリアに行ってから、元気だったか?」
そしていつもの世間話のように、その問いを口にした。いや、彼にとってはごく普通の、何気ない質問だった。しかし、ニアは言葉を詰まらせる。……正直に言わなければならないのは、わかっているのに。
「どうした?」
「……あのね、ディア。アクトは、……もう中央にはいないんだ」
それでも意を決してその言葉を口にすると、ディアの笑顔がひきつったものに変わっていくのが見えた。「どういうことだよ」と問われる前に、ニアは一気に続けた。
「ディアがノーザリアに行っている間、南方への異動命令が出た。南方司令部は今、殲滅事件の被害に遭った村を復興させようとしている。それに、アクトの力が必要になったんだと思う」
「……嘘だろ。そんなの信じられるかよ!」
ぶちり、と乱暴に点滴を引き抜き、ディアは走り出した。ふらつきながら、医務室を出ていく。ニアが呼び止めても、彼は止まらなかった。
そのあと、彼は方々に確認したようだが、返ってくる答えはどれも同じものだった。寮の部屋まで行って、やっと彼は、それが事実であることを理解した。
一人分しかないネームプレート。荷物のなくなった室内。それを見て壁に拳を打ち付けるディアを、追いついたニアは黙って見ていることしかできなかった。

消沈しているディアを、その日はとりあえず部屋で休ませ、ニアはそれから大総統室に向かった。
ディアが回復したことを報告しなければならない。いや、あの騒ぎだったのだから、もう知っているかもしれない。それにもう一つ、重要な話があった。
「閣下、失礼します」
「ジューンリー大佐か。何やら騒がしかったようだが」
「はい。ヴィオラセント中佐が先ほど目を覚ましまして……やはり、ロストート中佐が異動になった事実には困惑しているようでした」
「そうか。だが、起きてすぐ動き回れるとは素晴らしい。その調子なら、すぐに全快するだろう」
大総統は満足気に頷くが、ニアはそれだけでは終わらせない。この一週間、ただディアの回復を待っていたわけではない。こちらも考え、行動していた。
「それで、先日からお願いしていた件ですが。どうか了承していただくことはできませんか? 彼にはどうしても必要なことなんです。もちろん、僕にとっても」
詰め寄るニアに、大総統ダリアウェイドはただただ冷静に答えた。
「……向こうとしても急に人手がなくなるのは困るだろう。軍とは集団だ。個人の都合で簡単に人員を動かせるものではないのだよ」
「それをわかって言っています。彼の、いえ、彼らの働きを僕は間近で見ていて、よく知っています。彼らは僕の班に必要な人員です。どうか、返してください。裏社会の捜査も、カスケードを捜すことも、彼らの助けがなければ成し得ません!」
ニアは必死になって訴える。大総統はその深い緑の瞳を、真っ直ぐに見返していた。そして、ふ、と笑うと、ニアの頭をぽんぽんと優しく叩いた。
「落ち着きなさい。すぐにはできないと言っているんだ。南方司令部長と話し合った結果、十分な引継ぎをしてからなら問題はないということになった。……もう少しだけ、待ちなさい」
「! それでは……」
「ああ、進めようじゃないか。アクト・ロストート中佐を、中央に呼び戻す手続きを」
このとき、大総統がわざともったいぶった言い方をしていたことを、ニアは南方との連絡で知る。ディアの快復とアクトの再異動について南方司令部のスクロドフスカ大佐に伝えると、彼女はそれがとっくに決まっていたことのように言った。
『ヴィオラセント中佐の快復は、アクトに伝えておきますね。ええ、もちろんアクトを中央に戻す手筈は整っています。あとは期間を終えて、正式な書類を発行してもらうだけですから』
「スクロドフスカ大佐は知っていたんですか? その、アクトが戻るって話……」
『もともとそのつもりで動いていたんですよ。私たちは南方殲滅事件当時、実際に何が起こったかを知りませんから。だから証人に来てもらい、今後の復興計画を見直したかった。そのための一時的な異動だったと、うちの大将が申しておりました』
「そう……なんですか」
それを大総統が知らないはずはない。ニアはまんまと欺かれていたのだった。おそらく、試されたのだろう。ニアが本当に「仲間」を作ることができているのかどうかを。部下たちを大切に思っているかどうかを。
「……さて、今後どうしましょうか、スクロドフスカ大佐」
『正式に辞令が出るまでは、伏せておいてくださいな。アクトにだけは、荷物の片付けもあるし、伝えておこうと思いますけれど』
きっとすぐに辞令は出るだろう。それまでは、ディアには我慢してもらうしかなさそうだ。

ディアは翌日から仕事に復帰したものの、大暴れと空気が抜けたように机に突っ伏すことを繰り返していた。
ノーザリアからの追放処分が解けて、自由に故郷とこちらを行き来できるようになったことを伝えても、それをどこか上の空で聞いていた。
彼にとってはアクトの存在が重要なのだと、ニアをはじめ、班の全員が実感していた。
「このところ、ずっとあの調子ですね……」
カイが呆れたように言う。ニアは苦笑しながら「仕方ないよ」と返す。
「それだけアクトのことが好きなんだ。……僕のほうも、彼が暴れた分だけお詫び行脚の回数と長さが増えるから、厄介なんだけどね」
アクトが戻ってくることを知っているとはいえ、それをディアに教えることはまだできない。スクロドフスカ大佐と相談して、サプライズイベントを行なうことにしたのだ。お詫び行脚はそれまでの辛抱と思って、日々過ごしている。
「ディア、いい加減にしないと始末書が溜まる一方だよ」
「……黙れ、緑」
「緑って……そんな元も子もない言い方をしないでよ」
テンションの低い言い争いをしていると、事務室にアーレイドが入ってきた。新兵訓練の指導に行っていたはずだが、もう終わったのだろうか。
「アーレイド、お疲れ様。新しい子たちはどう?」
「良い子たちですよ。そこでだらだらに溶けてる中佐殿とは大違いです。それより、クレインがニアさんを呼んでましたよ」
情報担当の彼女から呼ばれるということは、つまりそのときが来たのだ。ニアは即座にそう察した。ディアの背を一発叩いてから、事務室の出入り口へと向かう。
「わかった、知らせてくれてありがとう。……でもね、アーレイド。君だってハルがいなくなったら、ディアみたいに溶けちゃうんじゃないの?」
「……それは否めませんね」
苦笑するアーレイドと入れ替わるようにして、ニアは情報処理室へ向かった。そこにはクレインが待っていて、ニアの姿を見止めると「早く早く」と手招きした。
「ニアさん、これ。本当に、信じていいんですか?」
彼女の前にあるディスプレイに表示されているのは、人事異動に関する文書。南方からメールで送られてきたらしい。すでに南方司令部長の承認印が入っているので、これに大総統からの承認印をもらえば書類は完成だ。
「これは本当のこと。プリントアウトしてくれるかな、閣下に持って行くから」
「はい。……でも、こんなことってあるんですね。他の人より早く知れるなんて、私、やっぱりこの仕事をしていて良かった」
嬉しそうなクレインに、ニアの顔もほころぶ。きっとみんなが、同じ表情をしてくれることだろう。
さて、あとは手筈通りにことを進めるだけだ。大総統室に行く前に、ニアは事務室に行き、「溶けている」ディアに命じた。
「ディア・ヴィオラセント中佐。君に重要な仕事だよ」
「……仕事?」
「そう。明日早朝のマードック行列車に乗って、駅で調査書等を受け取って戻ってくること。いい? 時間は必ず守ってね」
スクロドフスカ大佐とともに立てた計画は、こうだ。南方司令部のある都市マードックにディアを行かせ、向こうで中央に戻るアクトと合流させる。偶然を装った、必然の再会のできあがりだ。彼らには、これくらいロマンチックな物語がちょうどいい。二人が帰ってきたら、ディアが書いた手紙をアクトに渡そう。さて、どんなことになるやら。
それからニアは大総統室に行き、辞令書に承認印をもらった。大総統に「顔がにやけているぞ」と言われ、「やっぱりですか?」と返した。
「僕だって、仲間がいないと寂しいですからね」


『第二次ノーザリア危機、エルニーニャ軍の介入で解決』――そんな見出しの新聞記事を、カスケードは眺めていた。どうやら北の大国で戦争に発展するかもしれない規模の騒ぎが起こり、それをエルニーニャが鎮めたということらしい。
だが、今回のことにエルニーニャの介入ははたして必要だったのか、という世論も少なからずあった。カスケードもどちらかといえば、そちらに傾いている。これはノーザリアが自国で解決すべき問題であり、他国が介入すべきことではなかったのではないかと。
「国ってのは難儀だな。……小国はあっという間に滅びるか吸収されていく。大国も関係を一定に保とうとしながら、実はかなり不安定だ。人間っていうのは、どうして居場所なんか求めるんだろう。それも人から奪ってまで。どうしてコミュニティを作って、その中で生きようとするんだろう」
ビアンカも姿が見えないので――正確には実験室に籠って出てこないだけなのだが――カスケードの疑問に答える者はいない。誰かがここにいたとしても、明確で正しい答えを出せる人間などいないだろう。
カスケード自身も、「組織」というコミュニティの一員をしている。馴れ合わないことが原則とは言われているが、「組織」の命令に従うことは絶対だし、こうしてビアンカとともに暮らしている。
これも不安定なものだ。いつ崩れるかわからない。カスケードの過去の日常が、ある日を境に消えてしまっているように。
「やっぱり、こんな不安定な国は変えてしまわないと。……軍の必要ない世界を目指すんだ。“あの方”の言うように……」
まるでまじないのように呟く言葉を聞く者は、誰もいなかった。





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2014年01月25日

Reverse508 第十二話

リアの退院日程が決まり、すぐに仕事に復帰すると宣言したその日。当日には彼女の体調を気遣いつつ班員全員でお祝いパーティをしようということになり、ようやくジューンリー班に笑顔が戻った。
しかし、ことは、その翌日に起こった。
「黒髪黒目の人物が、ここ最近の大きな事件で連続して目撃されているそうだが」
大総統室に呼び出されたニアは、ついにその事実に向き合わなければならなくなった。中央刑務所への侵入、ライズ村危険薬物事件首謀者の幇助、そしてアーシャルコーポレーション社長への、司令部へ行くようにとの進言。これら全てが同じ特徴を持つ人物によって行われている。
黒髪黒目の男――しかしそれは髪を染め、瞳の色をごまかした、仮の姿。そこまでは大総統も突き止められていないようだったが、事件に同一人物が関わっている可能性は非常に高かった。
「裏の者かもしれんな。ライズ村の件とアーシャルコーポレーションは、確実に裏社会と関係がある。これまで姿を隠していたというレスター・マクラミーの居場所を知っていたことからして、この人物は裏社会でも中枢に近い場所にいる可能性がある。徹底的に調べ上げなければならないな」
そこまでは、ニアにも予想がついていたことだ。しかしこれまで「徹底的に調べる」ことを避けていたのは、ニアの中にある疑念があるからだ。それが真実であるとされることが、恐ろしかった。
「……その黒髪黒目の人物について、僕らの班で調べればよろしいですか?」
「いや、これは全体で当たらなければならない事案だ。刑務所への侵入は軍服を着て行なっており、アーシャルコーポレーション事件では軍に負傷者が出た。これにはエルニーニャ軍全体の名誉がかかっている」
大総統ダリアウェイドならばその判断を下すだろうと思っていた。しかし、ニアはこの人物の正体を他の誰かには暴かれたくなかった。
もしそれが、自分のよく知っている人物だとしたら。せめてその疑念が晴れるまでは、自分がこの件を担当したかった。
「僕は刑務所で独自に調査をし、ライズ村の件では指揮を執り、アーシャルコーポレーション事件では部下が狙われることになりました。この件には僕らが大きく関わっています。どうか、調査は僕らに」
「ジューンリー大佐。軍にいるのは君たちだけではないんだよ。それに君たちには、カスケード・インフェリア捜索という大切な仕事がある。ただでさえ多くの仕事を抱えている君たちに、謎の人物の捜査まで任せるわけにはいかない」
それは大総統からすれば当然の判断であり、たしかにジューンリー班の負担を軽減することにもなる。だが、この件だけは。黒髪黒目の人物が、本当はダークブルーの髪色の男であることが知れたら、疑いがかかるのは彼だ。なにしろ、五年前に軍服を着たまま失踪しているのだから。
「マクラミー中尉も復帰する。アーシャルコーポレーションの件も落ち着いた。これで君は安心して、親友の捜索にあたれるのではないか?」
「……そう、ですね」
本来ならば、そのはずだった。黒髪黒目の男が、カスケードかもしれないという疑惑がなければ。
「そうそう、危険薬物の件も頼むよ。中央付近ももちろんだが、最近他国への密輸が疑われているんだ。主に東方司令部が対応しているが、じきに中央にも応援要請が来るだろう。……東方の諸小国では、特に問題になっているそうだからな」
ほら、こんなにやらなければならないことがあるだろう? 大総統がそう言っているように聞こえる。たしかに危険薬物関連の事件をできるかぎりこちらに回してほしいと、ニアは頼んでいた。
「わかりました。東方諸国の薬物密輸に関する資料などはありますか?」
「東方から届いている。コピーではあるが、君に預けておこう」
これらの資料を役立てるのは、厳密にはニアではない。アルベルトとブラックだ。彼らは追っている殺人犯の足取りと危険薬物の流通に共通するものがあることに気づき、以来ニアにも危険薬物の流通ルートについて情報をまわすよう要求している。特に東方諸国には注目しているらしく、そこで起こった事件などについて詳細に調べていた。
彼らの仕事は進んでいた。ニアに比べて、格段に。
「それでは頼んだよ、ジューンリー大佐。……早く、カスケード君の消息も掴めるといいな」
「はい。……それでは、失礼いたします」
ニアとしては複雑だ。消息を掴んだところで、それが望む結果になるかどうかはわからないのだから。

事務室に戻ると、そこは戦場だった。仕事を次々に引き受けている場合ではないのだ。今でも十分に忙しい。夏の暑さに負けそうになりながらも、部下たちは懸命に仕事をしている。
「あ、ニアさん戻ってきた! この書類なんだけど」
「それが終わったらこっちもお願いします」
「うん、見せて。……これはこのままで大丈夫。ラディアちゃんにファイリングしてもらって。これは承認印が必要なんだね、ちょっと待ってて」
こんなに慌ただしいのは、ライズ村、アーシャルコーポレーションとニアが指揮を執らざるを得なかった事件が立て続けに起きたからだ。その報告書は全てニア、そしてジューンリー班にまわってくる。一度こちらで承認してから、将官へ、そして大総統へと渡っていくのだ。
さらに、ニアが都合上引き受けてしまった危険薬物関連事件。これはレジーナ近郊でも頻発しているので、しょっちゅう視察と取締り、報告というサイクルを繰り返さなければならない。そしてその中でも気になるものを、アルベルトとブラックに参考資料として極秘に提供する。それが彼らが仲間でいてくれる条件の一つだ。
「これの処理は……アルベルトに頼んで」
「はい。アルベルトさん、これをニアさんが処理するようにと」
「あ、ありがとうございます」
先ほど大総統から預かった書類を、他の書類と共に渡す。彼ならすぐに「秘密の資料」の存在に気づくだろう。本来なら大佐以上の人間にしか見ることのできないものだ。少佐である彼が扱うことは、特別な理由でもないかぎりはない。
だが、彼にはその情報が必要だった。東方国境付近の、危険薬物取引の資料が。
アルベルトが危険薬物関連の資料を求めてくるようになったのは、二カ月ほど前からだ。諸小国で起きている殺人事件の被害者から、薬物反応が出ていることが発覚した頃だった。外国の、しかもとても小さな国で一件か二件ずつ起きている事件なので、エルニーニャでは取りざたされなかった。地元でも、それが連続殺人であるとは考えなかった。だが、アルベルトとブラックにはその関係性がわかっていたらしい。
ニアはアルベルトから資料を要求されるたび、自分でもそれに関係しそうな事件を調べてみた。そして、彼らの推測、いや、確信が正しかったことに気が付いた。
中央以外の司令部で扱っている、小国との国境付近で起きた取引や、それと思われる痕跡が見つかったあとに、必ず国境の向こうの小国で殺人事件が起きている。生きている間に薬物を投与され、切り刻まれて殺されているのだ。
同じパターンの事件でも、国境があるから捜査機関が異なる。各国の事件数が少ないので、報道も地元のみにとどまる。だからなかなか関係性が見いだせないところを、あの兄弟はうまく拾って繋げていたのだった。
ともすれば彼らが犯人として追っているラインザー・ヘルゲインという男は、簡単には関係に気づけないことを見越して殺人を行っていることになる。非常に狡猾で残忍な人物らしい。それがあの二人の父親なのだ。
彼を放っておけば、確実に被害者は増えていく。だが、エルニーニャではこれらの事件を処理することができない。こちらが相手国に調査を申し込むか、相手からこちらに要請が来なければ、たとえそれが自国の人間の仕業だとしても、外国で起きた事件であるかぎり扱えない。
外国で起きた事件に取り組むことができるようにするには、特別な許可が必要だ。そのうえ、国交の面で非常に気を遣わなければならないため、基本的には将官しか関わることができない。将官が指定もしくは許可すれば、佐官以下でも参加できる。
つまり、どれだけラインザー・ヘルゲインが罪を犯しても、アルベルトとブラックには手の出しようがない。唯一関わりのある将官はメリテェアだが、彼女はその若さゆえに、重要な任務をあまりまわされていない。
今の彼らには、ラインザーの足取りを追うことしかできないのだ。居場所はわかっているのに捕まえられないのは、きっともどかしい。
それでも居場所が読めるだけ、ニアが追っているものよりは随分と進んでいるように見えた。
ニアは仕事の合間にアルベルトの様子を確認する。初めのうちは会議室に籠ろうとしていた彼も、何度もうるさく言ったせいか、今では事務室で作業をしてくれるようになった。
今、彼が真剣に読んでいる書類は何だろうか。先ほど大総統から受け取った、あの資料だろうか。あれは、彼らの役に立ってくれるのだろうか。
そんなことを考えていたところへ、本日の出動組が帰ってきた。ディアを筆頭に、グレン、カイ、アーレイドが、危険薬物取引の取締りに向かっていたのだ。
「戻ったぞー。やっぱり取引やってたぜ。イリュージョニアとウィルドフェンスだった」
「お帰り。薬物の内容はいつもの通りだね。ここ最近多いな……」
大総統も言っていたが、ライズ村の一件以降、危険薬物関連の事件は中央付近でも増えていた。おかげで毎日、誰かしらは出動している。
イリュージョニアはライズ村でも製造されていた、一時的に幸福感を得られるが依存性の強い薬物だ。身体機能の低下や幻覚などの副作用があるため、危険薬物に指定されている。ウィルドフェンスもほぼ同様の効果を持つが、こちらは原料が大陸中央部、つまりエルニーニャでしか採れない貴重なものだ。
問題はこれらのものらしき薬物反応が、小国での事件で出ていることだ。もしそれがウィルドフェンスのものならば、エルニーニャ中央部から諸外国へ、何らかのルートを通じて運ばれていることになる。
「今回は運ばれる前に食い止めることができました。どこへ流されるのかは、これから当人たちより聴取することになります」
「ありがとう、グレン。報告書をできるだけ早くまとめておいてね」
その報告書をもとに聴取をするのは、ニアだ。場合によってはその結果を、即アルベルトとブラックに伝えなければならない。
ごく普通に大佐としての責務を果たしているように見せかけて、内実個人の目的に加担している。この状態は、実際あまり好ましいものではない。軍は集団だ。情報はよほどの機密事項でない限り、共有が原則だ。
だが、アルベルトとブラックは、ニア以外の他人に協力を仰がない。それは彼らが「目的の邪魔をされたくない」からだ。
身内だから自分で決着をつけたいということだろうか。ニアが、「黒髪黒目の男」を他の者に追わせたくないと考えたように。
それとも別の目的があるのか。だとしたら、それはいったい何なのか。ニアには知る由もない。訊いたとして、教えてなどくれないだろう。

報告書は、その日の夕方にあがってきた。ディアが書けば翌日以降になったところを、グレンは当日中に仕上げてくれるのだから、これ以上に助かることはない。しかも的確で読みやすい。
「それなのにデスクワーク苦手って、もったいないな……」
独り言を呟きながら、ニアは報告書を捲る。いつものように必要事項は記憶しておく。今日は聴取が終わるまで帰らないつもりだった。
証言がうまくとれたなら、夜にアルベルトを訪ね、報告する。その流れがうまくいけばいいのだが。
「それじゃ、僕はもう出るから。そのまま直帰の予定だから、後のことはクリスとアクトに頼むよ」
「はい、お任せください」
「最近このパターン多いね。実働はディア、事務はおれとクリスって」
「それが一番効率いいんだ。よろしくね」
書類を入れた鞄を持って、向かう先は中央刑務所内の勾留所。ディアたちが捕まえた者たちはそこにいる。
報告書をもとに彼らから話を聞き出さなければならないのだが、これがまた骨の折れる仕事だ。相手が素直に白状することなどめったにない。嘘かどうかも見極めなければならない。精神的につらい仕事になるので、ニアにとっては薬と眼鏡が必須の大仕事だ。このところはこれが毎日である。
威圧感のある者や口がたつ者ならば、うまく聞き出すことができるのだろう。だが、あいにくニアはどちらでもない。どちらかといえば、初対面の相手には「弱そうだ」と思われる。
「それではお話を聞かせていただきます」
聴取の際のニアの武器は、相手の話をとにかく真摯に聞くこと。矛盾や虚偽を指摘するのはそのあとだ。
「……なるほど、相手は誰だかわからない、と。なので、薬物がどこに送られるのかも一切わからないというわけですね」
「だからそうだっつってんだろ。組織との取引ってのはそういうもんなの!」
「ああ、相手は組織なんですか。……なんだ、ちゃんと情報持ってるじゃないですか」
「!」
綻びがあれば必ずわかる。そう隠せるものではない。
「さて、渡す側が終わったら受け取る側か。これまた大変なことになりそうだな」
時間はかかるが、確実に情報を入手するには、手間を惜しんではいけない。これまでだってそうしてきた。
きっとアルベルトたちもそうだったはずだ。

「危険薬物は東方の小国に送られるそうだよ。具体的には、ユィーガ、イストラ、ドーレット。どれもエルニーニャに隣接する国だ」
仕入れた情報が使えそうだったので、ニアは帰宅後すぐにアルベルトの部屋を訪れた。彼はそれを冷めた目をして聞いていたが、役に立っていないわけではないようだった。
「……あの人はしばらくユィーガを拠点にしているようでしたが、今度はたぶんイストラでしょうね。ドーレットは今年の頭までいたところですが、危険薬物の密輸ルートだけが残ったのでしょう」
「イストラか……たしか今は女王が治めてたっけ」
次にラインザーが行くであろう場所の目星はついたらしい。しかし、足取りはわかっても追いかけることができない。ここはエルニーニャであり、アルベルトはこの国の軍の少佐なのだ。
「このことはブラックにも伝えます。ご協力ありがとうございました、大佐」
「どういたしまして。それじゃ、僕は部屋に戻るよ。調書をまとめなくちゃならないし」
「そうしてください。それでは、お疲れ様でした」
まるで追い出されるかのように、ニアはアルベルトの部屋をあとにした。やはり彼は、なかなか心を開いてくれない。何かを追っているという点ではニアと同じなのに、同じに見られることを拒否している。口に出さずに、「あなたに何がわかるんですか」と言っている。
「第一印象って大事だな……」
面接のときを思い出して、ニアは苦笑する。この状況を作りだしたのはニア自身だ。今更後悔しても仕方がないのだけれど、やはり信頼というものは、得るのは難く失くすのは易い。アルベルトと話していると、特にそれを実感してしまうのだった。

事態が急転したのは、その一週間後だった。リアが復帰し、楽しい一晩を過ごしたあと。真夏の暑さにだるさを感じているところへ、その事件は飛び込んできた。新聞やラジオ放送、ニュース番組がそれを一斉に報じた。
『……エルニーニャの東に位置するユィーガ国で、三日連続で悲惨な事件が起こっています。当国軍によりますと、この事件は殺人と見られており、その状況はここ何カ月かに起こった他国での殺人事件と内容が酷似しているとのことです。このことから同一犯によるものではないかと……』
これが「東方諸国連続殺人事件」の幕開け――いや、人々に初めて認知されたというだけで、本当はずっと前から続いていた。それをアルベルトは、ブラックは、そしてニアは、知っていた。
ここにきて、ついにエルニーニャにも、小国の事件の詳細が届いたのだった。それをきっかけにエルニーニャ王国軍の上層部が、十七年前に起こったある事件に注目した。
「ジューンリー大佐。このたびの東方諸国連続殺人事件だが、十七年前にエルニーニャで状況が非常に酷似した事件が起こっていることは知っているか?」
大総統に呼び出されたニアは、その言葉に息を呑んだ。それは間違いなく、ブラックの母親が殺害された事件のことだ。長い間放置されていた事件が、ついに掘り起こされたのだ。
「……いいえ、存じ上げませんでした」
「そうか。……そういうことにしたいなら、それでいい」
やっと絞り出した言葉も、嘘だと見抜かれる。大総統はそのまま続けた。
「さらに、もっと以前にも他国で殺害方法が酷似した事件が起こっている。数戸の一家全員が惨殺されたが、犯人は川に身を投げて死んだとされていた。……事件はそれで終わったはずなのに、この件をしつこく追っていた軍人が、君の班に二人もいるね?」
この人は、何もかもわかっているのだ。当然だろう、ニアが見たプロフィールは、すでに大総統が目を通しているものなのだ。いきなりニアの手に渡るはずはない。面接をしたのはニアなのだから、プロフィールのことを知らないというのは通じない。
「さて、君が以上のことをこれまで一切知らなかったものとしよう。その上で、この件について、どう思う?」
こう問うことで、アルベルトとブラックが東方諸国連続殺人事件に関与しているのではないかと、この人は言っているのだ。
ニアの額に汗が浮かぶ。真夏の暑い日なのに、凍りそうなほど冷たい汗だ。ここは何と答えるべきだろうか。「知らなかったもの」として、どんな回答を用意すべきなのだろうか。
「……僕は、」
言えば、彼らを調べることになる。――すでに知っているのだから、本当は調べる必要はない。ただ、報告するのだ。そうなれば、彼らはもう、自由には動けない。
協力はこれまで以上にできるだろう。もっと多くの人員を使って、堂々と。もしかしたら特例として、他国での調査が認められるかもしれない。だが、それではいけない理由が彼らにはあったはずだ。だからこれまで、ひっそりとラインザーという男を追ってきたのだ。
彼が父親だということが知れるとまずいから? それとも、他にも理由が?
いずれにせよ、下手なことを言えば約束を破ることになる。「邪魔をしないこと」という約束を。
大総統の視線が刺さる。汗が、つう、と流れていった。
「僕は、……模倣犯の可能性があると思いました。リーガル少佐は、西方で主に殺人事件を担当していました。模倣されたと思われる事件を調べるのは、妥当なことと思います。ダスクタイト中尉も東方では凶悪事件をよく取り扱っていたようですから、似たような事件が起これば調べるのは当然だと思います」
それは誰もが最初に考えたこと。「きっと模倣犯だろう」として、関連があるという考えを捨てた理由。ニアはそれを口にした。
「模倣犯、ね。……多くの者と同じ意見だ。意外につまらない男だったんだな、君は」
口の端を持ち上げて、大総統は笑う。君は嘘が下手だと、そう言われているようだ。
「事件に面白いもつまらないもないでしょう」
「そうだな、尤もだ。だが、ジューンリー大佐。君が本当にそう思っているのだとしても、リーガル少佐とダスクタイト中尉は調べたほうがいいだろう。特にダスクタイト中尉は、東方でかなりの問題を起こしている。それから、さっき言った十七年前の事件だが、この被害者は彼の母親だ。彼の目の前で事件は起こった。このことはすでに上層部の者全員が知っているよ」
「……ダスクタイト中尉を、監視でもするつもりですか。事件に関わっていないかどうか」
「私はそこまでは言っていない。だが、そうすべきと言っていた者もいたな」
大総統という立場にいる限り、ダリアウェイドが重視するのはあくまで軍の名誉だ。関係者がいるというだけで、軍への信頼が失われるのではないかと危惧しているのだ。
「彼は、中央に来てからは問題行動はありません」
「まだ半年も経っていない。心の内はわからないさ。……それとも彼を班に抱え込んだ君なら、彼の本心が聞けるかな?」
抱え込ませようとしたのはそちらでしょう、と言い返したかった。だが、その言葉はニア自身がブラックを拒否することにもつながってしまう。
拒否なんかしたくない。彼は、せっかく仲間と打ち解けてきたのに。グレンにかまい、カイと口喧嘩をしている姿を、ニアは何度も目撃している。
「聞きますよ。彼の本心を、僕が聞きます。それを報告すれば、閣下は満足ですか?」
「報告までしてくれるのか。そうだな、それなら安心だ。彼の考えていることがわかれば、こちらもおかしな猜疑心を持たなくて済むだろう」
後戻りはできない。これ以上嘘をつくこともできない。ニアに残された道はただ一つ。今一度、アルベルトとブラックの二人と向き合うことだ。

その日の夜、ニアはブラックの部屋を訪れた。無意識により苦手なタイプであるアルベルトを避けようとしたのかもしれない。
だが、運がいいのか悪いのか、ブラックの部屋にはアルベルトもいた。――いや、「東方諸国連続殺人事件」が知れ渡ってしまった以上、二人が今後の動きを相談するのは当然のことだった。おそらくはアルベルトのほうから、今後について話したいと持ち掛けたのだろう。
「……何か用かよ、大佐サマ。今、取り込み中だ」
ブラックは不機嫌だった。アルベルトとどんな話をしていたのかはわからないが、けっして愉快なものではなかっただろう。
「緊急事態だから、少しでも時間がほしい」
「あいにくこっちも緊急事態だ」
ブラックが戸を閉めようとする。ニアはあわててそれを止めようとしたが、その前にアルベルトがブラックの肩に手をかけた。
「話だけでも聞いてあげようよ、ブラック。大佐は一応、僕らの協力者なんだから」
アルベルトはそう言って、口元だけで微笑んだ。――目は、ぞくりとするほど冷酷だった。
「……ありがとう。応じてくれて嬉しいよ」
「いいえ、大佐のくれた情報は今までそれなりに役立ちましたから」
棘のある言葉とともに、ニアはブラックの部屋へ迎えられた。室内には彼らがこれまで調べたものと思われる資料が積み上がっている。ここまでのことを調べるのは、さぞかし骨が折れただろう。ニアの聴取など、きっと比べ物にならない。
「それで、大佐の緊急事態とは?」
同じ色の瞳が四つ、ニアを射抜くように見つめる。刺さって痛いのを堪え、ニアは前置きなしに本題に入った。
「君たちの目的が聞きたい。ラインザー・ヘルゲインを追って、そのあとどうするつもりだ?」
これまで、アルベルトとブラックが同じ事件を追っていること、その犯人が彼らの父親であることなどを聞いてきた。だが、追った先のことは何も知らない。彼らはラインザーを「捕まえる」とはひとことも言っていないのだ。
加えて、ブラックが東方で起こしてきた問題行動。暴れた凶悪犯を斬り殺してきたという事実。それを考えると、彼らの目的は。
「……そんなの、聞いてどうするんですか?」
アルベルトが静かな、しかし妙に頭に響く声で言う。ずしりとした頭痛がニアを襲うが、それに耐えながら、正直に答える。
「大総統閣下が知りたいんだそうだ。ユィーガの事件とこれまで小国で起こってきた事件が結び付けられ、東方諸国連続殺人事件と呼ばれるようになった今朝、将官たちはすぐに十七年前のブルニエ・ダスクタイト殺害事件と昔小国で起こった連続一家惨殺事件との関連性を疑った。やり口が同じだからね」
「それで?」
「そこで、君たちがなぜ早期に昔の事件を、終わったとされていた連続一家惨殺事件を調べていたのか、閣下は疑問に思ったそうだ。その本心を、僕は閣下に報告しなくてはならない。君たちの目的を、聞かなければならなくなった。……いや、正確にはブラック、君が今回の件に関わっていないかどうか、閣下や将官たちが気にしている」
「……報告ですか」
ブラックが眉を顰め、アルベルトが深く溜息を吐いた。そして、
「大佐、僕らは言いましたよね。絶対に邪魔をするなって」
いつの間にか手にしていた銃の口を、ニアに真っ直ぐ向けた。
「おい、それはいくらなんでも」
「ブラックは黙って」
これは想定外だったのか、ブラックが止めようとする。だがアルベルトはそれを遮った。きっと西方で殺人犯を追い詰めていたときも、彼はこんな目をしていたのだろう。
「僕はあの人が裁かれれば、それで十分なんです。どんな形であろうと、報いを受ければそれで満足です。でも、ブラックは違う。たった一人の大切な肉親を殺されて、相手を恨まない子供がいますか? そんなことをした奴を殺してやりたいと思う人間がいても、何もおかしくはないですよね? ……僕はそんなブラックを助けたかったんです。ブラックの邪魔をする奴がいたら排除しようと決めていたんです。彼の手を汚さないよう、この手であの男を殺すことも考えています」
引き金に指がかかる。ニアの目でも、それははっきりととらえることができた。
「どうせ手を汚すなら同じですから。……あなたを殺して軍を出ていったほうが、階級も国境も関係なく自由に動けそうですし」
「バカ、やめろって! 勝手なこと言ってんじゃねーよ!」
引き金にかかった指に力が込められるその前に、ブラックが銃口を床へそらした。手を捻られた痛みに、アルベルトの表情が歪む。
ニアはそれをただそこに立って見ていた。見ていることしかできなかった。身がすくんで動けないという経験をしたのは、初めてではない。だが、何度経験しても慣れるということはないものだ。
「ブラック、放して。その人を消してしまわないと、君の邪魔になるよ」
「何も変わんねーよ! もう上のヤツらは知ってんだろ?! じきにラインザーとリーストックが同一人物であることにも気づく。コイツを殺したところで、どうせ行き着く先は同じだ!」
ブラックがアルベルトの手から銃を取り上げる。そしてニアに目を向け、言った。
「たしかに、もう軍を出ていったほうが動きやすいかもな。情報は十分集まった。ヤツがわかりやすく動き出してくれたおかげで、追いやすくなった。……だから報告でも何でもして、さっさとオレをクビにでもすればいい」
「……報告するとしたら、なんて?」
「ブラック・ダスクタイトは母親を殺した犯人に復讐するために軍に入り、ヤツをぶっ殺すために刀を振るっていた。……こう言えばいいだろ」
二人はニアの知らないところで、何度も相談を重ねてきたのだろう。同じものを追う者として、中央で出会ってから、ずっと。軍人として、血を継いでしまった者として、ラインザー・ヘルゲインを裁くために。
軍人としてなら、たとえラインザーを殺害したとしても「戦いの結果」として罪に問われない。だからブラックはその道を選んだ。アルベルトは独自にラインザーを追っていたが、ブラックがそう考えるなら、それを支えようと決めた。それもできるだけ、ブラックの手を汚さずに。誰にも邪魔をさせずに。
「……そう。じゃあ、僕は閣下に報告しよう」
ニアが言うと、アルベルトはブラックの手から銃を素早く取り返し、再び銃口をこちらへ向けた。
「大佐、それをするつもりなら、今すぐに僕があなたを殺しますよ」
「アルベルト、話を聞いて。……命乞いをするつもりじゃないけれど、僕が報告しようと思う内容は知ってほしい」
怯んだ瞬間、全てが終わる。判断を間違えれば、もう二度と親友に会えなくなる。仲間たちとアルベルトたちの間にできた絆を断ち切ることにもなってしまう。
「僕はブラックが十七年前の事件の真相を知りたがっていたこと、そのために過去の小国での事件を追っていたこと、東方諸国連続殺人事件に興味を持っているということを報告する。西方の殺人事件担当としてアルベルトが同じ事件について知識を持っていること、そして僕が君たちの調査の手助けをしていたことも同時にね」
「それはブラックの最終目的を妨害することになります。知識を持っている僕らは一時的に将官たちから注目を浴びるでしょうが、あとのことは彼らに任せることになってしまうでしょう。僕らの関与しないところで事件が進められるのは不本意です」
「いや、将官たちには渡さない。これは知識を持っているものが進めるに値する事件だ。たとえ外国で起こっていることでも、将官たちに手は出させないよ。……君たちの知識を利用して、大総統から特別に他国遠征許可を出してもらう」
アルベルトは、そしてブラックも、目を見開いた。そんなことが、うまくいくはずがない。いくらニアが大総統と懇意にしているからといって、そんなむちゃくちゃなことが許されるはずがない。
だが、ニアは言い切った。そうするつもりでいた。カードゲームでも、一見不利なカードが、あるきっかけで最強の切り札へと変化することがある。チェスでも、ポーンがクイーンのように自在に動けるようになることがある。勝負は、最後までわからないものだ。
「時間はかかるかもしれない。その間にも、犠牲者は増えてしまうかもしれない。でも、今僕らにできることといえば、それだけだ。直接ラインザーと対決したいのなら、それ以外の方法はない。……さあ、どうする? 僕の言葉が信じられなければ、今ここで引き金を引くといい。でも、もしもこの方法に活路を見出してくれるなら、もう少しだけ時間がほしい」
これまでなりふりかまわず進んできた彼らに対する、ニアの最大の協力だ。実現できれば、だが。こちらも体裁や立場などかなぐり捨てて、全力で向かわなければ、彼らのしてきたことに見合わない。
アルベルトは銃を構えたまま、ニアをじっと見ていた。ただ、その瞳から冷酷さはなくなっていた。今見えるのは、困惑だ。ブラックも同様だった。
「……大佐、あなたは僕たちには本来関係のない人間です。僕たちに接触しなければ、あなたはこんな面倒は背負わなかった。今この瞬間に僕らと縁を切り、全てをなかったことにすることもできます。それなのに、どうしてそこまでしようとするんですか?」
そう問われた答えも、決まっている。そんなことは、彼らを仲間にしようと決めたときから覚悟していた。
「君たちは条件付きとはいえ、僕の部下になってくれた。その時点で、僕は君たちの上司だ。君たちに責任を持つ義務がある」
「義務、ですか。……あなたは真面目な人ですね、大佐」
「要約すると自分のためってことだよ。僕のために君たちが必要だから、手放したくないんだ」
「意外に酷い我儘なんだな、お前」
呆れるアルベルトとブラックに、ニアはにっこり笑ってみせた。
「そうだよ、僕は真面目で我儘。……君たちとよく似ていると思わない?」
似ているから、合わなかった。自己嫌悪することの多いニアとアルベルトの間が、すんなりとうまくいくはずはなかった。
だが、それを認めてしまえば、案外すっきりするものだ。似た者同士とは、一番厄介で、一番わかりやすいものなのだろう。
「お前の案、オレが中心になるじゃねーか。オレが監視されるようになったら、お前の責任だからな」
「ブラック、君……」
「オレはコイツに賭けてみる。なんだかんだ、今まで情報を寄越してくれたしな。そのおかげで、随分と楽にラインザーと危険薬物密輸の関係にたどりつけた。それにそこまで言うなら、もしものときは楯にでも生贄にでもなってくれるんだろ」
ニヤリと笑うブラックに、ニアは頷く。少しの躊躇いもなかった。
「なるよ。だって君たちの上司だもの。協力するって約束は守り続ける」
「邪魔をしない、のほうは? たとえば僕がラインザーを殺そうとするのをあなたがそばで見ていたとして、絶対に邪魔をしないと言いきれますか?」
アルベルトが問うと、ニアは困ったような笑みを浮かべた。そして、まだ銃をおろさないアルベルトに歩み寄り。その銃口を自分の体に密着させた。引き金を引きさえすれば、確実に心臓を貫けるように。
「さっきからアルベルトの話を聞いていると、君はブラックにラインザーを殺させたくないようだ。そして君も、できることなら人殺しなんてしたくないんじゃない? ただ、ブラックの手を汚させたくない。そのためなら、しかたなく自分の手を血に染めよう。……その程度の考えで、ラインザーを殺すなんて言ってるんじゃないの?」
「わかったような口を」
「似た者同士だもの、少しはわかるつもりだよ。……ほら、今この状況だって、君は僕を撃たない」
ニアはあくまで、笑顔を崩さなかった。親友がまだそばにいた頃、よく言われたものだ。「ニアの笑顔は、人を安心させるよな」と。その言葉を信じるなら、この場での武器兼防御壁はニア自身だった。
なにより、アルベルトのブラックに対する想いを感じて、笑みが自然とこぼれていた。誰よりも、何よりも、彼は弟の幸せを願っている。ニアにはそうとらえることができた。
「アルベルト、君の理由を聞かせて。君はなぜ、ラインザーを追っているの? なぜ、彼を裁かなければならないの?」
「……それ、は」
アルベルトは銃をおろした。目は、ニアを見たまま。笑顔から、目が離せなかった。
「母様が、あの人のせいで苦しんだから。たくさんの人が、あの人のせいで悲しんでいるから。……ブラックが、あの人のせいで辛い目にあっているから……です」
「ほらね、君はやっぱり優しい人だ。自分のことよりも誰かのために行動できる人だ。僕の目に狂いはなかったね」
アーシャルコーポレーション事件のときも、アルベルトはリアのことを心配していた。誰かに尋ねられれば、消沈した表情を見せていた。あれは演技ではないと、ニアは思っている。その裏で彼は、会社側の捜査に懸命に取り組んでいたのだから。リアが目覚めたとき、彼女の父が死刑にならずに済んだという報告をするために。
それが彼の本質。ニアがやっと見つけ出した、心優しい一人の青年の姿。彼は挙動不審でも冷酷でもない、ただ誰かのために動こうとする人間なのだ。
そしてブラックも、全ては母を、そして自分のように凶悪犯罪に巻き込まれてきた人々のことを思うあまりに、凶行に出ていた。それは問題となり、中央で矯正されるということになったが、それはきっと間違ってはいなかった。けっして正しくはないけれど、彼はひたすらに真っ直ぐだった。
「大佐、あなたは僕らを軍に留め、ラインザーに関わらせるつもりなんですね」
「うん。あまりに凶悪な人物だからいろいろ事情を聞かなくちゃならないし、勝手に殺されるととても困るけれど……なにより君たちが必ずあとで心を痛めることになると思うから、そういうことにはならないようにするけれど、必ずそこにたどり着くようにする」
「……それでは、お願いします。生かしておいたんですから、必ずそこに僕らを導いてくださいね」
アルベルトも、口元だけで笑った。けれどもニアにはその笑顔が、自然にこぼれたもののように思えてならなかった。

翌日、ニアは大総統に、組み立てておいた通りの報告をした。
ブラックのことも、アルベルトのことも、自分のことも。それを告げた上で、彼に頼んだ。
「もし東方軍や他国から要請が来ることがあったら、僕らにまわしていただけませんか。将官よりも事件に関するノウハウは持っています。それにリーガル少佐の実績はあなたもご存知でしょう。彼が関わった事件にはそれ以上の被害者が出ません。直接この件に関わることを、どうか許可してはいただけませんか?」
ニアの言葉を、大総統は目を逸らすことなく受け止めていた。そして、しばしの沈黙のあと、答えを出した。
「……東方軍からの要請はともかく、他国が関わってくると、それは将官の仕事になる。君たち佐官に私が直接頼むことはできんな」
やはりか。ニアが俯きかけたとき、大総統は、しかしニヤリと笑った。
「今後他国からの出動要請が来たら中央にまわすよう、東方に命じておこう。そしてその仕事は、リルリア准将に任せることにする。それをどう扱うかは、彼女に任せることにしよう」
メリテェア・リルリアはニアたちの担当将官だ。彼女は若すぎるという理由で、仕事を年上の部下に任せることが多い。――そう理由をつけて、こちらに仕事をまわしてくれるのだ。
大総統もそれを承知で、メリテェアをニアの上につけた。多くの権限が、ニアの手に渡るように。
「ありがとうございます」
「まだ他国からの要請などは入っていない。リルリア准将の判断もわからない。礼を言われる筋合いは、こちらには全くないぞ」
だが、これで大総統の許可は得たも同然だ。きっとアルベルトとブラックを、ラインザーに会わせてやることができる。決着をつけさせてやれる。

東方諸国連続殺人事件は、国境をまたぎつつしばらく続いた。現地軍は犯人の手がかりさえ得られないまま、対応に四苦八苦していた。
そしてついに決断した。――大国の力を借りることを。
「いきなりリルリア准将に任せると、少将以上の者たちと彼女の間にまた溝ができてしまう。しばらくは将官で動くことになるが、手掛かりを見つけることは難しいだろうな。なにしろ、将官の多くは現場慣れをしていない。机上の空論が彼らの得意技だ」
「一番机上にいる人が何を仰るんですか、閣下。……いずれ僕たちにチャンスはくれるということですね」
「間違いなく君たちに頼ることになるだろう。それまでもどかしいかもしれんが、待っていてくれ」
東方の諸小国より、エルニーニャ軍による応援が要請された。これで道は一本、通った。あとは通行証の順番待ちだ。


『東方諸国連続殺人事件の犯人のデータがほしいな』
常に通信状態になっているスピーカーから、機械を通して低く調整された声が聞こえてくる。食事中だったカスケードとビアンカは、持っていたフォークとナイフを放り出し、マイクのスイッチを入れた。
「東方諸国連続殺人事件って、最近話題になってる?」
『ああ。犯人の、あの逃げおおせられる頭脳と体力に興味がある。あれをクローンに応用したなら、きっと便利な兵士ができるだろう』
カスケードは首をかしげた。このスピーカーの声の主“あの方”は、軍という国民を武力で縛り付けるもののない世界を目指しているのだと、以前聞いたことがあった。
それなのに兵士を求めるとは、矛盾していないだろうか。
「便利な兵士って何に使うんですか?」
『軍壊滅のためにだよ。……歴史書は渡しただろう。あれには、現在大陸に存在する国家がいかにしてできたかが書かれている。まずは戦争だ。戦争での勝利こそが、平和につながるのだ』
それはこちらも武力を持つということではないだろうか。それとも、その「戦争」が終われば自分たちはそれを一切捨て、恒久の平和を作るのだろうか。
『そこでだ、カスケード。今度は東方の国境付近に行き、薬物の取引を見てくるといい。どうやら殺された者の遺体からは薬物反応が出ているようだから、犯人の手掛かりを得られるかもしれない』
「今度は東方に行くんですね。わかりました。……そういうわけだ、ビアンカ。俺はもう行かなくちゃならない」
「しばらくは二人でいられるって言ったじゃない。……わかったわよ、“あの方”が言うのなら仕方ないのよね。世界平和は考えられても、私との平和な時間のことは考えてくれないんだわ!」
テーブルの上の料理をそのままに、ビアンカは寝室に引っ込んでしまった。カスケードは溜息をついて、それらを片付け始める。
「……平和って難しいな。俺には平和な時代なんてあったんだろうか……」
いまだに思い出せない、五年より前の記憶。ときどき、夢には見るのだが。それが現実だったかどうかは定かではない。
カスケードの名を嬉しそうに呼ぶ、あの声の主は誰なのだろうか。安らげるのは、眠っているとき、その声を聴いた瞬間だけだ。




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posted by 外都ユウマ at 20:39| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする

2014年01月24日

Reverse508 第十一話

『お前はその姿では目立ちすぎる。だから、外に出る仕事のときは姿を変えろ』
その言いつけを守って、今日も髪を黒く染め、瞳が黒く見えるようコンタクトレンズを入れる。だが、この姿も既に軍に見止められているだろう。
捕まりそうになったら、その時はその時だ。敵対する者は撃っていいと、“あの方”も言っている。
五年前、全く記憶を失ってしまったその日から、顔も知らない謎の人物だけが、カスケードの拠り所になっていた。
「さて、今日の仕事は……人に会うのか。そしてこの情報を渡す、と」
“あの方”から送られてきた文書。これをある男に、こう言って渡せばいいということだった。
「あなたの娘さんの現状について、ご報告いたします。……ええと、それから……」
記憶を失う前からそうだったのかはわからないが、カスケードはあまり物覚えのいい方ではない。しかし、人の顔と名前を一致させることだけは得意だった。だから、会う予定の相手の写真は一度見るだけでいい。
「レスター・マクラミーね。……なんか、どっかで聞いたことがあるようなないような。どうせ俺の記憶なんて当てにならないけど」
黒髪黒目の男に変装した彼は、鼻歌交じりに出かけて行った。


そろそろ夏も本番だ。だというのに、狭い第三休憩室は人で埋まっていた。人口密度が高いせいで、暑さも増している。それでも彼らがここに集まるのは、ニアの淹れる冷たく美味しい紅茶と、カードゲームを楽しむためである。
「ツキ、ちょっとストレス溜めて来い。電話番でクレーム受けまくるとかしろ」
相変わらず負けが続いているディアは、無茶な要求を始める。ただでさえ暑さに弱い彼は、続く敗戦で非常に苛ついているようだった。
一時期はツキが少々ストレスに悩まされて成績が落ちたために、ディアに勝ち星がつくこともあった。だが、彼が勝てたのはそのとき限りである。
「人にストレス溜めて来いとはなんだ。だいたい、クレームってお前が市街の何かしらを壊したときに来るんだけど。お前の減給と引き換えだけどそれでもいいのか?」
「う……っ、マジで?」
「マジで」
ディアとツキが言い合いをしているのを、それを見る他の者たちが笑ったり呆れたりするのを、ニアは笑みを浮かべて眺める。平和なひとときだ、と思う。あまりに平和で、突きつけられている刃のことを忘れそうになる。
行方不明の親友が、裏社会と関わりを持っているかもしれないという、ぞっとするほど冷たい、可能性という名の刃。先月、ノース親子を危険薬物の製造と流通に関わっているとして捕まえたあの日から、ずっとニアに付きまとっている。
それを誰にも打ち明けられずに、月をまたいでしまった。親友を共に捜してほしいと、協力してほしいと言って仲間を集めたのは自分なのに、いざ手掛かりが見つかるとそれを明かせないだなんて。――誰かに言われるのが怖いのだ。彼が悪人になっているかもしれないと、指摘されることを恐れているのだ。
「ニアさん」
不意に声をかけられ、どきりとする。考えていたことを覚られていないかと、瞬時に警戒してしまう。
「な、何? アーレイド」
「ディアさんが機嫌悪いから別のゲームにしようかって、今話してたじゃないですか」
「ぼうっとするなんて、ニアさんらしくないですよ。午前なんて鬼かってほど仕事まわしてきてたのに」
カイが冗談めかして笑う。そうだ、こんな状態は「ニアらしく」ない。不安を覚られないよう、てきぱきと動かなければ。
「次、何するの? 暑さでぼうっとしてて、聞いてなかったんだけど」
「ダウト。嘘つきゲームだな。カードを順に出していくんだけど、該当するカードを持っていなければ、他のものを代わりに出せるんだ。でも、それを嘘だと他の人に見破られてしまったら駄目なんだ。だから嘘を吐くときは表情に出さないよう、気をつけなくちゃならない。もし嘘がばれたら場に出たカードを自分の手札にする。そうやって、一番最初に手札がなくなった人の勝ち」
ツキが説明すると、みんなが頷いた。参加者にカードが配られて、さあ始めようか、というとき。
「あの、すみません」
休憩室のドアが開かれ、見知らぬ男性が遠慮がちに部屋を覗いていた。服装からして、軍の関係者ではないらしい。視線が集まる中、彼はここにいる彼女の名前を告げた。
「ここに、リア・マクラミーさんはいらっしゃいますか?」
彼と同じ、金髪の彼女の名を。
「……お、お父さん?」
そして彼女も、呟くように確かめた。もう何年も会うことのなかった、ずっと喪ってしまったものと思っていたその人のことを。
「憶えていてくれたんだね、リア。嬉しいよ」
彼は穏やかに微笑んだ。その雰囲気はたしかに、彼女によく似ていた。
「お父さん!」
リアは叫んで彼に駆け寄り、人目を憚らずに抱きついた。父と呼ばれたその人はリアを受け止め、そっと抱きしめ返す。
「リア、会えて良かった。でも、少し落ち着いて話をしよう。みなさんが見ているよ」
「あ、ごめんなさい……」
ぱっと彼から離れたリアの顔は、嬉しさと恥ずかしさで真っ赤になっていた。その場にいる全員が、彼女と父の再会を微笑ましく見守っていた。
――いや、たった一人。ニアだけは、息を呑んでリアの父を見ていた。

九年前、マクラミー家は強盗に襲われた。幼い娘たちの前で両親は撃たれて倒れ、金品は奪われた。そのときの恐怖が忘れられず、リアは今でも銃が少し苦手だ。
強盗が去ったあとの静まり返った家で、リアたちを発見したのがニアとその親友カスケードだった。二人は娘たちを保護し、家の中で奪われずに残っていた物をできるだけかき集め、リアたちの祖母に渡した。
その記憶を思い出させないために、ニアはずっとリアから離れていた。一緒に任務につくまでは。だが、行動を共にするようになっても、彼女はニアのことは憶えていないのか、口にしなかった。忘れているならそれでいい。嫌なことを思い出させずに済む。ニアはそう思っていた。

ニアの記憶では、あの家にあった遺体は一つ。リアの母である、アリア・マクラミーだけだった。父レスター・マクラミーは、家から忽然と消えてしまっていた。当時は何らかの目的があって強盗が連れ去ったものと考えられていた。
しかし、それは違ったようだ。レスターがリアに語ったことによると、彼はそこに現れた人物によってこれまで保護されていたのだという。
その間にリアが軍に在籍していることを知り、つい先日、ある人から近く会いに行くことを勧められたそうだ。
「おかげで晴れて君に再会することができた。……どうだい、リア。これから僕と一緒に暮らさないか? 君が軍を辞めても、今の僕なら君を、そしてエレナやミーナをも養うことができる」
「……え?」
突然の申し出に、リアは驚く。当然だ、今まで死んだものと思っていた父が何の前触れもなく現れ、「軍を辞めて一緒に暮らそう」というのだから。それが実現すれば、リアの生活はガラリと変わってしまうことになる。
当然リアは言葉に詰まり、そして、
「……少し、考えさせて」
そう言い残して、休憩室を出ていってしまった。
「レスターさん」
リアの姿を見届けたグレンが、彼に声をかける。
「レスターさんはリアたちと一緒に暮らしたいといいましたが、それは本当にリアたちのことを考えて出した答えなんですか?」
それはこれまでリアと一緒にいたグレンが、彼女の気持ちを思って口にした問いだった。だが、ニアはそれをわかっていて、止めた。
「待って、グレン。……それはリアちゃんが訊くことであって、僕らは関与すべきじゃないよ」
「でも」
「リアちゃんが心配なのはわかる。僕だってそうだ。でもね、グレン。これは彼女の家の問題だ。彼女とお父さんが考えなくちゃいけない。そうですよね、レスターさん」
レスターは困ったような笑みを浮かべ、頷いた。
「ええ、これは僕たちの問題です。でも、あなたたちだって、僕の知らないリアを知っているでしょう。ですから、あえて話します。僕はここに来るまでに、何カ月も考えました。あれからもう九年、娘たちはみんな成長し、自分の生活を送っていることはわかっていました。ですが、やはり女の子が軍に在籍していることは、父としては見過ごせません。だから、進言された通りここに来たのです。……でも、彼女が引き続きここでの生活を望むのなら別です。僕はまた、彼女たちから離れましょう。それが父としてできる唯一のことだと思っています」
彼の考えていることは、ニアにも、グレンにも、よくわかった。そういうことなら、やはりこれ以上マクラミー家のことに口を挟まないほうがいいだろう。グレンもそう判断したのか、頭を下げて言った。
「わかりました。リアのことはあなたたちの判断に従います。初対面の分際でこんなことを訊いて、申し訳ありませんでした」
「いや、良いんだ。リアはとてもいい仲間に出会えたようだ、僕もとても嬉しい。彼女がどうするかはまだわからないけれど、これからも娘を頼みます」
レスターはそう言って、グレンに握手を求めた。グレンもそれをしっかりと握り返す。ニアはその手を、じっと見ていた。

夕食時の寮の食堂は、多くの寮生でごった返している。アクトやクリスのように自炊を好む者以外は、基本的にここで朝晩の食事をとることになる。
ニアもその一人であり、たとえばアクトや寮生ではないツキなどに呼ばれでもしないかぎりは、ここで食事をとっていた。
「あ、ニアさん。ここ空いてますか?」
今日の食事が乗ったトレイを持ったカイとグレンが、声をかけてきた。ニアは頷いて、二人分の椅子を引く。彼らは「ありがとうございます」と席につき、夕食をとりはじめた。
かと思うと、ふと手を止めて、ニアに尋ねてきた。
「ニアさんは、どう思います? リアさん、軍を辞めると思いますか?」
「カイ、その話はさっき終わっただろう。見守ろうということで……」
どうやら二人は、まだリアのことについて考えていたらしい。ニアも同じだ。リアがこのまま軍を辞めていってしまうのは、仕方がないことかもしれないが、惜しいとも思う。
それに何より、気になるのだ。レスターが助けてもらったという人物のことが。彼はそれがどのような人間であったか、一切明言しなかった。裏社会の問題などが取りざたされている今、簡単に彼を信用できるかと問われれば、難しかった。
「リアちゃんが軍を辞めると決めたら、僕らは止められないだろうね。でも、僕はレスターさんにはもう少し用心したほうがいいと思う。これまでレスターさんを助けてくれたという人が真っ当な人ならいいけれど、そうでなければ、リアちゃんがまた危険にさらされてしまうからね」
「また?」
グレンが首をかしげる。ニアはあわてて「こっちの話」とごまかした。あまり昔のことは、話題にしないほうがいいだろう。
とにかく今は、リアの答えを待つしかない。それしかできることはないのだ。

数日後、ニアは練兵場で大剣を振っていた。今日は事務仕事が少なく、調べ物もある程度の目途がついたので、体を動かしに来たのだった。こうした機会がなければ、体がなまってしまう。将官が前線に出ず司令専門になる理由の一つは、事務的な処理に追われ、訓練に時間をさけなくなることにもあった。
ニアも危なくそうなるところだったので、たまには訓練にも集中しようと思い、こうして運動をしに来た次第だ。ところが、その集中も長くは続かなかった。
「すごいですね。その体で、そんな武器を扱えるとは」
離れた場所から拍手をしながらそう言ったのは、先日も軍を訪れた人物だった。練兵場に外部の人間が入ることは、軍の活動を国民にわかりやすく示すためにも許可されている。だが、個人で見に来るということはなかなかあることではなかった。
「こんにちは、レスターさん。今日もリアちゃんに会いに?」
大剣を壁に立てかけ、ニアは来訪者に近づいた。とっさに身なりや持ち物などを確認したが、怪しいところは見受けられない。
「いいえ、今日は娘には会わずに帰ろうと思います。あまり押しかけては、彼女もゆっくり考えられないでしょう。……僕はリアの上司である、あなたにお話があって来たんです」
「僕に? ……先に申しあげておきますが、リアちゃんを説得することはできませんよ」
「そういうことではないので、ご安心ください。それは家族の問題ですから」
レスターは笑顔を浮かべていたが、どこか寂しそうだった。やはり、リアと生活をしたいという望みは本当なのだろうか。ニア自身が、彼を疑いすぎているのだろうか。
「では、僕に話というのは?」
「上司の方であれば、リアから何か相談などを受けていないかと思いまして。……僕が失踪し、妻が死んだ、九年前の事件のことなど」
「……失踪していたのに、奥さまが亡くなったことはご存知なんですね」
「新聞くらいは読むことができましたし、娘たちの処遇が気になって調べましたから」
彼はリアに会いに来ることを、何カ月も悩んだと言っていた。ということは、リアが軍に在籍していることを知ったのはごく最近ということになる。それ以前から調べていたとして、ここまで辿り着くのに、九年もかかるものだろうか。彼女らの祖母に会いに行けば、すぐにわかったのではないだろうか。――そうすれば、リアが軍に入る必要もなかったかもしれない。
「ある方に助けていただいた、と仰ってましたね。助かった後、なぜ九年も娘さんたちに会わなかったんですか? 自分は生きていると、すぐに教えてあげればよかったのに」
「助けてくれた方に言われたんです。すぐに娘たちと接触すれば、僕が生きていることが襲撃者たちに知られる。するとまた襲われる可能性がある。だからしばらくは身を隠していたほうがいい、と」
「軍は、あの事件は当時頻繁に起こっていた富裕層を狙った強盗だと判断しています。報道機関もそう伝えました。すでに金品を根こそぎ奪い去ったあとの家庭を、もう一度狙うということがあるでしょうか」
「犯人たちは、私に正体を知られたと思ったかもしれません。妻を殺し、僕も撃ったということは、証言されることを避けたかったのでしょう。僕が生きていることは、彼らにとって不都合だ。改めて命を狙われる可能性は十分にある」
筋は通っているようだった。レスターの語りに、矛盾は見当たらない。リアの祖母に接触しなかった理由も、自分の足取りが知れることと家族へ危険が及ぶことを避けるためと考えれば、つじつまは合う。九年も時間をあけたなら、もう安全と考えていいだろう。
わからないのは、彼を助けたという人物についてだけだ。
「リアは、あなたに九年前のことを相談したことはありますか?」
レスターがその問いを再度投げかける。ニアは首を横に振った。
「ありません。彼女自身、あまり思い出したくないことなのでしょう。目の前で両親が撃たれ、家を荒らされたんですから。彼女、発見されるまで放心していましたよ。僕が声をかけて、やっと感情を取り戻したんです」
「あなたが?」
勢いで、つい余計なことを言ってしまった。ニアは口を押さえたが、出てしまった言葉を戻すことはできない。息を吐き、仕方なく明かした。
「あの日、娘さんたちを発見したのは僕らです。そのとき、あなたの姿はすでになかった。荒らされた家の中に、奥さまのご遺体と、彼女たち姉妹だけがいました。……あなたを助けたという人物は、なぜ娘さんたちを置いて行ったのでしょうね? なぜあなただけが、そこから救い出されたんでしょう? 僕にはそれが不思議でなりません」
「……それは」
レスターは言葉を詰まらせたようだった。彼もまたその理由に心当たりがないのか、それとも他に理由があって、それを隠そうとしているのか。それは彼からは読み取れなかった。少なくとも動揺している様子は、まったく見られない。
「あなたを助けたという人物は、いったい誰なんです?」
さらに追及してみる。だが、レスターは黙ったまま、答えなかった。答えるつもりがないのか、隠すように言われているのかすらもわからない。眉ひとつ動かさない彼の表情が、ニアには不気味に思えた。
「……リアちゃんがどんな判断を下すのか、僕にはわかりません。いずれにしろ、口を出せることではないと思っています。でも、僕個人としては心配しています。彼女を再び九年前のような危険にさらすことはできませんから」
「それは安心してください。……僕は彼女を楽にしてあげたいだけですから」
レスターはそう言って、ニアに背を向けた。リアに会うつもりはないというから、もう帰るのだろう。……助けてくれた人物とやらのところに。
こちらはその背を、ただ見つめることしかできない。今はそれしかできないのだ。

さらに数日、レスターは司令部に通い詰めたようだった。ただしリアには会わず、ただ施設内を見学するだけ。軍としては重要機密を知られない限りは見学者も受け入れているので、問題はない。そういったものは厳重に取り扱われているので、外部の人間の目に触れることはまずない。
ニアとも時折すれ違い、挨拶程度に言葉を交わした。だが、彼に関する疑問だけは解けずにいた。何度か探ろうとしたが、答える気は全くないようで、いつも話を切り上げられてしまう。そんな日々が続いていた。
そんな中、いつもの書類処理の折、偶然リアとラディアの会話を耳にした。
「そういえば、リアさんいっつもその万年筆使ってますよね」
「これね。私の誕生日に、お父さんがくれたものなの」
リアがいつも使用している万年筆は、ニアも見慣れている。黒く細い、美しいフォルムのものだ。彼女はこれを毎日軍服の胸ポケットに入れ、必要なときにはすぐに取り出し、とても綺麗な字でメモをとるのだった。
「でも、そのあとすぐに強盗に襲われて……だからお父さんの形見だと思って、いつも大切に使っていたの。でもお父さんは生きていたから、もう形見だなんて言わなくていいわね」
そう語るリアは幸せそうだ。万年筆を大切そうに持ち直し、微笑みを浮かべる彼女を見ていると、ニアも自然と笑顔がこぼれる。
現場に残されていたプレゼントらしき箱をリアの祖母に届けたのも、ニアと親友だった。おそらくあの中身が、彼女の万年筆だったのだろう。遺留品を可能な限り届けたあのときの判断は、きっと正しかった。ニアは今、心からそう思えた。
「ねえ……リアさん。やっぱり、軍、辞めちゃうんですか?」
そこへ、ラディアの不安げな声が聞こえてくる。ニアは自分の作業を進めるふりをして、リアの答えに耳を傾けた。彼女はしばらくの間黙っていたが、いつもの明るい笑顔を取り戻すと、はっきりと言った。
「大丈夫よ、ラディアちゃん。私、軍は辞めないわ。ラディアちゃんを置いて、辞められるわけないじゃない」
「本当ですか? 本当に、軍、辞めないんですか?」
「うん。私、辞めないよ。これからもよろしくね、ラディアちゃん」
その答えに、ラディアは大喜びしていた。歌を口ずさみながら、仕事にかかるほどに。当然、傍で聴いていたニアも嬉しかった。いや、安心した。リアがその答えを出してくれたのなら、何があってもそばで彼女を守れる。もう、九年前のような悲劇は起こさせない。
「……ニアさん、そういうことですので」
不意にリアがこちらへ笑顔を向ける。ニアも同じように返した。
「聴いてたの、ばれてた?」
「あ、やっぱり盗み聞きしてましたね。……なんて、事務室でこんなお話してたら、絶対に聞こえちゃいますけど。なので、これからもよろしくお願いしますね」
「うん。よろしく、リアちゃん」
そうして互いに、朗らかな気持ちで作業を再開した。
リアの出した結論は瞬く間に仲間たちに広まり、その晩は記念の食事会が開かれた。ディアとアクトの部屋を使っての、大人数での鍋パーティだ。賑やかを通り越してうるさいくらいだったが、みんな嬉しそうだった。仲間が減らずにすむのだから。
だが、当のリアはふと寂しげな表情を浮かべることが多かった。それにいち早く気づいたクレインが、彼女に声をかける。
「リアさん、軍を辞めないこと、後悔してませんか? なんだかとても寂しそうな顔してるから、そう思ったんですけど……」
だが、リアは笑顔でそれに答えた。
「そんなことないよ。たしかにお父さんと一緒に暮らせないのは少し寂しいけれど、私は私が一番良いと思った答えを出したんだから。後悔なんてしてないわ」
リアがそう言う以上は、クレインも追究はしない。それが彼女の答えなのだと改めて確信できたので、聞いていたニアもホッとした。

レスターが第三休憩室を訪れたのは、その数日後だった。ついに彼が、リアの結論を聞きにやってきたのだ。
「この前の提案の返事は決まったかい?」
周囲は息を呑み、二人に注目する。リアは少し俯きながら、「うん」と返事をした。
「私、やっぱり軍は辞めない。だからお父さんとも一緒に暮らせないわ。……ごめんなさい」
リアの答えは、数日前と変わっていなかった。彼女の意思は固かった。それを聞いたレスターは、ふう、と溜息を吐いてから、笑みを浮かべた。
「やっぱりね」
リアがその言葉に顔をあげると、レスターは続けた。
「本当はわかっていたんだ。最初にここに来て、君に会い、君の仲間たちを見たときから。いい仲間に恵まれたね。彼らをおいて君が軍を辞められるわけはなかったんだ。リアは優しい子だからね」
「お父さん……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
レスターに抱きつき、リアは何度も同じ言葉を繰り返した。家族より仲間をとったことに対する申し訳なさは、まだ彼女に残っていたのだった。レスターはそんな彼女の頭を優しく撫でていた。
それから、リアと仲間たち、そしてレスターの歓談が始まった。リアの子供時代について、カイやラディアが率先してレスターに質問する。時折リア本人も憶えていないらしいことが話題に上ると、彼女は顔を真っ赤にし、しかし楽しそうに笑っていた。語られた全ては、あの事件以前の、幸せな家族の思い出だった。そうしてあっという間に時間が過ぎ、彼らにも別れが訪れる。
「……さて、僕はもう帰るよ。君たちももう少しで休憩時間が終わってしまうのだろう?」
時計の針は、業務が始まる時間を告げようとしていた。全員それぞれの仕事に戻らなければならない。
「じゃあ、私もお仕事に行くね、お父さん」
リアがそう言って部屋を出ようとしたときだった。レスターが彼女を引き止め、近づき、小声で何かを話し始めた。
ニアはその内容が気になったが、家族のプライベートに関することかもしれないと思い、気にしないことにした。リアは軍に留まることが決定したのだから、これ以上の詮索は無用だ。自分も仕事があるので、先に事務室へ戻ることにした。

翌日の休憩時間、ニアはこのあとの仕事を頼むために、グレンを捜していた。彼が行くとすれば射撃場か、あるいは中庭の樹上か。第三休憩室という可能性もある。いずれにしろ、少々急ぎのものなので、早めに説明してしまいたい。
「アーレイド、ハル。グレンを見なかった?」
「グレンさんですか? 見てませんよ」
「さっきまでオレたち中庭にいましたけど、そこにはいませんでした」
これで中庭の可能性はなくなった。彼がよく木に登っているということは周知の事実なので、中庭にいたという彼らが声をかけないはずはない。
「ディア、グレン知らない?」
「あ? 知らねぇな。射撃場にはいなかったぜ」
硝煙のにおいがわずかに残っていることから、今までディアが射撃場にいたことは明らかだ。それなのにグレンを見ていないということは、彼は別のどこかにいるということになる。
ディアとともに第三休憩室も覗いてみたが、ツキとクライス、カイがカードゲームをし、リアとラディアがお茶を楽しんでいるだけだった。捜す姿はなかったので、ゲームに加わろうとするディアを置いてすぐに出てきた。
「まったく、どこに行ったんだか……だから居場所はできるだけ報告してほしいのに」
文句を言いながら事務室へ戻る。仕事の説明は休憩時間が終わってからするしかないようだ。多少忙しくなるのは仕方がない。茶でも飲みながらみんなを待とうか、と思い、自分の席についたときだった。
「ニアさん! ああ、良かった、ここにいた!」
クレインが事務室に飛び込んできた。何やら尋常ではない雰囲気だ。
「どうしたの? 何かあった?」
「リアさんが危ないかもしれないんです! すぐに来てください!」
リアが危ない――その言葉で真っ先に浮かんだのは、レスターの顔だった。ニアと話をしていたときの、あの不気味なほどの無表情。
嘘を吐くときは、表情に出さないように。ダウトゲームの説明が、一瞬頭をよぎった。
「リアちゃんはどこに?!」
「練兵場です! レスターさんと一緒に!」
ニアはとっさに傍らの大剣を掴むと、クレインとともに走り出した。
走りながら、クレインは彼女が知りうる情報の全てを教えてくれた。リアが何かの機械の心臓部と思われるものを持っていたこと、グレンがそれを見て核兵器の一部だと考えたこと、レスターを怪しんで身元を調べたところ、彼がアーシャルコーポレーションという会社に所属していたことが判明したこと。
「アーシャルコーポレーションって、以前から軍で要注意企業に指定されていた会社だね。情報ネットワークを扱う一方で、違法な研究をしているっていう噂があったっけ」
「はい、その会社です。レスターさんは、リアさんが持っていた機械を『僕のもの』と言っていたそうです。もしかしたら、アーシャルコーポレーションで研究していたものって……」
だとしたら、レスターはとんでもないものに関わっている可能性がある。それも、中心人物の一人として。その人物が、なぜか核兵器の一部らしいものを持っているリアに近づいている。ただで済むはずがない。
「グレンさんたちが先に行っていますから、大丈夫だと思いたいんですけど……」
クレインが祈るように呟く。ニアもそれを願っていた。何かが起こってしまう前に、食い止めることができていれば。
だが、練兵場にたどり着いたニアを待っていたのは、レスターと対峙するグレンの姿だった。その背はすでに血まみれで、手痛い一撃を受けてしまったことは明らかだった。
「グレン!」
叫んでも、彼はこちらを見なかった。代わりにレスターがニアを見て、歪んだ笑みを浮かべた。
「大佐殿もおでましか。ちょうどいい、これからリアに、そして君たちに真実を教えてあげよう!」
高らかに宣言するレスターを、ニアは睨むことしかできない。本当はすぐにでも斬りかかりたいのだが、グレンがレスターのそばにいる以上、こちらは身動きが取れなかった。動けば、真っ先に狙われるのは、すでにダメージを受けているグレンだ。
それを十分に理解したうえで、レスターは語り始めたのだ。
「リア、これからいいことを教えてあげよう。アリアのことだ」
「お母さんの?!」
リアが叫ぶように訊き返す。その表情には焦りと驚き、そして辛さが複雑に入り混じっていた。
「君が僕に渡してくれたこの筒。これは核兵器の心臓部でね、アリアが作ったものだ」
レスターが、小さなガラスの筒を掲げる。ニアからはよく見えないが、その中身は銅板や配線などが複雑に繋ぎ合わされているようだった。
「僕は、あのアーシャルコーポレーションの社長なんだ。そしてアリアは優秀な研究員だった。不可能も可能に変えてくれる、素晴らしい頭脳と技術を持った人材だったよ。核兵器を完成させてしまうほどにね。けれども、彼女にはそれを誇らしく思う心が足りなかった。あろうことか、この心臓部を持って会社から逃げ出したんだ」
どんなに強力な兵器でも、起動源がなければただのモノだ。当然のことながら、レスターはそれを取り返すための計画を立て、実行した。社長でありながら、会社の中で唯一アリアに顔を知られていなかったレスターは、彼女の行方を突き止めると、正体が知られないよう近づき、懐柔した。
「そして僕たちは結婚し、子供が三人もできてしまった。邪魔な存在だったが、最終目的のためには仕方がないと思って目をつぶったよ」
リアの肩が震える。カイがそれを支えていたが、彼も動揺しているようだった。ニアは大剣の柄を握りしめていた。だが、それだけだった。レスターが語りに浸っている今ならば、隙をつけるかもしれない。それなのに動けなかったのは、彼のことを許せそうになかったからだ。娘を「邪魔な存在」と言った彼を、この刃で斬り捨ててしまいそうだったからだ。それでは、またリアを苦しめるだけだ。仮にも親であった人間を斬り殺されたという事実を見せつけてしまうことは、絶対に避けなければならない。
誰も動かないのを良いことに、レスターは悦楽さえ見せて語り続ける。
「そして九年前のあの日、僕は計画を実行に移した。強盗役を雇い、彼女を脅して心臓部のありかを聞き出すことにしたんだ。だが、奴らは使えない人材だった。重要なことを聞き出す前に、彼女を殺してしまったんだからね」
「……つまり、あなたは亡くなったアリアさんとリアちゃんたちを置いて、そこから立ち去ったということですか? でも、どうやって? あの場には大量のあなたの血液があった。あれだけの出血量では、たとえ共犯がいたとしても移動することは難しかったはずだ」
レスターの話を聞いているうちに、ニアは思い出した。彼の話には、やはり嘘がある。これまでレスターが遺体がないにもかかわらず死んだとされていたのは、現場に彼の血液が大量にしみついていたからだ。あれだけの出血量ならば、たとえ「助けてくれた人」がいたとしても、そこから生きて去ることは不可能なはずだった。それに、リア自身も一度は倒れているレスターの姿を見ている。幼い彼女は、そう証言していた。
だが、その疑問をレスターは一笑した。
「ああ、そういえば君は九年前にあの場に来たんだったね。そうそう、君には改めて感謝を述べなければと思っていたんだ。君が義母に現場の状況をうまいこと説明してくれたおかげで、この九年はとても動きやすかった。お礼に教えてあげよう。……あのときたしかに、僕は出血多量で死んだ。ただし、今ここにいる僕ではない。死んで血液を残したのは、マクラミー家に入り込ませた、僕のクローンだ」
「そんな……クローンなんて、技術的に無理がある!」
即座にカイが反論したが、レスターはそれも嘲笑った。
「うちの研究員をなめてもらっては困る。もうずっと昔から、クローンの生成は可能になっているんだよ。記憶の継承すらも容易い。死体は僕自身が回収したから、あの場には残らなかったというわけさ。なにしろアリアが死んだために、僕がリアたちに改めて接触する必要が出てきてしまったからね。実は生きていた、という展開にするためには、死体を消さなければならない」
「待って……待ってよ、お父さん!」
突然、リアがレスターの語りを遮った。これまでの話の中で、彼女にもまた疑問が生じたのだ。レスターのクローンがマクラミー家に入り込んだとしたら、それはいったいいつのことだったのか。
「あれは……万年筆は、お父さんが買ってくれたものでしょう? お父さんがあの日、私の誕生日に、プレゼントしてくれたものよ。私が欲しがっていたのを、憶えていてくれて……それで、用意してくれたのよね?」
震える声で、リアはレスターに訴えた。これが最後の希望。リアがずっと信じてきた、父の愛のはずだった。だが。
「僕はそんなものを買った憶えはない。言っただろう、あのクローンには記憶を継承させることもできたんだ。あれが君のことを憶えていて、勝手に用意したものなんじゃないか?」
望みはもろくも打ち砕かれた。これまでリアが大切にしてきた父の愛は、彼自身によって否定された。
「いやああぁ――っ!!」
悲鳴をあげて座り込むリアを、カイがとっさに抱き寄せる。震える彼女を守るようにしながら、カイはレスターを睨み付けた。普段の彼からは想像できないような、恐ろしい形相で。それはグレンも同様だった。
だが、彼らの視線を受けてもなお、レスターは嫌らしい笑みを浮かべていた。
「おやおや、そんなに怖い顔をして。せっかくの美少年が台無しだ」
「……黙れ」
低く唸るように呟くグレンを、レスターはさらに嘲笑する。
「おや、美少年という表現は嫌いだったかな? では、美男子ではどうだい?」
「黙れと言っているだろう!」
激昂して叫ぶと同時に、グレンはホルスターから銃を取り出した。その口は真っ直ぐにレスターへ向けられる。
ニアの脳裏に、キース・オルヘスターの遺体が転がっている光景が浮かぶ。この状況は、非常にまずい。
もちろんそんなことは知らないレスターは、笑うのをやめて言った。
「やれやれ、君はもっと頭のいい子だと思っていたが、意外に短気だな。それで軍人が務まるのかな? ……いずれにしろ、その深手では僕にかすり傷を負わせることすらできないと思うがね」
その言葉を聞くや否や、ニアは走り出した。これ以上の挑発は危険だ。冷静さを失ったグレンは、本気で相手を殺しにかかる。それだけは何としてでも止めなくてはならない。しかし、どうしてだろう。こんなときに限って、大剣が重い。いつもは強い味方なのに、今は動きの邪魔をする。
「! グレンさん、やめて!」
リアの声が聞こえた。地を蹴る音がした。
だが、グレンは怒りを込めた言葉とともに、引き金を引いた。
「死ね、レスター!」
間に合わなかった。ニアの足も、――グレンの判断も。銃弾は放たれ、その身を打ち抜く。レスターの前に立ち塞がった、彼女の身体を。
「リ……ア……?」
鮮血が飛び散る。グレンの手から銃が離れて、地に落ちた。響いたのは、地面と金属のぶつかる、空しい音ばかり。
我に返ったのか、レスターが真っ先にリアに駆け寄り、彼女をゆっくりと抱き起こした。
「リア! リア……なんで……どうして僕なんかをかばったんだ!」
離れた場所から「軍病院に連絡しろ! 早く来ねぇとぶっとばすって言え!」というディアの叫びと、それに続くツキたちの足音が聞こえた。それはだんだん遠ざかり、そこには細い声だけが残った。
「……好き、だから」
すぐに意識を手放してもおかしくないほどなのに、リアは微笑んでそう言った。
「たとえ……お父さんが、私たちや、お母さんのこと……嫌いでも。……それでも、私……お父さんが、……大好き、だから」
死んだと思っていた父が目の前に現れたとき。彼にもらったという万年筆を手に取るとき。彼が昔の思い出を話すとき。リアがどんなに幸せそうにしていたか、誰の目にも明らかだった。
それだけ先ほど受けた絶望も大きかっただろうに、彼女はまだ、父を愛していた。
「だから……ね、お父さんには、死なないでほしい。……お父さん、生きて。もう……どこにも……いかな、い、で……」
「……リア? リア、リア! 目を開けろ! 開けてくれ!!」
ふっと瞳を閉じたリアに、レスターは必死で呼びかける。ニアにはその姿が演技だなどと、とても思えなかった。むしろ、遠い記憶の中の自分の父を重ねたほどだ。炎の中で、我が子だけは助けようとする父を。
「おい、何やってんだ! カイ、ラディア、応急処置でもなんでもしろ! ニアもグレンも、突っ立ってんじゃねぇ!」
ディアの声が帰ってきた。ニアははっとして、そちらを見る。カイとラディアも我に返ったようで、リアに駆け寄ってきた。
「軍病院の救急隊が来るまで、あと何分もねぇ。そうしたらリアは助かる。……こういうことを、お前が言うべきだろうが、ニア!」
ディアに肩を掴まれ、一喝される。本当に、自分は何をしていたのだろう。グレンを止めることもリアを助けることもできず、ただ放心しているだけだなんて。
「……ごめん、ディア。僕は……」
もう悲劇は起こさないと決めたのに。結局、彼女を守れなかった。

救急隊はすぐに到着し、リアを担架に載せて運んで行った。そのあとを、グレンが追おうとするのを、ニアは腕を掴んで止めた。
「どこに行くの?」
「決まってるじゃないですか! リアのところです!」
「君も怪我してるのに? 刺し傷だから、ラディアちゃんが対応できる。行きたいならそれからだよ」
「俺は大丈夫です! それよりリアが」
「大丈夫なわけないだろ、君は馬鹿か!」
めったに怒鳴らないニアが、声を荒げた。そこにいた者はみな、驚いて彼ら二人を見た。だがそれにかまわず、ニアはトーンを落として言った。
「……ラディアちゃん、今、ここでいいよ。グレンの傷を治してやって。手を離したら逃げそうだから」
「え? でも、ちゃんと医務室に……」
「大丈夫だって言い張ってる馬鹿が、それを聞くとは思えない」
低い声で続けるニアと、グレンの傷を、ラディアは交互に見た。それから小さく「すみません」と呟くと、大きく手を振りかぶった。
ぱん、という音が二回、練兵場に響き渡った。
「バカじゃないですか?!」
叫ぶラディアを、それぞれ頬を叩かれたニアとグレンが、呆気にとられた表情で見る。あまりにも突然のことで、返す言葉もない。いや、そんな間は彼女が与えなかった。
「グレンさんの傷は酷いし、ニアさんは焦って変になってるし! こんな場所で、ちゃんと傷が治ると思いますか? 私がそんなに早く治せると思いますか? 今一番頑張ってるのはリアさんなんですよ。それなのに、こんなところで二人はいったい何をしてるんですか!」
ぼろぼろと大粒の涙を流しながら、ラディアは力いっぱい叫んでいた。震える声で、彼女は必死に訴えていた。
「早く医務室、行きましょうよ……。こんなところでつまらない言い争いしてたら、きっとリアさんが悲しみます。私、そんなの絶対に嫌ですよ……」
両手で涙を拭うラディアを見て、ニアとグレンは完全に言葉をなくした。リアを悲しませたくない、その気持ちはみんな同じだ。そのことを、忘れるところだった。
「……行きますよ、医務室」
「……ああ、頼む」
ラディアのあとに続いて、グレンは歩き出した。だが傷のせいでふらついていたので、ニアがそれを支えた。
ラディアが泣いたのも、怒ったのも、ニアは初めて見た。それはグレンも同じだったようで、二人ともただ黙って彼女に従った。そうすることしか、できなかった。

ラディアがせいいっぱいの力を使ってくれたおかげで、グレンの背中の傷は驚くべき速さで回復した。グレンが動けるようになってすぐに、医務室にいた三人は病院へ移動した。
そこには先に来ていたメンバーと、祈るように手を組んで長椅子に座るレスターがいた。その向こうには「手術中」の表示がともるランプが見える。
「リアちゃん、どうなってるの?」
「まだわかんねぇ。……お前らは、少しは落ち着いたかよ?」
「うん、ラディアちゃんのおかげで目が覚めた」
ここにいる全員が祈っている。リアが無事であることを。またあの眩しい笑顔を見せてくれることを。――レスターでさえも、そのようだった。
「……こんなときに言うのもなんだけど、仕事のほうはクリスが指揮とってやってくれてる。さっき連絡しておいた」
「そうか。ありがとう、ツキ」
どうせこの状態で戻っても、ニアはまともに動けないだろう。ツキの配慮は適切だった。おかげで時間を気にせずに、リアの手術が終わるのを待つことができた。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。手術中のランプが消え、医師が姿を現した。ニアは医師に駆け寄り、詰め寄るように尋ねた。
「先生、どうですか?」
「手術は問題なく終了しました。あとは彼女が目覚めてくれるのを待つしかありません。……しかし、あの子はいったいどのような状況で撃たれたのですか? 銃弾が本当にぎりぎりのところで心臓を外れていました。あんな撃ち方、故意だとしたら神業ですよ」
ニアには、それがグレンのとっさの判断だったとしか思えなかった。引き金を引く指は止められなかったが、彼はリアの姿を見止めた瞬間、弾道を変えようとしたのだろう。だからこそ、こんな奇跡が起こったのだ。
しかし、リアは眠り続けた。銃弾が外れたとはいえ、心臓はショックを受けた状態で、脈拍も弱いままなのだと医師は言った。奇跡は、もう一度必要だった。

「ああ、それでニアさんはあんな状態なわけだ」
翌日、かろうじて仕事はしているが生気の感じられないニアを見て、アクトが言った。ディアやツキから事の次第は聞いている。もちろん、リアのことも心配だ。だが、同じくらいニアやグレンのことも気がかりだった。
「目薬と眼鏡のフル装備って、かなりきてるね」
「あの状態で仕事に取り組まれては、迷惑なんですけれど。本人がどうしてもというので、放置しています」
クリスは昨日に引き続き、てきぱきと仕事をこなしていた。リアがいない以上、その穴は埋めなくてはならない。一緒に落ち込んでいる場合ではないのだ。
「あれ? グレンさんは?」
ハルがきょろきょろとあたりを見回す。ちょうど書類を持ってきたクレインが、それに答えた。
「たぶん、病院ね。リアさんの様子を見に行っているんでしょう。……変化があったら連絡するって、お医者様も言っているのに」
グレンはそれすらも待てないようだった。時間を見計らっては病院へ行き、リアの様子を確かめている。休憩時間や事務仕事の合間は、そうして過ごしているようだ。
「こんなとき、カスケードならどうする、か」
ディアがぽつりと言った。「いきなり何?」とアクトが言おうとする前に、彼はニアの前に立ち、机を思い切り叩いた。事務室中に音が、いや、振動が響いた。
「おい、お前の口癖だろうが、ニア。こういう場合、お前の親友はどうするんだ? 俺たちは会ったこともねぇから、想像つかねぇんだよ。……考えろよ。考えて行動してみろよ! 昨日ラディアのおかげで目が覚めたって言ってたのは何のことだ? まだ寝ぼけてんじゃねぇのか、お前は!?」
ニアはディアを見上げる。机を叩かれたせいで文字が曲がったのも気にせずに、ただ叫ぶ彼を見た。それから、ゆらりと席をたった。
「……カスケードなら、ね。たぶん、昨日をあんなことにはしなかったんじゃないかな。グレンはあんなことせずに済んで、リアちゃんも怪我なんかしなくて、今頃はレスターさんの事情聴取でもしてたんじゃない? 誰一人傷つかずに、全部きれいにまとめられてたよ! きっと、彼ならそうした! そうできた! 僕が僕じゃなくて、カスケードなら良かったよ! カスケードがここにいて、僕がいなければよかった!」
「甘ったれんのもいい加減にしろ、馬鹿が! 俺が言ってんのはそんな過去のことじゃねぇ、今のことだ! お前、俺たちの上司だろ? グレンの、リアの、上司だろうが! 自分だけが何もできなかったような口きいてんじゃねぇ、無力を感じてるのは全員同じだ!」
壮絶な言い合いに、誰もが二人を止めるのを忘れた。いつもはディアのストッパーであるはずのアクトも、冷静に状況を判断できるはずのクリスも、このときばかりは動けなかった。
ひとしきり怒鳴りあったあと、二人はぜえぜえと肩で息をしていた。いつのまにか騒ぎを聞きつけた他の班の者や将官たちも集まって、こちらに注目していた。
「……どうだ、叫んだら気は済んだかよ」
先に言葉を発したのはディアだった。この手のことには慣れているのか、回復は早かったようだ。
「……ちょっとね」
ニアはやっと一言発し、それから気が抜けたようにいすに座り込んでしまった。眼鏡を外して頭を抱え、長く息を吐いて、
「……ごめん。過去は変えられないし、僕はカスケードじゃない。それはわかった。だから今やるべきことは、僕が僕でいることだ。……ジューンリー大佐として、自分のなすべきことをするよ」
もう一度、今度はしっかりと、立ち上がった。
「自分でちゃんとわかってた。レスターさんから話を聞かなくちゃ。……もっとも、あの人もまともに話ができるかどうかわからないけどね」

レスターから話を聞くのには、数日を要した。彼もまた、リアの状態を気にしていて、ろくな証言ができなかったのだ。
だが、その様子からたしかにわかったことがある。レスター・マクラミーは、とんでもない大嘘吐きだということだ。
真実を全て語ってもらうまで、ニアは諦めるつもりはなかった。それはリアのためでもあり、レスター本人のためでもあった。さらにいうなら、ニア自身のためでもある。
断片的な証言を繋ぎ合わせ、嘘と真実を見極めていくと同時に、アーシャルコーポレーションにも捜査が入ることになった。数々の疑惑があった会社の全容が、ついに明らかになろうとしていた。
その間に、グレンもカイになだめられたらしく、リアのもとへ通う頻度が落ち着いた。だが彼女が目覚めるまでは、さらに時間を要することとなった。

そうして数週間が経過した頃、レスターの刑が正式に決定した。アーシャルコーポレーションで行われていた研究の数々が暴かれた結果、それらが軍事的に利用価値の高いものであることが判明し、その権限を軍が持つということになった。だが、レスターを死刑にしてしまうとその利用方法がわからなくなってしまうということから、彼は無期懲役刑となったのだった。
「終身刑にはならなかったんだな」
外部情報取扱係の部屋で、ツキが資料を見ながら言った。それを見せるために訪れていたニアは、眼鏡のレンズを拭きながら頷いた。
「なんとかそこまで下げさせた。メリテェアさんの協力も大きいよ。……でも、何より効いたのは大総統権力だね」
ニアは大総統に、今回の件を直談判していた。国家の最高権力者は、たった少しの言葉で司法を動かしてしまった。それって問題あるんじゃないか、とツキは思ったが、こちらの有利に物事が動いているので言わなかった。
「で、思いっきり動いた大佐は、少しは気が晴れたのか?」
「晴れてはいないけど、やっぱり僕は働いているのが一番みたいだ。気持ちがマイナスにならなくて済む」
「目はだいぶやられたみたいだけどな」
ここ最近、ニアは眼鏡と薬が手放せなくなっていた。一日二十四時間をできる限り使って、レスターの話を聞き、アーシャルコーポレーションの捜査をし、大総統に何度も直訴しにいった。加えていつもの業務に遠征視察、秘密の調べものに親友の捜索。睡眠時間などあってないようなもので、食事も片手で済むような軽食しかとっていない。疲れが溜まるに決まっている。
「もしカスケードだったらどうしてた?」
「ツキまでそういう意地悪を言う。……そうだな、彼も大総統閣下は利用したんじゃない? 閣下の親友の息子だからね、目をかけられてたんだ。だからこそ、こうして必死になって捜してるんだけど」
そう言って、ニアはわざと苦く淹れたコーヒーを飲んだ。泥のような味のそれを二口ほど喉に流し込んだところで、ドアが外から勢いよく開かれた。
「ツキ、ニア大佐、病院行くぞ!」
クライスが大声とともに部屋に飛び込んできた。ニアとツキは顔を見合わせ、立ち上がる。病院ということは、もしやリアに何かあったのだろうか。
「どうした? リアさんか?」
「容体が急変したとか?!」
「急変といえば急変だけど……いいニュースだぜ! 目を覚まして、みんなに会いたがってるってよ!」
その言葉を聞いた途端、ニアは視界が晴れたように感じた。実に数週間ぶりに、眼鏡なしでものをはっきりと見た気がした。
急いで部屋を出て、他のメンバーと合流して軍病院に向かい、リアの病室へなだれ込むようにして入る。するとそこには、目をまんまるにした彼女が、ベッドの上に体を起こしてこちらを見ている姿があった。
「……みんな、急いで来てくれたの?」
そう言って、リアは嬉しそうに笑った。つられるようにして、こちらも笑った。
「リアさーん! 良かった! ホントに目が覚めて良かったです!」
ラディアがリアに飛びつく。その頭を優しく撫でながら、リアは全員を見た。
「ごめんね、お仕事中に呼び出しちゃって。長いこと、ご心配おかけしました」
「そんなの良いんです。意識が戻って、本当に良かった……!」
クレインの言葉が総意だった。頷きあって、それから他の病室に迷惑にならないよう気をつけながら、この数週間のことを話した。どれも他愛のない話で、事件の核心に迫るようなことは、誰も言わなかった。
しばらくしてリアは、おもむろに切り出した。
「あの……グレンさんとニアさんに、お話があるんです。申し訳ないんですけど、他の人は席をはずしてもらえますか?」
「わかった。仕事を再開するにはちょうどいい頃合いだし、二人を置いて戻ることにするよ」
「そういうことですね。はい、みなさん帰りますよ」
アクトとクリスが、まるで保護者のようにみんなを連れ帰る。それを見送って、グレンとニア、そしてリアは息を吐いた。
「……まずは、グレンさんに」
リアはそう言って、頭を下げた。
「私の勝手な行動で、グレンさんを苦しめてしまいましたよね。本当にごめんなさい」
「いや、俺のほうこそ、リアがこうして目覚めてくれたことに救われた」
「……それなら、良かった。私はこう見えて強いので、あれくらいでは倒せませんよ?」
冗談めかして笑ってから、リアはニアに向き直った。さっきよりも少しだけ真剣な表情で、けれども笑顔は崩さずに、告げた。
「ニアさん。実は、お願いがあるんです。きっと、ニアさんにしか頼めないことなので」
「僕に?」
「はい。……九年前のように、もう一度私を助けてくれると嬉しいです」

数日後、ニアは再び病院にいた。一人の男性を伴って。彼と共にリアの待つ病室へ向かうと、彼女は感激の声をあげた。
「ありがとう、ニアさん! 本当に連れてきてくれるなんて!」
「怪我のときに何もできなかったから、これくらいはしないとね」
リアの頼みは、レスターとの面会だった。彼女はまだ動けないので、どうか病院に連れてきてはくれないか、というものだ。それを叶えるのは、さほど難しくなかった。ニアには大総統閣下と、刑務所のベテラン職員がついているのだから。
「ただ、やっぱり僕の監視下っていう条件はついちゃったんだ。完全に二人きりにさせてあげることはできない」
「それでも良いんです。会えるだけでも、無茶な我儘をきいてもらってるんだって、わかってますから」
まだ気まずそうな表情を浮かべているレスターと、純粋に喜んでいるリア。見せる顔は違えど、この二人の関係が修復可能なものであることは、ニアにはすでにわかっていた。あれだけの話を重ねたのだ、もう彼の本心は知っている。この病室で、レスターが嘘をつくことはないだろう。
「それじゃ、僕は廊下にいるから」
「え、でも監視してなくちゃいけないって……」
「僕は目が悪いけど、耳はいいんだ。だから何があってもすぐにわかる。……そういうわけで、万が一のときはこの狭い病室で大剣振り回すことになりますので。よろしくお願いしますね、レスターさん」
一応脅しをかけておいて、ニアは病室を出た。室内から、二人の話し声が聞こえる。このままうまくいってくれればいいなと思いながら、壁に寄り掛かった。
その一方で、別のことを考える。レスターの証言の中に、気になるものがあったのだ。
レスターが司令部へ来たのは、娘に会いに行くよう、ある男に促されたからだという。彼はレスターにリアの新しいプロフィールと最近の動向について書かれた資料を渡し、今こそ「捜し物」のありかを突き止めるときだ、と言ったそうだ。
その男の風貌は、黒髪黒目で大柄。これまでに現れた怪しい人物と同じだった。恐る恐る親友の写真を見せたところ、「似ているような似ていないような」という曖昧な答えが返ってきた。
「……関係、ないといいけれど」
呟いたところに、幸せそうな親子の声が聞こえてきた。
「私……ずっと待ってるから……約束よ?」
「ああ。わかったよ、リア……約束だ」
そういえば、彼と別れる前に、再会の約束はしていなかったな。ニアはそんなことを思いながら、彼らから呼ばれるのを待っていた。




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posted by 外都ユウマ at 20:25| Comment(0) | Reverse508 | 更新情報をチェックする
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